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ニコリ

 戦時中に行雄が書き上げた数々の著作は出版されぬまま埋もれていましたが、昭和二十一年以後、ようやく世に出るようになりました。「民主政治読本」「明日の日本のために」「わが遺言」などです。日本に対する決死の警告は、今や虚しいものでした。

 戦後もなお行雄は著作を発表し続けましたが、行雄の文章には明らかな変化がみられました。漢字をできるだけ少なくし、平仮名や片仮名を多用しました。安政生まれの行雄は、漢学の素養を身につけており、現代日本人には読めないような難しい漢字を当り前のように知っています。それゆえ、行雄が戦前に書いた著作は時に難解でした。しかし、敗戦後の著作はとても読みやすくなっています。ただし、文章は変わっても、明治以来の持論は変わりません。あくまでも立憲主義の何たるかを説き、自由と権利と義務を説き、官尊民卑の打破を訴え、選挙権の重要性と選挙民たる者の心がけを説きました。例えばイギリスの文学者で歴史家で政治家でもあったトーマス・マコーリーの言葉を引きます。

「やっかいな問題はなるべくこれを避け、どうしてもその問題に触れなければならないときは、きわめて曖昧な言葉でぼかしておくほど、われわれ候補者にとって楽なことはない。選挙期間中には耳寄りな約束をするが、選挙がすむと、すぐそれを忘れてしまうほど、たやすいことはない。けれども私にはそんな振る舞いはできない。私は嘘をついてでも一票を得ようとは思わない。私は偉い人たちにおべっかを言わないように、有権者にもおべっかを使いたくない。元来、投票をしてくださいと頼むことはよくないことで、立憲政治の道に背いている。選挙権は私情によって人に頼むべきものでもなければ、また人に与えるべきものでもない。よい代議士を選ぶことはあなた方のためである。私の意見にご賛成なら、私のためよりか、むしろあなた方のためにこそ、私に投票されるといい」

 そもそも選挙権とは何なのか、選挙民とは何なのか、選挙民と代議士との関係はいかなるものか、それがどうあるべきなのか、行雄の説明は懇切丁寧をきわめます。

「善かれ悪しかれ、政党は選挙という鏡に映った有権者の影である。鏡の中の影(政党)の行儀が悪いのは、鏡の前に立った御本尊(有権者)の行儀が悪いからである」

 九十才を迎えて号を卆翁と改めた行雄は、さすがに衰えました。耳が遠いばかりでなく、目も見えにくくなりました。足腰にも衰えがきています。国会に登院する際、服部の介添えが必要になりました。昭和二十六年十一月十三日、両院法規委員会において解散権に関する見解を述べたのを最後に尾崎行雄の国会活動は絶えます。それでも地方遊説は続けました。「憲政の神」の謦咳に接したいという声は全国各地から届いています。請われればどこへでも行きました。旅行中、しばしば高熱を発して寝込むのはいつものことです。

 そんな頃、行雄は群馬、埼玉両県下への遊説を引受けました。開催地の人々は大いに喜びました。

「憲政の神様が来てくれる」

 ともかく粗相の無いよう最大限のおもてなしをしたい。各開催地の関係者は万全の準備を整えるために張り切りました。旅館やタクシーの手配、会場や控え室の整備、警備の問題、仕事は山ほどあります。

「お食事には何がよいか」

 これが問題になりました。尾崎先生のお好きな物はいったい何なのか。開催地の人々は相互に連絡を取り合い、情報集めに躍起となりました。そのうち、何処からどう伝わったのか、「尾崎先生は鰻が好きだ」という情報が流れました。

「鰻の旨い店ならわが町にもあるぞ」

 一同、安心しました。その結果、行雄は行く先々で連日連夜の鰻責めに遭う羽目となりました。ですが、もともと健啖家の行雄は鰻が好物です。喜んで食べ続けました。衰えたとはいえ、いったん演壇に立ってしまえば、半世紀以上の長きにわたって磨き上げてきた演説術が冴えました。もっとも行雄は演説を術とも技巧とも考えていません。

「演説は先ず精神を本として考えていかなければならない」

 晩年の行雄が語った演説論です。巧妙な言い回しとか、気の効いた比喩とか、派手な身振りとか、そういった技巧は必要ないと言います。

「演説をする人に注意したいことは、どうしても精神を確かにしなければならない。それには自分の考えが正しいという信念と、正しいことのためには危険を冒しても進むという心を持たなければならない。そういう信念があれば、それが言葉に表われ自然人を動かす力が生ずるのである」

 この旅行には服部が付き添っており、何くれとなく世話を焼いていました。体調も良い。行雄は、桐生における演説で重要なことを述べました。

「かくいう私はかつて政党内にあったとき、大臣として行政府に乗り込んだことがありました。しかし、何もかも思い通りには行かない。大臣と秘書官の周りは敵だらけです。敵というのは官僚です。次官、局長、部長あらゆる官僚は政党政治家の大臣には面従腹背でありました。こんなことでは議会政治はできぬ。できぬどころか、近づくことさえできない。そこでやむなく政務官や参与官の制度を設けたのでありましたが、それでも敵の包囲網を破ることはできませんでした。

 それから政党そのものも立憲的とは言えぬのであります。わが国の政党の歴史については、この私は誰よりも詳しく見てきたという自負がある。その私の経験から言うならば、日本人の封建的思想感情がある限り、本当の政党というものはできない。徒党はできます。封建的徒党です。しかし、立憲政治には政党がなければならない。ところがこれが容易ではない。私はすぐ近くで見ておったのでわかりますが、大隈重信侯爵を戴いてつくった改進党も、板垣退助伯爵を戴いた自由党も、伊藤博文公爵を戴いた政友会の組織にしても、駄目でありました。徒党でした。私はずいぶん奔走して骨折ったものですが、この三党派とも、伊藤がやっても、大隈がやっても、板垣がやっても、どうしても政党にはならなかった。みな徒党になってしまった。それも無理はございません。数百年の間に養い来たった封建的思想感情が一朝一夕にして、あるいは半世紀やそこらで、変わると思い込み、立派な政党がつくれると思いこんだ私が、若気の至り、無知であったのです。できません。どう働いてもできぬ。できなかった。すぐ封建的徒党になってしまう。ひとりの親分がいて、たくさんの子分がいる徒党です。それゆえ、党でこう決める、党議でこうと決めれば、善悪正邪を問はず、党員はそれに服従してしまう。だから議会は多数派の天下になって、正理正論が通らない。それは政党が徒党だからであります。どんなに正しい人でも、党議に拘束せられ、心ならずも党議に服従してしまうのです。党議拘束をするような政党は徒党です。

 政党は、綱領と政策に基づいて結党され、賛同する政治家が集うべきはずのものであります。選挙資金や利権で結びついた徒党であってはならないはずのものであります。そのことは重々わかっておる。わかっていながら、どうしようもない。大隈、板垣、伊藤といった元老さえ本当の意味での政党をつくれなかった。かく申す私も力足らず、徳望なく、このような無所属議員になりさがっておる。新しい憲法ができましたが、政党の方はあいかわらずの徒党のままである」

 行雄は、その生涯を立憲的政党政治の確立に賭けてきました。しかし、ついに日本には立憲的な政党がひとつも成立せぬままに敗戦の憂き目を見ることとなりました。この行雄の述懐は、戦後日本の政治にも重要な指摘となるでしょう。あいかわらず、令和の世となった今日でさえ、政党は徒党であり続け、議員たちは党議拘束に縛られ、親分子分の関係によって政党が成り立っています。さらに悪いことに、徒党には政策がありません。権力構造のみが存在するのです。その政策的空白に戦勝国アメリカや周辺国や国際連合が様々な干渉を加えてきます。政策を持たぬ徒党は、その政策的空白を埋めるために他国の干渉を唯々諾々とよろこんで飲み込んでしまい、国民の望まぬ政策を推進することになります。行雄のこの発言に、後生の我々は刮目すべきでしょう。

 ところが、行雄がそこまで演説した直後のことです。突然、猛烈な腹痛と便意に襲われ、アッと思う間もなく下痢便が吹き出してしまいました。連日の鰻がたたったようです。殿部が熱い。さすがの行雄も一瞬たじろぎました。が、演説は佳境に入っています。

「憲政の根本はまさに選挙であります!」

 声を励まし、演説を継続しました。幸い、出るべきものが出ると腹痛は治まりました。殿部から大腿部にかけて生温かいものが下がっていき、下肢に届く頃には冷たくなっています。演壇と客席とは離れているから悪臭は届かない様子です。行雄は、下半身の非常事態から心を外し、精神を演説に集中させました。いつも以上の熱弁となりました。


 昭和二十六年五月、行雄はアメリカの日本問題審議会に招かれて渡米しました。日米戦争中も伐られずに残されたポトマック河畔の桜を見て感無量の思いがしました。帰国後、視力の低下が著しくなったため、九月に白内障手術を受けました。退院すると執筆を再開しました。行雄は世界連邦建設の構想を持ち、機会ある毎にこれを論じました。しかしながら国際情勢は行雄の理想を空文化します。アメリカ、ソ連、中共の対立が深刻化したのです。かつて行雄は、国難を叫ぶ軍部に対抗して国福を訴え、欧州の危機は東洋の安機と喝破しました。その行雄が今度こそは国難を叫びました。新憲法の戦争放棄条項を賞讃した行雄でしたが、日本の再軍備を主張せざるを得なくなったのです。

「世界はまだ当分の間お互いに国家というものを無くそうとする考えがないようであるから、そして国家国家といってもこの国家のためにますます軍備を拡大していこうというのであるから、日本はいつまでも、自分だけ軍備なしにはやっていけない。軍備がなければ必ず侵略せられるに違いない。外敵は虎視眈々として日本を狙っておる。かような情勢から言って、日本の再軍備はやむを得ざるものとなる」

 平和主義者というのが戦後日本における一般的な尾崎評ですが、この世評には誤謬があります。

「私は、平和主義者ということで通って居るけれども、それはただの平和主義者ではなく、国家のため、世界のため善いことであるというならば、戦争もまたやむを得ずとする平和主義者なのである」

 昭和二十七年一月、遊説先で肺炎にかかり、重態に陥りました。回復はしたものの、その後は寝たり起きたりの生活となりました。この年の総選挙は病床から立候補して当選しましたが、翌昭和二十八年の選挙では初めて落選しました。

「この子はとても育つまい」

 母親を何度も心配させた虚弱児は九十六才まで生きました。長寿の秘訣を人に聞かれると、行雄は「無理をしないことだ」と答えました。

「丈夫な者が短命に終わり、病弱の私が今なお生きているのは不思議なようだが、これは少しも不思議ではない。つまり丈夫な者は大抵いろいろな無理をする」

 無理をしたくともできなかったことが行雄に長寿をもたらしたようです。ですが、その行雄も最晩年の二年ほどは寝たきりになりました。家政婦の服部は献身的に介護しました。それは、封建時代の麗しい主従関係のようにもみえました。やがて行雄に死期が来ました。昏睡状態の続いていた昭和二十九年十月六日午後三時頃、行雄は数日ぶりに目を開きました。

「先生がお目をお明きになりました」

 服部はすぐに家族と主治医に知らせました。小康状態が続くかと思われましたが、その日の午後九時過ぎに下顎呼吸が始まりました。下顎呼吸は末期症状のひとつです。服部さんは主治医と家族に知らせると、枕頭に戻りました。静かな下顎呼吸が数分続きました。やがて大きくひと呼吸すると、行雄はニコリと笑いました。冗談でも言い出しそうな笑顔でした。

(何をおっしゃるのか)

 服部は身を乗り出して言葉を待ちましたが、尾崎行雄は何も語らず、そのまま眠るように逝きました。


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