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さらば政党

 大正九年一月、国際連盟が成立しました。アメリカ大統領ウイルソンの提唱によって設立された世界初の国際調停機関です。設立時の加盟国数は四十二ヶ国でした。言い出しっぺのアメリカは連邦議会に反対されて加盟しませんでした。日本は必ずしも積極的ではありませんでしたが、ベルサイユ条約に従って英仏伊とともに常任理事国となりました。第一次大戦前までは空想物語でしかなかった国際機関が実現したのです。戦禍に疲弊した欧州列国の平和欲求とアメリカの理想主義がうまく結実したといえます。

「締約国は戦争に訴えざるの義務を受諾し、各国間に於ける公明正大なる関係を規律し、各国政府間の行為を律する現実の規準として国際法の原則を確立し、組織ある人民の相互の交渉に於て正義を保持し、且つ厳に一切の條約上の義務を尊重し、以て國際協力を促進し且つ各国間の平和安寧を完成せんが為、ここに国際連盟規約を協定す」

 国際連盟の協約は高らかに理想を詠っています。しかし、日本の世論はさほどの関心を示さず、日本政府の動きも緩慢でした。日本政府はもっと国際情勢の変化に敏感であるべきでした。文明の進展といえば大袈裟ですが、少なくとも国際環境と国際慣行が大きく変化しつつあることにもっと注意すべきでした。露骨にいえば、五十年前には通用した帝国主義的行動がもはや通用しなくなりつつあったのです。そのことに気づくべきでした。

 ひとり気づいていた行雄はジリジリしました。

(世界が平和に舵を切っているこの時期をとらえ、軍事費を削減して民力を涵養し、国力そのものを充実させるべきである。なぜそうしないのか)

 原敬内閣に対する行雄の期待は徐々に失われていきます。だからといって行雄は国際連盟を盲信していたわけではありません。国際連盟が出来たからといって世界平和が実現するなどと甘い夢を見るほど若くはありませんでした。

「欧米の民主的政治家は頻りに『永遠の平和』と叫び、心から文字通りにその理想を実現しようと望んで居るようだが、私はこの説にも首肯しがたい。戦後平和の時代がくることはほぼ疑うの余地がないけれども、その平和が文字どおり永遠の平和になろうとは思われない。先ず短ければ三十年、如何に長く続いても百年を超えるようなことはあるまい。蓋し政治家は、この三十年ないし百年の平和をさして永遠の平和というのである」

 行雄は、安全保障の玄人であったといえましょう。平和時代の到来を予想し、しかもその平和の終わりまでも見通した上で、国際連盟を上手く利用して国益を実現しようと考えたのです。それこそ行雄が原内閣に望んだことです。

 帰国後の行雄は、普通選挙に関する従来の政見を変更しました。普通選挙を求める運動は明治三十年頃から各地に起こっていましたが、行雄はむしろ慎重論者です。

「まず教育せよ、要求せしめよ、しかしてこれに応ぜよ」

 選挙権たるものの意義を解せず、金銭や情実や接待で票を売るような実態が蔓延している以上、普通選挙の施行は尚早であるというのが行雄の従来の持論でした。しかし欧州外遊が行雄の思想を変えました。

(もう待ってはいられない)

 世界の思想潮流は急激です。思想の世界同時性ということを考えねばならないと感じました。世界に民主主義、社会主義、共産主義などの新思想が流布する中で、日本人のみが封建思想に満足するなどということはありえないのです。日本社会がその新潮流に適応していくためには普通選挙を施行し、さらには婦人参政権をも実現する必要がある。それをしない場合の反作用を行雄は恐れました。

(抑圧すれば直接行動すなわち暴動になる)

 米騒動を思い出すまでもなく、国家権力による抑圧は暴動や暗殺を生むだけです。実際、普選運動は憲法発布三十周年の大正八年以来、大きな盛り上がりを見せています。行雄が外遊から帰国した時も、第四十二議会では普通選挙法案が大きな議論を巻き起こしていました。国民党の犬養毅は、満二十歳以上の男子に選挙権を与えるという画期的な法案を提出していました。憲政会としても世論を考慮して代替案を出せということになりました。憲政会総裁加藤高明は普通選挙に慎重な意見の持ち主でしたが、国論の盛り上がりに配慮して法案の検討を指示しました。できあがった憲政会案は、満二十五才以上で独立の生計を営む男子に大正十四年から選挙権を与えるという中途半端なものでした。行雄はこれに噛みつきます。

 行雄は島田三郎と共に党内を論じてまわり、党議を革新的な方向へと誘導しようとしました。議論は紛糾し、憲政会の分裂さえ危ぶまれましたが、ようやくまとまり、満二十五才以上男子に次回総選挙から選挙権を与えるという憲政会案ができました。

 結局、第四十二議会には国民党案、憲政会案、実行会案の普選三案が提出されることになりました。国民も普通選挙の実現を期待し、各地で集会や示威行進や提灯行列が開催され、いずれも万単位の参加者を集めていました。しかしながら与党政友会だけは普通選挙に否定的でした。大正九年二月二十六日、原敬は普選三案の本会議における採決を避け、審議未了のままに衆議院を解散してしまいました。

 原敬にしてみれば、普通選挙は時期尚早でした。というのも、昨年の第四十一議会において衆議院議員選挙法を改正したばかりです。この改正により小選挙区制が導入されるとともに、選挙人の資格要件が直接税十円から三円に緩和されていました。この改正には政友会の党勢拡大という政略も含まれていました。現実政治家の原敬としては、せっかく成立させた新制度下での総選挙をまずは実施し、政友会の基盤を揺るぎないものにしたかったのです。小選挙区選挙では選挙運動が容易です。露骨に言えば選挙買収がやりやすく、金と権力を掌中にしている政権与党に有利です。

 大正九年五月十日に行なわれた投票の結果、政友会は原敬の思惑どおり大勝しました。政友会は議席数を百六十二から二百八十一へと飛躍させました。一方、憲政会は百八議席、国民党は二十九議席を確保するにとどまりました。衆議院の過半数を得た政友会は、第四十三議会において普選案をことごとく否決し、政府弾劾案をも否決しました。鎧袖一触でした。

 普通選挙を熱望する国民の声はいよいよ盛んでしたが、国会では普選案が通過する見込みがありません。それでも憲政会と国民党は第四十四議会に普通選挙法案を提出しました。普通選挙を求める世論を味方に付け、普選に反対する政友会を攻撃する。野党としてはこれが最善の策です。国民党案は満二十歳以上の男子に選挙権と被選挙権を与えるという内容でした。これに比して憲政会案はやや保守的で、満二十五歳以上の男子であって独立の生計を営む者に選挙権を与えるとしました。

 この二案は大正十年二月三日の本会議で審議されました。まずは国民党案が議題となり、国民党の関直彦が演壇に立ち、提案理由を演説しました。賛否双方の立場から数名が演説した後、原総理が演壇に立ちました。原は、衆議院議員選挙法が第四十一議会で改正されたばかりであり、選挙権の拡張は着実に行なわれているのだから、今議会での再改正は時期尚早だと主張しました。

「一年や二年の間に時勢が変化致したといって手の裏を返すが如き政策は執れない。左様なる秩序無き制定は決して国民多数の賛成するものではない。今日、国民多数の希望するところは秩序ある進歩であります」

 原敬は国家の秩序を重んずるべきだとし、性急な普選制度導入に反対し、最後に国民党案より保守的な憲政会案に言及しました。

「なお憲政会の諸君より提出せられた衆議院議員選挙法がありますが、これも大同小異、重ねて弁駁する必要もありませぬから、これにも反対するものなりという事をここに表明しておきます」

 原敬は憲政会案を一蹴しました。これには憲政会党員がみな怒りました。ただ行雄のみは、むしろ原に同感でした。

(憲政会は世論に迎合して形ばかりの提案をしたに過ぎない)

 総務委員の行雄には憲政会首脳の本音が解りすぎるほど解っていました。この党議に行雄は不満であり、さらに党議が党員を拘束することにも不満です。行雄は政治家個人の自由と良心を束縛する党議拘束がどうにも嫌いです。

「日本の政治家が唯々諾々と党議に盲従するのは、日本人の思想感情が未だ封建的であるからだ」

 行雄が政党に失望し、政党から離れていく原因のひとつがこの党議拘束でした。政党政治を目指した行雄は、現実の政党に対して鬱積した不満を抱えています。この日、その不満がついに暴発してしまいます。

 国民党案が採決によって否決されると、奧繁三郎議長は議事を進め、憲政会案の審議に入りました。憲政会の関和知が提案理由の演説を始めました。関の演説中、行雄は田川大吉郎に耳打ちします。田川は行雄の数少ない腹心です。

 田川は新聞記者出身です。当初、行雄は田川の論説や著作に注目し、東京市長時代に田川を水道部長に抜擢しました。また大正八年の外遊にも田川を同行させました。さて、その耳打ちです。

「田川君、憲政会案の審議は一事不再議の原則に反するから、奥議長に注意しろ」

 一事不再議は大日本帝国憲法第三十九条に規定されています。

「両議院の一に於て否決したる法律案は同会期中に於て再び提出することを得ず」

 憲政会案は国民党案とほぼ同様の内容であり、国民党案が否決された以上、もはや審議は不必要である。徹底した立憲主義者の行雄にとっては、憲政会提出の法案であろうが無かろうが、それは問題ではありません。憲法を守る、ということにのみ関心があるのです。加えて党議拘束への不満もありました。耳打ちされた田川の方がたじろぎました。行雄の憲法解釈に一理があるとしても、憲政会案の審議を憲政会の党員が止めるというのはどうであろう。田川は迷いましたが、それを振り払い、行雄の指示を実行しようとしました。関和知の演説が終わると、すかさず大声を上げました。

「議長!」

「田川君」

「議事の進行に関して一言申します」

「御発議なさい」

 田川は憲法第三十九条に定められた一事不再議の件を述べ、憲政会案と国民党案はほとんど同趣旨だから、現在、同一の議事を再議しつつある状態だと指摘しました。

「故に議長において之を匡正すべき途を執られんことを希望致します」

 これに対して奥議長は憲政会案を審議する理由を挙げました。たとえ趣旨は似ていても具体的な改正箇条が異なっている以上、審議してよいはずである。

「かくの如きは先例もありますし、憲法に違反せぬとして扱っております」

 やりとりを見ていた行雄は黙っていられなくなりました。議長の許可を得て発言しました。

「法案と討議とは違う、などという形式の事を申さるるかも知れませんけれども、憲法が許さぬ事を提出し、さらに決を採るということは許さるべき事でないと思います」

 奥議長は憲法違反にはあたらないとして、審議の続行を宣言しました。こうなると行雄も強情です。

「既に終結せられた問題であります。故に同じことを再び討論に付することであるならば、本員は断じて憲法違反だと信ずる」

 普通選挙法案という提案趣旨に着目すれば行雄の言うとおりであり、具体的な改正条項に注目すれば奥議長が正しい。行雄と奥議長とは甲論乙駁を交わしましたが、ついに行雄は退場してしまいます。

 本会議終了後、憲政会では行雄と田川の行為が問題とされました。憲政会提出法案の審議を止めさせるなど党規紊乱です。田川大吉郎は直ちに除名処分とされましたが、行雄の元には脱退勧告の使者が来ました。

「元来この問題の発頭人は私であって、田川君ではない。田川君を除名するくらいなら、私をこそ除名すべきである」

 行雄は脱退勧告を拒否しました。このため除名処分とされました。行雄は政党政治の推進者でありながら、現状の党組織というものにどうしてもなじめず、ついに除名となりました。

「東洋には、古来朋党的思想ありと雖も、公党的思想なし」

 行雄が嘆いたのはこの点です。数百年間の長い封建時代の慣習は日本人の脳髄にまで入り込んでいるようです。

「主義政見に基づきて離合集散すべき政党も、ただ因縁情実によって離合集散するに至り、その首領と一般党員との関係は、あたかも封建君主と家の子郎党、または博徒社会における親分子分の関係と趣を同じうするに至る」

 行雄にとって、憲政会総裁加藤高明といえども親分などではなく、同じ主義を持つ同等の政治家であり、ただ党務上の役割が異なっているに過ぎません。行雄は日本人離れして個人主義であり、自由主義です。日本的風土の憲政会内では浮き上がらざるを得なかったのです。同じ日本人でありながら行雄が情実因縁から自由でいられたのは、慶應義塾における福沢諭吉の薫陶も与っていたでしょうが、それ以上に幼少時代の境遇に理由があるかも知れません。病弱でいつも孤独だった行雄の人格内には、ごく自然に個という中核が育ったもののようです。除名は行雄にとって苦痛でも何でもありませんでした。集団への帰属意識が非常に強く、何らかの集団に所属していないと不安になる日本人が多い中で、行雄は変わり者でした。ともかく行雄は憲政会を除名されました。この後、行雄は二度と政党に属すことなく、政争から身を引き、独自の政治啓蒙活動を続けていくことになります。

(政党以前に、政党をつくる人を育てねばならない)

 民権論者の行雄にとって最大のアキレス腱は、政治倫理に欠ける選挙民や政治家の実態です。自由、人権、選挙権、代議制、こうした政治の基本を理解し得ぬ国民こそが、行雄の足を引っ張っているのです。三寸不爛の舌を以って教え、諭し、その蒙を啓かねばなりません。新しい目標を見つけた行雄は、自由な政治活動に邁進する決意を固めました。


 除名処分の一週間後、行雄は衆院本会議の演壇に立っていました。憲政会を除名された行雄はまさに四面楚歌、孤軍奮闘の有様であしたが、舌鋒は却って鋭さを増しました。軍備制限に関する決議案を提出した行雄は、その趣旨を説明しました。憲政会内では理解を得られず、お蔵入りになっていた決議案です。除名された功徳で堂々と提出することが出来ました。


決議案

  決議

  一、帝国の海軍軍備は英米二国と協定して之を制限すること

  二、陸軍軍備は国際連盟規約に基づき之を整理緊縮すること

  右、ここに決議して本院の意旨を表明す


 平和に向かう世界の潮流を的確にとらえ、平和を利して軍縮を進め、疲弊している民力を涵養し、軍事力や経済力の根本たる国力を増進せしめ、あわよくば外交において主導権を握ろうというのが行雄の提案です。日本政府は既に国際連盟規約を批准しています。したがって同規約第八条により軍備縮小の必要性を承認しています。遅かれ早かれ軍縮問題が国際連盟において具体的に討議される日が来ることは間違いない。だから先手を打てと行雄は訴えました。

「向こうから来るのを待つ、即ち他動的に働くばかりでなしに、幸いにして早く先方から来たればそれに応じ、もし来たり方が何かの事情によって遅れるならば、我から持ち出して彼をして之に応ぜしむるのも五大強国の一たる帝国の将来に向かって、執ってしかるべき方法である」

 一歩先んじることで外交交渉の主導権を執るべしというのです。幸いなことにロシアも支那も混乱しており、日本への軍事的脅威はほとんどない状況です。日本にとっては軍縮の好機です。今こそ国際交渉を主導して軍縮の実を挙げ、国際舞台における日本の名誉を上げ、さらに国内的には予算を民生福利に振り向けねばなりません。行雄にはバラ色の未来が見えています。

(なぜそれをしないのか)

 むしろ不思議なくらいです。行雄は安全保障と軍縮とが必ずしも矛盾しないことを懇々と説きました。

「しかして国防の問題は国家の安全を保障するに過ぎないのであります。故に国家の安全さえ保障せらるるならば、その力を多く用いて安全でもよし、少なく用いて安全でも差し支えない。つまり目的は国家の安全に外ならぬのであります」

 世界の列国が歩調をあわせて軍縮を進めるのであれば、日本の軍備が減少しても安全は保障される。当たり前の理屈ですが、これがなかなか通じません。日本が軍備を増強しても相手国がそれ以上の拡張を行なえば、安全はむしろ損なわれるのです。しかも軍拡には莫大な資金を必要とします。特に海軍は金食い虫です。軍艦一隻につき四千万から五千万円、大型戦艦ともなれば一億円は必要となります。日本の財政は、英米に比べれば貧弱といってもよいほどの規模に過ぎず、しかも既に疲弊しています。連年の過重な軍事費のため民生部門が犠牲を強いられているのです。之では国力が先細ってしまいます。

 この日の演説で行雄は海軍の八八艦隊計画を取り上げ、その建艦費の巨額なこと、日本の国家財政規模から見て分不相応であることを具体的に指摘しました。さらにはアメリカとの建艦競争が生じた場合には日本が必敗となることを国力の観点から数字を挙げて論じました。

「日本の人民一人前の所得が平均して一年に六十円、アメリカ人は七百二十円と計算しております。即ち我が国人の一年の所得はアメリカ人の百分の一には足らないという計算になる。そのうえにアメリカの人口は一億有余万、日本は五千五百万、この上からして、いざ金を使うという点に至りましてはアメリカの方が日本より余ほど楽に余計の金を使い得るということは申すまでもない。これと軍艦製造を競う、恐らくは競えば競うほど懸隔が甚だしくなる」

 行雄は具体的な数字を挙げます。大正十一年度の海軍予算はアメリカが十三億円、日本が四億九千万円でした。総予算額はアメリカが九十二億円、日本が十五億六千万円です。したがって国家予算に占める海軍予算の比率はアメリカが一割四分であるのに対して、日本は三割二分です。アメリカが国家予算の一割六分を海軍予算に振り向けたら、日本は総ての国家予算を海軍に注がねばならなくなります。軍拡競争など不可能です。そのうえで行雄は八八艦隊にこだわる海軍省を批判しました。

「八八艦隊という単位がなければ戦さができないというが如き説を以って世を欺くと申しましたならば言葉が強すぎましょうが、かくの如き言葉を以て天下に向かうというのは甚だよろしくない。八八艦隊がなければ戦さがまるでできないが如く考えるというに至っては、驚くべき誤解であると申すより外はない。現に戦さはして居るのであります。四四でもやはり単位として働けるのであります。六四でも単位として働けるのであります」

 八八艦隊の建艦計画が承認されたのは大正八年でした。この計画にも合理性がないわけではありません。第一次世界大戦下の大正五年、アメリカはウイルソン海軍法を成立させ、戦艦十隻を基幹とする総計百二十隻の大建艦計画を開始しました。翌大正六年、日本は戦艦八隻、巡洋艦四隻からなる八四艦隊を立案して応じました。すると大正七年、アメリカは第二次会軍増強計画を発表、海軍の兵力量を戦艦十六隻、巡洋艦八隻としました。さらに大正八年、アメリカは両洋艦隊の創設を発表しました。これに対して日本も八八艦隊計画で対抗しました。このように日米間の建艦競争はすでに始まっていました。

「この競争には勝ち目がないからやめよ」

 行雄の主張は明快です。しかし、海軍官僚にとってこれほど不愉快な主張はありません。正式に決定された建艦計画は、官僚にとって絶対の権威を持つものです。元を質せば単なる官僚作文に過ぎない文章ではあっても、それが国家によって承認されると、その作文は金科玉条となり、官僚の頭脳を支配してしまいます。その硬直した発想に行雄は嘆息せざるを得ません。行雄は演説の最後に日本の国家財政のいびつさを指摘しました。

「現在の財政状態、即ち十五億六千万円の中から、大正十年度においては、海軍陸軍両方あわせますれば七億六千万円を使うことになっております。実に驚くべき金額と言わなければならぬ。およそ総歳出の半ばに近き金を陸海軍に使って、満足に発達していける国のあろうはずはありません。米国にしても英国にしても総歳出の三割内外であります」

 ちなみに大正十年の日本は、シベリア出兵問題を抱えてはいましたが、戦時下にあったわけではないのです。平時でした。平和でありながら国家予算のほぼ半分を軍事に投入することの異常さを行雄は訴えました。過大な軍事費のために農業の振興や教育の拡充など国家の基幹部門に十分な金が回らない。現状でさえそうであるのに、あくまでも八八艦隊にこだわれば増税せざるを得ず、国民はいよいよ疲弊するに違いない。行雄は久しぶりの国会演説に満身の誠意を注ぎ、二時間の熱弁をふるいました。

 質疑の後、採決がとられました。行雄の決議案は、可とする者三十八名、否とする者二百八十五名で否決されました。犬養毅の国民党は賛成してくれましたが、政友会と憲政会は党を挙げて反対票を投じたのです。行雄の演説は、客観的事実に基礎をおきつつ堅実な論理を積み重ねたもので説得力に富んでいました。にもかかわらず大多数の反対を以って否決されました。既に党議拘束というものが議員の自由意志を封じており、国会を支配するものは理性と論理ではなく、数でした。どのような名論卓説といえども、どれほど感動的な名演説といえども、議決にははまったく影響を与えないのです。議会における論戦は単なる形式に堕していました。政党政治を目指した行雄が政党に失望し、ついには絶望してしまう一因はここにありました。

 ちなみに東洋経済新報の石橋湛山は、社説において尾崎提案の軍縮決議案を取り上げました。軍縮決議案に大多数の議員が反対したが、これは必ずしも彼等の本意ではないと石橋は分析しています。

「何故に拒んだか。彼等は軍閥に憚ったのである」

 つまり、本心では軍縮決議に賛成でありながら、軍閥の不興を招くのを恐れて反対した者が少なくないというのです。大正十年のこの時期、すでに軍部の政界に対する影響力がかくも強かったのです。石橋の筆は国家の危機を訴えます。

「ある勢力が社会の一部にあって、国民の自由なる言論を妨げ、議員の良心ある投票を行なわしめない。これがもし国家の前途を危うくせないなら、世にこれを危うくするものは存在しない」

 帝国議会には陸海軍を掣肘する権限が与えられていましたが、政党や政治家が弱かったために軍閥をますます調子づけてしまったといえるでしょう。


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