政党
明治十四年十月十二日、帝国議会開設の大詔が渙発されました。これにより帝国議会開設が明治二十三年と決まりました。まだ十年先とはいえ、帝国議会開設の時期が明示されたことで自由民権運動が大いに盛り上がり、同月二十九日には自由党が設立されました。日本史上初の政党です。党首となった板垣退助は先頭に立って全国各地を遊説してまわりました。
また、政変によって野に下った大隈重信は、なお意気軒昂であり、政党の設立を計画していました。党員を確保して党勢を拡張するためには、党の主義、主張、政策を広報する機関として新聞が必要になると考えた大隈は、腹心の矢野文雄と図り、報知新聞を買収しました。
その報知新聞に尾崎行雄が論説記者として入社したのは明治十五年一月です。論説記者は矢野文雄、藤田茂吉、犬養毅、箕浦勝人、尾崎行雄の五名でした。行雄は最も若く、まだ二十代前半でしかありません。にもかかわらず論説記者には、お抱えの人力車夫が付けられました。豪勢なものです。この頃、報知新聞は上局と下局とに分かれており、論説記者は上局に属していました。上局は何かと待遇に恵まれていたうえ、傲然と構えて下局の記者を顎でこき使うことができました。後に総理大臣となる原敬は下局に属していました。原はフランス新聞の翻訳を担当し、時に優れた社説を書きました。原の論説に感心した行雄は、ある日、原を宴席に招きました。しかしながら、原敬は容易に親しまず、生まれながらの理屈屋がほとんど無口で通しました。原は上局の人間を信用していなかったようです。行雄は矢野文雄に進言して原敬を上局に登用させようとしましたが、容れられませんでした。原敬は間もなく退社しました。
明治十五年、自由党に続いて新しい政党が相次いで誕生します。三月十三日に帝政党が成立しました。帝政党は政府寄りの立場をとったため吏党と呼ばれました。次いで同月十六日、大隈重信を党首とする立憲改進党が成立しました。改進党は自由党と同様に民権を主張しました。このため自由党と改進党は民党と呼ばれることになります。帝国議会の開設は明治二十三年まで待たねばなりませんでしたが、それに先んじて議会政治の役者たる政党が姿を現したのです。
各政党は、広報機関としての新聞社と密接な関係を持っていました。自由党系の新聞には自由新聞、絵入自由新聞、朝野新聞などがあり、改進党系新聞には報知新聞、毎日新聞、時事新報などがあり、さらに帝政党系の新聞には東京日々新聞、曙新聞、明治日報などがありました。各新聞社は不偏不党を標榜するのではなく、その立場を明確にした上で支持政党を応援し、他党を非難したのです。
報知新聞論説記者としての行雄は、自由と民権の拡張、政党政治の実現などを訴える記事を書きました。
「民権張らずんば国権伸びず」
この頃の行雄の論説です。行雄は自由民権を強く主張すると同時に国権をも肯定します。いわば内政的には民権が、対外的には国権が必要だとしたのです。行雄の国家観によれば国家の根本は民権にあります。民権が国家の隅々に行き渡ってはじめて産業が興り、学問が進み、尚武の気象も振起する。その結果、国権が伸びていく。だからこそ民権を張れという。自由民権論者にとっても欧米列強への対応は重要な命題でした。うかうかしていれば日本は列強諸国に蚕食されかねないのです。
行雄は欧米諸国の近代史を研究するとともに、万国公法がどのように適応されているかを調べました。そして、そこから割り出した法則性を東洋の情勢に当てはめ、支那や朝鮮に関する情勢判断を論じました。この頃、朝鮮国は、宗主国清国と新興国日本にはさまれ、さらには欧米諸国から開国を迫られていました。内政が混乱しており、保守派と開明派の抗争、大院君と閔氏一族の抗争が絶えませんでした。「朝鮮処分論」において行雄は朝鮮の独立を主張しました。朝鮮が清国の属国であるかぎり、西洋列強の介入を招き、東洋平和は実現しない。清、朝、英、米、仏、独の代表を招いて東京で国際会議を開催せよと行雄は提案しました。まだ二十代半ばの行雄ですが、すでに国際的な感覚を持ちはじめていました。このほか「何によってか政党騒乱の患を防がん」という論説では、多数政党乱立による政治の混乱を憂えて二大政党制を主張し、「帝政党近日の挙動を論ず」では吏党たる帝政党の活動を非難しています。
一方、自由民権運動の広がりや新聞各紙の政府批判を蛇蠍のように嫌ったのは藩閥政府です。藩閥政治家も藩閥官僚も江戸時代的な家臣意識で政府に仕えており、彼らから見れば民権論者も新聞記者も政府転覆を謀る不逞浪士でしかありません。すでに新聞紙條例と讒謗律が報道を縛っています。報知新聞はしばしば発刊禁止をくらいました。当初は二、三日間の短期間であったものが、徐々に長くなり、ついには一ヶ月に及ぶこともありました。こうなると経営は相当に苦しくなります。
それでも論説記者は気位が高く、経営や営業のことなど意にも介さず、高論卓説を発表し続け、藩閥政府への批判をやめませんでした。行雄も堂々と論陣を張りました。そうできた理由のひとつは禁獄編集人が居てくれたおかげです。新聞紙條例は苛酷なもので、発刊停止処分のほか、編集者や記者に対して禁固刑や体刑を科すことができました。ひところ留置場が新聞記者で一杯になったことさえありました。編集者や記者がいなければ新聞はつくれません。そこで新聞社は防衛策として禁獄編集人という者を雇いました。いざという時、彼らは身代わりとなって刑罰を受けにいくのです。いわば刑罰請負人です。こういう人々が居てくれなければ、体質虚弱な行雄は安心して記事を書けなかったでしょう。
行雄は報知新聞論説記者として民権伸張の健筆をふるいつつ、改進党の党員として各地を遊説しました。できたばかりの改進党は党員を増やさなければなりません。演説会は一種の党員獲得運動でもあります。行雄の演説はまだ決して上手くなく、本人もそう自覚しています。
「引っこめ」
ひどいヤジを浴びることは毎回といってよいくらいでした。自分より演説の上手な党員が何人もいます。それでも行雄には上手くなろうという意識が欠けていました。「公会演説法」や「続公会演説法」という演説の解説書を出版している身でありながら、行雄の心中には演説というものをどこか軽蔑する気持がいまだに根強かったのです。
(意味さえ通じれば、下手でも構わぬ)
本人がそう思っている以上、上手な演説などできるはずがありません。巧言令色すくなし仁、という孔子の教えが頑固に行雄を縛っていました。行雄には口の軽い人間を毛嫌いする向きがあり、この傾向は晩年になっても変わりませんでした。後年のことになりますが「ニコポン宰相」と綽名された桂太郎総理を毛嫌いしたのも、行雄なりの好悪の情からでした。滑稽なことに、行雄は自分が演説下手であることに引け目も負い目も恥も感じていませんでした。蛙の面にションベンとはよく言ったもので、ヤジを浴びても胸を張り傲然としていられたのです。それでいて演説をやめもしなかったのは、その必要性を認識していたからでしょう。下手の横好きそのままに、上手くもない演説を行雄はくり返しました。明治十五年十二月刊行の「日本全国新聞記者評判記」に尾崎行雄評が載っています。
「至極その法に巧なりとは過言なれども又あえて拙なるにあらず」
これは行雄の文章に対する評です。可も不可も無しといったところです。議論に関しての評は辛いものでした。
「少しく陳腐に属するの評を免れず」
学芸については評がよい。
「洋学に通じ又漢学力あるが如し」
弁舌についての評が最も厳しい。
「訥弁にして其の演説会に臨み聴衆の倦厭を来たらすところ少なからず」
行雄が演説を始めると聴衆はすぐに退屈したようです。
自由党と改進党は各地で党員獲得競争を繰り広げました。同じ民党とはいえ自由党と改進党では肌合いが異なっていました。改進党はイギリス議会政体を模範とし、穏健な民権推進論を展開しました。党員には富裕層や知識層が多かったようです。一方の自由党はフランス自由主義を標榜し、急進的民権論者が多く集まっていました。そのため各地の演説会で自由党員と改進党員による演説合戦、時によっては乱闘が起こりました。乱闘騒ぎになると自由党の方が元気でした。
明治十六年三月、矢野文雄と尾崎行雄は東海道遊説の旅に出ました。人力車に揺られて今日は神奈川、明日は小田原というように泊まりを重ねつつ、行く先々で地元有志に会い、意見を交わし、党員を勧誘していくのです。ほぼ一ヶ月にわたる遊説旅行でふたりは神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重の五県を横断しました。この間、演説会五回、懇親会十二回をこなし、延べ面会者数は五百人を越えました。矢野と行雄は行く先々で歓待され、政治に対する熱気の強さを感じました。
名古屋入りしたのは三月二十九日です。大須の真本座で開催された政治演説会には二千八百名もの聴衆が集まりました。幸いなことに演説妨害のヤジも少なく、拍手喝采のうちに演説会は終わりました。次の予定は秋琴楼という旅亭での懇親会です。矢野と行雄が別室で待っていると主催者三名が挨拶に来ました。主催者らは挨拶もそこそこにいきなり謝罪をはじめました。懇親会の出席者百二十名の中に自由党員が二十名ほど入りこんでいるという。愛知県下の自由党員には乱暴な壮士が多く、彼らが参加した懇親会はほとんど例外なく荒れます。災いがふたりに及ぶのをおそれた主催者は、手配の不行き届きを詫び、式次第が終わったら即座に退出するよう懇願しました。
「ご懸念には及びません」
矢野も行雄もその程度のことには慣れていました。やがて懇親会が始まりました。式次第のとおりに会は進行し、矢野と行雄も挨拶を終えました。やがて自由な歓談が始まり、献盃の応酬となりました。そろそろ酒が回りだし、出席者の顔が赤らんできた頃、矢野文雄は主催者の導きにしたがって静かに退席しました。ところが行雄は残りました。勇猛心なのか好奇心なのか、行雄は自由党員の意見を聞き、彼らの行為を直に観察したいと思ったのです。大広間が酔客の喚声で騒然とする中、ひとりの自由党員が起ちあがり演説をはじめました。が、行雄にはほとんど聞き取れません。何しろ座は乱れています。五、六人が彼方此方に集まって酒間笑語に余念がない状態です。自由党員の演説に気づいた改進党員は「黙れ」とヤジを浴びせて黙らせようとしました。
「ノー、ノー」
改進党員が叫ぶ。数に劣る自由党員は負けじと喚く。
「ヒヤ、ヒヤ」
ヒヤの語源は英語のhearであるらしく、要するに聞けというのです。「謹聴」あるいは「賛成」というほどの意です。「ヒヤ」であれ「ノー」であれ、うるさいことにかわりはありません。やがて二人目の自由党員が起ちあがって演説をはじめると、「ノー、ノー」の大合唱となりました。行雄の耳には轟々たる喧噪しか聞こえません。
「尾崎先生の答弁希望」
「答弁希望」
演説をあきらめた自由党員たちは方針を変え、行雄の席をとりまいてきました。二十名の自由党員に囲まれましたが、行雄は平然としています。
「答弁とおっしゃるが、あまりに騒々しくて演説のご趣旨が聞き取れませんでした。お答えのしようがありません」
「答弁希望」
「答弁」
自由党員たちも酔って興奮しています。馬鹿のように答弁、答弁と喚きます。行雄はあくまでも姿勢を崩さず、しばらく黙りました。
「答弁希望、答弁希望」
「答弁せよ」
行雄は困ったように笑いました。耳をつんざくような喧噪の中にも一瞬の静寂が訪れる瞬間があります。その機をつかむと行雄は冷静に話し始めました。
「もとより国事政治を談論するは、この尾崎の最も好むところ。しかし、かくの如き酒席雑踏の中で国家の大事を論ずるのは本意ではありません。私はしばらくこの宿に滞在します。いつなりともお出でいただければ胸襟を開いて国事を談ずるでありましょう」
この間、主催者数名が平身低頭しつつ、行雄に退席をすすめ、自由党員には席に戻るように促し続けました。行雄はようやくこれにしたがって退席しました。
「肝をつぶしましたよ、尾崎先生、だからあれほど申し上げましたのに」
宿館へ戻る途中、主催者がうらみがましく言いました。
「なあに、言の諄々乎たるは酔人を遇するの法なり、ですよ」
「しかし先生、あの髭の男が内藤魯一だったのですよ」
主催者の言うには、二番目に演説を試みた男が内藤魯一という有名な自由党の壮士だといいます。行雄もその名は知っています。板垣退助が暴漢に襲われながらも「板垣死すとも自由は死せず」という名言を吐いたのは明治十五年四月です。このとき板垣の身辺にあって暴漢を投げ飛ばし、板垣の命を救ったのがこの内藤でした。
二日後、自由党員十余名が秋琴楼に押しかけてきました。頭領は内藤魯一です。彼等は案内も乞わずにドヤドヤと矢野と行雄の部屋に上がりこんできました。内藤は凄まじい気合いを発散させつつ、言葉だけは丁寧に言います。
「報知新聞は何故に国家の害物たる三菱を攻撃しないのか、返答を承りたい」
内藤が口にした三菱とは、いうまでもなく岩崎弥太郎率いる郵便汽船三菱会社のことです。この頃、大隈重信の資金源は三菱だという根も葉もない風評が広まっており、内藤もその風評を信じ切ってたようです。矢野文雄は学識、人格ともに備わった君子人で長者の風があります。狂犬のように荒々しい壮士たちを前にして春風のように座っています。
「昨年四月、御党の総裁である板垣退助君が遭難されたことについて心からお見舞い申し上げる」
矢野文雄はゆっくりと話しはじめました。すでに改進党から自由党に対して見舞の使者を送ったことを述べ、その板垣の命を救った内藤魯一の武勇を讃えました。そのうえで内藤の質問に答えます。
「ご指摘はごもっともである。帰京後、とくと事情を調べた上で、諸君の言うとおりであれば紙上にて論評を試みるでありましょう」
居丈高な相手に対する応答ぶりとしては満点でしょう。内藤は納得したようにうなずくと、顔を行雄の方に向けました。
「矢野君がすでに承諾した以上、足下も異存あるまいな」
自由党員の視線が行雄に集中しました。
「僕は不同意だ。三菱を攻撃しようとしまいとこっちの勝手じゃないか」
ゆるみかけた場の空気が一転、緊張しました。
(こいつ馬鹿か)
この場にいた誰もがそう思いました。「わかった」と言いさえすれば丸くおさまるのに、ちゃぶ台をひっくり返すような事を行雄は言ったのです。案の定、壮士が吠えだしました。
「生意気だぞ」
「殺しちまえ」
「二階の窓から放り出せ」
二、三人の壮士が行雄に近づきます。
(いったいどうするつもりだ)
さすがの矢野も言葉を失い、ただ行雄を見ました。行雄は胸を張って座っています。内藤魯一の瞳にも、このとびきり小柄な男が映っています。見るのはこれが二度目です。
「よせよせ」
内藤は壮士連中を止めました。内藤は、とびきり小柄なくせに強気を発揮している行雄に好感を抱いたようです。
「矢野君がすでに承諾した以上、尾崎のような小僧は問題ではない」
内藤は壮士を促して帰っていきました。やがて静かになると矢野が行雄をなじりました。
「尾崎君、あんまり無茶しなでくれ」
「矢野さん、申しわけありません。しかし彼らの態度には納得できません」
矢野は行雄の強情を知っています。矢野はぐったりと疲れ、それ以上は相手になりませんでした。議論になれば行雄は尚武の気象を論じるつもりでした。腕力も武術も武器もないが、尚武の気象だけはあります。
こんな調子で演説旅行は四月半ばまで続きました。身体の弱い行雄にとって長旅は大きな負担です。疲労が徐々に蓄積し、演説旅行の最終盤には必ず微熱が出て寝込んでしまいます。それでも無事に旅は終わりました。
政党を圧迫しようとする政府の包囲環は厳重でした。すでに明治十三年四月に制定された集会條例によって政治集会の事前届出、政治結社の名簿届出、警察官への集会解散権付与などが決められていました。改進党が結成されたとき、この條例に従って党員名簿を警察に提出すべきかどうかが議論になりました。多数意見は提出すべし、でした。集会條例が天下の悪法であることは誰もが承知していましたが、悪法でも法は法です。たとえ悪法でも従わなければならない。そのうえで不満があるのなら法を改正すべし。それが福沢諭吉の教える法治主義でした。
行雄は異を唱えました。たとえ福沢先生の御説だからといって、それに盲従するのは文弊だと思ったからです。行雄は言いました。
「政党と政社は違います」
そもそも集会條例は愛国社や同志社などの結社を対象として制定されたものであり、政党は対象外である。法の不備は藩閥政府の責任であるから、名簿など提出する必要はない。さらに行雄は言います。政治家は主義や政策によって離合集散すべきものである。その結果が政党であってみれば、離合集散きわまりのないのが政党である。そんな政党に名簿などありえない。
「事実、英国の政党に名簿はありません」
行雄は英国通です。渡英経験は無いものの書物を通じて英国を知っています。その英国知識によれば、政党は結社とも倶楽部とも違います。英国では倶楽部に入る際には信用力のある紹介者を必要とし、加入と脱退が厳密に管理され、名簿も作られます。しかし、政党に名簿はありません。政治家は自らの主義や主張によって出処進退を決めねばならない。喫緊の政治課題において所属政党の政策に賛同しかねる場合は脱党して当然です。むしろ自己を欺瞞して党内に止まることこそ恥です。政党は倶楽部とも政社とも違うのだと行雄は力説しましたが、理解を得るには至りませんでした。なにしろ日本には日本の事情があるのです。行雄はやむなく論点を変えました。
「わが改進党はこれから党勢を拡大し、何万、何十万、いや何百万人の党員を確保しようとしているのです。そんな名簿など作れるはずがないじゃありませんか」
行雄の力説にもかかわらず大勢は変わらず、結局、名簿を提出することに決まりました。
ちなみに、行雄は政党と政社の違いを晩年に至るまで主張し続けます。このことは現在でも理解されていないようです。実際、政党の定義は今日でさえ曖昧なままです。
集会條例は警察官に集会解散権を与えています。演説会には必ず監視役の巡査がきています。演説者がわずかでも政府批判を行なえば巡査がすぐに大声を張り上げるのです。
「弁士、注意」
それでも弁士が政府批判をやめなければ警察官は解散を命じて集会そのものを中止させてしまいます。しかし、気の荒い自由党の壮士はこれに屈せず、警察官との乱闘騒ぎを演じます。聴衆の方も乱闘を見たさに集まるほどであって、演説会は一種のプロレス興行でした。
驚くべくまた悲しむべきことに自由党は明治十七年十月に解党してしまいます。結党わずか三年です。明治政府による圧迫がいかに強烈なものであったかがわかるでしょう。帝国議会、憲法、政党、新聞など、近代国家に必須の諸要素について藩閥政治家や藩閥官僚は無知でした。彼らは江戸時代の家臣意識のまま政府に仕えていましたから、野党という存在を理解できなかったのです。だから、政府を公然と批判する野党に対しては理解も容赦もしなかったわけです。思う存分に政党を虐待しました。保安條例、新聞紙條例、集会條例などを制定し、警官を動員して表面からいじめ抜いただけでなく、裏面からも工作しました。自由党の首領たる板垣退助と後藤象二郎の二名を政府の費用で外遊させたのもその一環です。板垣や後藤はあまりに豪傑すぎて、外遊が自由党員たちの目にどう映るかという配慮に欠けていました。党首脳が党員の信頼を失い、新聞紙條例によって言論と経済基盤を奪われ、集会條例によって思うような演説さえできない。激情に駆られた自由党の壮士たちは憤激のあまり各地で暴動を起こしました。福島事件、高田事件、加波山事件などです。このことは結果的に政党に対する世論の反発を招きました。新聞紙條例によって新聞が停止されると政党は言論を封じられ、世間に正当性を訴えることもできず、同情を買うこともできなかったのです。
事情は改進党も同じです。党勢は衰え、解党論を抑えがたくなっていきました。解党すべきか否かを決する会議には、わずか三十名ほどの党員しか集まりませんでした。解党を主張したのは副党首の河野敏鎌です。行雄らの若手党員は反対しました。
「帝国議会開設直前のこの時期にあたって、せっかくここまで築き上げてきた党を解散してどうなるのか」
結局、会議では結論が出ず、解党の是非は大隈重信に一任することになりました。解党論の河野敏鎌、非解党論の北畠治房、中立論の前島密が大隈邸を訪れ、大隈党首の意見を聞いて帰ってきました。
「解党と決まった」
解党派の河野は言います。
「非解党と決まった」
非解党派の北畠は言います。
「お話をうかがっていたが、さっぱりわからなかった」
中立派の前島は言います。大隈は言を左右にして曖昧なことしか言わず、それでいて解党派も非解党派も満足させるような話術を施したらしいのです。大隈は決断を先に延ばしたかったようです。ですが、これでは訳がわかりません。非解党派の若手は激昂しました。
「こうなったら早稲田専門学校など焼いてしまえ」
この暴言を伝え聞いた時、さすが寛仁大度の大隈も激怒せざるを得ませんでした。
「これほどまでに分裂してはしかたがない」
明治十七年十二月、大隈重信、河野敏鎌、北畠治房、前島密などの重鎮が脱党しました。あとは勝手にしろというのです。改進党は残ったものの、その凋落ぶりは見る影もありませんでした。