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国難来

 尾崎行雄は、柳条溝事件の勃発を米カリフォルニア州で知りました。事情はこうです。肺炎の治療を終えて退院した行雄のもとにカーネギー国際平和財団からの招待状が届いたのです。

(この際、海外で動いてみるか。テオドラの見舞いもせねばならんし)

 国内における行雄の政治活動は行き詰まっていました。行雄は懸命に演説し、論説を書き、議会質問をしてきましたが、その努力はすべて虚しいものでした。帝国議会でさえ数の力に支配されており、行雄の主張する道理は通りません。招待状が届いたのも何かの縁です。思いきって活動の場を変え、海外の空気を吸い、海外の著名人に会い、海外において日本の立場を訴えることにも意味があると思いました。加えて妻のテオドラが肉腫治療のためアメリカで入院しています。これを見舞わねばなりません。

 昭和六年八月十三日、行雄は二人の娘、品江と雪香を伴い、四度目の洋行に発ちました。八月二十六日、行雄ら一行を乗せた浅間丸はサンフランシスコ港に入港しました。かつて行雄はこの港ですべての荷物と共に恩讐録という日記を失い、大げさに言えば生き方を変えたのです。恩讐へのこだわりを捨て、恩讐を忘れて生きてきました。あれからすでに四十年以上が過ぎていまする。浅間丸の船上から久しぶりにサンフランシスコ湾の風景を眺め、時間の流れの早さにしばし茫然としました。八月二十九日、ロサンゼルスに上陸した行雄はさっそくサンディエゴ市ラホナの病院に妻テオドラを見舞いました。幸い手術は成功しており、テオドラも元気そうでした。一安心した行雄は、日本人移民の多いカリフォルニア州内十カ所で日本人向けの講演をしたり、ヨセミテ国立公園を訪れたりしました。

 十月二日、行雄は二人の娘と共にニューヨークに向かいました。途中、デトロイトに立ち寄ってフォード自動車工場を視察しました。その規模の大きさとベルトコンベア方式の合理的な流れ作業に行雄は驚嘆しました。その後、アメリカ大陸の紅葉の美しさに感嘆しつつ大陸を横断し、十月二日、ニューヨークに着きました。行雄はさっそく政治家、銀行家、実業家などを訪ねて意見を交換しました。行雄は日本を発つ前、渋沢栄一を訪れて二十通の紹介状を書いてもらっていました。渋沢が紹介してくれた人物たちはいずれも豊かな教養と経綸の持ち主でした。行雄は渋沢の偉さをあらためて認識しました。

 十月二十一日に開催されたカーネギー国際平和財団主催の晩餐会は盛大でした。数百の食卓が用意され、来会者の総勢は四百人に達しました。招待された主賓は行雄を含めて五十六名いました。主賓には特別に雛段状のステージが用意され、そこにテーブルが並んでいまする。入場に際しては国歌が吹奏され、国旗を持った旗手が先導しました。行雄も、君が代が吹奏される中を入場しました。日本人のなかでも特に小柄な行雄は、アメリカではいっそう小さく見えました。

(我ながら何と小さいことか)

 前を歩く米国人青年の背中を見上げながら自嘲する思いです。しかし、いつもどおりに胸を張って入場しました。

(日本人も大いに肉食して滋養をとり、堂々たる体格を獲得せねばならない)

 歩きながらそんなことを考えたりしました。ちなみに行雄は肉でも魚でもよく食べる健啖家です。やがてスピーチが始まり、行雄も二十分ほどのスピーチを試みました。満洲事変が世界の耳目を集めている最中であり、日本人たる行雄にとっては間の悪い時期です。しかしながら演壇に立ってみると、敵意、悪意、反感といったものは感じられません。行雄は日本の立場を説明しました。鎖国していた日本を開国させたのはアメリカです。その後、日本は帝国主義的世界に適応するためあらゆる苦労をしました。その苦労の末に日本が実力を得ると、世界はそれを軍国主義といって非難する。世界の方こそ身勝手というものであると行雄は説明します。

「もし諸君にして、日本が軍国主義的であることを非難されるならば、私は、日本を軍国主義的にしたものは諸君即ち西洋諸国だというを憚らぬ」

 行雄の率直さは相手が誰であろうと変わりません。次いで行雄は文明の進歩が世界を狭くしている事実をあげ、もはや国家主義は適しないことを説きました。世界各国は国家主義をすて、国際主義に基づいて真の友誼を涵養すべきだと結論してスピーチを終えました。行雄の演説は好評を得、翌日のニューヨークタイムズ紙は賞讃の記事を掲載しました。

 ニューヨーク滞在中の行雄は数多くの官民著名人と交際しましたが、日本政府に対するアメリカ人の信頼の篤さに目の覚めるような思いがしました。当時、関東軍はすでに奉天を占領していました。次は錦州か、と誰もが思っていたところ、日本政府は錦州攻撃はしないと声明しました。この政府声明は、行雄が意外に思うほどアメリカ人に信頼されていました。

「今日まで日本政府の声明に間違った例はなかった。日本政府がそういう以上、錦州攻撃はないだろう」

 面会したアメリカ人の誰もがそう言いました。この絶大な信用は明治以来の日本政府の努力の賜です。明治日本は、国際的信用を打ち立てて不平等条約を改正するために国際的な約束は必ず守ってきたし、国際法を細心なまでに遵守しました。維新以来、営々と積み重ねてきた努力の成果は確かにまだアメリカに存在していました。アメリカ人の無邪気な信用ぶりに対して、行雄の方がむしろ戸惑いました。行雄の戦略眼からすれば、関東軍が錦州を野放しにするとは考えられません。奉天を放棄した張学良の主力は錦州に集結しています。数量的に劣勢な関東軍はむしろ攻勢をかけるに違いない情勢です。とはいえ行雄には詳しい内情がわかりません。

「戦況次第ではどうなるかわかりません。あまり断定しない方がよろしいでしょう」

 そう答えつつ、行雄は慄然たらざるを得ませんでした。今日の篤い信用を裏切るようなことになれば、その反作用はどれほどに大きいか。信頼は変じて不信、猜疑、敵意となるであろう。行雄のこの心配は、不幸にもやがて現実のものとなっていきます。

(帰国すべきか、しかし)

 行雄は身の振り方について考えました。今すぐにでも帰国して満洲事変の無謀を訴える必要がある。しかし、そんなことをしても無駄ではないか。悪くすれば殺されるかもしれない。日本の世相が急速に軍国化している様は、アメリカにいてもわかります。いやアメリカにいるからこそ客観視できます。幕末の攘夷全盛時代が再現したかのようでした。正直に言えば恐ろしい。暗殺が恐ろしいのはもちろんですが、言うべきことも言えぬまま死なねばならぬことの無念を思いました。行雄が「墓標に代えて」の執筆にとりかかったのはこの時です。たとえ死んでも悔いが残らぬように書くべきことをすべて書き、その上で帰国することにしました。

 昭和六年十二月十一日、行雄はニューヨークを発ちイギリスに向かいました。その航路上で旧友犬養毅が総理になったのを知りました。行雄は直ちに祝電を打とうと思いましたが、思いとどまりました。政友会における犬養の立場は、例えていえば借家人であり、与党の実権を握っているわけではありません。人物払底の政友会がやむを得ず選んだだけのことです。

「憲政の二神」

 かつて犬養は行雄と共にそのように称せられ、今でも世に知られています。政権奪取のために陸軍と結んだ政友会は、犬養毅の盛名に隠れて何事かを画策するつもりなのでしょう。そんな行雄の悪い予感を裏づけるように、昭和六年十二月二十八日、関東軍は錦州攻撃を開始しました。行雄はロンドンでこの事実を知りました。錦州攻撃はしないという日本政府の声明は嘘になりました。さらに悪いことには、同じような嘘がくり返されていきました。日本政府は不拡大方針を声明しますが、そのたびに関東軍はハルピン、熱河省、河北省へと進んでいきました。諸外国にしてみれば、日本政府が意図的に嘘をついているようにしか見えません。

 明治以来、先人たちが六十年にわたって積み上げてきた日本の国際的信用は、満洲事変の三年間で瓦解したといえます。しかしながら、日本政府は必ずしも意図的に嘘をついたわけではありません。本気で不拡大方針を声明し、陸軍大臣にも納得させ、参謀総長も承諾していたのです。それにもかかわらず現地軍は進軍しました。統帥権政府はその姿を現わすことなく策動し、その尻ぬぐいだけを行政権政府に押しつけたわけです。これではリットン調査団に対してまともな説明ができようはずがありませんでした。

「実は関東軍が勝手にやっているのです。政府としても困っています」

 まさかこんなことは口が裂けても言えない。これでは日本政府の統治が崩壊していることを自ら認めるようなものです。結局、日本政府は関東軍の行為を事後追認し、国際的には苦しい言い訳をするしかありません。関東軍の独断という事実を隠蔽し、それによって体面を守るのが精一杯であり、国際的信用を守る余裕などはありませんでした。しかも、国際協調路線に基づいて推進されてきた従来の外交政策、具体的には国際連盟加盟、九ヶ国条約の批准、不戦条約の批准などが日本政府の立場をいっそう苦しいものにしていました。明らかな条約違反であり、国際信義の蹂躙です。このような不名誉な事態下で政権を担当することになった旧友犬養毅の苦衷と不運を思うと、行雄は祝電など打つ気にはなれなかったのです。

 その犬養毅総理は、昭和七年一月、衆議院を解散しました。野党民政党が過半数を占めている以上、与党政友会としては解散せざるを得ません。行雄は身をロンドンに置いたまま衆議院選挙に立候補し、当選しました。周囲の英国人は驚きましたが、行雄にしてみればいつものことです。総選挙のたびに行雄は同志の応援に全国を飛び回り、自身の選挙区にはほとんど帰りません。選挙運動は三重の咢堂会にほとんど任せています。

「立候補の件承知す、帰国できぬ」

 行雄はごく簡単な電報を打っただけで当選できました。強固な選挙地盤を得ていたことが行雄の自由な政治行動を支えていました。行雄はこの一年を執筆と社交と視察にあてました。

 三月、満洲国が独立を宣言しました。日本政府は九月に満洲国を承認しました。蒋介石は満洲問題を国際連盟に提起しました。国際連盟はリットン調査団を派遣し、十月にリットン報告書を日本に通達しました。この間、日本の世相は血腥さを増しています。二月に民政党幹事長の井上準之助が暗殺され、三月には三井財閥の団琢磨が殺されました。いずれも血盟団という右翼組織による犯行です。そして五月には五・一五事件が起こり、犬養毅総理が殺害されました。陸海軍の将校士官らによる犯行です。

 その夜、犬養遭難の報に接した閣僚は内閣官房に参集し、徹夜で事態の収拾に当たっていました。

「総理も間違っているよ」

 森恪内閣書記官長のつぶやきを聞きとがめたのは芳澤謙吉外務大臣です。

「どういうことだ」

 芳澤外相に対して森書記官長が答えたところによると、犬養総理は陸軍の中堅将校三十名程度の首を切ろうとしていたのだといいます。

「これがいけないんだ」

 森は言いました。さかのぼれば昭和三年の張作霖爆殺事件以来、陸軍将校の紀律違反、クーデター未遂事件がくり返され、ついには満洲事変となりました。犬養総理は厳格な粛正人事を断行し、陸軍の綱紀を粛正しようと考えていました。犬養毅は、若い頃から孫文の革命を支援した経歴を持ち、蒋介石の国民政府との協調を重視していました。だから、あくまでも満洲の主権は支那側のものだと考えていたのです。こうした犬養総理の方針は陸軍内の強硬派に筒抜けでした。情報を漏らしていたのは森恪です。

 内閣書記官長とは、今日でいえば官房長官であり、総理の女房役といってよいのです。森恪は誰よりも犬養総理の方針を知りうる立場にありました。そして、その森恪は根っからの膨張主義者であり、満洲分離論者であり、陸軍に太いパイプを持っていました。そのことを承知の上で犬養毅は森恪を内閣書記官長に任命したようです。ですが、森恪は情報を握って犬養総理を操ろうとしました。犬養とて森ごときに容易に操られるはずはありません。両者の水面下での駈け引きは、結局、森からの情報を伝え聞いた陸軍内の過激分子が暴発することで決着しました。

 昭和七年五月十五日午後五時二十七分、総理官邸に乱入した九名の暴徒は日本館食堂内で犬養毅総理を発見しました。

「話しを聞けばわかることじゃろう」

 犬養総理は銃口を眼前にしてなお泰然自若とし、日本間客室に移り、その卓前に端座しました。三上卓等の暴徒は立ったまま犬養総理を見下ろし、銃口を擬しました。

「靴くらい脱いだらどうじゃ」

 犬養総理はたしなめるように言いました。

「何か言うことが有れば言え」

 答えたのは三上卓です。犬養総理は若者たちに何事かを話そうと姿勢をあらためました。その上半身が真っ直ぐに伸び、言葉が発せられようとした時、山岸宏が叫びました。

「問答無用。撃て」

 この「問答無用」という言葉ほど世代の断絶を象徴するものはありません。幕末に生まれ、若き日に従軍記者として西南戦争を見、封建社会が国民国家に変貌する様子とそれに伴う多大な犠牲を目の当たりにしてきた犬養毅と、すでにできあがった国民国家に生まれて新しい社会矛盾に憂国の激情を蓄積させた若者とは、もはや歴史を共有できなかったのです。

 五・一五事件の犯人及びその所属団体は昭和維新の実現を訴えていました。その内容は必ずしも明確ではありませんが、天皇親政の軍事政権によって改革を断行せよという主張でした。いわば明治初頭の専政時代にもどれという復古主義です。行雄もかねてより第二維新を唱えていますが、行雄のそれは文明の進運を受け容れて心の丁髷を切り、立憲政治を実現せよというものであり、昭和維新とは逆方向の思想です。行雄が常に無念としたことは、日本社会の風潮が第二維新を白眼視し、むしろ昭和維新に共感していることです。この昭和維新という四文字に代表される時代の雰囲気こそ、行雄が幕末攘夷思想の再現と感じている風潮です。

 幕末、徳川幕府は信を失い、幕臣の勝海舟でさえその前途に絶望していました。そして、幕府は倒れました。それと同様、大正以来この国の舵取りをしてきた議会政治あるいは政党政治がすでに信を失っています。その証拠に、五・一五事件首謀者らに対する助命嘆願の声が全国から湧き上がりました。行雄が政府にも政党にも議会にも、さらには有権者にさえ失望し、政治教育家として孤影飄然として海外を漂泊しているのと同様、国民もまた政党政治に失望していました。この時代の国民感情を軍国主義の一言で片付けてしまうのはあまりにも浅薄です。


  権門、上に傲れども国を憂うる誠なし

  財閥、富を誇れども社稷を思う心なし


 昭和維新の歌の歌詞は、この時代の日本人の心情を代弁するものです。徳川幕府が二百五十年続いたのに比べ、政党政治の寿命の何と短いことでしょう。しかし、すべての責任を政党政治に帰するのは酷かも知れません。積年の弊風と世界的不況がたまたま政党政治時代の日本を襲ったのだとも言えます。国民の不満は、端的には「誰でもいいから、この生活苦を何とかしてくれ」というものでした。兵役、重税、長引く不況、言論弾圧、職業的不平等、経済的不公平、貧富の格差、そうした苦痛の蓄積が生活苦を生みだし、政治に対する失望を増進し、過激思想を培養する培地となっています。その過激思想の矛先がたまたま時の総理である犬養毅に向けられたのです。

 行雄は在りし日の犬養毅の堂々たる演説ぶりを思い出しました。犬養は行雄と同様に小男です。ですが、その犬養がひとたび演説を始めると小さな身体が大きく見えました。演壇に立っているというよりは、地中から生えているかのような不動の存在感がありました。


  我が友の殺されたるを夢として 聞かんと祈り真かと思う


 犬養毅の死により、議会開設以来の連続当選議員は尾崎行雄ひとりとなりました。これ以後、歴代の総理は軍人政治家によって占められ、政党政治は退潮していきます。旧友の死は大きな喪失感を行雄に与えました。そればかりでなく、この年、行雄はテオドラの死をも見取らねばなりませんでした。長い入院の末、ようやく退院許可を得たテオドラは六月に渡英し、家族とともに過すことになりました。テオドラはとても元気で以前よりも肥るほどでした。七月二十一日には夫婦相携えてバッキンガム宮殿の園遊会に出席したほどです。しかしながら、しばらくするとテオドラはしばしば横腹に痛みを訴えるようになり、やがて身動きさえできぬほどの重態に陥りました。肉腫の悪性細胞が肺や心臓に転移しており、もはや手の施しようがありませんでした。病床のテオドラは頻りに帰国したがりましたが、行雄は躊躇しました。テオドラの体力が長い船旅に耐えられるとは思えないし、日本国内の友人からは帰国延期を促す忠告の手紙が頻りに届いていました。命が危ないから帰国するなというのです。それほどに国内の空気は悪い。それでもテオドラの懇願がやまないため、遂に行雄も覚悟を決めました。昭和八年正月に帰国すると決め、テオドラを励ましました。最悪の場合、船中での死が予想されました。行雄は日本まで付き添ってくれる看護婦を手配しました。帰国の日時が決まったことで「墓標に代えて」を書き進む筆にもいっそう力がこもりました。が、それより早くテオドラの生命が尽きました。

 テオドラは行雄と出会う前から翻訳の仕事をし、結婚後も日本の昔話や古典を英語に翻訳していました。それらは英子テオドラ尾崎の名で出版され、英米では今日なお読み継がれています。代表作には「日本御伽話」、「日本之武士」、「日本昔話」などがあります。

 昭和八年一月、行雄はテオドラの遺骨を抱き、二人の娘とともに照国丸に乗船し、帰国の途につきました。帰国の船内でも「墓標に代えて」を書き続けています。自らの死を予想し、遺言としてあるいは最後の文章報国として書いた意見書だけに行雄の持論の集大成となっています。その冒頭、行雄は内外の耳目が集まっている満洲問題に触れます。

「自分には千思万考しても名案が得られない」

 日本の満洲政策は決して上手くいかないと行雄は予言し、その理由を具体的に列挙します。支那系住民は容易に日本に心服しないであろうと予想できました。日本が満洲に固執すれば支那、ソ連、米国との関係が悪化し、経済的対戦を生じ、ついには軍事的対戦となるかもしれません。そうなれば日本の陸海軍がどれほど獅子奮迅の活躍をしても間に合うまい。かつてロシア帝国のロマノフ王朝は満洲にこだわったために滅びましたが、今度は日本が満洲のために滅びるであろう。行雄の考え得た日本の針路は二つです。


 一、深く内外の情勢に鑑みて、局面一変の計を講ずべきか

 二、従来の方針を固執して、世界列国を向こうにまわし、国家の存亡を賭しても、

   孤立独住すべきか


 いずれをとるにしても日本は存亡を賭さねばなりません。局面一変の計を施すためには、軍部を統御しなければなりませんが、すでに政府を差し置いて天皇の大権を私し、綱紀の紊乱を敢て為し、恬として恥じない統帥権政府を何者が圧伏できるでしょう。行政権政府にも議会にもそんな力はないし、敢てそれを為そうとすれば内乱に陥るでしょう。だからといって満洲政策をこのまま推進し、支ソ米を敵に回してなお、苛烈な帝国主義的世界を生き残りうるであろうか。経済戦にせよ武力戦にせよ日本の必敗は確実です。つまるところ日本は内乱か、外戦かの選択をこの段階で迫られていたことになります。

 従来から行雄は国家的立場からする利害の打算に立脚して意見を表明してきました。その確実な現実検討能力は政治家尾崎行雄の名を不朽たらしめるにふさわしいものです。

「私はどこまでも打算的だ」

 軍縮論にせよ平和論にせよ、行雄のそれは国家的利害の打算によって裏打ちされています。当たり前のことですが、利害の打算は相手国と自国とを比較考量するところから算出されます。だからこそ、かつて対清強硬論を唱えた行雄が対露戦争には反対し、海軍軍縮条約には賛成し、満洲事変には反対しているのです。行雄は常に世界文明の進運、自国と他国の国力や武力、世界的な思想感情の動向等に目を注ぎ、適時適切な国策を提言してきました。ですから好戦的となることもあれば反戦的となることもあります。行雄が平和主義を主張する理由にも具体的な根拠がありました。戦争兵器の進歩と莫大な戦費を考慮すれば、今後の戦争は勝者も敗者も国家を疲弊させずにおかない。つまり戦争は勝っても負けても損である。つまり打算的平和論です。このことは政治家尾崎行雄の名を高めこそすれ、決して貶めはしません。教条的平和主義などというものは、念仏称名と同じことであり、それはもはや信仰であって政治ではありません。もちろん行雄にも信念がないわけではありません。ですが、行雄のそれは、日本の政界に立憲主義と議会主義を確立し、日本人に憲法と議会を与え給うた明治帝に報恩することでした。その信念は行雄にあくまでも政治家であることを求めます。政治家としての行雄の打算はあくまでも国家的な立場から為されており、党利党略や省益や私利私欲によるものではありません。行雄の国家的打算によれば日本は行き詰まっています。行雄の筆は国家の危機を訴えますが、孤立した無所属政治家には力がありません。

 行雄の筆は人類史、文明論、日本史、世界連邦論へと縦横に飛び、最後の第二維新論へと至ります。昨今の世界情勢においては、民族主義と国家主義が結びついて割拠主義が勢力を増し、国際協調主義が退潮しつつあります。その帰結は、世界的な破産と第二の世界戦争しかない。それを防いで世界を救い、さらに日本をも救うためには日本が率先して国際協調を推進しなければならない。

「武力の偏重に堕せず、努めてその気宇を高尚にして、世界の弱小国をたすけ、共々正義の大道を闊歩しなければならぬ。これが世界を救うと同時に自らを救う日本の使命である。日本帝国の安危盛衰はかかってそれができるかできざるかにあるのだ」

 行雄は透徹した目をもって世界文明の未来を描いてみせましたが、眼前の現実に眩惑された人々には空想論にしか聞こえません。かつて行雄を「憲政の神」ともてはやした世論は、打って変わって行雄を国賊扱いにしました。


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