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人生の本舞台は未来にあり

 尾崎行雄と二人の娘を乗せた照国丸が神戸港に到着したのは昭和八年二月二十一日です。神戸港の警備は異様なほどに厳重でした。聞けば、過激右翼が行雄を狙っているとのことです。不穏な空気の中、行雄は昼食のためだけに上陸し、再び乗船しました。横浜港到着は二月二十五日です。行雄らは警察官に警護されながら逗子の自宅に帰りました。

 この前後における主な内外情勢をみると、すでに第二次大戦の序幕に突入していることがわかります。昭和八年一月、ドイツではナチス党が政権を奪取しました。二月、国際連盟においてリットン報告が採択され、同時に満洲国は不承認とされました。松岡洋右全権代表は抗議の演説をした後に国際連盟の議場から退場しました。三月、アメリカではルーズベルト大統領が就任し、日本政府が国際連盟を正式に脱退しました。五月、塘沽(たんく)停戦協定によって満洲事変は終結を見ましたが、関東軍および支那駐屯軍はなおも北支工作を継続しました。十月、ドイツが国際連盟を脱退しました。世界思潮は平和希求から、軍拡とブロック経済へ移行しつつありました。

 日本とてこの枠内にありました。国内の風潮も軍国化していました。その撃鉄となったのは満洲事変の軍事的大成功です。日清日露の両役によってさえ手に入れられなかった広大な満洲に国民は興奮し、新聞各紙もこれに迎合しました。本来、事変の責任者を厳しく処分すべき日本政府は、処分どころか彼等を栄転させました。軍部の独断専行を非難追求すべき議会と政党はむしろ軍部への追従を始めました。軍人の言論がもてはやされるようになり、軍部はしきりに危機を煽りました。人々の危機感を煽るのは、世論誘導の常套手段ですが、活字に弱い日本人は見事なまでに煽られました。

「一九三六年の危機」

 軍部はそういって危機を煽動しました。一九三六年すなわち昭和十一年はワシントン海軍軍縮条約の期限です。期限が切れれば自由建艦時代に突入します。よって今のうちから軍事予算を増額せよというのが軍部の論理です。世界が軍拡に動く中にあっては日本もそれに応じねばならず、軍部の言い分には合理性がありました。ただ、行雄が遺憾としたのは、帝国議会が唯々諾々と増額された軍事予算に賛成したことです。

 行雄は言論執筆活動を通じて、急速に軍国化していく世相に警鐘を鳴らし続けました。その一環として国際日本協会の活動がありました。同協会は昭和六年に発足し、以来、行雄が会長を務めています。その目的を一言でいえば国際平和の実現に向けた言論普及活動です。国際協調と軍縮を講演会やパンフレット配布を通じて訴えています。この活動がついに軍部の逆鱗に触れました。昭和九年にはいると「平和」という言葉を使うことが禁じられました。行雄はやむなく「世界を明るくする運動」と言いかえて活動を続けました。陸軍省軍務局からは何度も出頭命令が届きました。衆議院議員に対して局長級の官僚が出頭を命ずるということに法的根拠があったのかなかったのか判然としませんが、この時期の軍人の鼻息の荒さがよくわかります。

「来いというなら、行きましょう」

 行雄はノコノコ出かけていきました。話が出来るのであれば、相手が誰であれ、説得を試みるつもりです。相手も人間である以上、道理が通らぬことはないはずです。当時の陸軍軍務局長は永田鉄山少将でした。はじめは穏やかに話し合いました。行雄は永田少将と穏やかに談笑していましたが、やがて軍靴の音も高らかに少壮将校らがドヤドヤと部屋に入ってきました。彼等はサーベルをガシャガシャと鳴らし、声高に軍備の必要を叫び、行雄らの平和活動を国賊的だと決めつけ、非難します。ついには十人ほどの将校が軍務局長室に押し掛け、寄ってたかって行雄らに悪罵を投げつけました。すべて筋書きどおりなのでしょう。行雄に同行した協会職員は震え上がりました。が、行雄は恐れる風もなく、いつものとおり背筋を伸ばして座っていました。あるいは耳の遠さが行雄に幸いしたのかも知れません。行雄の耳はよほど遠くなっていました。この翌年、逗子の尾崎邸を訪ねた小泉信三が耳の具合を尋ねました。

「耳の中で絶えず無数の蝉が鳴いているようです」

 そう答えた行雄は、春雨の軒打つ音が聞けなくなったのは残念だと言い、さらにこうつけ加えました。

「人間の声なんか聞きたくもありませんがね」

 それはともかく、軍務局長室は将校たちの怒声に満ちました。行雄は可能な限り反論しましたが、相手には聞く耳がない。言うだけのことを言い、罵声を浴びるだけ浴びて行雄は辞去しました。その後も陸軍からは繰り返し呼び出しが来ました。行雄は懲りもせずに陸軍省に出かけます。同じことの繰り返しです。徒労にも思えましたが、それでも行雄は一縷の望みを抱いていました。

(奴らもまさか本気で喚いているわけではあるまい)

 一片の正気が軍事官僚の中に残っていると期待し、あえて悪罵を浴びに行きました。しかし、行雄の期待は虚しかったのです。軍事官僚たちは役割を与えられ、それに従っているだけです。それが軍人というものでした。銃剣突撃を命ぜられれば、敵の銃砲火網の中にでも飛び込まねばならないのが軍人です。命令されれば老政治家を怒鳴りつけることくらい朝飯前の仕事でした。そして、彼等にとって何より重要なことは、そうすることが出世の階段だという事実です。

 やがて海軍軍事普及部からも国際日本協会に宛てて詰問状が届きました。軍縮条約延長を訴える行雄の言説が海軍の艦隊派官僚にとって目障りだったようです。昭和九年八月、行雄は答弁書を送ってこれに返答しました。

 一ヶ月後の九月二十八日、海軍省において海軍首脳と国際日本協会との懇談会が開催されました。海軍は陸軍のように無粋なことをせず、フランス料理のフルコースによって行雄らを饗応しました。行雄はデザートが配膳されると起ちあがり、一場の演説を試みました。行雄の持論たる軍縮論です。英米と日本の国力を比べれば建艦競争など出来る話ではない。軍縮条約の延長こそが日本の安全保障策としては最善である。英米が消極的であるならば、むしろ日本側から積極的に軍縮条約を提案するべきである。行雄は二時間にわたり持論を展開しました。三十名ほどの海軍首脳は、分かっているのかいないのか、ともかくも行雄の演説を静かに傾聴しました。その中にはロンドン海軍軍縮問題予備交渉の全権に内定している山本五十六少将もいました。

 この後、山本少将は渡英してロンドン軍縮問題予備交渉に臨みます。昭和九年十月のことです。海軍省は交渉前から軍縮条約の打ち切りを決定していましたから、山本五十六少将に与えられた任務は、形式的にもっともらしい交渉をして適当なところで引き上げてこい、というものでした。

(小僧の使いじゃあるまいし)

 山本少将は持ち前の負けん気を発揮して粘り強い交渉を展開し、あわよくば妥結を見出そうと奮闘しました。しかしながら、交渉相手のアメリカ代表団が消極的でした。クリスマスが近づくと休暇を理由に帰国してしまいました。それでも山本少将はロンドンに残り、イギリスとの交渉を継続しました。まずは二国間で妥結を成立させ、それをアメリカに及ぼそうと図ったのです。が、山本少将の努力に水を差したのは、海軍省からの訓令です。

「早々に帰国せよ」

(バカにしていやがる)

 さすがの山本少将も交渉を投げ出さざるを得ませんでした。十二月、日本政府は二年後の軍縮条約終結を関係各国に通告しました。同月、海軍は第二次海軍補充計画に基づいて軍艦四十八隻、航空隊八隊の造製に着手しました。「一九三六年の危機」はこうして現実のものとなっていきます。

 行雄が久しぶりに三重県の選挙区に入ったのは、ロンドンで軍縮問題予備交渉が始まった十月です。昭和七年の総選挙では本人不在のまま当選するという快挙を果たしていました。これも支持者のお蔭です。お礼と外遊報告とを兼ねての選挙区入りです。行雄は各地を遊説して歩きました。例によって徐々に疲労が蓄積し、ついに行雄は風邪をひきました。一夕、旅館の寝室に横たわりました。行雄は弱気になっていました。

(俺の人生は徒労だったのではないか)

 若年の頃から政治に志し、憲政の樹立と政党政治の組織訓練を成し遂げようと生きてきました。ですが、そのいずれも達成できず、今後にも明るい見通しはない。日本の政治は外見だけは整っているものの、実態は政府も議会も政党も選挙民も恥ずべき水準でしかありません。

(せめてもう少し時間があったら)

 そう思わないでもありません。たとえば英国は、議会制民主主義を獲得するまでに長い年月を要しました。西暦一二一五年の大憲章から、一六四二年の清教徒革命を経て、ようやく一六八九年の名誉革命に至ります。日本は、明治維新からわずか二十年ほどの藩閥専政時代を経ただけで憲法を制定し、議会を開きました。頭に丁髷を結っていた封建時代から近代的議会政治までの移行期間はわずか二十数年ほどでしかありませんでした。それでも日本はやるしかなかったのです。文明国であることを世界の列国に示し、その実績によって不平等条約を改正せねばなりませんでした。大日本帝国ほど無理に無理を重ねた国家はないでしょう。明治帝の強い意志により、薩長専政政治に憲法と議会とが接ぎ木されました。この接ぎ木を成長させることが行雄の志でした。しかし、人間も社会もそれほど容易に変われるものではありません。慣習によって生かされているのが人間です。日本人の思想感情はあいかわらず封建的でした。そのため憲法も議会も封建的に運用されてしまいました。行雄の弁論も言説も無力でした。やむを得ないとも思い、無念とも思います。そうした徒労感がここ数年、強く行雄の心を(さいな)んでいます。年をとって気も弱っていました。

(こんど肺炎になったら死ぬだろう)

 行雄はすでに中耳炎と肺炎を経験しています。老人の肺炎は死病に近いものです。気を弱くしている今、肺炎に襲われたら死ぬかも知れません。それでも人間はギリギリまで追い詰められると、心機一転し、何事かを頓悟するようです。蒲団の中で朦朧とするうち、ひとつの思想が脳裏に閃き、行雄の心は虚無を脱することが出来ました。

(昨日までの仕事はすべて明日以後の準備行為に過ぎない)

 失敗も後悔も含めてすべての経験と知識は明日のための糧である。そう考えれば人生に徒労はないはずです。

「人生の本舞台は未来にあり」

 七十代の後半にして行雄は新しい人生訓を得ました。現実は何も変わっていませんが、心機一転した行雄は元気を取りもどし、その後の遊説を続けました。


 第六十七議会に臨んだ行雄は、昭和十年三月十六日、久しぶりに本会議の演壇に立ちました。ほぼ五年ぶりです。この日、行雄にとって名誉の動議が可決されました。衆議院は院議を以って尾崎行雄の多年の功労を表彰したのです。

「議員正三位勲一等尾崎行雄君、帝国議会開設以来、継続して議席を衆議院に保ち、当選十八回在職四十三年に及び、恒に民意を体して公論の暢達に努む。真に憲政の先覚者たり。衆議院は君が積年の功労を多とし、特に院議を以って之を顕彰す」

 挨拶のため演壇に立った行雄は、簡単に感謝の意を述べると、次いで議会及び政党に対して苦言を呈しました。

「政党及び議会の信用が地に堕ちた、とは申しませぬが、私四十有余年の議員生活の中で今日ほど薄くなったことはないかのように考えるのであります」

 行雄の理想に反し、政党は金と利権にまみれて発達し、政党間の政権交代も主義や政策によってではなく、単なる利権争奪でしかない。そうなった理由の一端は行雄自身にもあります。それを認めた上で行雄は往時を回顧します。

「振り返ってみますと、いかにも一人二人の力で救えるものではなかったろうかとも思います。ことに議会の信用のだんだん地に堕ちたということについては、政党も責任がある、全国人民も責任がある、ことに行政部に立って居るところの人は、いっそう責任があると思います」

 立法部と行政部との権衡が保たれていない現状を行雄は自身の例を以って証明します。

「わずか二、三年間、行政部に居ったというために勲一等という資格を持っておりまする」

 行雄はわずかばかりの期間を文部大臣および司法大臣として過しました。それを国家は勲一等として認めますが、残りの四十年以上の議員生活をまったく無視しているのです。

「この議院において一流の仲間に入って四十余年勤めたのでは、まだ何等の待遇をも国家からは享けて居りませぬ」

 次いで行雄の舌鋒は政党批判に向きます。本来は根っからの政党主義者である行雄ですが、十年前に政党の実態にすっかり失望し、以来、政党から距離をとり、政党批判をくり返しています。しかし、本当は行雄ほど政党を愛している者はいません。それだけに批判も強烈になります。

「政党が信用を失ったということは内部に原因がある。即ち一言にして言えば、政党が権力金力を濫用し過ぎた。権力金力を得る目的で不当な手段を執った。これが内部の原因であります。この権力金力の濫用を自ら戒めざる以上は、政党が改善の途につくことはできませぬ」

 感謝の挨拶は、いつしか政府、議会、政党に対する批判演説となってしまいました。このほか、行雄は政府に対して「国防に関する質問主意書」を提出していました。その内容は行雄の持論です。国防の主力が陸軍なのか海軍なのかを明示せよと迫り、総予算の四割を超える軍事予算の異常な高率を咎め、この異常予算は国家財政の破綻を招くであろうと警告し、軍事以外の政諸分野、たとえば経済、保健、農業、商工業、教育、科学研究などが著しく遅滞するであろうことを問うたのです。

「軍備だけは一等国に列しても、ほかの設備においては二等国にも劣るようになりはしまいか」

 さらに行雄は、軍縮条約が期限切れとなって自由建艦競争に突入した場合に政府は国防を全うしうるのか、と責めます。日米英三国の国力差は国際統計に明確に表われています。その数字を見さえすれば、政治家であれ、軍事官僚であれ、行政官僚であれ、行雄の意見に反論する余地はないはずです。質問主意書の最後、行雄は言論空間の歪みを憂えました。

「憲法実施以後、今日ほど言論の自由が圧迫された時代はない。誰が圧迫するのか分からないが、議会においてすら、言論の自由が許されていないようだ。貴衆両院が暗黙の間に予算案を鵜呑みにしたのも、その結果であろうと思われる。事いやしくも軍部の批評にわたるものは、新聞、雑誌、書籍、いずれの出版業者も出版し得ない。たまたま出版するものがあれば、その要所要所をば伏せ字を以って充填し、文意を隠蔽する。この時にあって、ひとり完全に言論の自由を行使する者は、本来政治に関与すべからざる軍人と、その追従者だけである」

 行雄が訴えたとおり、この頃すでに言論統制は苛烈さを増していました。物言えぬ世の中になりつつありました。治安維持法の標的たる共産党はすでに壊滅状態です。本来なら役割を終えた法律や行政機構は機能を停止すべきでした。しかし、警察や思想検事は内務官僚の出世街道です。それを失うことを官僚は恐れ、新たな統制対象を捜し回り、社会主義、民主主義、自由主義、新興宗教、平和主義などに照準を合わせていたのです。行雄の身のまわりでも、国際日本協会の活動がすでに妨害されているし、全国各地に組織された咢堂会の活動もやりにくくなっています。軍人だけに自由な言論を与えるほどの軍国化はないでしょう。軍国化の防波堤たるべき帝国議会は力を失っています。行雄にも力がない。行雄の質問主意書に対し、岡田啓介内閣は答弁書さえ作成しませんでした。

 世相は狂気を帯びつつあります。八月十二日、永田鉄山軍務局長が省内において惨殺されるという異常事件が発生しました。翌昭和十一年一月、陸軍は「北支処理要綱」を策定し、現地軍の自制を促しました。参謀本部作戦課長は、満洲事変の立役者たる石原莞爾大佐です。石原大佐は現地軍の説得に努めましたが、現地軍の参謀連は聞く耳を持ちませんでした。そもそも満洲事変で成功した石原を模倣しているのです。石原大佐が何を言っても聞くはずがありませんでした。二月二十六日には二・二六事件が発生しました。陸軍の青年将校二十数名が総計千四百名ほどの兵隊を動員して起こした反乱であり、斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺されました。政府は軍部を統御できず、陸軍首脳も現地軍や麾下部隊を統御できなくなっていました。五月には陸海軍大臣現役武官制が復活し、六月には帝国国防方針が改定されました。その内容は、米英ソ支の四ヶ国を仮想敵国とするという現実離れしたものでした。これに要する戦力は、陸軍は五十個師団、海軍は戦艦十二隻、空母十隻、巡洋艦二十八隻と積算されました。日本の財政は間違いなく破産します。七月には海軍艦政本部において新型戦艦の建造が決められました。後の戦艦「大和」と「武蔵」です。八月七日、五相会議によって「国策の基準」が決められました。南北併進、陸海軍対等という陸海軍の妥協的作文です。陸軍が北進し、海軍が南進することに如何なる国益があるのか全く不明でした。国策などというものではなかったのです。国家的見地からする利害の打算はそこになく、陸軍と海軍が好き勝手にやるから、ほかの者たちは黙っておれというものでしかありません。そもそも国策を五相(首相、陸相、海相、蔵相、外相)が決めてしまうこと自体、内閣制度の破壊であり、もはや日本政府は立憲政体の実質だけでなく体裁までも失っていました。十一月二十五日には日独防共協定が締結されました。陸軍省は駐在武官を動かして勝手な外交を進め、外務省の方針はことごとく無視されました。外務省は陸軍の言いなりになりました。十二月には海軍軍縮条約が失効し、いよいよ自由建艦時代に入りました。この間、行雄は無力です。時の流れは急激であり、ひとりの老政治家には為す術がありません。


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