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政治教育

 改正された衆議院議員選挙法(普通選挙法)が公布されたのは大正十四年五月五日です。これにより来たるべき衆議院選挙では二十五才以上の男子に選挙権が与えられることとなりました。有権者数はおよそ三百万人から千二百四十万人へと飛躍的に増加します。護憲三派連立政府の成果といってよいでしょう。ですが、連立政権は第五十議会閉会後に早くも崩れます。政友会が革新倶楽部を吸収合併して憲政会との対決姿勢を明らかにすると、加藤高明総理は内閣改造に踏み切り、憲政会単独内閣を組織しました。野に下った政友会は政友本党との提携を図りましたが、この提携は間もなく破綻しました。すると政友本党は節操なく憲政会と提携しました。その際、政友本党の一部は離党して政友会に合同しました。

 多数派を形成して与党たろうとする各党の画策を尻目に、行雄はひとり超然としていました。革新倶楽部に属していた行雄は、政友会への合同を拒否し、新生倶楽部を組織しました。第二次大隈内閣での閣僚経験は行雄にとってなお悔恨の記憶であり続けています。二度と政権に近づくつもりはなく、閣僚になるつもりもありませんでした。

 この年の夏、行雄は避暑のため軽井沢で過していましたが、偶然、総理の加藤高明に出会いました。政見こそ異なりますが、かつてはともに第二次大隈内閣の閣僚として働いた仲です。軽く挨拶を交わしました。その際、加藤総理の衰弱ぶりに行雄は内心驚きました。ぶしつけな忠告は憚られたので本人にはなにも告げず、周囲の者や憲政会の党員に忠告しました。

「加藤君に無理をさせない方がよい」

 ところが、これを伝え聞いた加藤総理はむしろ立腹し、大丈夫であると言い張りました。

「衰えてなどいない。マラソンこそ出来ないが、他のことなら何でもできる」

 加藤高明総理はその冬、第五十一議会中に肺炎をこじらせて急逝します。行雄には妙な予感の起こることがあり、かつて星亨や原敬の死の予兆を感じたものでしたが、今度もそうです。行雄の鋭敏な感性は、人物ばかりでなく、国家の死をも感じとることができました。かつては清国の滅亡を予言しましたが、今では日本の死が予感されてなりません。不吉な予感が起こる度に払いのけるますが、この悪い予感は幾度も湧き上がってきます。行雄は不吉な予感に駆り立てられて、日本を救うべく演説や執筆に取り組み続けます。

(一刻も早く日本の病根を正さねばならぬ)

 第五十一議会で行雄が発言したのは大正十五年三月二十四日です。すでに若槻礼次郎が加藤高明の死を承けて総理となっています。行雄は同志とともに三つの法律案を提出しました。政治運動のため金品供与の制限に関する法律案、政治結社加入勧誘方法の制限に関する法律案、議員の職務に関する法律案の三案です。いずれも選挙の浄化を目指したものです。選挙がらみの贈収賄や利権買収などを予防するための条文から構成されており、罰則も付いています。

「政党は平常においてもかなりの金が要りますが、総選挙の際などには何百万を以って数えるほどの費用が要ります。しかしてその金がどこから出て、如何に使われるかということに至りましては、近年は非常な秘密であって、おそらくは政党員諸君と雖もご承知はなかろう。いわゆる最高幹部といわれる人々と雖も、その全部をご承知にはなるまいと思います。私も政党との関係は四十年ほど持って居りますから、各党各派の内情もいささか承知致しておりまするが、この秘密の鍵は総裁その他わずか二、三人の人が握っておって、他には絶対知らせぬのである。秘密のある所は必ず不正不義の生ずる所となるのである」

 行雄が演説すると数多の野次が議場に湧き上がるのが常ですが、この日ばかりは拍手が多い。

「政党は国家の興廃に関係し、内閣組織の根本となるべき公の機関であるにもかかわらず、使う所の金は分からぬ、どこから来て、どう使うのか分からぬというが如き不公明なる世帯のとり方、身上の持ち方をして居ることが、とりもなおさず醜声悪聞の続々として発する所の最大原因だと思います」

 この病根を排除するために党費を公開せよと行雄は訴えます。寄付が誰から幾ら来たか、何の使途に幾ら使ったか、党費の収支計算を公開せよといいます。行雄の悪い予感は、立憲政治、議会政治、政党などにも向けられています。日本の憲政が駄目になるのではないか。もしそうなったら自分の一生はいったい何だったのか。行雄は自分の直感を振り払うように演説に力を込めます。

「私は少年時代からどうかして我が国に政党をつくりたい、政党内閣を確立したいということのために一生を犠牲に供して来たりました故に、今日、政党がかくの如き悪評の間に包まれて居るのを見ては、私は実に一生を無駄に使ったかの如く考えて、遺憾に堪えぬのであります」

 少数の財閥から多額の献金を仰いだり、政府の機密費を使うようなことをやめ、広く大衆から小額の献金を募るべきだと行雄は訴えます。行雄自身すでに有料の演説会を開催して、このことが必ずしも不可能ではないという実感を得ています。

「イギリス人の為し得る所、我が国において為し得ぬなどということはあり得ないと思いまするが故に、どうか財閥などの金を使わず、あるいは機密費の金を使うなどという誤れる考えをば根本に棄てていただきたい」

 行雄は陸軍機密費の推移を具体的な数字を上げて述べ、その異常な増加ぶりを指摘しました。陸軍の機密費は、日清戦争で三十六万九千円、日露戦争で三百二十万円でしたが、シベリア出兵では二千四百万円もの巨費が使われました。戦争でもないシベリア出兵に何故これほど多額の機密費が必要だったのか、総理も陸軍大臣も一切答えないのです。

「陸軍大臣あるいは総理大臣の如きは、国家のためにこの疑問をぬぐわなければならぬ大責任を持って居るにもかかわらず、先日来、当議場において、あるいは委員会において述ぶるところを聞けば、ただ知らぬ、存ぜぬ。左様なことは無いというだけで、下女下男でも言うが如きことを申して居るのであります。あのような弁解の仕方をすればする程、疑いは深くなること請け合いであります」

 行雄はさらに内閣別の機密費にも言及します。第二次大隈内閣が十五万円、寺内内閣が三百四十万円、原内閣が二千万円です。いずれの内閣も戦時内閣ではありません。この異常なまでの増額ぶりには疑問を呈さざるを得ない。行雄の論が機密費に及ぶと野次が起こり、議場が荒れました。行雄は演説を中止し、議長は静粛を促しますが、いつもながらおさまりません。

「もし言うべき理屈を持って居るならば、静かに言うてみたらどうですか。言うべき理屈がないならば、ただ怒号するもよろしいが、理屈があるならば静かにここに立って何故言わぬか」

 野次が喧しくなればなるほど、これに負けまいと行雄の声も大きくなります。

「政界に疾駆すること五十年、政界の情実はひととおり承知して居る。機密費などが如何に使われて居るかということは、おそらくは今の国務大臣などよりは本員の方がよく承知して居る。実を申せば、我が国の機密費は真に機密費としては使われて居らぬのであります。あなた方は分からぬだろう。実は大抵の省には機密費などというものは与えて居っても、機密用に使うことはできませぬ。ごく悪いものは議員買収費に使い、さらに軽きものは宴会費その他に使ってしまうのが大部分である」

 各省の計上する機密費に議会が協賛する必要などはない、こうした政府内の不正を直すためにも、まずは政党が収支を明らかにすべきであると行雄は訴えました。

 第五十一議会が終わると、行雄は議会報告のため選挙区の三重県に向かいました。議会報告というのは要するに遊説です。選挙区を巡っているうち、例によって行雄は高熱を発して床に伏しました。風邪かと思いましたが、意外に重く、入院までしました。帰京後、行雄は次なる遊説先を山口県に定めました。長いあいだ宿敵としてきた長州閥の根拠地です。行雄は体調の万全を期すため慶応大学病院で健康診断を受けました。行雄には何の自覚症状もありませんでしたが、重度の中耳炎が発見され、そのまま入院となりました。手術を受け、一月ほども入院しました。このため長州遊説は中止となりました。入院中、行雄を担当した看護婦は服部文子という女性でした。その甲斐甲斐しい看護ぶりに感心した行雄とテオドラは、やがて尾崎家の家政婦として服部文子を招くことになります。というのもテオドラの肩に肉腫があると診断されたからです。テオドラはかねてより肩の痛みに悩まされていました。本人は挫傷だと思い込んでいましたが、慶応病院の若い医師が診察したところ単なる挫傷がこれほど長引くはずはないということになり、複数の医師が診察した結果、肉腫との診断が出たのです。不幸なことに当時の日本の医療水準では肉腫の診断も治療も出来ません。そのため尾崎夫婦は欧米での治療を真剣に検討していました。

 この後、尾崎家の家政婦となった服部文子は、テオドラ不在の尾崎家の家政を切り盛りし、テオドラの死後もなお尾崎家に仕え続け、行雄の健康を管理し、老衰のため寝たきりになった行雄を介護し、その死の瞬間にも脈をとり続けました。

「長生きできたのは服部さんのお蔭だ」

 晩年の行雄は彼女を徳とし、すべての著作権を譲りました。中耳炎は行雄の耳を遠くしましたが、貴重な出会いを与えたといえます。


 大正十五年十一月、総理大臣が告訴されるという異常事態が発生しました。松島遊廓疑獄事件にからんで若槻礼次郎総理が偽証罪で告訴されたのです。告訴したのは憲政会総務委員の箕浦勝人です。箕浦はすでに収賄罪の容疑で取り調べを受けていました。その箕浦が、自党の総裁であり、かつ総理の若槻を告訴したのです。珍事です。この事実を知った行雄は秘かに人を派し、直ちに辞任するよう若槻総理に忠告しました。若槻総理にしてみれば余計なお世話です。身にやましいことが無い以上、辞任する必要はないと判断しました。しかし、行雄の考えは違います。

「総理大臣たる人は、天下万民の儀表となるべきものであります。徒に日々の政務を扱っていくだけが、総理大臣の役目ではない。総理大臣は行政的技師長ではありません」

 虚実にかかわらず、告訴されたという不名誉を被った以上、直ちに身を引いて辞し、潔白を証明し、他日の捲土重来を期すべきだというのです。行雄は確かに若槻の先輩議員であり、憲政会の立党に貢献した一人でもあります。そうではありますが、今では憲政会を離れており、実際的な政治勢力を有しているわけでもなく、ましてや松島事件の真相を知っているわけでもない。その行雄が、現総理の若槻に指図するというのは、いささか出しゃばりすぎの観がなきにしもあらずです。しかし、行雄には何の躊躇もありません。行雄は、自身を政治教育者と規定しています。これは若槻総理に対してだけでなく、国民全体に対する政治教育者のつもりでした。若槻総理はさすがに不快を感じたのでしょう。行雄から辞職の忠告があったという事実を公表してしまいました。こうなると行雄も黙ってはいられません。言論と文章を以って公然と若槻総理の辞任すべきことを説きました。

「匹夫の心を以って宰相の位に居る者」

 総理を酷評しました。若槻総理にとっては迷惑以上の打撃です。

「尾崎君は事情を考えないで攻撃するから困る」

 若槻総理は周囲にぼやきました。結果的に箕浦の告訴は却下されて若槻総理の潔白が証明されるのですが、この事件のために若槻内閣が国民の信用を失ったのは確かです。

 政治教育家としての行雄はすでに「政治読本」を出版しています。同著は、行雄が精魂を傾けて書き上げた国民向けの政治テキストです。自主独立人へ、と行雄は呼びかけます。

「私はこの読本を自主自由独立の観念ある人に薦める。奴隷人は読むべからず」

 国民に、そして選挙民に、立憲国家の国民として与えられている権利と義務を自覚せよと訴えます。

「全国一千二三百万人の選挙人諸子よ、願わくは自ら自主人たることを自覚し、奮い立って憲政の病根を除き、議会を通じて第二維新の大業を成就せられたい」

 第一維新はいうまでもなく明治維新のことです。日本は士農工商という身分制度を棄て、日本刀を棄て、近代国家としての歩みをはじめました。これはこれで革命的大事業でしたが、薩長藩閥の専制政治は官僚国家を構築するところまでが限界でした。明治天皇の粘り強い発意によって明治二十二年にようやく憲法が制定され、翌年には帝国議会が開かれました。本来ならば、これが第二維新たるべきでした。日本は専制国家の段階から、立憲国家、議会制国家へと変わるはずでした。行雄自身、そのつもりで政党政治に取り組んだのです。ところが藩閥政治の弊害はやまず、議会政治も徐々に堕落していきました。度重なる政府の選挙干渉によって政治家と選挙民は贈収賄をおぼえ、利権の誘致や飲食接待や金銭買収によって投票権がやり取りされるようになりました。不器用ながらも欧米の先例に学ぼうという姿勢を保っていた帝国議会も、いつしか日本流の議会運営に堕し、党議拘束によって数の力がすべてを決するようになりました。少数政党や無所属の議員がどれほど名演説を行ない、どれほど道理を説いたとて、それは議決に何の影響も与えなくなりました。政党や政治家は資本家から政治資金を得て、これを党員にばらまき、買収工作に使用しました。政党は政治資金の収支を極秘にし、選挙買収という金権によって政治を制御しました。

「売票と売国、相去るわずかに一歩のみ」

 行雄が慨嘆に堪えなかったのは、選挙民の過半数を農業者が占めておりながら、年々、農業租税が増加していくという矛盾でした。

「現に選挙人の約三分の二は、農民であるにもかかわらず、農民の負担は、ほかの何者よりも重く、農村の困弊は、ほかの何者よりも甚だしい。実に不可思議千万」

 結局、選挙民が選挙買収の餌食となり、唯々諾々と売票するため、真に農業者のための政治家が選出されないのが原因です。それでは何故この様なことになるのか。

「概論すれば、第一維新は形式的維新であって、頭上の丁髷は切ったが、心中の丁髷は切らなかった。立憲制度は輸入したが、これを運用する精神は、未だ之を輸入するに至らず、今日もなお先祖伝来の封建思想に囚われて居る。近代文明の皮相をば学んだが、これを生むに至った精神をば学ばなかった」

 心中の丁髷を切れと行雄は訴えます。即ち封建思想を棄て、立憲思想を自覚し、国民としての義務と権利の意識に目覚め、選挙権をはじめとする諸権利を正当に行使するのです。だからこそ行雄は冒頭で「自主自由人へ」呼びかけたのです。

「第二維新を迎えるには、やはり陋習打破と知識探求の二事を断行するより外に方法はない」

 行雄の立場からいえば政治教育しかありません。行雄がいつしか政争の場を離れ、政党から隔たり、政治教育に情熱を傾けるに至った理由はここにあります。文部省の学校教育には大いに不満です。小学校では国民の権利を教えず、義務ばかりを強調し、軍国主義を鼓吹していました。加えて大正十四年には陸軍現役将校学校配属令が交付され、中学校以上の公立学校に現役将校が配属されることになりました。従来、軍事教練は各学校任意のもので、しかも退役軍人による教練でしたが、軍縮の波は現役将校を教育現場に踏み込ませたのです。軍縮によって任地を失った将校が学校へ配属されたのです。現役将校も屈辱だったでしょう。子供相手に軍事教練をせざるを得なかったのです。軍縮の思わぬ反作用は行雄を悩ませていました。

(こんなつもりではなかった)

 何事にも裏面があります。行雄は自身の未熟を反省しましたが、結局、前に進むしかありません。行雄の言う第二維新は決して勇ましいものでもなく、短兵急なものでもない。むしろ地に足のついた国家百年の長計です。

「第二維新は、経済的競争によって国家の盛衰興亡が決する時代に来る。故に国家の主力は、これを産業発展に集中しなければならぬ」

 第一維新は軍事に国力を集中して成功したが、行雄の見るところ、もはや時代は変わりつつあります。これからは軍事予算を軽減し、産業予算への傾斜を強めねばならない。さらに行雄は国力の根本たる国民に目を向けます。

「現在の衣食住を根本的に改めて、顕在的、衛生的、活動的な生活様式を採用しなければならぬ。これ実に第二維新の眼目、国家百年の長計である。民族の体質改良と能力増進とに向かって、全力を傾注せねばならぬ。第一維新に当たって陸海軍のために用いた以上の努力を、これに致さねばならぬ」

 わかりやすくいえば国民に栄養と教養と滋養を与えよと行雄は説いているのです。行雄の調べたところでは日本人の体格は劣化し続けています。国民に満足な栄養も与えずにいながら、一等国と胸を張ることのバカバカしさを行雄は嘆きます。

「軍事的侵略主義時代の次には、平和的競争主義時代が来たり、またその次には共助主義の時代がくるべき順序である。故に第二維新の事業としては、今より共助主義時代に適応すべき精神的教練を施しておく必要がある」

 行雄の唱える第二維新は、国民生活を向上させて心身ともに健全ならしめ、軍事への過剰な傾斜をやめて民間産業の発展を促すと同時に、国内的には立憲主義を確立し、国際的には列強諸国との協調主義を貫くことです。まさに道理にかなった長計を説いたものです。しかし、この時代の世論には受け容れられませんでした。世論と、世論の形成機関たる新聞社に期待される社会的役割は、政府が過誤を犯そうとする際に異を唱え、非を唱えて、軌道を修正せしめることにあります。ですが現実には往々にしてその逆の事態が起こります。

 例えば日露の講和を実現したポーツマス條約に対して世論は不満を表明し、ついには日比谷焼き討ち事件を起こしました。またワシントン軍縮条約もそうです。日本海軍は対米五割から六割に戦力比を向上させ、しかも莫大な海軍予算を軽減することができ、しかも国際的な協調によって当面の平和を保障できたのです。ところが世論は、この喜ぶべき事態を国難と叫び、ありもしない危機をあるかのように煽りました。政府は正しいことをしていたにもかかわらず、世論の方が誤ちを犯していたのです。この様な風潮の中では行雄の正論は容易に受容されませんでした。

 大正十五年六月に出版された「婦人読本」は、「政治読本」の姉妹編というべきものです。日本人の根本的な思想感情が依然として封建的であることの理由は家庭にあります。行雄は封建的な家制度というものが婦人の立場から見たときに、いかに苛酷なものであるかを告発します。

「いたいたしい花嫁は、たちまち家庭に幽閉せられて、二重三重の主人に仕えねばならない境遇に立つ。第一の主人は舅姑であり、第二の主人は夫であり、第三の主人は小姑であり、第四に、やがては自分が生んだ子供が男の児であり、相当の年令に達すれば、これを主人同様に取り扱わなければならぬ。ことに甚だしきは、夫婦の間柄は頗る親密円満であっても、舅姑との関係が悪いがために離縁せらるるものもある。いや、あるどころではなく、なかなか多い。舅姑のための嫁であるか、夫のための嫁であるか分からない。これら幾重の主人は、ややもすれば花嫁虐待の競争者となって現われ、各主人みな之を虐めて、日もまた足らざるが如き状態となる」

 嫁には日の当たらない納戸部屋が与えられ、たとえ妊娠しても医者など呼んではもらえない。妊娠中も普段と変らぬ労働を強いられ、出産の直前になってやっと産婆を呼んでもらえる。姑が嫁の部屋にやって来て励ますかと思えば、さにあらず。

「見苦しいから声を立てるな」

 嫁は無言のまま陣痛の痛みに耐えねばなりませんでした。そればかりではありません。この時代の日本婦人には選挙権どころか、事実上、基本的な権利すら与えられていない面がありました。

「彼等は財産権なく、就職権なく、就学権もなく、享楽権もなく、終身無給の下女となって、家庭に監禁せられ、幾重の主人に仕えて一生を終わらなければならぬ」

 今となってはごく常識的な言論にすぎませんが、この時代にあっては相当に勇気を要する言説でした。その上で行雄は、政治腐敗の根源的原因を家庭の有り様に見出します。家庭がこのようであってみれば、日本人の思想信条が封建的であるのは当たり前です。家庭から日本を変えねばならない。

「かくの如き非立憲的家庭に終始するものが、選挙場裡にたち、候補者となり、はたまた議員となって議会に出たときに、そこだけで立憲的動作を為し得べきはずがない。国政を、合理的に料理しようとするならば、、先ず家庭を合理的に改造しなければならぬ。非合理的、非立憲的家庭で成長した者をして、選挙または会議に当たったときだけ、合理的、立憲的動作をなさしめようとするのは、元来無理な注文である」

 行雄は、家制度に挑戦するような夫婦像を提唱しました。夫婦間では財産や道徳を均分にすべきこと、夫婦は舅姑と別居して家計も独立させること、蓄妾聘妓の悪臭を打破すること、などです。さらに行雄は自由恋愛を推奨しました。男女交際には礼儀作法が最も必要なることを述べた上で、自由意志に基づく結婚を奨励し、その前提として男女交際を奨励したのです。見合い結婚が当たり前の時代にあっては優れて革新的です。

 そんな行雄も、婦人問題に覚醒するまでにはかなりの時間を必要としたのです。行雄は安政年間に生まれた武士の子であり、封建思想にくるまれて成長しました。そのため前妻の繁子と営んだ尾崎家はやはり封建的なものでした。行雄は家庭を顧みず、金も入れず、家事の一切を妻に任せきりにしました。

「果たせるかな私の妻は若い内に死にました。私から言えば、これは虐殺したのである。私が虐殺者であったと、自ら懺悔をするのであります」

 ある日の講演会で行雄は自虐的に述懐しています。その行雄が日本の婦人問題に目覚めたのは、後妻テオドラの影響がありました。テオドラはイギリス人と日本人との間に生まれましたが、イギリスで成長しました。テオドラの家庭観、夫婦観はイギリス流でした。テオドラは結婚に際し、決して蓄妾聘妓せぬことを行雄に誓わせていました。

 政治教育家と化した尾崎行雄は奮闘を続けます。しかし、日本社会は経済不況の下にあって軍国主義への過剰適応とでもいうべき状況を呈しています。行雄の主張は受け容れられず、それどころか異端視されることになりました。


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