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新聞主筆

 明治十二年十月、尾崎行雄は新潟新聞主筆となりました。主筆とは編集長のことで、新聞紙面の総責任者です。ところで行雄はまだ二十歳そこそこの若僧に過ぎません。それがいきなり主筆です。文明の勃興期にしか起こり得ない特異な成りあがり現象です。斡旋してくれたのは福沢諭吉でした。「民間雑誌」が休刊となり、定職もなくウロウロしていた行雄には、あり得べからざる恩恵といってよいでしょう。にもかかわらず、まだ世間知らずの行雄はさほど有り難いとも思っていません。

 明治の初期、官界は薩長藩閥出身者によってかなり独占されていましたが、民間では福沢諭吉の声望が威をふるっていました。この後、行雄は藩閥、軍閥、官閥、学閥、財閥、閨閥、ありとあらゆる閥を非難するようになります。しかし、この頃の行雄は無邪気に学閥の恩恵に浴したのです。ちなみに行雄の前任者は古渡資秀という人物でした。古渡資秀の名は森鴎外の伝記小説「渋江抽斎」に出てきます。常陸国に生まれ、上京して師範学校に入り、卒業後、佐賀県師範学校に赴任しますが、暫くして辞め、慶應義塾の別科で学びなおした後、新潟新聞主筆となりました。しかし、不幸なことに赴任後まもなくコレラのために没していました。その活動期間は数ヶ月に過ぎませんでしたが、東北政論家の間に名を知られていました。行雄はその後任です。

 それにしても弱冠二十歳の青二才を主筆に抜擢する福沢諭吉といい、それを受け容れる新潟新聞社といい、この時代の若々しくも荒々しい空気を思わせます。福沢は行雄を推薦するにあたり、新潟新聞社主の鈴木長蔵に長文の手紙を書き、尾崎行雄がいかなる人物で、どう扱えば働くかを説明しておきました。実にゆきとどいた配慮と言うべきでしょう。行雄の月俸は五十円でした。明治三十一年に亡くなった正岡子規の月給が四十円だったといいますから破格の高給です。

 行雄は東京を発足しました。明治時代には実に多くの交通機関が登場しましたが、人力車もそのひとつです。駕籠に比べて安価かつ迅速な人力車は、この頃すでに内陸交通手段の花形になっていました。人力車は近距離の都市内交通だけでなく、長距離交通手段としても使われました。宿場毎に次から次へと新しい人力車を乗り継いでいくことを「継ぎ立て」といいました。行雄も、この「継ぎ立て」で新潟を目指したのです。行雄は妻の繁子を伴っています。繁子はまだ十五歳でしかありません。熊谷、本庄、高崎、軽井沢、長岡と泊まりを重ね。信濃川を川船で下り、ようやく新潟に到着しました。

 新主筆の御到着ということで新潟新聞の社員数名が船着き場まで出迎えにきていました。ところが、それらしい紳士が見あたりません。船客がおおむね散ってしまうと、そこに小柄な若者が残っていました。社員の一人が声をかけました。主筆に同行している書生に違いないと思ったのです。

「尾崎行雄先生はどちらですか」

「私が尾崎です」

 一同、驚愕しました。

(こんな若僧に新聞がつくれるのか)

 用意周到な福沢諭吉も行雄の年令までは知らせていなかったのです。新潟新聞の社員には不満を抱く者もあらわれましたが、鈴木社主は若い行雄を主筆として丁重に遇しました。おかげで行雄は思う存分に、というより、やりたい放題にやれました。若い行雄は気負い過ぎていました。主筆という肩書きに満足せず、新潟新聞総理と自称しました。紙面編集に指揮権をふるうのはもちろん、営業部門にまで口を出しました。このため社長と意見が対立します。すると社長の方が更迭に追込まれてしまいました。こんな無理が通ったのも福沢諭吉の信用力のおかげだったでしょう。社会経験の乏しい行雄を新潟新聞にやるに際し、福沢諭吉は訓戒を与えていました。

「お前は地方人士の知識を開発しなければならぬ。単に新聞に書くばかりでなく同時に演説会を開き、眼と耳の両方から世間を教導しなければならぬ。これを天職と心得よ」

 この薬が効きすぎました。行雄の過剰なまでの客気はとどまるところを知りません。ある日、新潟県令永山盛輝を主賓とする宴会が催され、新潟新聞主筆の行雄も招かれました。永山盛輝は旧薩摩藩士であり、かつては京都で国事に奔走し、戊辰戦争では東北各地に転戦した人物です。維新後、筑摩県令として業績を上げ、とくに教育制度の近代化に貢献しました。

 しかし、行雄は永山県令を典型的な藩閥官僚としてしか見ませんでした。一方的な先入観です。行雄の席は宴会場の末席にありました。最も若い者が末席に座るのは至極当然の配慮でしたが、行雄はこの待遇に腹を立てました。

「アメリカにあっては、新聞記者は無冠の帝王として遇されている。しかるにこの席順は何か。官尊民卑ではないか」

 まるでガキです。しかし、行雄にしてみれば、文明に疎い地方人士を善導しているつもりでした。行雄に食ってかかられた宴会の主催者こそいい迷惑です。幸いなことに永山県令は小事に拘泥せぬ大度量の人物でした。揉め事に気がつき、事情を知ると、尾崎主筆を自分の隣に座らせました。行雄は礼も言わずに「当然だ」と言わんばかりの態度で座りました。やがて酒宴が始まり酔いが回ると、行雄はやおら起ちあがりました。床の間に飾られていた花瓶の花を手に取ると、その花びらをちぎり、バラバラと永山県令の頭の上にふりかけました。

「謹んで祝意を表する」

 そう言い捨てるや、さっさと帰ってしまいました。若い頃の永山盛輝ならば、この無礼な若者をまっぷたつに斬り捨てていたでしょう。行雄は運がよかったようです。すでに老成していた薩摩隼人は黙って許しました。藩閥官僚の方がよほど礼儀正しかったのです。幼い頃には喧嘩のひとつも出来なかった弱虫少年は、傲慢な啓蒙家に変わり果てていました。

 問題行動の多い主筆ではありましたが、行雄の書く評論は好評を博し、新潟新聞は順調に販売部数を増やしました。これには社主も社員も安心しました。行雄は演説会にも積極的に参加し、さほどうまくもない演説をくり返しました。

 笑うべきことですが行雄には世間話というものができませんでした。新聞社の主筆ともなれば地方の名士です。訪問客が絶えません。訪問客があれば、世間話のひとつもせねばなりません。しかし、世間慣れのせぬ若僧の行雄にとって、世間話ほど苦手なものはありませんでした。「はあ」とか「ええ」とか相手の話にあいづちを打つのが精一杯です。若者にとって世間話ほど意味不明なものはないのです。

(天気がいいとか悪いとか、どうしてそんな当たり前のことをいちいち話すのか)

 心でそう思うと、意に反した態度をとれません。せっかくの社交の好機を行雄はことごとく台無しにしました。まるで戦後の左翼学生です。とはいえ、意に沿うことには行雄は全力を尽くしました。地元の実業家を集めて北越興商会を組織し、商業教育の普及を進めました。新潟県会の指導にもあたりました。県会とは今で言う県議会です。

 明治政府は国会開設に先立ち、まず府県会を開設しました。明治十二年三月から、順次、各府県に府県会が開かれていきました。新潟でもいよいよ県会が始まりました。なにせ初めてのことで議事の進行さえどうやればいいのかわからない状態でした。

「あの主筆なら知っているだろう」

 慶應義塾出身という肩書きに新潟の人々は期待しました。皆が行雄を頼ってきます。行雄も行雄で当然のように引受けました。しかしながら、とおりいっぺんの知識しかありません。行雄は書記の肩書きで県会に参加しました。肩書きは書記ですが指導者のつもりでしたから、議長の隣に陣取りました。書記が議長を指導するという奇妙な県会になりました。議長は松村文二郎という君子人でしたが、温和しすぎて議場をうまく整理できません。行雄は横合いから松村議長をいちいち指図します。書記が議長に指図するなど下剋上というべき事態でしたが、文明の伝達者をもって任じている行雄は堂々とやりました。議長も行雄を頼ります。実のところ、その行雄とて議会を熟知しているわけではありませんでした。読みかじりの外国文献を通じて議会に関する知識を持っていたというにすぎないのです。草創期というのは諸事じつに荒っぽいものです。行雄は書記として記録を残しましたが、そこには「この論、採るに足らず」とか「愚論、聞くに堪えず」などと余計な批評まで書き込まれていました。

 行雄は主筆として数多くの論説を発表しましたが、なかでも好評を博したのは「尚武論」です。

「利弊相伴うは事物の常数」

 そう説き起こすと、文弊と文徳、武弊と武徳につき、古今東西の例を引きながら列叙していきます。やや冗長ともいえますが、重厚な論理展開といえます。次いで行雄は「内勢」と題する章において日本の国内情勢を分析します。三百年続いた徳川幕府は文弊によって亡び、明治政府は武徳によって興った。そして維新後わずか十余年にしてはやくも文弊が蔓延りつつあると慨嘆します。

「洋学行なわれて世人ますます柔弱浮佻軽薄に流れたる」

 続く「外勢」の章では世界情勢を「虎狼世界」と呼び、格調高い漢文で危機を訴えています。

「今日、各国交際の状勢はあたかも春秋戦国の時の如く、諸邦各々一方に割拠して互いに寡隙を窺い、いやしくも微隙の乗ずべきあれば寸壌尺土もなお之を取り、漸次寡食して終に天下に覇たらんと欲するの志を抱くも、中原の鹿未だ誰が手に落るを知らざるの時なり」

 内憂外患の日本は、この世界情勢に対応せねばなりません。そのためには「尚武」だと行雄は結論づけます。尚武とは、武を貴ぶの意です。

「国家を慮るものは外寇の至らざるを頼まずして、我が力能く防ぐに足るを頼む」

「彼れ虎狼たらば我また虎狼たらんのみ」

「識者あるいは曰ん、是れ暴を以て暴に代ゆるの道、彼れ虎狼の欲を逞うせば、我れ仁義の道を以て之に応ずべしと。此の如きは迂儒の空言、もと実用すべからざる者たり」

 要するに軍備です。行雄の観察するところ欧米列国の極東派遣軍は、その戦力そのものは少数です。だから小国日本といえども対抗することが可能です。近代的軍備さえあれば虎狼国家も日本に一目置くに違いなく、不平等條約改正への道が開けます。

「彼れ非礼を我に加えざる也、決して我が面目を汚辱せざる也、国権張るべく、税権復すべく、法権取るべき也」

 武徳こそが内外問題を解決する一挙両得の方策で、これ以外に策はないとしています。

「武徳によらずんば何を以てか此の頽勢を挽回し、邦家の元気を鼓舞振作することを得ん、故に曰く尚武の一挙以て内憂外患ふたつながら之を掃うを得べく、国家の隆盛以て期すべきなりと」

 続く「法策」の章で行雄は重要なことを述べています。

「余が貴重する所は武人に在らずして武人の気象に在り。何をか武人の気象という、曰く勇進敢為の気象これ也。曰く活発壮快の気象これ也。曰く侠義廉節の気象これ也」

 大切なことは武人の気象であり、軍人や軍備そのものではないというのです。行雄は軍備の増強がいかに国家経済に重い負担となるかを解説し、国力不相応に軍備を増強するのはむしろ有害だとします。そして軍備が乏しくとも国民に尚武の気象さえあれば良いと説いています。

「国力果たして之に堪えば、宜しく之を増すべし、もし堪えずんば則ち之を増さずして可なり、何となれば我が人民もし勇壮敢為の気象に富んで、弾雨硝煙を怖れずんば、国家危急の時にあたって皆、抜陣陥城の事に従うを得べければ也」

 国民が尚武の気象さえ持っていれば、常備軍の多寡は問題ではないとしました。ではいかにして尚武の気象を涵養するか。行雄は具体的な政策を提案します。

「海陸両軍の費額を増す也」

「大中小の諸校、皆兵学の一課を設け、書生をして之を講習せしむる也」

「曰く撃剣、角力、競馬、競舟、山川跋渉、鳥獣遊猟等の如き勇武なる遊戯を奨励する也」

「三国志、水滸伝、八犬伝等の類、勇壮快活なる野史小説を著述して流行せしむる也」

「警察の保護を減じ此の民をして自治の気象を発揮せしむる也」

 行雄の文章からは若々しい新興国家の空気が伝わってくるようです。それにしても、生まれつき身体矮小で病弱だった行雄が実に勇ましい文章を書いているところが面白いといえます。行雄の個人的な気負いが匂い立っているようでもあります。たとえ身体は弱くとも気合いでは負けまいと、自身と国家を鼓舞したかったのかも知れません。

 新潟新聞に連載されて好評を博した「尚武論」は明治十三年に書籍として出版されました。ほかにも新潟時代の行雄は「続公会演説法」、「米州連邦治案策」、「泰西名家幼伝」を出版しています。


 尾崎行雄が横柄な文明伝達者として新潟で活躍している頃、中央政界は動揺していました。全国に民権思想が広まり、国会開設の気運が盛り上がりつつありました。太政官政府内でも国会開設の時期をめぐり様々な駆け引きが展開されていました。ほとんどの藩閥政治家は国会開設に反対あるいは消極的でした。なかでも岩倉具視は国会どころか県会にも反対で、議会を「国民下剋上の兆し」と断じ、徹底した専政主義を主張していました。

「陸海軍および警視の勢威を左右に提げ、凛然として下に臨み、民心をして戦慄するところあらしむべし」

 岩倉は国民を信用していなかったようです。しかし、ほかならぬ天皇陛下が国会開設に前向きであられたことから、できるだけ先延ばしさせようと考える政府要人がほとんどでした。国会開設に積極的だったのは大隈重信です。薩長の専政を阻むため、大隈は国会の早期開設を望みました。複雑な動きをしたのは伊藤博文です。伊藤は長州閥の中心に居ながら国会開設論者でした。そのため大隈に接近しました。明治十一年五月に大久保利通が暗殺されると、政府内における大隈の発言力が強まりました。

 強気の大隈重信は、ついに独断で明治天皇に意見書を密奏しました。その内容は明治十五年末に選挙を行ない、翌十六年には国会を開設するという急進的なものです。これを洩れ聞いた薩長藩閥政治家は激怒し、反大隈の策謀を開始しました。このため伊藤博文も大隈から離れざるを得なくなりました。伊藤の立場は微妙でした。理想としては国会を開設すべきだと考えていたようですが、長州閥を離れてしまえば現実的な政治力を失ってしまいます。

 一方、そんなこととは露知らぬ大隈重信は、明治十六年の国会開設に備え、人材を集めておこうとしました。矢野文雄をして慶応義塾系の人材を物色せしめました。矢野文雄は慶應義塾出身で、すでに論説記者としての筆名がありました。たまたま尾崎行雄の「尚武論」の評判を聞き及び、尾崎行雄に注目しました。

「なかなか面白そうな若者だ」

 そういう理由で尾崎行雄にも白羽の矢が立ちました。一面識もない矢野文雄から招聘の手紙を受取った行雄は、迷うことなく上京を決めました。新潟新聞主筆としてやりたい放題に活躍していながら、その地位を惜しげもなく手放したのは、やはり中央政界に志があったからでしょう。あるいは、棚ぼた式に手に入れた地位には誰もが執着しないのかも知れません。尾崎家では長男が誕生し、何かと物入りで家計も苦しいというのに、ずいぶん潔かったというべきでしょう。この時代の風として、男は生活や家計の心配など歯牙にもかけませんでした。だからこそ自由民権運動家や大陸浪人が輩出したのです。行雄の新潟生活はほぼ二年で終わりました。


 明治十四年七月、東京に戻った行雄はさっそく矢野文雄に会いました。とりあえず統計院という役所で官吏をやれと矢野は言います。これより先、大隈重信は統計局を統計院に格上げしていました。国会開設後に必要となる政府委員を養成するための人材バンクとして利用するためでした。ここに有為の人材を集め、あらかじめ国政を研究させておき、いざ国会開設となれば政府委員として使おうという計画です。

「大隈参議は明治十六年には国会を開く希望で、すでにその準備に着手しておられる。国会が開かれれば国務の説明をする政府委員が多数必要となるから、今のうちに民間の人材を登用して二年間政務を学ばせようというのだ」

 行雄は官吏になることに抵抗がありました。なにしろ「学者自立論」なる論文を著わした過去があります。

「私は官尊民卑の弊風を改めたいと思っています。官吏にはなりたくない」

「ただの官吏ではない。国会のためだ」

 矢野は説得しました。行雄はようやく納得し、統計院権少書記官というものになりました。ちなみに犬養毅も同職に任官しています。統計院で行雄に与えられた仕事はアルフュース・トッド著「英国議院政治論」の翻訳でした。この本は行雄に強い影響を与えます。

「豁然として感悟する所あり」

 と行雄は後に書いています。この翻訳作業を通じて、行雄は藩閥跋扈を制しうるものは議院政治しかないと確信するようになります。藩閥全盛時代です。薩長に非ずんば人に非ずというべき景況でした。この実態に切歯扼腕していた行雄は議会政治に光明を見出したのです。

 一方、国会開設の密謀を進めつつある大隈重信は、外務、大蔵、司法、農商務の四省を監督し、太政官政府の実権を握っていました。そのため自信を持ちすぎました。ただでさえ明治十六年の国会開設を密奏して薩長閥を刺激していたことに加え、開拓使官有物払い下げ事件では薩摩閥の黒田清隆を攻撃しました。これに怒った薩長閥は大隈の追い落としへと動きます。大隈は伊藤博文の叛意にも気がつきませんでした。

 明治十四年十月、大隈重信の罷免が御前会議で決められました。いわゆる明治十四年の政変です。この政変により大隈重信をはじめとする佐賀出身者の多くが政府を去り、薩長独占の地歩が固められました。国会開設は先延ばしされて明治二十三年と決められました。大隈の計画は瓦解しました。このため矢野、犬養、尾崎らは統計院を辞職することになります。行雄の翻訳作業も中止となるべきところでしたが、「英国議院政治論」に熱中していた行雄は自費で同書を購入し、翻訳作業を続けました。その成果は、翌年から翌々年にかけて漸次出版されました。


 この時代の日本国民には兵役の義務がありました。政変後、ひと月ほどして、尾崎行雄は徴兵検査を受けることになりました。既に季節は冬に近く肌寒くなっていました。それでも被験者は容赦なく褌一本の裸にされました。

(禽獣の如き扱いだ)

 権利意識の強い行雄は怒りを心中に燃え上がらせましたが、周囲の被検者は格別にも思っていないようです。身長、体重、胸囲、視力の検査が済むと次は性病検査、陰部検査、肛門検査です。受検者らは牛馬のごとく丸裸にされ待たされました。自尊心が強く、西洋流の権利概念を学んでいた行雄にとっては、それだけでも屈辱です。加えて行雄は戦慄さえ感じていました。ひとつ所で裸にされ、並ばされていますが、その中には全身に赤い発疹を発症している者や、ヨコネの出ている者がいます。ヨコネとは、両脚付け根にあるリンパ節が腫れる症状をいい、梅毒患者の初期症状です。かつて湯治した草津温泉でそういう症状の持ち主を何人も見たことがあります。幼い頃から病弱だった行雄は、常日頃から健康には人一倍気を使い、衛生にも神経質です。感染がこわい。順番を待たされている行雄の位置からは検査の様子が垣間見えました。実に無神経なやり方で検査は実施されていました。軍医は、歯茎を診るため口内に指をつっこみ、陰部検査では陰茎や陰嚢を握り、肛門検査では臀部を両手で左右に開きます。時に指を肛門に差し入れている。その様子をうかがい見ていた行雄は驚愕しました。

(消毒しないのか?)

 検査する軍医は消毒どころか手を洗いさえしない。口であろうが陰部であろうが肛門であろうがお構いなしにやっている。しかも恐ろしいことに、被検者が交代しても手洗いや消毒をしている様子がない。

(冗談ではない)

 徴兵検査で病気を感染させられては堪らない。行雄はどうすべきかを必死で考えました。が、いい知恵も思いつかないまま順番が来ました。軍医はいきなり行雄の口に指を突っ込もうとしました。行雄は身体を反らしてこれをかわすと、二歩下がりました。行雄は抗議の意を込めて軍医を見据えます。ここで一場の演説をぶつべきだったかもしれません。衛生管理の不徹底は軍医の怠慢である。それが原因で皇軍兵士が感染症にでもなれば国家の損失である。軍医たる者、衛生管理に意を用いよと、大声疾呼すべきだったでしょう。しかし行雄は無言でいました。なにしろ素っ裸です。これでは才気も芝居気も発揮しようがありません。行雄はただ身を守るのに精一杯でした。

 軍医は爬虫類のように無表情な顔に陰険な薄ら笑いを浮かべると、検査を放棄しました。事実と異なるデタラメを言い始めました。助手がそれを書類に書き入れています。

「色白き方、肥った方、甲の上」

 官僚制度の弊害というものは、要するに不良な下っ端役人による小さな不正や不善や意地悪の集積なのでしょう。この軍医にとっては小さな意地悪に過ぎません。生意気な若造に腹が立ったのです。ですが、いったん書類ができあがってしまうと、その書類は行政機構を一人歩きしていきます。行雄は甲種合格とされてしまいました。驚くべき結果です。

(馬鹿な)

 あり得ないことです。行雄はかつて工学寮に入学する際に健康診断で落第しかけたことがあります。また、生命保険会社に勤める知人は、行雄の身体の様子を診て言ったものです。

「君は割増金を払わないと生保には加入できないね」

 その行雄が甲種合格するなどありえないことです。甲種合格といえば、ひとりでクジラ漁ができるくらいの壮健な若者でなければなりません。行雄も驚きましたが、友人知人の誰もが驚きました。

「入隊などしたら尾崎は死ぬに違いない」

 友人たちは同情し、「代人料を払え」と教えてくれました。代人料三百円を支払えば兵役は免除さます。しかし、三百円といえば大金です。

(死んでたまるか)

 行雄は尚武の気象を貴んではいましたが、だからといって必ずしも軍人を貴んではいません。むしろ官尊民卑の弊風に風穴を開けるべく突っ張っていました。誰よりも自分自身の弱さを知っており、弱いからこそ知恵と工夫で世に適応しようとしています。軍隊で病死するなど冗談ではない。必死で金策に駆け回り、どうにかこうにか金をかき集めることができました。行雄にとっては生まれて初めての借金です。もともと金銭に無頓着な行雄に借金癖がつきました。


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