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大遊説

 尾崎行雄という人物は逆境に遭っても怯まず、むしろ元気を増すようです。軍備制限に関する決議案があっさり否決されてしまうと、議会を離れて直接世論に軍縮を問おうとしました。今で言う世論調査を実施したのです。その方式は、全国各地で演説会を開いて軍備制限を訴え、その来場者に郵便葉書を渡し、賛否を記入のうえ返送するよう依頼するのです。統計学的には疑問の残る標本抽出法ですが、この時代に一個人で世論調査を行なおうとすれば方法はこれしかなかったでしょう。

 行雄は帝国議会の閉会を待たずに東京都下の遊説を開始し、三月までに関東地方を巡り終えました。四月からは西日本の遊説を開始し、ほぼひと月で四国、九州、山陰、山陽、関西の遊説を終えました。五月四日にいったん帰京すると、早くも十二日には再出発して東北太平洋側を北上し、弘前から日本海側を南下し、北陸東海地方を遊説しました。五月末に帰京すると、六月上旬には甲府、身延、静岡などを巡り、六月中旬からは北海道への遊説を敢行し、函館、小樽、札幌、旭川、帯広、釧路、根室などを周りました。あいかわらずの強行日程です。車中泊が続き、体力が消耗します。ついに高熱を発して動けなくなりました。そうなった時は諦めて床に伏し、元気をとりもどすと再び移動しました。こうして行雄はほぼ四ヶ月間に総移動距離一万五千キロ、聴衆七万三千人、訪問地数四十九市二十三町の大遊説を終えました。

 遊説中、行雄は幾度か襲われそうになりました。日本人はずいぶん変わりました。かつて行雄が支那征伐論を唱え、支那と一戦交えるべしと論じていた頃は、誰もが行雄を狂人扱いしました。眠れる獅子の清国に勝てるはずがないと、誰もが、軍人でさえ、そう言いました。ところが日清、日露の戦役に勝利し、第一次大戦を経て五大強国に列した今では、日本人は大いなる自信を持つようになっています。

(この変わり様はどうだ)

 行雄は思わざるを得ません。しかも悪いことに、日本人の自信の根源は軍事的勝利だけです。経済や文化や科学や福祉や政治や思想などにおいては、あいかわらず日本は遅れています。それなのに自国の後進性を自覚せず、軍国主義という一点からのみ強すぎる自信を持ってしまった。その勢いは、いささか狂信的と言えるほどでした。こういう世相の中で軍縮論を訴えることには勇気が必要でした。

 それでも行雄は悪運が強いのか、無事でした。各地で行雄を狙った刺客は事前に露見して逮捕されましたし、行雄を襲うべく暴徒十余名が乱入してきたときには運良く警官数名が同席していました。名古屋でも事件が起こりました。西日本の遊説を終えて名古屋に着いたとき、行雄は高熱を発して斃れました。宿屋の二階で寝込んでいると、国粋会の連中十名あまりが乗りこんできました。国粋会は頭山満を顧問に戴く右翼団体です。行雄の主張する軍縮論が気に喰わないらしい。宿屋の玄関で「あげろ」、「あげない」の押し問答をした末、一行はドヤドヤと二階に駆け上がってきました。行雄にとって幸いだったのは、部屋が極端に狭かったことです。狭い部屋に蒲団が敷かれ、そこに行雄が身を起こしています。付き添っているのは鈴木正吾でした。鈴木は行雄に師事する新聞記者で、後に「尾崎咢堂全集」の編集委員代表となりますが、この時まだ三十才の青年でした。狭い部屋には国粋会の親分らしい男一人の入る余地しかありません。子分どもは廊下や階段に居流れました。

「今日は首をもらいに来たのだから、そのつもりで応答しろ」

 親分はドスを効かせてもの凄い声をあげます。

「不思議なものを欲しがりますねえ」

 鈴木はとぼけた。

「なにをっ」

 激怒した親分は目の前にある桐火鉢を持ちあげると行雄めがけて投げつけました。行雄はとっさに蒲団をかぶって避けました。部屋中に濛々と灰神楽が立ち、蒲団と畳が焦げました。鈴木と親分がつかみ合います。行雄も寝ては居られない。起ちあがって親分の腕をつかみました。その腕は吃驚するほど細かったので、行雄は内心で驚嘆しましたが、凶暴であることにかわりはありません。(ヤクザ者が強いとは限らないな)

 そう考えながら揉み合います。やがて若い鈴木が親分を組み伏せました。既に騒ぎを聞きつけて警官三名が駆けつけて来ており、子分どもを制止しています。警官が部屋に踏み込もうとするのを、行雄は止めました。

「もう大丈夫だ。言って聞かせるから、あとは任せてください」

 そう言っておいて振り返った行雄は、親分らしき男を一喝しました。

「いきなり乱暴なんかせずに、話したらどうだ」

 蒲団の上の灰を払いもせずに行雄は座り、鈴木に目配せをして親分を自由にしてやりました。親分は行雄の態度に感銘を受けたようです。

「義兄弟の契を結ぼう」

「今日は寝るから、帰れ」

 こんな苦労をしながら行雄は遊説し、独自の世論調査をしたわけです。有効回答三万一千五百十九票を得ました。そして二万九千二百五十票が行雄の軍縮論に賛成と回答しました。割合にして九割二分です。この結果は行雄を勇気づけました。帝国議会とは正反対の結果が出たからです。もっとも四千票もの無回答があり、標本も偏っていますから、必ずしも世論を正確に反映したものとはいえません。それでも悪い気はしませんでした。

 行雄は演説会に新工夫を加えました。そのひとつは入場料金の徴収です。そもそも演説会の料金は、帝国議会開設以前には当たり前のように徴収されていました。演説会が無料になったのは議会開設以後です。政治家としては一人でも多くの有権者に意見を聞いて欲しいから無料になったのは当然でした。それを行雄は再び有料にしました。料金は地域に応じて十銭から五十銭まで幅を持たせました。有料化することで来場者が減るのではないかと心配する声もありましたが、それは杞憂でした。どこの会場も大盛況です。この料金収入のお陰で遊説経費のほとんど賄うことができました。

(広く大衆から小額の政治献金を集めたい)

 これは行雄の念願です。政治家が経済的に自立するのは難しい。選挙活動費を政党に頼れば党議に拘束されるし、派閥のボスに依頼すればその命令に逆らえないし、資本家に頼れば資本家に支配される。数多くの聴衆から小額の寄付を集め、それによって政治活動を行なうことができれば、それこそが理想的です。行雄の試行は成功でした。もちろん、これは誰にでも出来るというものではなく、すでに尾崎行雄の名が天下に轟いているからこそ出来ることです。また、行雄は演説後に質問時間を設け、聴衆からの質問に直接答えました。これには、人々が何を疑問に思っているかを知るのに役立ち、演説が一方的な言い放しにならないという利点がありました。

 遊説を終えて帰京した行雄は、先ずは休養し、体力の回復に努めました。既に再婚しています。後妻はテオドラという英国人です。テオドラは行雄の健康を気遣い、食事に肉類や乳製品を採用し、季節毎に避暑と避寒を勧めるなどしました。先妻の繁子といい、行雄は女運に恵まれていました。家庭内での行雄は概して穏やかであり、仕事を忘れて子供達の相手をしました。

「一緒に散歩に行きましょう」

 そういって子供を散歩に連れ出したり、「チゴマゲに結いましょうか、タバコボンにしましょうか」といって娘の髪を縁側で結ってやったりしました。有名人の行雄は揮毫を頼まれます。書生に大量の墨をすらせ、色紙に古典の故事成語などをどんどん書いていきます。その最中に子供達が割って入ってきて「どういう意味?」などと聞けば、行雄はうるさがらず、手を休めて丁寧に教えました。行雄は子供達にも丁寧な言葉を使います。大人並みに扱うことで子供の自覚と成長を促すためでした。夜になると必ず手習いをしました。使い終わった封筒を開き、そのまっさらな裏面を使って習字をします。

「手習いというのはいいものです。いろいろ難しい考えで頭がいっぱいの時でも、これをしている間は頭が軽くなります」

 いわば気分転換が上手く、ストレスをため込まない習慣と気質を行雄は持っていました。やがて体力が回復すると行雄は世論調査の集計作業をはじめました。何しろ数万を超える葉書を手作業で仕分けなければなりません。それと同時に行雄はあることを調べ始めました。今回の遊説を通じて行雄の胸中にひとつの気掛かりが生じたからです。行雄は日本全国を歩いて周り、行く先々で痩せ衰えた日本人の姿を見ました。肋骨の浮いた身体で鍬を振る農夫、まだ四十才そこそこの年令であるにもかかわらず老婆のように腰が曲がり、顔も手も皺クチャになっている農婦、やせこけて頬骨の浮いた労働者などです。

(日本人は飢えている)

 貧困のために日本人は飢え、その体格は劣化しているのではないか。それが行雄の懸念です。そもそも国民が栄養不足にあえいでいる時に軍備を拡張して何の意味があるだろう。行雄は徴兵検査の記録を取り寄せ、そこに驚くべき事実を発見しました。日本人壯丁の体格は日清戦争の後に向上しはじめましたが、明治三十年代の半ばからはむしろ低下傾向に転じ、その傾向が未だに継続しています。日本の壯丁が栄養不足に陥って体格を劣化させているのです。この事実は陸海軍にとって重大事件であるはずでした。ところが不思議なことに、軍部は予算獲得にこそ熱心でしたが、徴兵検査の経年変化には歯牙もかけません。

(鉄砲を撃つのも、軍艦を動かすのも日本人だろうに)

 国民の健康こそ、国力の源である。行雄は軍備縮小の信念をいよいよ固めます。軍備を縮小しても国民の体力が向上するのであれば、それはむしろ軍拡といえる。第一次大戦は近代戦争の様相を変えました。日露戦争までの戦争は、軍隊と軍隊の戦いでした。それが今は国力と国力の戦いになっています。第一次大戦におけるドイツ軍は強かったのです。強かったのですが、国力の限界が最後の勝利を阻み、遂に国力差から敗北しました。行雄の軍縮論はこうした現実認識に立脚したものです。決して理想論でも空想論でもありません。軍縮をしなければ国民が痩せ衰え、国力が疲弊し、弱肉強食の世界を生き残れない。そういう危機感からの警鐘でした。むしろ軍拡論者の方が時代遅れの戦争論に囚われていたのです。


 アメリカ政府から日本政府に対して軍縮交渉の打診があったのは大正十年七月です。原敬内閣は翌八月に交渉参加を発表し、「欣然参加する」と声明しました。行雄の軍縮決議案には歯牙もかけなかった日本政府は、ようやく受け身の姿勢で腰を上げました。翌九月、全権代表の人事が発表されました。貴族院議長徳川家達、海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎の三名です。行雄はこの人事に満足しました。

(加藤はやるだろう)

 行雄が加藤友三郎を知ったのは東京市長時代です。そのころ海軍次官だった加藤を知り、その周到さと行きとどいた配慮に行雄は感心することが多かったのです。第二次大隈内閣の組閣に際し、行雄は加藤を海軍大臣に推薦しました。国会における加藤友三郎の答弁ぶりに行雄は感心してもいました。無駄な言葉がいっさい無く、誤魔化しもせず、要点のみを簡潔かつ明快に話す。その言葉には人格が宿っているかのようでした。ちなみに加藤友三郎は、日本海海戦時に連合艦隊の参謀長を務めた人物です。海軍部内における加藤評は沈勇という言葉に象徴されています。かつて八八艦隊計画を立案した加藤は、今度は軍縮に取り組むこととなりました。

 海軍軍縮交渉への参加を決めた原内閣の判断は、ごく常識的なものでした。第一次世界大戦後の世界は平和を求めていました。たとえそれが一時的なものであるとしても、その流れに上手く乗り、利用せねばなりません。アメリカからの交渉参加打診に応じたのは当然でした。しかしながら、国内世論は異様なほどに緊張しました。

「国難来」

 新聞や雑誌の見出しには国難の二字が踊り、あたかも軍縮交渉が国家の危機であるかのような言説が巷にあふれました。

(まるでペリー来航だ)

 行雄は日本人の思想感情を冷静に観察しようとしました。七十年前、ペリー提督の艦隊が来寇して日本に開国を求めてきました。徳川幕府はこれに応じて条約を結びましたが、世論はこの措置に激昂し、幕末の混乱を生み、ついには明治維新に至ります。まんまと不平等条約を結ばされてしまった徳川幕府の迂闊さは責められるべきだとしても、開国に踏み切った判断そのものは国際環境への適応として必ずしも間違ってはいませんでした。その意味で大老井伊直弼の判断はむしろ合理的でした。しかし世論は幕府の処置を拒絶しました。外国というものに対して日本人は過剰な恐怖心と猜疑心を持っています。開国して交易するだけのことだったのに、それを侵略されると誇大に妄想したのです。

(外国によって侵略される)

 交易がなぜか侵略になりました。島国特有の妄想と水戸史観とが結びついて尊皇攘夷という世論が生まれ、血風のように吹き荒れました。その怒濤は幕府を転覆してしまうほど強烈でした。幕末の国難を生んだのは徳川幕府ではなく、むしろ幕府に反抗し、攘夷のために暴走した志士や長州藩や薩摩藩でした。やがて馬関戦争と薩英戦争で敗れた薩長両藩が攘夷の不可能を悟ることで、幕末維新史が回天します。薩長両藩の覚醒が無ければ、両藩は攘夷に驀進して日本を亡国に至らしめたかもしれません。きわどいところで国難は回避されたといえます。

 そして今、歴史がくり返されようとしていました。海軍軍縮交渉という海外からの働きかけに対し、原内閣は交渉参加を表明しました。ごく常識的な判断です。にもかかわらず国民世論は過剰反応を示し、国難が到来したと勘違いしています。世論は倒錯していました。行雄に言わせれば、軍縮交渉は国難どころかむしろ国家の安全を保障するものです。ところが鎖国時代の遺産たる対外恐怖感にとらわれた世論は、政府の交渉参加を非難しました。一等国たる自信の根源が軍事の一点だっただけに、世論はその縮減に拒否反応を示したのです。新聞や雑誌がこれを煽りました。

(原敬は井伊直弼になるのではないか)

 政敵ながら、行雄は原の身の上を心配せざるを得ません。行雄は日本人の未開性を残念に思っています。日本人は未だに封建的な思想感情にとらわれている。

「原氏が依然総理大臣の位置におらば、掃部頭の覆轍を踏む者は、必ず原氏なるべく、他人が総理となれば、その人おそらくは凶変に遭うべし。しかしてその時期はたぶんワシントン会議の後ならん」

 行雄は近い将来に起こるであろう変事を予想し、それを人にも語りました。封建思想にとらわれている日本人の蒙を啓かんとし、この度の軍縮交渉は国難ではなく、むしろ列国が歩調を合わせて軍備を制限するのだから平和になるのだと行雄は説いて周りました。しかも軍事予算を削減することで国家財政が好転し、産業や教育などに予算を振り向けることさえ可能となります。「国福は来たれり」という表題で行雄は持論を新聞に発表しました。軍縮交渉は国難ではなく、国福である。そう訴えたのですが、世論の波濤の前では無力でした。

 原内閣は既に三年目に入っています。政友会内閣の登場に国民が湧いたのも過去のことで、その支持には翳りが見え始めていました。世論は我儘です。原内閣への倦怠に加えて、普通選挙の先延ばし、株価の暴落、物価高、ニコライエフスク事件、満鉄疑獄事件、大連阿片問題など、世の批判を招く数々のスキャンダルが発生し、ついには原内閣に対する怨嗟の声さえ聞こえるようになっています。

「原内閣もそろそろ潮時ではないかなあ」

 行雄は新聞記者に言い、政治家同士の会合においてもそう話しました。とはいえ衆議院の過半数は与党政友会が握っており、貴族院も元老も軍部も原内閣には好意的であり、まだまだ原内閣は磐石に見えました。それでも行雄は妙に不安を覚えました。

「こんなことが続くと、原君の命にかかわるのじゃないかなあ」

 そんな感想を漏らしていた頃、原敬暗殺事件が起きました。大正十年十一月四日のことです。凶刃は原の心臓に達したため、即死でした。高橋是清が直ちに内閣を組織しましたが、わずか半年しかもちませんでした。原敬亡き後の政友会は、あたかも平清盛亡き後の平家の如くです。


 ワシントン会議は大正十年十一月十二日から始まりました。参加したのはイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガル、日本の九ヶ国です。翌年二月六日まで続いた交渉によって海軍軍縮条約、四ヶ国条約、九ヶ国条約などが調印されました。軍縮条約によって主力艦の建艦が十年間禁止され、その保有比が定められました。日本は対米英六割に制限されました。日本海軍は当初七割を主張しましたが、現有比が五割、国力比が一割という現実を前にして全権加藤友三郎は六割を受け容れざるを得ませんでした。海軍部内には不満が溢れました。なかでも首席随員の加藤寛治少将は強硬に反対しました。それでも加藤友三郎の沈勇が勝ちました。四ヶ国条約は英米日仏の四ヶ国が太平洋権益を相互に承認したものですが、この条約の成立に伴って日英同盟が終わりを告げました。九ヶ国条約は支那における領土保全と市場の門戸開放とを約したものです。

 ワシントン会議の結果、当面の国際平和が保証され、日米間の建艦競争も終わりました。このおかげでおよそ五億円もの建艦費が節約できます。行雄に言わせれば、これ以上の国福はない。ところが世論の受け止め方は正反対でした。

「国辱なり」

「国難来たれり」

 幕末の攘夷騒ぎのような空気が国内に満ち、軍縮論を唱える行雄は世の非難を一身に浴びました。

「国賊」

「非国民」

「米国の傭兵」

 ありとあらゆる罵詈雑言が行雄に向けて発せられました。そればかりではありません。行雄自身が刺客につけ狙われるようになり、身辺警護のため警官詰め所が尾崎邸に配備されるまでになりました。それでも品川の尾崎邸はしばしば暴漢に襲撃されました。暴漢は警官によって撃退されましたが、時には家族全員が逃げ出さねばならぬこともありました。あたかも幕末に佐久間象山、横井小楠、勝海舟らが命を狙われたのと同様の世相であり、軍縮論の提唱は命がけの仕事でした。


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