思想の種まき
第一次世界大戦が長期化した理由のひとつはロシア帝国の崩壊です。ロシア軍は連合国の一角として参戦し、東部戦線においてドイツ・オーストリア軍と対峙していました。一方の西部戦線では英仏連合軍がやはり独墺同盟軍と対峙していました。このため独墺軍は戦力を二分せざるを得ませんでした。そこに起こったのがロシア革命です。大正六年、二月革命によってロマノフ王朝が崩壊するとロシア国内は乱れました。やがて十月革命によってソビエト政府が成立し、レーニンが実権を握りました。そのソビエト政府は大正七年三月、ドイツおよびオーストリアと講和を結んでしまい、東部戦線を放棄してしまいます。英仏連合軍にとっては大事件です。ロシアの戦略的裏切りでした。おかげで独墺軍はその全力を西部戦線に投入することが可能となりました。
英仏両政府は、アメリカと日本に出兵を促し、東部戦線の構築を要望しました。大正七年一月のことです。日本はこれを断わりました。日本の大陸進出に神経をとがらせているアメリカの反対もありましたし、そもそもシベリアの大地には日本の国益を見出し難かったのです。そもそもユーラシア大陸を横断して欧州東部に戦線を構築するなど空想でしかありませんでした。
ところが一つの事情が発生しました。東部戦線に取り残されたチェコ・スロバキア軍の存在がアメリカ政府を動かし、日米によるシベリア出兵が実現していきます。
オーストリア・ハンガリー帝国からの独立を念願とするチェコ人とスロバキア人は義勇軍を編成し、ロシア軍とともに独墺軍と対峙していました。チェコ・スロバキア軍は二月革命後も強化され、その兵力は五万人に達していました。ところが大正七年三月、ソビエト政府がドイツ及びオーストリアと講和してしまったために、チェコ・スロバキア軍は孤軍として東部戦線に浮いてしまいました。英仏両政府はこの軍団を西部戦線に転用しようと考えました。ソビエト政府も同軍の移動に同意しました。このため、チェコ・スロバキア軍の大移動が始まります。ロシア大陸を横断してウラジオストクに達し、太平洋、アメリカ大陸、大西洋を経て西部戦線に参加しようというのです。史上空前の行軍計画です。まずシベリア鉄道による移動が始まりました。チェコ・スロバキア軍は小部隊に分かれて移動を開始しました。ですが、ロシア国内の混乱によりシベリア鉄道の運行が大幅に遅れました。同軍は小部隊に分かれたまま、シベリア鉄道沿線に点々と分散させられてしまいました。
五月十四日、チャンリャンビンスクに足止めされていたチェコ・スロバキア軍兵士は、宿敵たる独墺軍兵士を見ました。ロシア軍捕虜となり本国に送還されるところでした。愛国心と敵愾心に燃えるチェコ・スロバキア軍兵士は我慢がならず、小規模な戦闘騒ぎを起こしてしまいます。この事件に警戒心を強めたソビエト政府はチェコ・スロバキア軍に武装解除を要求しましたが、同軍はこれを拒否しました。ソビエト政府はあくまでも武装解除を要求したため、チェコ・スロバキア軍はついに武装蜂起せざるを得なくなりました。戦闘経験豊富なチェコ・スロバキア軍は寡兵ながらも頑強で、シベリア鉄道沿線のペンザ、サマラ、オムスク、イルクーツクなどの諸都市をたちまち占領しました。するとロシア国内の反革命勢力がこれに呼応し、シベリア各地に地方反共政権を樹立する事態となりました。
ここにいたり英仏両政府はソビエトへの干渉を決意し、同時にアメリカ政府に対してシベリア出兵を依頼しました。アメリカにはこの事実が一種の悲劇として伝えられていたため、人道的立場からチェコ・スロバキア軍を救出せよという世論が形成されていました。世論に圧されたアメリカ政府は出兵を決意しました。アメリカは日本の参加を求めます。シベリア出兵となれば日本の立地条件が最適だからです。日本は閣議、外交調査会を経て、シベリア出兵を決意し、八月二日に寺内総理がその方針を声明しました。この間、アメリカは日本に対して限定出兵を要求し、兵力数と行動範囲に注文を付けてきました。これに対して日本政府はあくまでも独自に判断すると主張しました。当然のことです。アメリカ政府に主権侵害される筋合いはありません。ただ、独自判断の内容が問題でした。軍部はシベリアに親日傀儡政府を樹立し、共産勢力への防波堤にしようと秘かに画策していました。
この間、シベリア出兵問題は幾度か世論の話題にのぼりました。当然、尾崎行雄も強い関心を持ち、周囲の人々と議論を続けました。行雄自身は反対でした。隣国の混乱に乗じて奇功を挙げようなどと考えてもうまくいくはずがない。日本政府による支那への干渉は、張作霖にせよ、段棋瑞にせよ、いずれも失敗してます。
(シベリアは支那の二の舞になる)
それが行雄の観測です。しかし、行雄の周囲はことごとく賛成論でした。政治家、実業家、学者など国事を談ずるほどの者はおろか、市井の人々までがシベリア出兵賛成論に満ちていました。
「千載一遇の好機」
というのがその理由です。賛成論の論拠は曖昧でした。世論は明治以来一貫して対外強硬論が大勢です。そういう世論に流されぬ強情さこそが、行雄の真骨頂です。行雄には大勢に流されるという習性がありません。この点、同調するばかりの戦後日本人とはずいぶん異なります。四面楚歌の劣勢にあって、むしろ持論の正確さを確信していました。
(やはり日本人の思想感情は好戦論に傾いているのだ)
日本人は幸か不幸か第一次大戦の悲惨を実感していない。あたかも日露戦争の延長のように事態を楽観視している。日本軍は八月十一日にウラジオストクに上陸すると、ハバロフスク、チタ、ブラゴヴェシチェンスクへと進出しました。日本は七万の兵力を投入して沿海州、アムール州、ザバイカル州を制圧下に置きました。
この後、足かけ七年間にわたり日本軍は駐兵を継続します。列国が大正九年までに撤兵したのに対し、日本軍が撤退したのは大正十四年でした。日本軍はロシア国内の反革命勢力に莫大な資金と武器を供給し、あわよくば傀儡政府の成立を期しました。その結果は無惨です。行雄が予期した如く、血税六億円と二千五百名の兵士を犠牲にしながら、何の成果もなくシベリア出兵は終わります。
不思議なことは、これだけの大失敗を犯しながら、なお日本政府は隣国への干渉を止めようとせず、満洲、ノモンハン、北支、中支、南支と際限なく手を広げてゆき、そのあげくに滅亡したことです。国家や国民にも習性があるらしく、その習性は根本的な思想感情が変わらぬ限り、止まるところがないようです。
寺内内閣は、外交課題としてシベリア出兵問題を抱える一方、内政面では物価高騰という大問題を抱えていました。昨年来の米価高騰は止まる気配を見せません。大正七年四月、政府は全国米穀取引所に取引停止を命じ、また外米管理令を出して米の輸入を進めるなどの対策を打ちました。それでも米価の高騰は止まりません。大阪の堂島米会所の記録によれば、大正六年五月には一石十五円前後だった米価が、一年後には二十五円を超え、大正八年五月には四十円、大正九年五月には五十五円に達しました。
米騒動は大正七年八月、富山県魚津で始まったとされます。魚津港から北海道へ米が移送さようとしていました。これに千人あまりの住民が抗議し、嘆願し、最後は実力行使によって米移送を阻止し、一升あたり三十五銭で販売したのです。これを「越中女一揆」と新聞が報道したことから世論が刺激されました。京都、名古屋に米騒動が飛び火しました。そんな折も折、大阪朝日新聞の虚報が世論を煽りました。朝日新聞は、鈴木商店が米を買い占めていると報じたのです。鈴木商店は総合商社であり、樟脳、砂糖、製粉、製鋼、タバコ、ビール、保険、海運、造船などを手広く扱っていましたが、米を買い占めたという事実はありませんでした。それでも朝日新聞の虚報を真に受けて激昂した民衆は、神戸の鈴木商店本社を焼き打ちにしました。米騒動は全国三百五十ヶ所以上に波及し、五十日間ほど続きました。百万人以上が暴動や騒動に参加したとされ、これを抑えるために十万人もの警察官が動員されました。
安泰に見えた寺内内閣は責任をとって総辞職します。大正七年九月二十一日のことです。寺内総理は健康上の問題を抱え、政権維持の気力を失っていたようです。こうなると例によって元老会議です。元老会議は西園寺公望を次期総理に推薦しましたが、西園寺はこれを固辞し、政友会総裁原敬を推薦しました。政党嫌いの山県有朋は意外にもこれを容認しました。
こうして誕生したのが原敬内閣です。大正七年九月二十九日に成立した原内閣は日本初の本格的政党内閣です。閣僚は基本的に政友会から任命されました。政党内閣の誕生を行雄は心から歓迎しました。かつて行雄が政友会に所属していた頃、しばしば原敬と顔を合わせ、党務を議したことがあります。原は極端なほどの理屈屋で、しかも一度言い出したら決して引かぬところがありました。「強情者」と呼ばれる行雄でさえ辟易するほどの強情漢が原でした。その原が人変わりしたのは、大正三年六月、政友会総裁となってからです。原は寡黙になり、人の話を丁寧に聞くようになりました。原敬を知る人は、誰もがその変貌ぶりに驚きました。いったいどのような工夫と修養があったのかは不明ですが、人を容れる包容力を原は短期間に体得したようです。こうして原は政友会の求心力となり、野党時代の政友会をよくまとめ、遂に政友会内閣を組閣するに至ったのです。
行雄は原内閣の成立を祝福し、第四十一議会では一度も質問に立ちませんでした。いつもならば苛烈な言論を以って政権批判をくりひろげる行雄が沈黙を守りました。多くの人が意外に思いました。
(今は好意的中立だ)
行雄の関心はむしろ海外に向いていました。すでに昨年の十一月に第一次世界大戦は休戦となり、パリ講和会議が進行中です。
(戦後世界はどう変わるのか)
すでに行雄には行雄なりの見通しがありました。それが本当に正しいのか否か。それを自身の五感で確かめたいと思いました。
(世界の潮流に逆らえば、国家の盛衰にかかわる)
そういう危機感が行雄を駆り立てました。国会会期中の大正八年三月十七日、行雄は春洋丸に乗って出帆しました。同行者は、息子行輝のほか、田川大吉郎、望月小太郎、鈴木正吾、横山雄偉などです。行雄にとっては三度目の外遊となります。行雄は太平洋航路でサンフランシスコに上陸すると、アメリカ大陸を横断してニューヨークに至り、さらに大西洋を渡ってロンドンに腰を据えました。世界の思想潮流を知るには大英帝国の首都こそ適地です。
世界の変化は行雄の予想を超えて急速でした。民主主義、社会主義、共産主義、日本国内では危険思想として弾圧されている思想が欧米列国においては自由に語られ、説かれるばかりでなく、制度や政策に浸透していました。ハイドパークで自由に演説し、討論している人々を見るにつけ、行雄は羨望とともに嘆息しました。これが日本であったならば、事前に警察に届け出て、巡査の監視を受けねばなりません。しかも「社会主義」などと口にするだけで直ちに止められてしまいます。ロンドンは自由でした。国王陛下のお膝元で共和主義を説く者さえあります。
(言論を圧迫すれば、暴力に走らざるを得ぬ。それが人の情だ)
日本には憲法があり、議会もあります。立憲国であり、議会制民主国家です。形式は整っているのです。しかしながら日本人の根本的な思想感情が未だに封建主義を脱し得ていません。だからこそ政府は言論を圧迫し、時に法律を蹂躙し、選挙干渉さえする。政治家は有権者を買収しようとし、選挙民も選挙違反を不思議とも悪いとも思わず、金銭や接待でおのれの票を売る。この時代の日本社会は地縁と血縁から成り立っていました。頼まれれば嫌とは言い難い。これに金品接待が加われば、何をか言わんやでした。
(人民の蒙を啓かぬ限り日本は変わらない)
行雄が演説に情熱を傾ける理由はここにありました。自由と権利を自覚し、封建的慣習から脱却せぬ限り、憲法と議会を有する立憲国であっても、その実態は専政封建国家と何ら異なるところがないのです。しかしながら、いかに行雄が体力を磨り減らして遊説しても、容易に国民の蒙を啓くことはできません。行雄は無力でした。ですが、無力であることはむしろ活力となりました。
「計ことごとく違って、志いよいよ堅し」
吉田松陰の漢詩に詠われた江戸儒学の結晶のような志士気質が、安政生まれの老政治家の体内には息づいています。
ベルサイユ条約が調印されたのは大正八年六月です。パリ講和会議の模様をロンドンから注視していた行雄には、日本代表団の不活発な外交が大いに不満でした。この会議において日本は五大国に列しましたが、日本代表団はそれだけで満足してしまったかのようでした。日本側から積極的な交渉を提議するわけでもなく、列国から水面下の交渉を持ちかけられるでもなく、ただ提議された案件に唯々諾々と従っただけでした。
「日本は孤立なり、無援なり、日英同盟在りと雖も、なおこの孤立無援の境遇より救出すべき力となすに足らず、東洋において当然日本と提携すべき支那は、すでに日本にそむきてパリ講和会議を翻弄し、努めて日本を避けて英、米、仏と結ばんとし、米、仏また満腔の熱情を傾けて、日本と相提携するの意ありとは思われず、現在において形成すでに然り、況んや将来に於いてをや」
行雄は帰国後に書きました。早くも日本の国際的孤立を憂え、それ故に生ずる経済の行き詰まりを案じました。しかし、世論は楽観的です。日本国民は、日本が五大強国に列せられ、一等国となったことに狂喜し、有頂天になっています。行雄の思想と国民世論とが大きく懸隔していくのはこの時期からです。
「内閣の諸公も、我が国民も、徒に現在の五大強国という迷想に酔いて、何ら将来に処するの道を講ずるの模様なし。鼓を鳴らしてこれを警告すと雖も、政府はこれを笑い、政党は冷視し、国民は周知せざるの観あり」
行雄は念願だった戦跡視察を行いました。大正八年九月です。休戦から十ヶ月が経過しています。トーマス・クック社の団体旅行に参加しました。一行は三台の自動車に分乗してフランス、ベルギーの戦場跡を視察しました。行雄はその凄惨な光景に息を呑みました。イープル、ソンム、ベルダンなどの激戦地は見わたす限りの荒廃地でした。何もない。そこに街があったとは思えぬほど根絶やしにされています。森林の跡には砲弾によって砕かれた木々の幹がササラの様になって林立しています。在るものといえば堡塁の残骸、撃破されたタンク、鉄兜、銃剣、銃砲弾、塹壕、鉄条網だけです。文章家の行雄でさえ、この場景を表現するのは不可能に思われました。
天の魔も地の魔も怯ぢん 人の子が国のためとて為せるこの業
そう詠んではみましたが全く不充分だと感じました。この胴震いするような凄惨さは、現場に立たぬ限り理解できないでしょう。出来ることならこの凄惨な風景を日本に持ち帰りたいと行雄は思いました。それが出来れば近代戦争の恐怖を日本人に伝えることができます。しかし、写真や絵画や文章ではもちろん、最新の活動写真でも不可能でした。
当初、行雄は戦々恐々としつつ戦跡に足を踏み入れました。行雄にとって幸いだったのは、戦死者の遺体がすべて片付けられていたことです。すでに六十才に達している行雄ではありましたが、屍体を見るのがどうしても苦手です。幼い頃、父に言いつけられて屍体を見に行かされた時の恐怖と嫌悪は未だ生々しい記憶として脳裏にとどまっています。
ロンドンに帰ってみると英国議会は予算不足を問題にしていました。世界最大の帝国であり、戦勝国でもある大英帝国が莫大な戦費を調達できずに四苦八苦していたのです。
(もはや勝ちも負けもないのだ)
戦争に勝てば領土を拡大でき、賠償金を得られ、国益を増進するというかつての常識が覆りました。
(このことに気づいている日本人が何人いるだろう)
戦後世界の潮流について確信を得た行雄は帰国の途につきました。ロンドンを発ち、アメリカを横断し、太平洋航路を諏訪丸で航行し、大正八年の大晦日に帰国しました。
大正九年正月、すでに第四十二議会が始まっています。行雄は議会活動よりも執筆に精力を注ぎました。世界の思想潮流が変わりつつある事実を示し、日本のとるべき進路を明らかにせねばならないと考えたのです。いわば政治政策論のテキストを書き上げ、そのうえで演説活動に邁進するつもりです。行雄は「欧米の空気」、「憲政の危機」、「解散と普選」、「軍備制限論」、「国福は来たれり」、「新日本建設の基点」等の論文を書き上げました。
行雄は民主主義が世界的潮流として動かし難いことを悟り、日本もその流れに乗るべきだと確信しました。そうしなければ日本は孤立するに違いない。然るに日本国内には今なお封建的な思想感情が蔓延し、あまつさえ政府は民主主義を危険思想として弾圧しています。行雄は民主主義を王道という言葉に置き換えて、その誤謬を正そうとしました。
「今日謂うところの軍国主義、帝国主義はみな覇道であって、正義、人道、自由、平等又はデモクラシー即ち世人のいわゆる新思想なるものは、古来唱えられたる仁義を元とするところの王道である。されば軍国主義の撲滅は覇道の撲滅にして、いわゆる新思想なるものの勃興は王道の復古還元に過ぎないのだ」
覇道か王道か、どちらかを選べ、と問えば日本人なら王道を選びます。一種の詭弁ですが、日本人の蒙を啓くための論理でした。さらに、日本の国体はそもそもが民主的なものなのだと行雄は説きました。
「今日言うところの民本主義とか民主政治とかは、要するに徹底的多数政治の意味に外ならないのであって、即ち明治天皇陛下がご即位の際に、天地神明に誓わせられたる五箇条の御誓文中の趣意精神に帰着するのである」
行雄が政治家として民権論、自由主義、民主主義を主張する理由はまさにここにあります。行雄の信念の基点は尊皇です。尊皇と民権とは何ら矛盾するところがありません。民権伸張こそが大御心であると行雄は信じていました。
「私の確信するところによれば、日本の国体が万国無比なる所以は、端的にその民主的なる点にある。即ち外国の民主が、君民争闘の結果として強奪したる民主なるに反して、我が国の民主は君臣和合の結果として慈与せられたる民主なるが故に万国無比である。世間には内々強奪したる民主でなければ、正当の民主ではないというものがあるが、これ大なる僻論である」
日本の民主は君臣和合の結果であるが故にこそ万国無比であるとして国民の理解を得ようとし、民主主義が日本の国体と何ら矛盾しないことを訴えました。行雄に言わせれば民権論や民主主義は尊皇や国体と何ら矛盾しないのです。というよりむしろ明治帝の遺徳に沿うものです。しかるに政府は維新直後の開明性を失い、早くも保守化しました。
「明治維新の大精神は、疑いもなく封建的不平等を打破して、四民平等の王政の古に復することであったが、閥族官僚の徒の権を専らにするに及んで、その大精神は著しくこの発現を妨げられ、今や社会の制度法律の上に大分不平等なる事実が現われるに至った」
行雄の政治活動は一貫して閥族官僚との政争です。四民平等とは名ばかりであり、閥族の特権を認める法制度が成立し、封建的思想から発する行政措置は各種の自由を制限しています。
「一部官僚群閥の徒は、自己を持って我が国体に対する最上の理解者、我が皇室に対する最高の忠義者なりと独断し、このドグマの城塞よりみだりに他を危険視してこれに威圧を加え、又は無用の指導を強いんとする」
小学校では四民平等を教えていますが、一歩でも社会に出れば、様々な不平等の障害が子供達を待っています。
「一度校門を出づれば、社会の制度法律は十重二十重に、不平等の垣を築いて、学校内の劣者を譲り、優者を虐げ、自由競争場裡における劣者が、社会を支配するような不合理が存在している」
行雄は今でいうところの機会均等論者です。
「私の四民平等というのは、未だ一切の貧富を絶したる絶対的平等ではない。社会生活の競争場裡に於いて、国民のすべてに均等なる機会を許せと言うのである」
行雄は教育の内容に強い不満がありました。四民平等は教えるが、世に現存する不平等の実態は教えない。臣民の義務は教えるが、権利や自由については教えない。
「治国のためにとるべき唯一の方法は、現在の不平等なる法律、制度、行政を改革して、四民平等の国民教育が徹底していくより外はない事になる」
行雄は日本人の一等国意識を遺憾とし、その誤謬を解くべく繰り返し論じます。
「国運大いに進歩発達したように見えるが、その実は武力だけの発達であって真誠の国力の発達ではない。表面は一等国の仲間に入ったが、外債を募るときは二等国、三等国並みの利子を払わなければならない。武力では一等国、経済力・文化力等では二等国以下、すなわち偏武的片輪国が出来たのだ」
不幸にも、日本の実態を抉り出す行雄の論説はあまり普及せず、耳障りのよい一等国の三字が人口に膾炙していきます。日本は日清、日露の両役によって朝鮮、台湾、関東州、南樺太という領土を得ました。しかしながら、領土の開発は必ずしも進んでいません。移住も販路拡大も資源探査も進んでいません。日本の経済力というのはその程度でしかなかったのです。それを一等国と思い込むことの危うさを行雄は思いました。こうした日本人の勘違いを生んでいる要因のひとつは新聞です。日本人は活字を信じやすい。
「今日の如く新聞の読者が増加し、しかもその記事論説が読者の脳髄を支配する世の中においては、新聞の書き方次第で国民の思想は善悪いずれにも変化する。ことにわが国人は印刷物に対して格外の信用をおく習癖がある。古来広く四書五経などを読ませ、書中の一句一言ことごとく聖賢の教えとして絶対信仰を要求したためでもあろうか、わが国人は印刷物に対してはほとんど迷信的信仰を持って居る。当人が直接に話しては信用しない事柄でも、これを新聞紙に載せて読ますれば、一議に及ばず確信する人が多い。不思議なような事実だ。こういう人々が何百万人も朝夕二回ずつ新聞紙を読むのだから、否、新聞に読まれるのだから、その紙上に現われる記事論説は、善悪にかかわらず、全国人民の精神状態に偉大なる影響を与える」
行雄は自身の子供や書生には、物事の裏面を見るようにと常に教育しています。例えば「学校で習ったことであっても鵜呑みにするな」と教えました。ある日、三女の雪香が紀伊国屋文左衛門のことを興奮気味に話しました。学校で教わってきたのです。文左衛門は江戸の大火を商機ととらえ、紀伊の材木を買い占めて大儲けしました。偉いものだというのです。
「ちっとも偉くありません」
行雄はにべもなく否定しました。大火で江戸の人々は困っていたに違いない。無料で配ったというのであれば偉いが、人の弱みにつけ込んで金儲けをしたのは以ての外である。物事は両面から見なければならない。こんな調子です。家族や書生であればそれでよいのですが、無謀にも行雄は、すべての日本人を相手に政治教育をしようと考えました。無謀であろうがなかろうが、行雄は自身の役割をそう認識し、残りの人生をその使命のために投げ打とうと決意しました。この後、行雄は政争や政党から身を引いてゆき、一個の啓蒙家となって全国各地を遊説することになります。
「私は政党政派を眼中に置かず、あらゆる方面に種子を蒔くつもりである」
明治帝が蒔いた民主の種を育てようと行雄は考えたのです。しかし、その種を包む土壌は封建思想であり、閥族官僚に支配された社会であり、一等国と自惚れている世論です。はたして、この土壌に民主の種が根付くかどうか。




