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大正デモクラシー

 山本権兵衛内閣は、大正十二年十二月十一日からの第四十七議会において関東大震災の復興予算を成立させ、引き続き同月二十七日から第四十八議会に臨もうとしました。ところがその同日に虎ノ門事件が発生したため、山本内閣は責任をとって総辞職してしまいます。虎ノ門事件とは、帝国議会の開院式に向かう摂政宮裕仁親王がステッキ銃によって狙撃されたという出来事です。日本の世相はすでに狂気を帯び始めていました。第一次大戦後から引き続く不況と物価高、疲弊する農村、売られていく娘、奴隷的労働に従事させられる壯丁、思想信条に対する弾圧、関東大震災の混乱下に起こった大杉事件や亀戸事件などの殺害事件、そして今回の親王狙撃事件。

(まるで幕末だ)

 行雄は思わざるを得ません。大老井伊直弼が開国に踏み切ると、世には尊皇攘夷論が湧き上がりました。井伊は過剰に反応し、いわゆる安政の大獄という圧政を断行しました。これに抗して攘夷志士は極度に過激化し、幕末の混乱を生みだしていきました。維新後、政府の治安政策は一貫して圧迫的であり、時とともに苛烈の度を加えていきました。世界の思想潮流たる民主主義、自由主義、社会主義、共産主義などをことごとく危険思想として弾圧し、天皇に名をかりた封建主義を政府は堅持し続けました。

 そして、なによりも不況が人々の生活を苦しめています。社会の反発は突発的な異常事件を続発させています。幕末に酷似した世相をながめ、行雄は世の混乱を予想しないわけにいきません。

「震災の時に虐殺された大杉栄と、それに関係のある婦人あるいは七、八才の子供が、世の中に言うところの危険人物、もしくはその卵でありましょうか。そのいわゆる危険人物なるものは人に殺された方の人間で、殺した方の人間ではありません。殺した方は穏健な国士と世間は名づけている。我々は普通、殺す方が危険人物で、殺される方が危険の少ないものと思っておりますけれども、現在の社会においては、殺される者の方を危険人物と申します。同じ震災の時に、本所方面においては百有余人のいわゆる危険人物が、兵隊のために殺されました。その虐殺する方の人間の思想が外国から輸入せられたものであるか、国内固有の思想であるかを考えるとき、危険分子は国内に在ることは確かにわかる。有名な人で殺された者は沢山ある。大久保利通、森有礼、星亨、原敬など、殺されはしなかったが殺されかかった者に岩倉具視、大隈重信などがあります。これら殺した人の思想が果たして外国から輸入せられたものであるか否やを点検するに、ひとりとして外国かぶれの人が殺した事例はない。みな国粋主義、純粋に日本思想の人が、大久保を殺し、大隈を殺そうとし、森有礼、星亨、原敬を殺したのであります。然るに世間はこの日本固有の分子に危険なしとして、殺される方の人間を危険人物と申すのであります。いわゆる危険人物と称するものの中に、人を殺した者が幾人あるか。ひとりもない。みな殺されるものが危険人物で、殺す方の者が穏健な日本主義の国士、これは近来の思想状態及び言葉の使い方であります」

 行雄は日本社会の思想的倒錯を明快に論じて見せました。こういう発言をすること自体が極めて危険な行為でした。それでも行雄は弁論し、かつ著述しました。

「我が国人は世界とつきあっておりながら、徳川の末期におけるが如き攘夷思想を発揮し、何事も日本流で押し通そうと致して居るから、そこで調和が破れ平均がとれなくなって、どうしても動揺しなければならないようになる。自分を高く買いすぎ、他国を低く見過ぎることがその大原因である。ちょうど徳川の末に、我は神の子孫であるが、外国人などは夷狄禽獣だと考えた時に調和がとれなかった如く、今日の日本人の考え方でもやはり同じように調和がとれなくなりました」

 国内思想の倒錯はやがて外交的な危機を招くであろうことを行雄は予想しました。というより日本はすでに孤立し始めています。

「わずか十数年前までは、日本は世界の寵児とも言うべき有り様で、東西南北いずれにも味方があったが、今日は地球上には味方は見あたらない。日英同盟もあった、アメリカとは伝統的の仲良しであった、支那からは留学生が続々やってきて、日本を一日の長者と仰いでいた。ロシアとも協約が出来、フランスとも協約が出来た。あらゆる方面ことごとく仲良しであったのは、つい此の間までのことであった。それが今日では、アメリカとはあのとおりの関係、イギリスは同盟を断った。支那では排日運動が起こって居る。どこにも日本の味方をするものはない」

 日本人の思想的倒錯ぶりと国際環境の急速な悪化に行雄は戦慄すらおぼえました。しかしながら、ほとんどの日本人はそれに気づかず、心配するどころか逆に自信に充ち満ちています。国の現在を知ることは、よほど難しいことです。行雄は、それをなし得た数少ない一人でしたが、それだけに周囲の理解は得がたく、孤立感を強くしました。行雄がどれほど声を振り絞ってみても、日本社会の思想潮流を変えることは不可能でした。


 山本内閣を後継したのは清浦奎吾内閣です。清浦は司法官僚上がりの政治家で、貴族院議員を多数起用して超然内閣を組織しました。加藤、山本、清浦と、非政党内閣が三代続いたため、世論は清浦内閣に批判的でした。こうした世論の追い風を受けて、政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派は倒閣に動きます。危機に立った清浦内閣は政友会に手を突っ込みます。原敬の党勢拡大主義によって二百七十八名にまで議員数を増加させていた政友会は、原敬の死後、内部に亀裂を生じていました。その虚を突いて清浦内閣は政友会の分党工作に成功します。大正十三年一月十六日、政友会から分派した政友本党百四十九名が清浦内閣の与党となりました。その二日後、三浦梧楼の斡旋により、政友会高橋是清、憲政会加藤高明、革新倶楽部犬養毅が会合し、護憲三派の結成が約され、政党内閣の成立を目指して第二次護憲運動が開始されました。

 かつて第一次護憲運動の先頭に立って獅子奮迅の活躍をした行雄ではありましたが、第二次護憲運動には必ずしも積極的ではありません。むしろ冷淡です。このあたりに行雄の性格が現われています。行雄は倒閣運動には関心がないのです。あくまでも立憲政治、議会政治、政党政治の確立が関心事です。加えて行雄には、第一次護憲運動の際、桂内閣打倒のため便利に扱われたという苦い思い出がありました。桂内閣打倒に成功すると政友会はあっさりと護憲運動を棄てたのです。この出来事は少なからず行雄を失望させました。すでに六十代の半ばを過ぎ、行雄は政治家というより、むしろ思想家というべき心境になっています。

 ですが、護憲三派は尾崎行雄を護憲運動に引き入れ、神輿に担ごうとしました。「憲政の神様」として行雄の盛名は民衆に絶大な人気を博しています。ぜひとも尾崎行雄を参加させたい。行雄は断わりました。

「憲政擁護というのは倒閣ではない。制度改革によって藩閥を根絶し、軍部の優越を匡正し、立憲政体を確立することである。然るに諸君の目的は政権獲得であろう」

 護憲三派の目的は確かに政権奪取です。しかし、図星を指されたくらいでは引き下がらないのが政治家というものです。憲政の神様を担ぎ出すことが出来れば第二次憲政擁護運動は大いに盛り上がるに違いありません。護憲三派の議員は頻りに行雄を勧誘しました。行雄は容易に動きません。議員生活の長い行雄には議会内に知己が多い。友人知人が入れ替わり立ち替わり行雄の控え室を訪れて護憲運動への参加を促しました。

「せめて顔だけでも出してくれ」

 そうまで言われると、強情な行雄も肯かざるを得ませんでした。

「私は平生の信念を曲げないし、それを聴衆の前で放言するが、それで異存ないか」

 それでも良いというので、ようやく行雄は護憲運動に加わることを承諾しました。上野精養軒での会合に行雄は出席しました。この会合では、護憲運動の中心が高橋是清、加藤高明、犬養毅、尾崎行雄の四名であることが確認されました。何の党派も率いていない身ひとつの尾崎行雄が大政党の総裁と肩を並べて護憲運動の中心的存在たり得たことは一種の奇観でした。それでも行雄は醒めていました。

「護憲の聖名を濫用するなかれ」

 行雄は同志に対してむしろ警告を発しました。政権奪取に満足してしまうような一幕芝居には意味がない。憲政擁護は制度改革である。日頃の持論を述べた行雄はサッサと帰宅してしまいました。それにもかかわらず、行雄は憲政擁護関西大会への出席を依頼されました。大正十三年一月三十日、大阪中之島中央公会堂で行なわれた演説会には、高橋、加藤、犬養、尾崎の四名が参加しました。行雄は三党首に遠慮することなく、持論を述べました。

「憲政擁護は政権奪取の道具ではない。藩閥を撲滅し、軍部の優越を矯正し、立憲政体を確立するのである。政権を奪取してしまえば憲政擁護も終わってしまうような一幕芝居には意味がない」

 聴衆は熱狂的に行雄の演説を歓迎しましたが、三党首はいずれも嫌な顔をして聞いていました。行雄は、主義主張のためとあらば味方に対しても遠慮がありません。

「清浦内閣を特権内閣といって諸君は非難するが、諸君の方がむしろ特権趣味ではないか。諸君の戴く憲政会総裁は三菱財閥の婿にして、しかも貴族的性格を持つ加藤高明子爵である」

 これでは応援というより中傷です。第二次護憲運動における行雄の態度は終始このようでした。


 衆議院の過半数を護憲三派に抑えられた清浦総理は、やむなく衆議院の解散に踏み切りました。大正十三年一月三十一日のことです。護憲三派にしてみれば好機です。来るべき総選挙に勝利すれば清浦内閣を打倒できます。護憲三派は普通選挙の導入を大看板にして第二次護憲運動を活発化させました。第十五回衆院総選挙の投票日は大正十三年五月十日です。投票の結果、護憲三派は大勝し、二百八十四議席を獲得しました。与党の政友本党は百四議席に過ぎません。清浦総理は議会運営に見通しを持てず、六月七日に内閣を総辞職させました。次期総理の大命は、最大議席を有する憲政会総裁加藤高明に降下し、護憲三派連合による政党内閣が成立しました。政党内閣の成立は行雄にとって悦ばしいことには違いありません。しかしながら、さほどの感興が湧きません。加藤高明内閣の閣僚は官僚上がりの政治家が多くを占めているし、行雄の予想どおり、選挙の終了とともに護憲三派の第二次護憲運動は止んでしまいました。すでに日本の根源的な病弊に気づいている行雄にとって、目先の政変など小さな一現象に過ぎず、一喜一憂する気さえ起こりません。

(日本人の性根をいかにして改造するか)

 長い封建時代が日本人の脳髄に植え付けた封建主義的価値観をいかにして改変しうるか。立憲主義や議会政治の意味をどのようにして理解せしめ得るか。それが行雄の関心事であり、その事に関心を集中させました。

(それをしなければ世界の潮流に乗り遅れ、孤立してしまう)

 先の見えすぎる行雄には危機感があります。近代的な政治機構や法制度は文明です。科学技術ほど急速ではないが確かに進歩してきている。日本はその文明を輸入して憲法を制定し、法制度を整備し、省庁を組織し、議会を開き、国会議員を選挙するまでになりました。しかし、それを運営する日本人の思想感情は依然として旧時代の思想と文化に制約されています。文明と文化との齟齬をいかにして調和せしめるか。これが行雄の課題です。この様な形而上的な課題に解答はありません。行雄は煩悶しましたが、結局、妙案もなければ奇策もありません。ただ愚直に演説し、論述し続けるほかはありません。

 この年の十月、行雄は朝鮮に渡り、各地を遊説して回りました。朝鮮総督府における講演では第二維新という言葉を使って訴えました。

「今日までは日本人全体を強くすることの代わりに応急手段として、先ず陸海軍だけを強くしたのでありますが、今後は陸海軍の如き一局部だけを強くしたのでは、世界の競争に優勝者となることは出来ない。陸海軍の根拠となるべき全国人民を、皆強くしなければならぬ。第一維新の時のような小細工ではいけない。しかして全国人民を強くするには、衣食住から改めなければならぬ。要するに第二維新の根本は民族改良、体質改良であります。体質改良の根本は衣食住改良である。経済的復活である。前には武力で復活したが、今度は経済力で復活しなければならぬ」

 行雄の演説会に集まった聴衆は熱烈に声援し、支持しました。この時代の日本はまだまだ貧困が当たり前でしたから、行雄の演説は聴衆の共感を得ました。一方、偏狭な軍国主義にこり固まった連中は行雄を仇敵視しました。時に彼等は実力行動に出てきます。

 大正十三年十二月二十五日、品川の尾崎邸に二台のトラックが突入してきました。ちなみに尾崎邸は借家です。徳川三代将軍の御代、沢庵和尚によって創立された東海寺の跡地です。徳川家ゆかりの東海寺は維新の際に破壊され尽くし、荒れ放題になっていました。その荒れ地の中に尾崎邸は建っていました。敷地は申し分なく広く、厩には立派な競走馬一頭とポニー二頭を飼っています。しかしながら朽ち果てた伽藍の跡や、老松の大樹が寂しげに枯れ残る様は、まさに化け物屋敷と呼ぶにふさわしいものでした。タヌキも住んでいます。屋敷はひどくガタピシしています。取り柄といえば家賃の安さです。この破屋に尾崎一家は明治四十三年から昭和三年まで住まい続けます。門を入ると馬回しがあり、銀杏の大木がそびえています。その馬回しに二台のトラックに分乗した十数名の暴漢が乗り付け、メガホンでアジ演説を喚き始めました。

「国賊尾崎を殺しに来たぞ」

 尾崎邸にはかねてより警備の警官が詰めていますが、この日は、何しろ暴徒の数が多い。行雄は念のため妻子や書生らを静粛かつ迅速に退避させました。ところが三女雪香の姿がありません。

(どこへいった?)

 行雄は家中を探し、やがて書斎に隠れている雪香を見つけました。行雄は雪香の手を引いて裏庭を抜け、塀を乗り越えて三共製薬のボイラー室に隠れました。ボイラー室の係員は事情を知っていて、いつもかくまってくれます。

「本当には殺しはしません。おどかしているのです」

 おびえる雪香に行雄は丁寧な言葉で説明しました。まだ十二才の雪香はようやく落ち着きました。


 護憲三派の連立政権が成立したことにより、普通選挙が現実味を帯びてきました。世論もこれを期待しましたが、行雄は冷めていました。

「この世の中において普通選挙が実行せられたならば、どうなる。私自身はどうもならんと思う。やはり国士と称せらるるものは人を殺すでしょう。危険人物は依然として殺されるでしょう。何の変化も起こりそうにないと、こう確信する」

 選挙制度が多少変わったところで日本の世相が変わるとは思えなかったのです。封建思想によって政権が運営される限り、民主主義も社会主義も共産主義もすべて危険思想とされ、その思想の持ち主は殺される。選挙民が憲政の本義を理解し得ぬ限り、選挙違反は止まず、情実と贈収賄によって当選者が決められる。これでは選挙権が普及しても意味がない。日本の病根に気づき、その病根の治癒を焦っている行雄には、直近の時事問題が表層的に見えて仕方がないのです。それでも久しぶりに成立した政党内閣は陸軍四師団の軍縮、普通選挙法の成立などを達成しました。憲政擁護運動から普通選挙の実施に至る民主化の動きは、確かにこの時代の一面であり、後に大正デモクラシーと呼ばれることになります。しかしながらこの時代には別の一面もありました。

 長期化する経済不況と貧困、治安維持法に象徴される弾圧、軍縮への反発と国粋的思想の浸透といった現象です。行雄にはむしろ心配の種が多く、普通選挙法の成立を心底から喜ぶ気になりませんでした。

 第五十議会で尾崎行雄が発言したのは大正十四年三月十四日です。行雄は衆議院の議事運営について基本的な質問を発しました。

「立憲政体の根拠は申すまでもなく、言論の自由と身体の安全ということにほかなりませぬ」

 議員は帝国議会内における言論の自由と身体の安全を保障されている。だからこそ軍事と司法と警察を握っている政府を相手にして論戦を挑むことが出来るのです。政府もこの点を理解し、あえて立法権を侵害するような暴挙は行ないません。しかるに現今の衆議院は問題を抱えている。議場における暴言と暴力が後を絶たず、しかも不公平な懲罰がまかり通っている。多数党の議員が殴打事件を起こしても不問に付されるが、少数党議員であれば懲罰を科される。いやしくも国法を議論する衆議院がこの様な運営ぶりで良いはずがない。

「ただ今本員が普通の理屈を申しましても、もうすでに暴言を放ってこれを妨害する人があり、議長はそれに退場も命ぜずして見て居られるという状態であって、私の言論の自由は既にここでは脅かされて居る、然らば身体は如何。身体は猪野毛事件、森田事件、守衛殴打事件の如く、この議場の内においては身体の安全は一切ありませぬ」

 行雄の舌鋒は放漫な議事運営に向けられました。その責任は、野次や暴力を恥としない議員にありますが、同時に議場整理に力を発揮し得ない衆院議長にあります。ちなみに行雄が言及した三事件は先月三日に本会議場で起こりました。その日、議場は普選案の審議で荒れていました。野次が絶えず飛び交い、静粛を求める議長の警告は無視され、議場整理に当たる守衛に対して興奮した議員が暴力で応じました。猪野毛利栄は演壇から暴状を嘆き、議員たちに向けて「紳士たれ」と訴えました。これに激昂した与党議員が興奮し、議場はさらに荒れました。衆院議長粕谷義三は何度も静粛を訴えましたが効なく、今度は猪野毛に対して再三の注意を与えました。

「議事運営に関することだけを述べなさい」

 要するに議場を刺激するな、というのです。これには猪野毛も納得できず、興奮してさらに演説を続けました。粕谷議長はなおも注意しましたが、猪野毛は服さない。ついに議長は猪野毛に退場を命じました。それでもなお猪野毛は演説を続けようとしたため、議長の命により守衛が演壇に向かいました。が、それより早く三名の議員が勝手に演壇に登って猪野毛を引き摺り下ろそうとしました。このため、それを阻止しようとする守衛と議員が衝突することになりました。あまりの混乱ぶりに、やむなく議長は休憩を宣しましたが、この間に三名の守衛が議員に殴打されて打撲傷を負いました。猪野毛議員は退場することなく自席に戻りましたが、その際、二人の議員に殴打されて打撲裂傷を負いました。さらに森田政義議員は、議場に乱入した院外団によって殴られ、しばらく登院できないほどに負傷しました。にもかかわらず犯人は逮捕されませんでした。そんな一連の事件があったのです。行雄は議長の措置を否としました。

「議長は猪野毛利栄君に退場を命じておきながら、之を執行せずしてさらに休憩を宣した。これは議長自らその職務を怠り、その威信を毀損した行為である」

 退場を命令したのなら、その執行を見届けるべきであした。これが失態の一。その後、懲罰委員会は猪野毛議員に対する二週間の出場停止を決議しました。にもかかわらず粕谷議長はこの決議を院議に付さず、そればかりか猪野毛議員の出席発言を許可してしまいました。これが失態の二です。行雄は、この調子で二十数項目の質問を粕谷議長にぶつけました。これに対して粕谷議長は当日の状況を説明し、その措置のやむなきことを弁明しました。

(貴様がやってみろ)

 口にこそ出さないが、粕谷議長はそう言いたかったかもしれません。ひとたび議場が荒れれば、議員は議長の注意など意にも介さないし、守衛に対しては容赦なく暴力を振るうのです。粕谷議長としては精一杯の議場運営でした。それを知らぬ行雄ではありませんでしたが、やはり責任者たる議長に矛先を向けざるを得ません。元来、衆議院規則は議長に強力な警察権限を与えています。

「議長は守衛及び警察官吏を把握して議院内部警察権を施行す」

 院内には三十五名の守衛がいるし、必要な場合には警官を配置することも可能です。守衛は丸腰ながらも武術に優れた猛者です。議長が断固たる態度をとるならば、議場はよほど静粛になるでしょう。しかし、歴代の議長はいずれも警察権の行使に抑制的でした。激しい野次が起こると議長は注意するが、誰も聞きはしません。やむなく議長は野次を放置しておいて、むしろ野次を誘発するような発言を行なう登壇者を黙らせようとします。行雄自身、何度もそういう目に合わされてきました。

(発言者を黙らせてどうする。野次をとめろ)

 行雄ならずとも、そう思うでしょう。そんな行雄だけに、猪野毛の立場がよくわかります。議長はなぜ与えられている権限を使わないのか。

「放漫狼藉の振舞を許しておくというのは、そもそも議長の失策であって、もし猪野毛君が議長の命に従わない時に直ちに退場を命じておったならば、いかなる人といえども同君に対して反感を起こさず、従って殴打する気遣いはありませぬ。また森田君もそうで、平常乱暴な挙動をなされて居るように私は拝見を致して居った。しかし議長が許して居るから為すのであって、直ちに止めるように命じ、聴かなければ場外に退場せしめる。翌日また来たれば懲罰委員に付す、極所に至れば除名をしておきますれば、何ら同君に対して憤慨をする者はなく、したがって同君は殴打される気遣いはない。故にこの両君が殴打せられたのは議長であると断ぜざるを得ない。議長がいやしくもその職分を行なって居ったならば、この様な殴打事件はあろうとしてもあるべからざる事であります」

 行雄は議長に断固たる処置を執るように求めて演説を終えました。しかし、結局のところ事態は有耶無耶のままに流されました。森田議員を殴打した犯人は不明のまま捜査さえ行なわれず、猪野毛議員を殴打した三名の議員が陳謝したにとどまりました。言論の府であるべき帝国議会の実態は、暴言と暴力と数の力とが闊歩する巷だったのです。


 行雄は、三月十九日の本会議にも登壇しました。金輸出解禁という金本位制にかかわる問題について論じました。この時代、世界列国の通貨制度は金本位制でした。つまり中央銀行に金を貯え、その金の保有量に見合うだけの兌換紙幣を発行し、流通させるのです。

 金本位制下においては輸出入の際にふたつの支払い方法があり得ました。ひとつは外国為替によって支払う方法です。もうひとつの方法は、通貨をまず金に代え、その金を輸出入し、相手国内で再び通貨に兌換するという方法です。金平価に輸送費と保険料を加味した金額を金現送点というが、この金現送点と為替相場とを比較して有利な方法で支払うことになります。

 金本位制には国際収支の自動調節機能があると当時は信じられていました。結果的にいえば、金本位制の調節機能は大英帝国が世界を支配した一時期においてのみ現出した一時的な現象に過ぎず、すでに世界金融の中心が英国からアメリカに移り、世界中の金がアメリカに集まり始めていたため、金本位制の自動調節機能は失われていました。しかし、これは歴史研究の結果として明らかになったことであり、この時代の各国要人は金本位制をまだ信頼していました。

 第一次大戦下の列国は戦争遂行のため多額の資金を必要としました。だから金の国外流出を止めるため金輸出禁止の措置をとりました。さらに金本位制を停止し、金の保有量と関わりなく紙幣を刷りました。戦争に勝つためには何でもやるしかなかったのです。その結果、世界的なインフレが発生しました。ですが、大戦が終息すると世界各国は金本位制を復活させようとし、そのため濫発した紙幣を急速に回収しました。金保有量と均衡させるためでした。そのため世界各国はデフレになりました。日本政府は世界の趨勢に歩調を合わせようとしましたが、関東大震災の直後でもあり、金本位制への復帰は遅れました。金本位制に復帰すべきか、せざるべきか、復帰するならばどの時期が適当か。それが大きな経済政策上の課題となっていたのです。

 この高度に経済的な問題について、行雄は独自の観点、つまり立憲的視点から質問しました。

「大正六年、大蔵省の省令を以って、金の輸出禁止等については政府の許可を受けよという省令が発せられたのが、そもそもの根本である。元来、省令を以ってかくの如き財産権に関係する事柄を規定するということは、立憲国としては実に遺憾千万な次第であります。吾が帝国臣民の生命財産は憲法を以って保障せられて居る」

 財産権の拘束は法律で行なわねばならない。そうでなければ立憲国とはいえないというのが行雄の主張です。あいもかわらぬ立憲居士ぶりです。

「一省限りの権力の下に出すところの省令を以って人の財産権を裏から侵すというに至っては、これは実に驚くべきことと思います」

 しかしながら、省令とて違法ではありません。大日本帝国憲法第九条に基づいて勅令および一部の省令には法律と同様の権能が与えられています。そして、それを認めたのは他ならぬ帝国議会なのです。行雄は議会の不甲斐なさを訴えます。

「いやしくも憲法擁護などということを標榜して居った者は、かくの如き立憲政治の根底に触ふるるところの過ちをば機会のある毎に改めねばならぬ筈であります。我が国においては立憲国とはいいながら一省大臣の発するところの省令によって罰金も科することができる、禁固にも処することができる、ほとんど軽い意味における斬捨御免に近き状態に今日なおなって居るのである」

 金輸出禁止とは実質的な金本位制の停止でした。輸出入決済の二方法のうち一法が停止されたのです。法律で定められている制度を省令のみによって停止していることの危うさに行雄は警鐘を鳴らしました。

「省令を以って法律の実行を食い止めてしまうというが如き乱暴な仕方は、立憲国では本員の知る限りには絶対にありませぬ。また憲法にも、命令を発することは許しておりますけれども、命令を以って法律を変更することを得ずと明白に書いてありまする」

 行雄は必ずしも金輸出禁止措置そのものに反対しているわけではありません。きちんと法律で定めよと言っているのであり、省令によって法律の実効が停止されている状態を非難したのです。

「なぜ正直に停止と仰らぬのであります。停止せないのではない。当然引換えるべき紙幣を持って日本銀行に参っても、なかなか日本銀行は引換えはせぬ、即ち停止である。強いて引換えれば、探偵その他を付けて迫害を加える。これ即ち停止であります。実にかくの如き陋劣な手段を以って、ただただ裏から法律を淫るという如きことを致すのは、堂々たる政治家としてはまことに恥ずべきことであります」

 しつこく訴えた上で、行雄は金輸出禁止の問題そのものに論を移します。金の輸出を解禁すべし、つまり金本位制へ復帰せよというのが行雄の意見でした。関東大震災によって甚大な被害を受けた日本は大量の復興資材を購入しなければならない。その多くは輸入です。ここで為替の問題が顔を出します。日本円の相場が安いため、必要な資材を割高に輸入せざるを得ません。金本位制に復帰すれば、金の現送が可能になり、割安な輸入ができます。

「(金の)輸出を解けば安く買える。解かずにおけば段々為替相場が下落して高くなる。ことに国家が損害を受け、身代が悪くなった以上は、為替相場は悪くなるに決まっております。解かなければ二割以上高く買わなければならぬという結果が生じて、現に買って居るではないか」

 ちなみに、この時代の日本製品には概して国際競争力がなく、高価格でありながら品質が悪かったのです。米でさえ外国米の方が安かった。それでも第一次大戦中は日本製品が飛ぶように売れました。粗悪でありながら高価格な日本製品は、大戦終結とともに売れなくなりました。一方、日本は海外から衣食住の必需品、鉄鉱石などの原材料、機械類などを輸入しています。必然的に輸入超過です。したがって、金の輸出を禁止しようがしまいが、国庫の外貨準備金は払い出さざるを得ないのです。

「吾々も金貨がなくして払わぬというのならば、これは時あってやむを得ぬのであります。少なくして払わぬというのも聞いておりますけれども、今減少したりといえども、なお十五億に近き金貨を擁して居りながら払わぬというのは何の意味であるか」

 金輸出を解禁し、金の現送を許可し、輸入にかかる経費をわずかでも軽減すべきである。当面はそれで仕方がない。その上で行雄は国家財政の緊縮を図り、物価を引き下げ、製品の品質を向上させよと説きます。

「消費経済の節約をせんとすれば、一番まとまった金を多く使うところの政府が先んじて倹約をするということは、無論第一義でなければならぬ。しかるに我が大蔵大臣にはそれができなかったのであります」

 イギリスは戦時に膨れあがった国家財政を三分の一まで縮減していたし、アメリカに至っては六分の一にまで絞っていました。それが日本政府においては一割しか削減できていません。行雄は緊縮財政を訴えました。

 緊縮財政論は理解が容易であり、民意を得やすい。しかし、誤謬もあります。行雄の財政緊縮論は、世界各国がデフレ不況に悩んでいる事実を見落としていました。

「消費経済の節約ができない。さりとて労銀と能率とを直ちに伴わしむることも出来ない。品物をにわかに良くするということも、これは数代もしくは百年の業であって容易に出来ない。ただ為さんと欲すれば為し得べきものは、物価を段々引き下げるという一事より外にない。しかるに消費経済の節約によってこそれに近づくことができなければ、やむなく金の輸出を解禁して、その方面で好結果を収めるというより外にないではありませぬか」

 行雄の経済論は、貨幣の本質が信用であることに気づいておらず、デフレの脅威にも気づいていません。その意味で誤っていたと言わざるを得ませんが、当時としてはこのような経済論が主流でした。行雄は、金輸出禁止を解き、暫定的に安価な輸入の道を開くべきだとしました。

「我が国の経済状態は非常な病に罹って居るので、これを治すの道は絶対にありませぬ。この道を往けば結局、危急存亡の巷に達するのであります。どうしても救わなければならぬ。救うのをいろいろやったが最後に行き詰まって、今日のところでは金の輸出解禁ということが万能薬でなくとも、よほど病が救える」

 この時代の常識的な金輸出解禁論を行雄は述べました。つまり金本位制への復帰です。この後、浜口雄幸内閣が金輸出解禁を実施するのは、やや時間を経た昭和五年一月です。それは、あいかわらず大蔵省令による決定でしたから、その意味では行雄の意見は無視されたことになります。

 ちなみに浜口雄幸内閣が断行した緊縮財政と金輸出解禁は深刻なデフレを招き、経済恐慌を惹起しました。日本社会に格差と貧困が蔓延し、共産主義の跋扈を許すことになりました。日本のみならず世界の列国も同じように経済的な困難に直面し、その回復に悪戦苦闘しました。海外市場を渇望した列強諸国はブロック経済主義に傾き、市場確保の角逐がついには第二次世界大戦を引き起こすことになります。


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