失望
大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御され、この年は昭和元年となりました。その翌日から始まった第五十二議会において、尾崎行雄が前議会に提出していた「政治運動の為金品供与の制限に関する法律案」がようやく本格的な審議に付されることになりました。年の明けた昭和二年二月一日、行雄は本会議の演壇に立ち、前議会に続いて説明演説を行ないました。冒頭、立憲政治の基礎たるべき政党の腐敗と堕落を行雄は嘆きました。
「現在の政党が遺憾の点の多いことは、私の如く終身を政党に委ね来たった者と雖も、弁護の余地はございませぬ」
政党の腐敗は、行政府や立法府の腐敗を招きます。それを防止するには先ず政党を変えねばならない。そのために政党の収支をすべて公開すると同時に、政治献金に制限を設けねばならないと行雄は訴えます。具体的には政府の事業を営む組織、政府から補助金を受けている組織、政府から特権を受けている組織、政府の請負を行なう組織、それらの組織からする政党への政治献金を禁止せよというのが法案の主旨です。
「国家、府県、市町村の如き公の性質を持って居るものにして、その収支計算を秘密にするなどということは、全世界を通じて道理上あり得べからざる事であり、また事実ありませぬ」
株式会社でさえ収支を報告するにもかかわらず、天下の公器たる政党がなぜそれを秘匿するのか。秘密にするから腐敗と堕落が生まれるのである。そこまで言った上で、行雄は財閥の弊害を真正面から論じます。
「殊に収支を秘密に致しますれば、政党は己の便宜の命ずるところに従って、どうしても少数の財閥と結びます。少数の財閥と結べば、政党は、その加担をせなければならぬことになる。政党本部すでに財閥に加担するに当たっては、立法部の働き、ややもすれば少数財閥のために働くという結果を生ずる」
すでに世論は、政党と財閥との蜜月関係に疑念と疑惑を抱いており、それだけでも国家人民に与える悪影響は実に大きい。ではその蜜月関係はなぜ生ずるのか。
「少数財閥は御用商人であります。我国の大資本家、万億を以って数えるところの財産を持って居るところの財閥、ほとんど一として御用商人ならざる者はない。三井、三菱の如きをはじめとして、たいてい政府の御用を直接もしくは間接に受けて居る。のみならず実は彼等の財産を洗って見たらならば、おそらくは御用によって得たところの財産が過半数を占めたりということは何人も疑いを容れますまいと思う」
この時代の日本はなお農業国家であり、資本主義はまだまだ未熟な段階であるに過ぎず、民間資本が独力で巨万の富を蓄えるというところまで到達していませんでした。財閥はすなわち政商です。政府と密着しない限り、財閥にはなり得ない。ここに腐敗の原因がありました。
「政党の収支を秘密にすれば、どうしても御用商人に結託を致します。何百万の金が要る、必要がある。御用商人に計れば、それがために身代を為したところの者、勢い応ぜざるを得ない」
だからこそ政党の収支を公開し、政治資金に制限を設けるべきであるというのが行雄の論でした。しかし、財閥からの献金を無くしたら、いかにして政党は政治活動費を得るのか。
「政党の性質、即ち国家人民のために働くという本来の性質から照らして、この金は世間全体一般公衆の零細の少財を寄付せしめて維持するというのが、本来の性質であります。一般公衆のために働く者は、一般公衆から少財を集めて、それで維持し得るのであります。五十銭、一円の零細の金を集めて党費を支弁するより外に立場はありませぬ」
欧米諸国、共産党、無産政党の実例を挙げて、行雄はその可能なることを説きます。さらに行雄自身、演説会を有料化することにより小額の寄付を集める実験に成功している。全政党、全国会議員が一致して行なうならば為せるはずでした。
「金の出途によって財閥の機関となるか、公衆の機関となるかということが岐れます」
行雄は必ずしも財閥を敵視しているわけではありません。無産階級にへつらうつもりもない。ただ、行雄の憂いは、財閥と一般公衆との利害が一致しないという現実に発しています。
「少数財閥と一般公衆とはややもすれば利害が異なります。正反対の立場に立つことが多い。殊に財閥中、政府の御用を努むる者等は、余計に租税を取って、余計に政府が使いさえすれば己の富を増すことは幾らでも出来ます。一方、政費を節約して金の使い方を減らし、租税のとり方を減らせば一般公衆には利益になりますが、財閥はその利益の本源を失います」
国家財政の膨張は財閥を利し、民衆を疲弊させます。財閥が御用商人である限り、両者の利害は一致し得ないのです。さらに、心配なのは戦争です。財閥にとって戦争こそが金儲けの最大の好機です。政党ひいては政府と財閥とが密着すれば国家そのものが好戦論に傾く恐れがあります。
「我国屈指の財閥をご覧なさい。みな戦時成金であります。もし戦争がなかったならば日本には現在の三井も三菱もなかったろうと思います。戦争によって国家を犠牲に供し、何万何十万の人の血を流せば、それが財閥の一番の金儲けになるのであります」
行雄には痛憤に堪えぬ事実があります。それは帝国議会が増税機関に化しているという事実です。元来、代議政体というものは国費の節減、租税の軽減を意図して設立されたものだと行雄は考えています。ところが、実際のところは必ずしもそうではないのです。
「立憲政体に減税的傾向を持たせるか、租税増加の傾向を持たせるかは、国会を組織するところの議員、選挙民が国家観念に富んでおり、国家の利益を正確に打算するところの知識の有無に依って岐れるのであります。国家の利害を正しく打算するだけの文明程度に達して居らぬ人間が代議政体を行ないますと、議会が租税を増加する原因となるのであります」
行雄は立憲政体を有する列国の事例を引き、文明程度の高低によって租税の増減傾向が左右されている事実を指摘しました。そして遺憾ながら日本の現状は憂うべき状況にあるとします。
「不幸にして我国では代議政体がややもすれば租税増加の機関となり易き傾向を持って居ります。ひとり中央の議会が増税機関となるばかりではない。府県会、市町村会いずれを見ても租税増加の機関となって居らぬものはない」
行雄は租税の統計を分析し、その事実を確認しました。議会開設以前における租税の増加率はむしろ低く、議会開設後の租税の増加率が高いのです。例えば国税の場合、明治四年度の税収は四千万円でしたが、これが第一議会によって予算案の審議された明治二十四年度には八千万円に増えています。二十年間で二倍となったわけです。一方、国会開設後三十七年を経た現在、国税は十七億円です。三十七年で二十倍を超える増加です。国会開設以前のペースが維持されていれば、四倍程度におさまって居らねばならない。もちろん行雄の分析にはかなり荒いところもあります。しかし、それにしても増えに増えたものです。
徹底した立憲主義者であり、その生涯を議会主義の完成に賭してきた行雄のジレンマがここにありました。議会政治と政党政治の必要を信じて疑わぬ行雄ではありましたが、現実は冷酷です。帝国議会は行雄の理想から遠くかけ離れた醜貌を現わしはじめてすでに久しいのです。行雄の理想は英国議会です。若い頃に翻訳した「英国議院政治論」(トッド著)に書かれているような議会政治を行雄は思い描いていました。しかし、現実の帝国議会は行雄の理想を無惨に踏みにじります。それは藩閥政治家や官僚ばかりではない、政党も代議士も、そして選挙民さえ行雄の理想からすれば落第です。
(第一議会が最も議会らしかった)
行雄は慨嘆せざるを得ません。第一議会の運営は不器用でこそありましたが、何事も欧米の先例にならい、道理に沿って議会運営がなされていました。皮肉なことに憲政のピークがその第一議会だったのです。議会への思い入れが強かっただけに、時として行雄は強い失望に襲われるようになりました。もはや若くはない。それでも行雄は気力を振るい、その憤懣を演説にぶつけます。
「棄てておいても選挙政治はややもすれば租税増加の原因を為しやすい。況んやこの政体を運用する政党をして御用商人たる財閥から資金を供給せしむるということを許していくならば、どうしても租税を減らすことはできませぬ。いかなる人物、いかなる潔白の士が政党を率いても、この仕組みを改めざる限りは、日本の政党は立法府を腐敗せしめ、行政府の綱紀を紊乱し、即ち国家全体の腐敗堕落を来す根本となることは請け合いでありますから、願わくば国家のため、どうかして一生の生命を使ったところの政党を善くなるようにしたいのであります」
行雄の演説はまるで懇願のようでもありました。議場は粛然とし、野次は起きず、拍手だけが湧きました。第五十二議会において行雄が演説らしい演説をしたのはこの日だけですが、演説の代わりに質問主意書を以って海軍の方針を質しました。「海防に関する質問主意書」です。行雄は海軍軍縮が国益に適うことを説き、補助艦の軍縮をも推進すべきだとして、政府の見解を求めました。また、用語についても質問しました。海軍は「補充」という用語を使っていましたが、行雄はこれを不可とし、「拡張」というべきだとしたのです。それというのも海軍予算は大正元年度の九千五百万円から、大正十四年度には四億九千九百万円と膨れあがっていたからです。五倍もの予算膨張ですが、これが「補充」の名において行なわれていたのです。官僚の使う用語というのは今も昔もこのようなものです。
この議会中、片岡直温大蔵大臣の失言をきっかけとして昭和金融恐慌が始まりました。若槻内閣は恐慌に対応するため緊急勅令案を上奏しましたが、枢密院の反対に遇うとあっさり総辞職してしまいました。行雄は若槻総理の対応に憤慨し、酷評しました。そもそも枢密院は天皇の諮問機関であり、官制は枢密院の施政への関与を禁じています。枢密院も問題ですが、それに唯々諾々と屈する若槻総理の方が責任が重い。枢密院の反対くらいで内閣が総辞職する必要はなかったのです。
「多年の官吏づとめで、小僧のように、上から叱られると直ぐ閉口する癖がついていたのであろうか」
ちなみに若槻は大蔵官僚あがりでした。若槻総理の対応ぶりを行雄は後々まで酷評しました。後を継いだのは田中義一内閣です。田中義一は長州に生まれ、陸軍に入りました。日露戦争では満洲軍参謀となり、のち山県有朋に引き立てられて立身し、陸軍大臣にまで上りました。しかし、シベリア出兵、西原借款、満蒙独立運動などに係わる内、狭心症に倒れ、休養を余儀なくされていました。田中義一は、病を機に軍人から政治家へと転身し、高橋是清の後を承けて政友会総裁となっていたのです。
田中内閣の緊急課題は、何はともあれ金融恐慌への対処でした。何事にも頓着しない性格の高橋是清は、田中から蔵相就任を要請されるとあっさりと受け容れ、迅速に動きました。支払い猶予令など緊急勅令案三案を作成して枢密院の承認を得ると、直ちに応急の財界救済策を施行し、日銀をして大量の現金を供給せしめました。次いで五月の第五十三議会では、日本銀行特別融通及損失補償法案など三案を通過させて何とか事態の収拾にこぎつけました。功績抜群の高橋蔵相は、昭和三年度の予算案を編成し終えると、昭和二年六月一日、あっさりと辞職しました。恬淡といえばこれほどの恬淡はないでしょう。
高橋蔵相が辞任した昭和二年六月、政界では憲政会と政友本党とが合併して民政党が成立しました。総裁は浜口雄幸です。これによって政友会と民政党との二大政党制が実現しました。この頃、ジュネーブでは海軍軍縮交渉が始まっていました。行雄は北海道方面での遊説旅行の最中でした。青函連絡船で函館に入ると、小樽、札幌、留萌、旭川、当麻、富良野、和寒、名寄、稚内と移動し、稚内から樺太の大泊に上陸しました。樺太では大泊、豊原、真岡、本斗と移動して、船で小樽に入りました。再び函館に入り、帰路、青森、三本木、十和田湖、古間木を経て、東京に帰りました。ほぼ一ヶ月にわたる強行軍です。あいかわらず啓蒙活動に積極的ではありましたが、この年に刊行された著作の一文には、この時期の行雄の心情の別の一面が綴られています。
「さてこの四十年に近い議員生活中、何か書くべきことがあるかと回顧するに、別段これと思う何物もない。煎じ詰めれば『失望』の二字に帰着する。現在のような不体裁な議会を造り出して国家生民を荼毒するために、私は先輩諸氏とともに身命を賭して努力したのではなかったのに、という無量の感慨に打たれざるを得ない。私は三十年の経験を積んではじめて、封建的思想感情を以って立憲政治を運営することは、とうてい不可能であることを悟った」
行雄の人生は長く、すでに七十才になろうとしています。行雄は必ずしも頑健ではないにせよ健康を保っており、気力はなおも充実しています。だから政治活動は十分に続けられます。しかしながら、その心中には大きな失望が生じていました。尾崎行雄の失望をこそ、われわれ日本人は記憶すべきでしょう。憲法の制定と議会の開設により、日本に立憲政治の時代がくると信じ、その人生のすべてを賭して四十年が経とうとしています。この間の行雄の努力は、簡単に言えば無駄でした。日本人は頭の上の丁髷こそ切りましたが、心中の丁髷を切ろうとはせず、外来思想をすべて危険思想として排除し、結局、江戸時代的な封建思想にしがみついています。行雄の敵が藩閥政治家である間は、失望など感じる必要はありませんでした。藩閥さえ打破すれば立憲政治が確立するという夢を持っていられたのです。しかし、藩閥の力が弱まり、政党が政治の実勢を握ってみると、行雄はその実態に失望せざるを得なかったのです。行雄が心に描いていたような議会政治はそこにありませんでした。行雄の失望はむしろ、政党、政治家、選挙民に対して向けられています。選挙に干渉し、他党の政治家を買収する政治家、票を売ることに何の抵抗も感じない選挙民、一等国になったことにのぼせて海外に学ぶ態度を忘れた官僚、あたかも幕末の攘夷思想に染まったかのような社会の風潮、それが日本の現実でした。
(こんなはずではなかった)
明治維新を達成した志士たちが出来上がった明治政府に幻滅したように、行雄も日本の議会政治に失望したのです。とはいえ、絶望まではせず、立憲制度を理解せぬ選挙民をいかにして善導するかを行雄は考え続けました。やがて考えついたひとつの着想は、天皇陛下から選挙民に向けて勅諭を賜ることでした。この時代、天皇陛下の影響力は絶大です。すでに教育勅語や軍人勅諭などがあり、教育現場や軍隊では繰り返し拝読されています。全国の選挙民に向けて天皇陛下から勅諭を賜り、立憲制度の何たるかを教え、国民の権利義務を明らかにし、選挙に対する正しい態度を諭すことができれば、効果は絶大だと思われました。いったん勅諭が下賜されれば、全国民に繰り返しこれを拝読せしめ、紀元節には拝読大会を開催し、印刷、放送、講演などあらゆる機会にこれを引用することができます。選挙民を啓発悔悟させるのには、これほど効果的なものはないであろう。
第五十四議会が始まると行雄は勅諭奏請を実現すべく奔走しました。ですが、実効の上がらぬうちに田中義一総理が衆議院を解散してしまいました。野党民政党に過半数を握られていた政友会としては解散せざるを得なかったのです。行雄の計画は頓挫しましたが、この後も勅諭奏請の案を持ち続け、その実現を図ったり提言したりしました。
ともあれ来るべき次の総選挙は初の普通選挙です。行雄は、記念すべき第一回の普通選挙に備えるべく心を切り換えました。投票日は昭和三年二月二十日と決められています。第一回普通選挙の施行に際し、尾崎行雄の選挙陣営では普選手拭なるものを製造し、販売しました。手拭いに「普選手拭」の四文字が横書きされ、その下に都々逸が書かれています。都々逸には数種類ありました。いずれも行雄が考案したものです。
投票売るのは身を売るよりも後のたたりが恐ろしい
貧すりゃ鈍するならいはあるが清い一票売るものか
貧富貴賤の差別はあるが議員選挙にゃ一票づつ
富む人も貧しき人も同様に一票づつの世とは知らずや
金があるとて高慢するな議員選挙にゃ一票づつ
普選手拭を発案したのは、行雄の四男行輝でした。普選手拭を作って販売し、公正選挙を訴えると共に活動資金を得ようというアイデアです。行輝の提案に行雄は賛成しました。そこで、行輝は染物屋に交渉して普選手拭を作成しました。幸い普選手拭は好評を博し、よく売れました。しかし、染物屋への支払いや無料パンフレットの印刷料に金がかかり、収支はゼロでした。もともと営利が目的ではないからいいようなものの、「所詮は武士の商法であった」と行輝は後に書いています。
四男の行輝は、京都大学在学中にライト兄弟に憧れて日本初の民間パイロットとなった人物です。飛行機の操縦ばかりでなく、自ら飛行機を設計し、尾崎式曽我号を完成させています。その行輝は昭和二年から六年までの間、行雄の秘書を務め、北は樺太から南は琉球まで行雄の遊説旅行に同行し、苦楽を共にしました。
数多ある思い出の内、白河関での出来事を行暉は感慨深く書き残しています。尾崎行雄の演説会は料金を徴収するにもかかわらず、事前宣伝が行き届いてさえいればいつも満員盛況になりました。ですが、地方ボスや官権が地元民に圧力をかけると、講演会場はガラガラになりました。白河関での講演会場は二階席を備えた大会場で千人を収容することができました。ところが演説会当日、会場はガラ空きでした。何らかの圧力があったらしく、数えるほどしか聴衆が居ないのです。
(やりにくいだろうなあ)
こんなガラ空きの開場では演説もやりにくいだろうと父に同情していたですが、当の行雄は一向平気らしく、いつもどうりの大熱弁を二時間ふるい続けました。真正面の席にひとりの老婆が居て、うなづきながら講演を聴いてくれている。講演が終わった後、行輝は老婆に話しかけ、来場を謝しました。
「なーにね、浪花節かと思って来てみたら人数が少なくて、気の毒で気の毒で、帰るに帰れねえで」
老婆は皺だらけの顔をなお皺クチャにして笑いました。老婆はうなずいていたのではなく、コックリ居眠りしていたのです。
「終わりまで辛抱していただきまして」
行輝は丁寧にお礼を言いました。戦後、行輝は参議院議員となり、日本航空の設立に尽力しました。
さて普通選挙の結果です。軍人出身の政治家は目的のために手段を選ばぬところがあります。田中総理も例外ではありませんでした。容赦ない選挙干渉を実施して過半数の獲得を目指しました。が、結果は政友会二百十八議席、民政党二百十七議席、その他二十九議席となりました。与野党伯仲の情勢です。第五十五議会は四月二十三日から始まりました。二日後の二十五日、行雄の提出した「思想的国難に関する決議案」が議題に上りました。
「今や帝国の国難は思想、政治、経済の諸方面より襲来し」
という文言で始まる同決議案は、三月十五日に起こった共産党員大量検挙事件を非難したものです。内務省は治安維持法違反容疑で共産党員および関係者四百八十八名を一斉検挙しました。治安維持法は普通選挙法と同時期に成立していましたが、それがいよいよ本格的に発動されたのです。行雄は、その乱暴なやり方を非難し、当事者たる鈴木喜三郎内相らに謹慎を求めました。そして、刑罰によって思想を撲滅しようとすることの無謀を訴え、むしろ社会環境そのものの改善によって素因を根絶せねばならないとしました。行雄に言わせれば、共産主義が蔓延する原因は政治にこそあります。政争ばかりに明け暮れ、国民生活に意を用いてこなかった歴代内閣及び全ての国会議員がその責任を負わねばならないのです。
「政商は労せずして日に万金を濫費し得るも、正道に就き正業を営む者は日夜勤勉倹約してもなお飢寒に号泣せざるを得ない者が益々増加するばかりである。この国状は社会主義、共産主義者を発育蔓延せしむべき適地、否、苗床温室である」
こうした環境そのものを変えない限り、どのような厳罰を科したところで共産主義は衰えないでしょう。行雄は政府、政党、政治家に猛省を促します。
「厳刑酷罰を以って危険思想に対する者、身を持するに謹厳方直の道を以ってせず、却って自らかくの如き乱交妄動を為して宜しいのでありましょうか」
暗殺や暴動などの直接行動が絶えない世相は憂うべきものですが、それを抑えるのに暴力的手段を用いることはむしろ危険です。行雄はあくまで立憲的に処すべきだと訴えます。
「元来、思想は思想を以ってこれを救治するのが本筋であります。ことに直接行動を予防し、これを穏健ならしむるの道は、立法的手段によってその思想を実現せんと欲するの気習を起さしむる程良い手段はないように思われる。この習慣が一度起これば、直接行動は一変して言論戦となり、選挙戦となる」
行雄が提出したこの決議案は賛成多数で可決されました。続いて二十八日の本会議でも行雄は発言しました。「決議案(内相の処決その他に関する件)」の説明演説です。この決議案は、先の総選挙に際して政府事務官、警察官などを動員して選挙干渉を行なわしめた内務大臣を弾劾すると同時に、法律を制定して選挙干渉を予防し、公共事業を政党拡張の手段に用いることを法律によって禁じ、さらに政党の財政収支の公開を法律によって義務づけるというものです。行雄の説明演説が終わると同時に、帝国議会は停会となりました。この議案は停会明けの五月四日に修正の上、可決されました。さらに五月五日には「決議案(経済匡救の件)」が議題に上り、可決されました。同案は国家財政の整理と国民負担軽減を期して政府内に調査会を設置するという内容です。行雄が関与したこれら三決議案を三大国難決議案ともいいます。行雄は非常な危機意識と共にこれらを提出しました。三案は一応の可決をみましたが、実際の政治がどう動くかについては必ずしも楽観できない状勢です。
最大野党の民政党は倒閣に動き、内閣不信任案を提出しました。行雄は倒閣によって国政が遅滞することを怖れ、倒閣運動には反対でした。議会の停会中、行雄は田中義一総理と密談し、三大国難決議の実行を条件に内閣不信任案への反対を約束しました。田中義一内閣は辛くも第五十五議会を乗り切りました。しかし、新聞世論は民政党の倒閣運動を支持し、倒閣に反対した行雄を酷評しました。世の毀誉褒貶をすでに味わい尽くしてきた行雄ですが、国難中にありながらそれを認識し得ない新聞世論の蒙昧をつくづく情けなく思いました。
(棺中に酒を呼び、太平楽を謳う)
議会と世論の有り様に行雄は慄然たらざるを得ません。




