武弊の鏑矢
明治日本は武徳によって興隆しましたが、昭和日本は英米蘭支ソの連合軍によって武力侵略されてしまいます。その際、最大の争点となったのは満洲です。満洲の覇権をめぐる日華ソの争いがありました。そして、そこへアメリカが介入してきたのです。
日本は満洲に執着せざるを得ませんでした。結果的に、その執着が日本を国際的に孤立させていくのですが、それにはそれなりの理由がありました。第一に、満洲には日露戦争の勝利によって得た権益があったことです。当時の国際常識からいえば、日本が満洲の権益を主張することは国際法の認めるところでした。万余の将兵の血によってあがなった地であるという感情が日本には有りました。経済的にも、日本政府は満洲に多額の投資をして社会基盤を整備していたし、多くの日本人が渡満して経済活動に勤しんでいました。ある者は商売をはじめ、ある者は入植し、在満邦人は徐々に増加しました。日満の貿易額は飛躍的に増え、いわば経済的に必要不可欠な地域となっていきました。その満洲の課題は治安の悪さでした。ただでさえ支那大陸は乱世の混乱状態にありましたから、治安こそが満洲最大の懸案でした。その治安を不完全ながら確立したのは日本です。
残念ながら日本の警察権は南満洲鉄道とその付属地にしか及びませんでした。あくまでも満洲の主権は中華民国政府のものであり、日本の国家主権は及んでいなかったのです。司法権も警察権も基本的に中華民国側にありました。とはいえ、現実に満洲の派遣は張作霖の軍閥政権に握られていました。しかし、馬賊上がりの張作霖は治安などに興味がありません。あくまでも中原の覇権を欲したため、満洲経営に関心がなく、また日本の南満洲支配を嫌うようになります。
国家主権が及ばないからといって、満洲居留民とその経済活動、満洲へ投下した投資の回収、日満貿易などを放棄することなど出来る相談ではありません。いっそのこと満洲を占領し、日本の主権を全域に及ぼせば良いという武断的発想が関東軍内に湧いてきたのも無理はありませんでした。
それが張作霖爆殺事件として発露してしまいます。実際に河本大作大佐が満鉄沿線に爆弾を仕掛け、爆発させたのは事実です。ただ、張作霖爆殺の首謀者はソビエト連邦だったようです。張作霖を死に至らしめたのは車輌内にソ連スパイが仕掛けられた爆弾でした。しかし、当時、この真相がわかりませんでした。しかも、河本大佐が「自分がやった」と自供したため、そう信じられてしまいました。
事件の真相は厳重に秘せられ、第五十六議会において田中義一内閣は説明らしい説明をしませんでした。行雄は政府の秘密主義に憤慨しながらも、この段階では武弊の予兆を充分には感得できませんでした。
行雄は、昭和三年一月二十二日の本会議において田中内閣の背信を追求しましたが、その内容は張作霖爆殺事件についてではありませんでした。前議会で可決された三大国難決議案の履行がまったくおざなりにされていることを質したのです。
「すでに満場一致の決議を経て当院の院議となり、したがって国論となった事項については、ほとんど大体行なわれて居らぬかのように私には見えるのであります。これは立憲政治を侮辱するものであって、非立憲の甚だしきものと申さなければならぬ」
これに対して田中総理は言い返します。
「政府はこの決議案の趣意を十分に尊重いたし、着々実行しつつあるものと私は考えております」
議会答弁というものは得てしてこういうものであす。要するに「やった」、「やらない」の押し問答でしかありません。第五十六議会も後半に入った三月十一日、衆議院議員選挙法の改正案が議題となりました。提案者は新党倶楽部の床次竹二郎らです。その趣旨は、現行の中選挙区制を小選挙区制に改正しようとするものでした。床次の説明演説が終わると、行雄は発言を請求しました。行雄はこの法案を審議すること自体に疑問があるとしました。すでに会期は三分の二以上を過ぎています。選挙区制度の改正という重大法案は、会期の初頭に提出すべきものである。したがって今回は法案を撤回し、次期議会の冒頭に提出するよう床次ら提案者に訴えました。実のところ、改正案は新党倶楽部及び政友会に有利な選挙区割を実現しようとするものでしたから、もっと口汚く罵ってもよかったのですが、行雄は政局の混乱を恐れ、あくまでも正論で責めました。激しい野次が議場に湧き、行雄はしばしば黙らざるを得ません。議長は静粛を呼びかけましたが、そんなものに効果はありません。あまりの喧噪に行雄も意地になります。
「騒げばまだやりますよ。たぶん夜中まで掛かりましょう。十二時過ぎまで騒ぎなさい。静かにすれば早くやめる。騒げば十二時までやります」
行雄がその気なら延々と演説を続けることも可能です。野次連もそのことが分かっているから、一時的に野次がおさまります。
「本員をして速やかに降壇せしめようというお考えがあるならば、それは直ぐ出来ます。床次君に忠告して、これを撤回なされば、すぐに降りるのであります」
質問演説はいつしかバカバカしい口喧嘩のようになっていきました。行雄は最終日にも登壇、演説しました。行雄は「決議案(不戦条約批准奏請の件)」を提出しました。日本政府は昭和三年八月のパリ会議において不戦条約に調印していましたが、批准はまだでした。これを批准すべきか否かが問題となっていました。というのも同条約第一条の文言が大日本帝国憲法の章条にそぐわないからです。
「第一条 締約国は国際紛争解決の為、戦争に訴ふることを非とし且その相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を抛棄することをその各自の人民の名に於て厳粛に宣言す」
軍縮論者の行雄としては不戦条約には賛成です。しかし、「人民の名に於て宣言す」という条文には賛同できません。これでは人民の名において天皇陛下が戦争放棄を宣言することになってしまいます。矛盾です。共和国ならば問題ないでしょう。しかし、立憲君主国の日本にはそぐわない。行雄は尊皇家です。国民に憲法と議会を与え賜うた明治天皇を崇敬することの篤い行雄は、大日本帝国憲法第一条に何の疑いも持っていません。
大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
今日、日本国憲法では国民主権であるのに対し、明治憲法では天皇主権だったといわれますが、これには注釈が必要です。天皇主権とはいいながら、天皇は議会の協賛と政府の輔弼を承け、憲法の条規に従って統治権を総攬するだけです。極端に言えば「よきにはからえ」と言って政府の決定にお墨付きを与えるだけの権能でしかありません。たとえば清朝皇帝やロシア皇帝が絶大な権能を振るい得たのに比べると、天皇は非常に間接的な統治形態でしかなく、極めて日本的な元首でした。そのようにおおらかな総覧者であるからこそ、帝国憲法第三条は天皇の神聖不可侵を述べています。
天皇は神聖にして侵すべからず
たとえ国際条約の条文においても天皇の名誉や尊厳がわずかでも汚されてはならない。そう考える行雄は直ちに不戦条約に同意を表明すべきだとしながらも、「人民の名に於て」の部分には不同意であることを国際的に表明せよと主張しました。
「これを我が憲法および国体より考えますと、『人民の名に於いて』という文字を存しておくことは、我国としてはどう考えても宜しくないという意思をやはり表明しなければならぬと思います」
すでに田中義一総理兼外相は、強引な意訳によって条文の意味を誤魔化し、そのまま批准しても差し支えない旨の答弁をしていましたが、行雄は見逃しませんでした。法治主義に厳密で英語も巧みな行雄は政府の不正直な態度を非難しました。国際的な信義においても、尊皇の志においても行雄の方がはるかに優っていました。その旨を行雄は決議案にして提出したのです。この決議案は反対多数で否決されました。それでも行雄の発言は日本政府を動かしました。不戦条約の批准に際し、日本政府は宣言書を公表し、「人民の名に於て」なる字句は日本国に限って適用なきものと了解する旨を世界に宣言したのです。
第五十六議会を乗り切った田中義一内閣ではありましたが、結局、張作霖爆殺事件が命取りになります。昭和三年六月の事件発生後、関係各国はそれぞれ事故調査を実施しました。日本では鉄道省および陸軍省が調査にあたり、関東軍参謀河本大作大佐の犯行であると判断しました。
十二月、田中義一総理は天皇に真相を報告し、関係者の処分を行なうと上奏しました。ところが田中総理は周囲の反対論に取り巻かれて処分ができませんでした。軍法会議さえ開かれず、行政処分だけで済まされました。田中義一は長州閥に属し、陸軍大臣の経験者であり、現総理です。その田中総理をして天皇への上奏に背かしめるほどに、陸軍閥の政治的圧力が強かったことになります。あるいは田中が弱かったのか。ともかくも田中総理の上奏違背でした。昭和天皇は田中を叱責します。
「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」
天皇は謁見を打ち切り、田中総理の言い訳をお許しになりませんでした。これがよほどこたえたらしく田中義一総理は昭和四年六月に内閣を総辞職しました。三ヶ月後、田中は狭心症で急逝しました。
大命は民政党総裁の浜口雄幸に降下します。浜口総理はわずか五時間で組閣を完了して周囲を驚かせました。外相は国際協調派の幣原喜重郎、蔵相は緊縮財政論の井上準之助です。浜口雄幸にはライオン宰相という異名が冠せられていましたが、確かにライオンのような風貌をしていました。横に開いた獅子鼻、肉食獣の上唇部のように見える口ひげ、濃い眉毛が印象的です。それが丸ブチの眼鏡をかけているからマジメなライオンのようでした。その浜口総理は緊縮財政と軍縮外交に果敢に取り組みました。長年の懸案だった金本位制への復帰に踏み切り、財政規模の一割削減を断行し、ロンドン軍縮条約の首席全権には文官の若槻礼次郎を起用しました。浜口総理はラジオ放送を通じて国民に政策を説明し、理解を求めました。大胆に政策を断行する浜口内閣を世論は支持し、第十七回衆議院総選挙の結果、与党民政党は過半数を得る大勝利を博しました。
浜口総理にとって不運だったのは、世界恐慌の暴風に日本経済が呑み込まれたことです。貿易は大幅に減少し、米価は下落し、労働争議や小作争議が頻発しました。不況によって失業者が街にあふれ、一家の離散、娘の身売り、自殺など悲惨な社会情勢が現出しました。こうなると世論は一気に逆風となります。これに勢いを得たのが軍閥です。ロンドン軍縮条約の批准に憤った軍令部長加藤寛治は辞表を提出し、軍部は統帥権干犯を叫びました。野党政友会は党略上の利害から統帥権干犯問題を取り上げ、国会で浜口総理を追及しました。何とかして軍部を政府の制御下に置こうとする浜口総理の苦心を政友会は反古にしました。この後、関東軍は満洲事変を専行し、海軍も軍縮条約の期限が切れると同時に建艦に邁進していきます。その片棒を担いだのは疑いようもなく政友会です。
行雄は浜口雄幸とは縁遠く、その風貌を知っているという程度でした。行雄は浜口総理にさほどには期待していませんでしたが、予想以上の政策実行力には感心しました。そして、それ以上の行雄の関心事は、旧友犬養毅が政友会総裁に就任したことです。ただし慶賀したわけではありません。むしろ同情しました。政友会内における犬養の発言力は弱く、いわば借家人の総裁であり、極論すれば御輿に過ぎません。政友会が統帥権干犯問題を国会に持ち出したことも、犬養の本意ではないと行雄は想像しました。政党が政権争いばかりに熱を上げ、国家的見地から利害を打算しないことは、行雄が政党に失望した理由のひとつです。
浜口雄幸総理が凶弾に倒れたのは昭和五年十一月十四日です。右翼結社に属する男の発射した銃弾が浜口総理の下腹部に命中しました。手術によって命こそとりとめましたが重傷です。
「国家のために斃るればむしろ本懐」
浜口総理は有名なセリフを吐き、病床に伏したまま政策を口述しました。第五十九議会は浜口総理不在のまま始まりました。臨時総理には外相幣原喜重郎が任命されています。民政党は先の総選挙で過半数を獲得していましたから、議会運営は比較的に容易です。議会中、行雄は発言こそしなかったものの、質問主意書を提出して政府の姿勢を質しました。「経済的困難に関する質問」と「帝室の御安泰と治安維持法の関係に付ての質問」です。
浜口総理は年明けの一月には退院し、療養を続けていましたが、三月上旬には復帰すると決心し、幣原臨時総理の口から国会に報告せしめました。ところが容態はむしろ悪化しました。医師も含めて周囲の誰もが登院をとりやめるよう浜口を説得しました。しかし、浜口総理の決心は堅く、無理をして登院します。
「宰相たるものが嘘をつくわけにはいかぬ」
昭和六年三月十日、衆議院の演壇に登った浜口総理は見るからに衰弱していました。
「諸君、私不慮の遭難のため時局多事の折柄数箇月の間、国務を離るるのやむなきに至りまして、今日まで諸君と相まみえて共に国政を議することを得ませなかったことは、私のすこぶる遺憾とするところであります」
浜口総理の挨拶はごく短かいものでした。見ているだけでも痛々しいほどでした。個人としての行雄は浜口総理の災難に強く同情し、その責任感に感心もしましたが、立憲主義者としての行雄は別のことを考えました。浜口総理が衰弱のため十分な答弁を行えなかったり、浜口総理への同情から議員の政府追及に弛みが生ずるとすれば、これはむしろ非立憲的事態です。すでに議会も終盤であるし、今さら浜口総理が無理をして登院する必要はないと思いました。
行雄は浜口総理に対する辞職勧告決議案提出の準備に入りました。辞職して静養し、捲土重来を期せという忠告です。ところが、浜口より先に行雄の方が倒れてしまいました。風邪をこじらせて肺炎を発症し、慶應病院に担ぎ込まれたのです。
浜口総理は議会最終日の三月二十七日まで登院を続け、よろめきつつ登壇し、かすれ声で答弁しました。議会で体力を使いはたした浜口総理は四月四日に再入院します。浜口内閣は総辞職となり、若槻礼次郎が総理となりました。浜口雄幸は遂に回復することなく、八月二十六日に臨終を迎えました。
それから間もない昭和六年九月十八日、満洲で柳条溝事件が発生します。これに端を発して足かけ三年にわたって満洲事変が続きます。関東軍は、政府にも天皇にも無断で軍事行動を起こし、満洲を制圧してしまいます。軍事的には大成功でした。関東軍はわずか二万の兵力で数十万の満洲軍閥を相手に戦い、日本本土の三倍に及ぶ満洲を手中にしてしまいました。昭和七年九月には満洲国が建国され、熱河省と河北省を陥れたところで停戦協定が成立し、昭和八年五月にようやく終わります。
満洲事変は様々な意味で日本史の重大転機です。外交面では国際的な非難を招き、対米英関係を極度に悪化させ、ついには国際連盟からの脱退、ドイツとの同盟へと向かいます。一方、国民は歓呼の声を上げて関東軍を讃えました。満洲居留民は治安の安定を大いに喜び、国内経済状況が好転したことも手伝って軍部への信頼が高まりました。関東軍の戦果を報じる新聞がよく売れたため、新聞各紙も事変を好意的に報じました。
しかしながら、日本にとって最も致命的であったのは、政治的な統治機構が破壊されたことだったでしょう。陸軍は柳条溝事件の三ヶ月前に「満洲問題解決方策の大綱」を策定し、武力による軍閥政権駆逐と親日政権樹立を決めていました。したがって満洲事変は関東軍の独走などではなく、陸軍中枢による謀略というべきものでした。政府の承認を得ることなく満洲で実力を行使してみせ、統帥権が行政権から独立していることを実例を以って世に知らしめる作業でした。事実、政府は陸軍を制御できず、現状を追認するしかありませんでした。いわば一国二政府とでもいうべき変則的な政治状況が出現しました。すなわち陸軍政府とその他政府です。あるいは統帥権政府と行政権政府といってもよいでしょう。
いったい何が統帥権政府などという怪物を育てたのか。その本源を求めれば、それは薩長藩閥にゆきつくと行雄は思いました。陸海軍に拠った薩長藩閥政治家らは藩閥優遇のために、あるいは自らの老後安穏のために様々な軍人優遇の諸組織と諸制度を創り出しました。明治以来、行雄は一貫してこの武官優遇の不公平な諸制度と諸組織を非難しつづけ、その廃止を訴えてきました。それらを列挙すれば概ね次のようなものです。
参謀本部及び海軍軍令部の特権(統帥権)
陸海軍大臣の任用資格の特権(軍部大臣武官任用制)
陸海軍大臣の帷幄上奏権
陸海軍軍令
陸海軍所属の天皇直隷機関
元帥府、軍事参議院、参謀本部、教育総監部、師団司令部、朝鮮軍司令部、関東軍司令部、
台湾軍司令部、青島軍司令部、海軍軍令部、鎮守府司令官、要港部司令官、艦隊司令官
陸海軍軍人文官任用の特権
陸軍給与に関する委任経理
陸海軍犯罪者の特別取り扱い
行雄とて、これら総てを否定するわけではありませんでした。艦隊司令部や師団司令部がなければ日本軍は機能しません。しかし、元帥府や軍事参議院などの必要性は曖昧でしたし、統帥権や軍令などの一部には憲法違反の疑いがありました。行雄はその非を鳴らし続けましたが、無力でした。あくまでも藩閥の壁は厚く、武官優遇の諸制度は持続され、軍閥は成長し続けました。そして、ついに統帥権政府となり、行政権政府を圧倒するまでの存在になりおおせたのです。ごく単純化していえば、この統帥権政府が日本の政治を混乱させたと言ってよいでしょう。ですが、行政権政府にも様々な不作為や失政がありました。どっちもどっちであったかもしれません。いずれにせよ大日本帝国の政治は混乱しました。




