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翼賛選挙

「アジアに危機はない」

 尾崎行雄の訴えにもかかわらず、第三次軍備補充計画を含む政府予算案に衆議院は協賛しました。この補充計画は五年間に十億円を費やし、海軍艦艇六十六隻、海軍航空機一千機、陸軍航空隊十四隊を建造するというものです。こうして第七十議会を無事に乗り切った林内閣は、面妖なことに衆議院を解散しました。解散する理由のない不可解な解散でした。

 そして、日支関係の改善を訴えた行雄をあざ笑うかのように、七月七日、蘆溝橋事件が発生しました。日本政府は不拡大方針を閣議決定しましたが、現地では事件が絶えませんでした。現地の日本軍は支那軍との間に現地協定を幾度も結びました。しかし、それを支那軍が破りつづけたのです。蒋介石軍内に浸透したコミンテルンの策謀でした。

 やがて通州事件という惨劇が現出し、二百数十名の邦人が支那兵によって惨殺されました。国内世論は暴支膺懲を叫び、近衛内閣は派兵を決定しました。日支事変の始まりです。このとき師団派兵に激しく反対したのは参謀本部作戦部長の石原完爾少将でしたが、政府の決定には抗すべくもありませんでした。

 戦火は北支、上海、杭州、南京へと拡大しました。こうして危機のないはずのアジアに危機が生まれました。その危機に対応するため大本営が設置され、日独伊防共協定が締結されたのは昭和十二年十一月です。行雄は時流に抗すべく、しきりに口と手を動かし、正論と信ずる事柄を論じ、かつ著わしました。しかし、その努力は徒労に帰します。行雄の論説は世に容れられず、むしろ排除されました。

(狂っているのは世の中なのか、自分なのか)

 絶え間ない誹謗と中傷は、行雄を錯覚させるほどでした。行雄は殺されこそしなかったものの、逗子の自宅には何者かが侵入しているらしく、行雄宛の書簡が盗み見られている形跡が何度か見つかりました。そんな昭和十二年十二月、尾崎邸が火災に遭い、母屋が全焼しました。幸い怪我人はなかったものの、蔵書の大半を失いました。放火だったようです。

 日本は急坂を転げ落ちるように自壊していきます。危機のないはずのアジアに危機を産み出してしまい、その危機を煽り、そしてアメリカの介入を招き、滅亡します。滅亡の過程で束の間の栄耀栄華を誇ったのは軍閥と財閥ですが、その滅亡の惨禍に国家と国民を巻き込みました。大日本帝国の末路は悲惨です。帝国は武徳によって興り、武弊によって滅びました。武徳を担ったのは薩長藩閥であり、武弊の卵子を育んだのも薩長藩閥です。陸海軍に拠った薩長藩閥は軍人優遇の諸制度諸組織を構築し続けましたが、これらがやがて軍閥を産みました。

 行雄が懸命に育てようとした立憲政治、政党政治は、一応の完成を見ました。大正期には政党政治が軍部を抑え込み、軍縮を断行さえしました。しかし、その政党政治は経済失政と醜聞によって民意の支持を失い、軍部へと国民の期待が移りました。また、世界的潮流として平和から軍拡へ、国際協調からブロック経済へという変化が起きていました。こうした背景が日本の政治情勢を変えます。アジアに危機が生まれ、それに日本が対処していたところへアメリカの介入を招いてしまったのです。

 昭和十三年に入ると日本軍は徐州、広東、漢口、武昌を陥れました。大本営の予想では、蒋介石の国民政府が降伏するはずでしたが、その見通しは甘かったのです。国民政府は重慶に首都を遷し、アメリカからの支援を得、あくまでも交戦を続けました。支那大陸は泥沼のように陸海軍そのものを呑み込み始めます。四月、国家総動員法が成立して日本は戦時態勢に入りました。七月、アメリカが対日経済封鎖を開始しました。これに応じて日本国内ではドイツとの同盟論が盛んになりました。

 十二月、アメリカが蒋介石に対する資金援助を開始したため、日支事変は間接的な日米戦争となりました。日本のドイツへの傾斜に拍車がかかります。ところが昭和十四年八月、ドイツは独ソ不可侵条約を締結します。ソ連を対象として結ばれていた日独防共協定は一方的に反古にされました。日本政府は、さすがにドイツとの同盟を諦めました。

 この間、行雄の議会活動は低調です。すでに耳の遠くなった行雄には討論ができません。相手の発言を聞き取れないのです。やむなく演説や執筆に集中しましたが、言論の自由は制限されつつありました。咢堂会の中で最後まで活動を続けてきたのは名古屋咢堂会です。その名古屋咢堂会も軍部や憲兵からの度重なる威圧に堪えきれず、昭和十四年春の総会を最後に活動を停止することになりました。最後の総会で演説した行雄は支那と欧州の情勢を論じました。行雄はまず日支事変の行き詰まりを嘆じます。

「蒋介石を相手にせずと声明しながら、足かけ三年も蒋介石と戦争をしている。これでは始末はつかないものと思わなければならない」

 ですが行雄は、ひとつの光明があるとしました。それは欧州の戦争です。この時期は第二次大戦勃発の直前でしたから、行雄の言説はある意味で予言的でした。欧州で戦乱が発生すると、それは日本にとっての天佑になりうる。なぜなら第一次世界大戦時と同じ立場に立つことができるからです。戦争特需で輸出が増加し、日本経済は好転するでしょう。その場合、独伊に味方するのも、米英に味方するのも得策ではない。中立が一番よいと行雄は考えました。

「ジッと中立を守っていれば、英仏米は東洋における地盤を荒らされないように百方日本のご機嫌をとる。独伊も英米に対抗してもらいたさに一生懸命に日本のご機嫌をとる。欧州に大戦が起こった場合に中立を守りさえすれば、日本はいやでも東洋、いな世界の主人公となるべき立場にいるのである。こういう天佑がぶら下がっているのに、その仲間に入って共倒れになろうというのはずいぶん物好きな連中が日本には居るものだ」

 行雄の安全保障論はしたたかです。とはいえ行雄の持論もまだ甘かったようです。アメリカの国力は欧州とアジアの二正面作戦を遂行できるほどに強大化していました。ルーズベルト大統領は巧妙に真意を隠し続けましたが、アジア侵略の意図を胸中に蔵し、日本を外交と経済の両面から圧迫していきました。それを行雄は見破れませんでした。それも無理はありません。なにしろアメリカ国民でさえ騙されたのです。

 八十才になった行雄はまだまだ元気です。活動の場を奪われた憂さを晴らすように私生活を充実させました。規則正しい生活をし、肉や乳製品をよく食べ、趣味に時間を費やしました。読書量や執筆量は衰えません。それどころか生まれて初めてスキーを習い始めたり、御嶽登山に挑戦したりしました。行雄はスキーをするとよく転びましたが、すばやく起き上がりました。登山でも周囲が驚くほどにスタスタと歩きました。

 昭和十五年に入ると日米通商航海条約が失効し、アメリカの対日経済制裁が露骨になりました。航空燃料や鉄鋼の輸入が止まり、海軍は全面禁輸を覚悟せざるを得なくなりました。危機の無かったアジアに危機を生んだのは支那事変です。この危機に介入したアメリカが日本を苦しめます。石油が止まったらどうなるか。軍艦も航空機も産業機械も動かなくなります。石油の備蓄は一年半ほどしかないのです。海軍は対米戦争の出師準備に着手せざるを得なくなりました。

 九月、日独伊三国条約が締結されました。行雄にいわせればこれは最悪の選択肢でした。日本は英米と戦わざるを得なくなりました。勝っても負けても瀕死状態に陥るでしょう。

 もし日本に政府らしい政府が存在していたら、つまり内閣の統治力が充分に機能していたなら、支那戦線の陸軍部隊をすべて撤退させて北支と満洲の境界に退き、日支関係と日米関係の修復に努めることができたでしょう。目先の領地や戦勝を捨ててでも、第一次大戦時と同じ立場を確保し得たなら、日本は独立を保ち得たと思われます。ところが日本には強い政府がありませんでした。軍官僚は軍司令官の地位と支那戦線での手柄を欲しました。政党は無力化していました。国益を考える者は居ませんでした。たとえ政府が無くとも、ビスマルクの如き独裁者が現われて内政を統制し、軍略と外交を天才的に運用したならば、あるいは日本は生きながらえたかも知れません。しかし、日本にはもはや人材さえも居ませんでした。武弊の裏には文弊もあったからです。

 昭和十五年十月十二日、行雄にとって耐え難い事件が起こりました。大政翼賛会の発足です。ほとんどすべての政治家がドイツの快進撃に眩惑され、ドイツ流の一党独裁体制を形成することに賛成したのです。この時期の日本の政治状況を概観すれば保守と革新に別けることができます。保守は明治以来の英米協調派であり、旧財閥などがこれを支援していました。一方の革新は独伊協調派であり、革新官僚がその中核におり、新興財閥の支援を受けていました。両勢力は互いに均衡を保っていましましたが、欧州戦線においてドイツ軍が快進撃を始め、瞬く間にフランスを降伏させてイギリス上陸の気勢を示すと、革新派の勢力が保守派を圧倒しました。ドイツに学べ、ということになり、日本の政治体制をドイツ的な一党独裁体制に変えようとしたのです。これが近衛文麿の新体制構想というものです。時の勢いというべきか、その新体制はあっけなく成立してしまいました。保守から革新まで大部分の国会議員が大政翼賛会に属し、その総裁には近衛文麿総理が就任しました。議会は政府の管理下に置かれ、政府に協賛するだけの存在に堕してしまいました。立法府の消滅です。大政翼賛会の成立は、行雄をして党人政治家の無気力を嘆かしめるに充分でした。

 酔いというものは覚めてしまえば夢のようなものですが、それほどまでにこの時代の日本の政治家はドイツに心酔しきっていました。各政党は近衛文麿による新党構想が話題に上っただけで浮き足立ち、その新党に参加しようと焦りました。近衛文麿は絶大な政治的スターであり、軍部、財界、官界、学会などからの期待を一身に背負っていました。その近衛新党に参画し、あわよくば政治力を得ようと各政党は考えたのです。考えるだけでなく自発的な解党を始めました。政党解消なるものが起こったのです。まずは東方会、社会大衆党などの小会派が解党し、やがて政友会や民政党までが解党するに至ります。この解党現象に困惑したのは他ならぬ近衛文麿でした。新体制はまだ具体的な構想さえなかったのです。にもかかわらず、世の気運だけが盛り上がってしまいました。軍部の圧力によって政党が解体されたというのは後世の誤解です。軍部といえどもそこまで横暴ではなかったのです。むしろ政党政治家の無節操と無定見が生んだ珍事というべきです。日本は無党時代になりました。政党政治が死んだばかりではなく、明治以来の立憲政治が失われたと言ってよいのです。行雄はすでに政党に失望しきっていたとはいえ、この事態に直面して、さらに慨嘆せざるを得ません。

 十二月、第七十六議会が始まると、行雄は「時局の変遷と政府の指導に関する質問主意書」を提出しました。同主意書は全十二項目からなり、大政翼賛会を批判し、三国条約に疑義を呈し、政府の支那政策や対英米政策を厳しく問うたものです。行雄は主意書だけでは満足できず、所信を述べるため演説しようとしました。行雄にとって憲政の死を座視するほどの屈辱はありません。たとえ殺されても議政演壇に立たねばなりません。本会議で質問演説をするためには二十五名以上の賛成が必要です。行雄はさっそく賛成者を募りました。しかし、遂に集まりませんでした。行雄の長い議員生活で初めての事態です。

(議員がこのザマではなあ)

 議会は確かに死んだのだと、行雄はしみじみ思いました。すでに昭和十六年に入っています。欧州ではドイツ軍が進撃を続け、アメリカの対日経済制裁は徐々に強まっています。日米間の和平交渉は断続的に続けられていますが、結果からみれば単なる形式でした。アメリカの本音がハル・ノートであったことを思えば、アメリカは時間稼ぎをしていたに過ぎません。つまり、日米交渉が妥結する可能性は無かったのです。欧州大戦の見通しについても誤った考えが日本の中枢を支配しました。多くはドイツの勝利を信じて疑わず、冷静な悲観論者は排除されました。

 七月、米英蘭三国が対日資産凍結を実施し、八月には米国が対日石油輸出禁止に踏み切りました。日本はいよいよ切羽詰まりました。この頃、日本の最高意思決定機関は大本営政府連絡会議でした。この合議体の名称および存在自体がすでに憲法違反です。立憲主義者は歯がみして悔しがらねばならぬはずでした。その大本営政府連絡会議は今後の国策を検討しましたが、その選択肢は現状維持、即時開戦、外交交渉継続の三案でした。日本は対米交渉に望みを繋ぎましたが、ハル・ノートを突きつけられるに及んで絶望しました。

(もはやこれまで)

 日本の国策は、政策判断というよりは武士道的勝利信念によって決定されたようです。幕末の尊壤志士の魂が憑依したかのような奇妙な最高意思決定機関の決断でした。


 日米開戦と緒戦の大戦果を行雄が知ったのは、新潟県池ノ平の楽山荘においてです。日本中が狂喜する中、行雄の詠んだ歌は何れも日本の将来を暗示していました。


  桶狭間の奇勝におごり本能寺の 奇禍を招ける人な忘れそ


  詰手なき将棋さしつつ勝ち抜くと うそぶく人のめでたからずや


 東條総理は緒戦の大勝によほど気をよくし、前途を楽観したようです。大戦争遂行中にもかかわらず、昭和十七年四月に衆議院議員総選挙を実施しました。本来なら昭和十六年に行なわれるべき総選挙でしたが、前総理近衛文麿はこれを延期していたのです。支那事変下の非常時に総選挙を実施するのは不適切だと考えたのでした。ところが東條総理は豪気にも米英蘭支との交戦中にこれを実施しました。しかも露骨な選挙干渉を強行しました。東條総理は翼賛政治体制協議会を設立し、これに推薦候補者を指名せしめ、推薦候補者に対しては官憲をしてあらゆる便宜を供与せしめました。その一方、非推薦候補者は非国民扱いされ、官憲から様々な圧迫と妨害を加えられました。行雄も例外ではありません。行雄が選挙民に宛てて作成した挨拶状の文章は厳しく検閲されてほとんど判読不可能なまでに削除され、選挙用に録音した演説レコードも使用することができませんでした。行雄は憤慨しました。東條総理の憲兵政治を恐れて誰もが沈黙する中、行雄は東條総理に対して公開質問状を送付し、その選挙干渉を非難しました。

 行雄は選挙区入りする前に、東京三区に立候補する田川大吉郎の応援演説を行ないました。場所は日本橋や浅草の国民学校です。行雄は翼賛選挙なるものが憲法違反であると非難し、立憲政治確立のため今こそ覚悟を新たにせねばならないと聴衆に説きました。

「俗に、売家に唐様で書く三代目、などと申します。偉い人が一代で身代を築いても、二代三代となるとせっかく作った身代を売らねばならぬ羽目になる。それでも金持の息子だけに手習いはできる。立派な唐様の文字で売家と書く。日本も憲法制定以来、明治、大正と二代を経て、今まさに昭和の三代目に当たっておりますから、ここでよほど戒心しなければなりません」

 例によって演説会場には警官がいます。不適切な発言を聞きとがめれば「注意」を叫び、最終的には「中止」となります。行雄の演説もたびたび妨害されました。しかし、聴衆は行雄を熱狂的に支持し、帰りの自動車に乗りこんだ行雄を歓呼の声で見送りました。その後、四月十四日に三重二区に入った行雄は遊説を開始しました。ところが四月二十日、三重県特高課から電話があり、面会を求めてきました。翌日、特高課長古賀強と面会すると、東京検事局からの召喚状を見せられ、出頭を要請されました。

「選挙期間中に立候補者が選挙区を離れることなどできない」

 行雄は抗議し、津市にいる検事正に東京検事局の代行をするよう訴えましたが、容れられません。やむなく行雄は遊説をとりやめて夜行列車に乗り込みました。四月二十三日午前六時に東京に着きました。東京駅には行雄の親族や支援者が待っていました。田川大吉郎邸で朝食をとり、午前十時、東京検事局に出頭しました。行雄は次席検事から尋問を受けました。やがて調書を清書した次席検事が告げました。

「不敬罪で告訴する」

 その夜、行雄は予審廷に回され、予審判事から二、三の質問を受けました。やがて判事は行雄に書面を見せ、署名捺印を求めました。

「濫りに明治天皇の事業を批判し、以って大正天皇及び今上陛下に対し不敬な言句を発した」

 などと書いてあります。行雄が抗議すると、意外にも判事は行雄の言うとおりに書き直してくれました。

「検事局は貴方を巣鴨拘置所に送る手配をしている」

 帰るつもりでいた行雄は驚きましたが、すべては選挙妨害であると思い直しました。不敬罪での起訴などは選挙後でも差し支えないはずです。証拠隠滅の恐れもない。それでも選挙期間の真っ最中に行雄を収監するのは選挙妨害以外の何ものでもありません。行雄は巣鴨に送られました。巣鴨監獄にはすでに差し入れが届いていました。暖かい寝具と衣類です。看守たちは親切でした。行雄は巣鴨拘置所の細長い独房で横になりました。

(悪ければこのまま殺されるかも知れない。軽くても選挙の終わるまでは出られまい)

 あれこれ考えるうち、疲労が行雄を熟睡に誘いました。翌朝の朝食は予想外に美味しいものでした。毒殺の危険も考えましたが、行雄は意を決してすべて平らげました。選挙のことが気になって仕方ありません。行雄は選挙事務所に宛てて電報を打ちました。

「釈放期日不明なるも、奮闘せよ」

 午後三時から次席検事の取り調べを受けました。調書の文言にいちいち行雄は注文をつけました。そのせいか検事は不機嫌です。行雄は笑いながら検事をたしなめました。

「怒ったり叱ったりしてはいけませんよ」

 取調が終わると意外にも帰宅してよいと告げられました。

(いったい何だったのか)

 収監も不可解なら釈放も理解不能です。その夜は、娘婿の佐々木邸に一泊し、翌日ただちに三重二区に戻りました。帰ってみると選挙区はデマの嵐でした。

「不敬罪の尾崎に投票する者は非国民である」

 すべては筋書きどおりの選挙干渉です。手の込んだ筋書きは効果抜群で、尾崎支持者の間には動揺の色が広がりました。さすがの行雄も落選を覚悟したほどです。しかし、四月三十日に行なわれた投票の結果、行雄は当選しました。ギリギリの三位当選でした。

 この総選挙により翼賛政治協議会推薦議員が三百八十一名を占め、行雄を含めた非推薦はわずかに八十五名でした。東條総理の思惑どおり、一党体制が成立しました。五月二十七日から始まった第八十議会ではわずか二日の間に十七年度追加予算案ほか二案が通過しました。もはや議会は無いも同然です。しかし、新聞各紙は「挙国一致体制の実現」と大々的に書き立てました。

 選挙には当選しましたが、不敬罪の容疑は晴れていません。昭和十七年九月、東京地方裁判所で公判が始まりました。行雄は法廷で思う存分に持論を展開しました。奇妙なことに最も自由に発言できる場は法廷でした。公判で行雄は予審決定書には根本的な事実誤認があると主張しました。また、自身の政治家人生を若い頃から説き起こし、立憲政治のために人生を費やしてきたことを話しました。俗な川柳を引用したのは聴衆に分かりやすく説明するためであり、決して他意はなく、行雄がいかに皇室の尊栄を重視し、尊皇の志に厚いかを述べました。話は立憲論、議会主義、外交論、内政論、満洲論、皇室論にまで及びました。幸いなことに裁判長は行雄の発言を許し、これを丁寧に聞きました。議会で発言できぬ鬱憤を晴らすように、行雄は滔々と述べ立てました。存分に言いたいことを言った行雄は最後にこうつけ加えました。

「もし私の言行が、真に不敬にわたる事実があるなら、なるべく厳罰に処して、天下後世への鑑戒にしてほしい」

 判決が出たのは年末です。懲役八ヶ月執行猶予二年。行雄の周囲はみな喜びました。執行猶予がついたから実害はないに等しいのです。誰もが判決を受容れるよう忠告する中、行雄は控訴しました。しかも無罪を主張しての控訴ではありません。むしろ極刑にせよと訴えたのです。

「私が不敬という大罪を犯したのなら刑が軽すぎる。法律の規定する限りの極刑に処せられるのが当然である」

 困ったのは検事局です。もともと言いがかりのような罪状なのです。いくら何でも高名な政治家である尾崎行雄を極刑にできるものではありません。控訴審は昭和十八年六月に始まり、判決は昭和十九年六月二十七日に出ました。大陪審は第一審の有罪判決を破棄し、尾崎行雄を無罪としました。行政は傲り昂ぶり、立法は事実上死んでしまいましたが、司法にはまだ正気が残っていたようです。

 戦後、戦争中の弾圧が過剰に強調されていますが、この尾崎行雄の事例が示すとおり、弾圧と言っても嫌がらせというほどのものでした。これがソビエト連邦だったらどうでしょう。秘密警察は容赦なく暗殺するでしょう。ドイツのゲシュタポも同様でしょう。アメリカとて甘くはありません。太平洋戦争中、アメリカでは親日的言論人がことごとく収監され、数年間、自由を奪われ続けました。これに比べれば日本の特高警察も憲兵隊も穏健だったというしかありません。とはいえ、当の行雄にしてみれば大事件であり、許すべからざる屈辱でした。


 翼賛体制下の行雄は政治活動を封じられました。演説会は許可されず、文章を書いても検閲によって文意をとどめぬまでに修正されました。第八十一議会に行雄は「時局の変遷と政府の指導に関する質問主意書」を提出しました。説明演説もしたかったのですが、賛同する議員が集まらず、断念せざるを得ませんでした。無聊の日々を池ノ平の楽山荘で過しました。戦時下とはいえ池ノ平は平和でした。冬にはスキーを楽しみ、秋には山菜を摘み、春と夏には登山を楽しみました。あいかわらず読書量は衰えなかったし、この間に書きつづった「不敬罪事件感想録」の文章量は増えました。

 昭和十九年に入ると太平洋の戦況は著しく悪化し、虚偽の報道を以ってしても国民を欺けなくなりました。サイパン島が陥落した七月、東條内閣は総辞職しました。十一月になるとサイパン島、テニアン島、グアム島を基地とする長距離戦略爆撃機の大編隊が日本の都市を襲い始めました。終戦までに米軍の無差別爆撃は二百以上の都市を焦土とし、三十万人以上の一般市民を殺しました。

 昭和二十年五月、ドイツが降伏しました。日本も半年後には降伏するだろうと行雄は予想しました。完全に敗北して降伏するよりは、日本側から先手を打って停戦を宣言する方がよい。行雄は自分の考えを意見書にまとめようとしました。「休戦と新世界建設の構想」および「平和的新世界建設の要件」です。しかし、この二論文が完成しない内に日本はポツダム宣言を受諾し、降伏しました。

「神武建国以来、未曾有の災禍と屈辱」

 行雄は日本の敗戦をこう表現し、誠心誠意の回顧反省を日本人に求めました。そして行雄の面目躍如たるところは、戦勝国に対してさえ戦争への反省を求め、敗戦国に対して不当背理の要求をやめよと訴えたことです。

「従来の講和談判においては、道理の有無にかかわらず割地、賠償、その他いかなる不当背理の要求も戦勝者の権利の如く誤解して之を実行し来たったが、今回の処理においては、人類共通の道義に基づいてこれを進行しなければならぬ。不当の要求は未来の戦争の種子まきである」

 行雄は戦争根絶の立場から来たるべき世界の新秩序を述べました。また、第二次世界大戦がいかなる原因で誘起されたかについて行雄は次のように分析しました。


(1)国際連盟の提唱者たりし北米合衆国がこれに加盟せざりしこと。

(2)我が関東軍が満洲の支配者を駆逐し、清朝の旧主を擁立したること。

(3)戦争と公称し得ざる支那事変なるものを惹起し、多年間これを継続したること。

(4)国際連盟、及び不戦条約締結国が、前項(2)、(3)の違約者(つまり日本)に制裁を加え

ざりしこと。満洲事変に際し、連盟加盟五十余箇国が、一致団結して武力的制裁を加えたなら ば、ムッソリーニやヒトラーの如きもあれほどの乱暴はしなかったろう。

(5)英国の如きはただに制裁を加えざるのみならず、却ってリットン委員会なるものを設け、我に活路を与えんとしたこと。

(6)わが日本はこの活路を利用せず、断然これを拒絶したること。

(7)英米が、上海、天津において穏和政策を執り、知らず識らず、我が軍部の決心を強化せしめたること。

(8)英米仏露等がヒトラーやムッソリーニの暴行を傍観し、これが制止に努めざりしこと。

(9)我国がドイツの希望に応じ、日独協商、三国条約等の約を結べること。

(10)世界列国みな偏狭なる孤立的国民教育を施し、対立抗争的思想感情の養成に努め、今日もなおこの時代錯誤の大過失を改めざること。


 このほか日本特有の原因として、世界知識の欠乏、驕慢心の増長、の二点を行雄は挙げました。明治以来、行雄が嘆き続けてきたように、大日本帝国という近代国家は封建思想によって運営されてきました。そのため立憲主義や議会政治はうまく根づきませんでした。満洲事変は戦国時代的な抜駆けの功名でした。米英蘭支に対する開戦は、合理的判断によって決定されたというより、「もはやこれまで」という武士道的な潔さによって決断されました。死を前提とした特別攻撃や、死して虜囚の辱めを受けずという投降禁止令は、「死なばもろとも」という封建時代的な発想から生まれたものです。戦さに負ければ御家は滅亡であり、家族も一族郎党もみな死なねばならない。だから国家が敗北するときは兵も国民をみな死ねということになります。極端な玉砕論が罷り通り、実行されました。一般市民さえも死を強いられました。サイパン、テニアン、沖縄などでは民間人までが自決せねばなりませんでした。父は自ら妻子を殺し、最後に自死しました。悲惨というしかありません。米兵が驚くのも無理はありませんでした。いやしくも近代国家の国民が封建時代的な行動原理によって生き死にしたからです。

 それにしても行雄の分析は驚くほどに内省的であり、ほとんどの理由を日本に帰し、列強諸国に共通する帝国主義には異を唱えながらも、敵国アメリカに対しては無邪気なほどに信頼を寄せ、猜疑心にまったく欠けていました。アメリカによる日本孤立化政策、つまり日英同盟の破棄、ワシントン条約、日支離間策としての蒋介石支援、無差別爆撃、原爆投下などに対する異議申し立てがまったくありません。この点が謎といえば謎です。敗戦ショックがそうさせたのか、先進国への劣等感なのか、行雄に限らず日本の知識人に共通に見られる傾向であり、この傾向は戦後の国内世論にも通じます。


 日本は無条件降伏したわけではありませんでした。ポツダム宣言の受諾により、無条件の武装解除に同意したのであって、無条件降伏ではありません。ところがマッカーサー元帥は降伏文書調印後、一方的に「日本は無条件降伏した」と宣言しました。負ければ賊軍、ということなのでしょう。

 日本は連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官を新来の覇者として迎え、懼れ、崇め、諂い、感謝さえしました。この点を行雄は歯噛みして悔しがりました。立憲主義あるいは法治主義に拠るならば、たとえ軍事的に敗北したとしても国際法や国内法、さらには戦勝国側の国内法を利用して、少しでも有利な降伏の条件を引き出すべく交渉すべきでした。行雄の停戦論はまさにその法戦を主張したものです。が、占領下にあって主権を失った日本は無力です。あるいは負けた以上は首まで差し出そうという、ある意味での潔さだったのかも知れません。行雄はこれを遺憾としました。


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