戦争と平和
大浦事件に対する善後処置について閣内の意見は割れました。加藤外相をはじめ同志会所属の閣僚は総辞職を主張し、一木文相と八代海相もこれに賛同しました。要するに内閣の連帯責任として総辞職すべきだというのです。行雄はこれに反論しました。
「今回の事件に対し大隈内閣に責任のあることはいうまでもない。大隈総理には監督責任がある以上、しかるべき方法で陛下に対して申し開きをせねばなるまい。しかし、だからといって総辞職する必要はない。そもそも議員買収事件は大浦君の単独行為である。閣議にあがった問題ではないから、我々は問題が発覚するまで何も知らなかった。関知しない問題について責任を負うことは不可能である。閣議に付された問題については内閣が連帯責任を持つのは当然だが、この問題は性質が違う」
行雄の理屈にも一理ありましたが、買収を閣議にかける馬鹿もないでしょう。それに行雄は知らなかったとはいえ、他の閣僚は知っていたのかも知れません。いずれにしても例によって行雄の意見は少数派です。すでに辞表が用意されています。多数意見は総辞職であり、賛同者は次々と辞表に署名していき、ついには大隈総理までが署名しました。
「尾崎君は一人で内閣をおやりになりますか」
加藤外相が冷酷な表情で嫌味を言いました。こうなっては行雄も署名せざるを得ません。
「大隈総理が辞表に署名された以上、私も署名します。しかし大浦事件の連帯責任とは意味が違う」
筆をとった行雄を八代海相がなじりました。
「憲政の神様も怪しくなってきたなあ」
行雄はキッと顔を向けました。
「責任の大義を明らかにすることこそ、憲政の神たる所以である」
この間、大隈総理は無言で通しました。こうして大隈内閣は総辞職の意を明確にしたのですが、天皇陛下は大隈を慰留しました。そのため大隈内閣は改造されることになりました。加藤外相、若槻蔵相、八代海相が辞職し、石井菊次郎外相、加藤友三郎海相、武富時敏蔵相らが任命されました。大隈総理は内閣改造に際して行雄の意見を聞き、ほぼそのとおりの組閣を行ないました。ようやく行雄の意見が少しは通りそうな内閣ができあがったのです。
大隈改造内閣が発足したのは大正四年八月十日です。行雄は気が早い。駐仏大使だった石井菊次郎外相がまだ帰国しないうちに外交案件を閣議に持ち出しました。
「袁世凱は皇帝即位を画策して居る模様であるが、袁皇帝などが出現すれば、支那は内乱になるであろう。日本としては袁に忠告してこれを止めさせねばならない。日本が動けば列強諸国も追随するであろう。さすれば我が外務省が東亜外交を主導することができる」
中華民国総統の袁世凱は野心を逞しくし、皇帝に登ろうと画策していました。もし実現すれば、すでに三民主義の洗礼を受けている支那人民は反発し、支那の治安は大いに乱れるに違いない。これは隣国日本にとって迷惑であるばかりでなく、欧州大戦で大忙しの欧州列国にとっても大迷惑であろう。そこで日本が主導して袁に対して皇帝即位の中止を勧告するのです。大切なことは主導することでした。これまで日本外交が主導性を発揮したことはほとんどなく、欧米の提案に追随するばかりでした。行雄はこれを遺憾としていましたが、今こそ挽回の好機と見たのです。ともかく一歩先に提唱すれば他国に先んじることができます。好機逸すべからずとばかりに閣議に持ちこんだのですが、閣僚からはいっさい賛否の意見が出ません。行雄のような外交感覚の持ち主は閣内に居らず、結局、石井外相の帰国を待つことになりました。
数日後、外務省の幣原次官と小池局長とが所管事務報告のため内閣に来ました。事務報告を終えたふたりを行雄はつかまえ、気楽な世間話の体で持論を開示してみました。
「どうだろう。いま日本が袁世凱の皇帝即位に反対すれば列国はついてくるのじゃないかなあ。諸君はどう思う」
志士的心情に富む小池張造局長は身を乗り出しました。
「日本が発議すれば列国はついてくると思います」
幣原喜重郎次官もこれに同意しました。
「日本が先んずれば、今後のアジアの外交を日本が指導できるかも知れませんね」
先の閣議では沈黙していた閣僚までが、この雑談を聞き、身を乗りだしてきました。
「面白いからやってみろ」
しかし、石井新外相はまだ欧州航路の船中です。小池局長は日本から逆航して石井外相の乗船をつかまえ、船中において経緯を説明、説得することになりました。行雄の発議は、やがて中華民国に対する勧告として結実します。大正四年十月、日英露三国は帝政施行の延期を袁世凱に勧告しました。にもかかわらず十二月に袁が皇帝即位を強行すると、日英露米仏五ヶ国は共同宣言を発して袁の不誠実を責め、帝政によって生ずる負担の総てを中華民国が負担すべきだと主張しました。いずれも日本主導の共同勧告です。これ以後、英国は支那政策における日本の主導性を認め、支那政策に関しては何事も日本政府に相談するようになりました。尾崎外交の成功でした。
(入閣した甲斐があった)
行雄は初めて思いました。ところが日本政府のこの措置を快く思わぬ者たちが権力のすぐそばに居ました。山県有朋等の元老です。袁世凱はあらかじめ日本の元老に手を回し、皇帝即位についての内諾を得ていたのです。元老はそのつもりでした。それが意外なことに、日本を含む列国による帝政批判です。しかも日本政府がそれを主導していたという。
(我が政府は何をやって居るか)
山県有朋は大隈総理や石井外相の顔を見るたびに対袁政策の緩和を求めるようになりました。十一月になると大正天皇即位式のため全閣僚と元老が京都に会合しましたが、山県はこの機をとらえてしつこく説得をくり返しました。このため大隈総理も石井外相もグラグラしはじめました。ついには対袁政策の転換を閣議で言い出す始末でした。行雄は嚇怒しました。
「元老などの言によって、せっかく確保した外交的主導性を放棄するようなら私は辞職する。私は野に下って、世論の法廷で諸君と決戦しよう」
閣議は紛糾しましたが、対袁政策の継続に落ち着きました。行雄の意見はかろうじて閣議を制しました。ついでながら袁世凱は帝位に就いたものの、列国から反対され、さらに国内の反乱が激化したため、大正五年三月に退位し、総統に戻りました。
第三十七議会は十二月十日に始まりました。与党の多数を背景として、大隈内閣は順当に予算案等を通過させることができました。行雄は司法相として大浦事件に関する質問に答えました。なかでも斎藤隆夫議員は、本会議や予算委員会などで五度にわたり尾崎大臣の答弁を求めました。斎藤議員の質疑は詳細かつ執拗でした。大浦の起訴を猶予した刑事政策の是非、大量検挙が発生した福岡県における苛酷な取調の有無、取調と人権の問題、検事の登用標準と学閥の存在、大正天皇のご即位に伴う大赦などについて斎藤議員は質問しました。斎藤の質問は、いわゆる中傷のための質問ではなく政策論争でしたから、行雄にもやり甲斐がありました。正面から受けて立ち、大いに論じました。
大正五年は平穏に過ぎ、大隈内閣が成立して二年が過ぎようとしていました。高齢の大隈は疲れはじめたらしく、ときどき愚痴のように辞意を漏らすようになりました。一方、元老の方もイライラしてきました。
「大隈内閣など、どうせ半年か一年だ」
そう思っていた元老は何くれと大隈内閣の政策にケチをつけ、退陣を迫るようになりました。
「いま円満に辞職すれば元老の椅子が転がり込んできます」
そう言って大隈の辞職を誘ってくる者もありました。大隈総理は辟易してきました。
「もうそろそろ辞めたいんだけれども、後任者がいないから困るんであるんである。藩閥に譲るのだけは業腹だからなあ」
大隈総理はしばしば行雄にこぼしました。笑って聞き流していた行雄ですが、同じ愚痴を何度も聞かされるに及んで放っておけなくなりました。
(大隈さんは本気なのか?)
すでに高齢に達している大隈の耄碌ぶりは誰の目にも明らかです。大隈が、ある日、突然、勝手に辞職してしまう心配がないではありません。この日、行雄は大隈の愚痴をとらえ、真剣な提案をしてみました。
「愚痴ってばかりいても後継者はできません。しかし、つくれば出来ます。あなたの公友倶楽部、加藤高明君の同志会、私の中正会、この三派を合同して過半数を占める大政党を組織し、その党首を加藤君にすれば、自然と後継者はできます」
大隈は賛意を示しました。そこで行雄は一本釘を刺しておきました。
「新政党を組織しても一年くらいは訓練期間をおかなければ政権を担当することは出来ません。ご存じのように、かつて憲政党も政友会も立党直後に政権を担当させられて失敗しました。もしあなたがもう一年がんばるなら、私は三派の合同に動いてみましょう。そうでないなら中正会は参加しません」
「よかろう。一年くらいはやってみせよう。是非、新政党を組織してくれ」
行雄の合同工作はうまくいきました。そもそも大隈が同意しているし、同志会の加藤にすれば総理の椅子が自動的に転がり込んでくるのです。事実、大隈は政務奏上の際に自身の老骨に触れ、近いうちに辞職するつもりであると申し上げ、後任者として加藤高明の名を挙げていました。こうして十月十日に憲政会が設立される運びとなりました。党首は加藤高明。衆議院で百九十九議席を有する最大勢力となるはずでした。
このまま憲政会が設立され、無事に一年が経過すれば、行雄の計画どおり、政党主導による政権交代が実現するところでした。ところが、気の短い連中が大隈総理に対して辞職を勧告しはじめました。一年先などといわず直ちに加藤総理を実現させようというのです。なかには大隈を強迫する者さえいました。
「あなたが辞めないなら同志会所属の閣僚を全員辞職させます」
大隈は我慢の限界に達してしまったようです。藩閥元老から責められ、そのうえ同僚であるべき同志会からも攻め立てられ、馬鹿馬鹿しくなったのでしょう。誰にも相談せずに単独参内し、辞表を捧呈してしまいました。十月四日のことです。大隈総理は後任に加藤高明を推薦して一応の義理を果たし、そのまま辞去しました。行雄がこの事実を知ったときはすでに手遅れで、辞表に署名するほかありませんでした。
大隈の辞任を知った元老山県有朋は直ちに参内、次期総理に寺内正毅を推薦しました。寺内は山県子飼の藩閥政治家です。細心にして執拗な山県は、参内した後も辞去することなく宮中に踏みとどまり、御沙汰の降るのを待ち続けました。山県の神妙な態度が叡慮を動かし、大命は寺内正毅に降下しました。加藤高明にしてみれば鳶に油揚げをさらわれたようなものです。こうして藩閥政府が再登場しました。山県の策動も巧妙でしたが、それ以上に政党政治家の失態です。権力の座を渇望するあまりに抑制を失し、自らの手で禅譲の機を逃したのです。政党政権移譲の受け皿として設立されたはずの憲政会は、一転、野に下りました。
行雄は失望しませんでした。むしろ公務から解放されると、待ってましたとばかりに政治活動を再開し、精力的に各地を遊説して回り、憲政擁護と滅閥興民を訴えました。
第三十八議会は十二月二十七日に開会し、二十九日から休会となりました。寺内内閣の苦戦は必至の状況です。寺内内閣は政友会と国民党を与党としていますが、この二党の議席数は過半数に達しません。過半数を有する憲政会は、予算案をはじめとして政府案のことごとくを否決することができます。
そのような情勢下、国民党の犬養毅から意外な申し出が憲政会に持ちこまれました。寺内内閣不信任決議案を上程するから憲政会もこれに賛成して欲しいというのです。協議のため憲政会の幹部が集められました。総務委員の一人として行雄も党議に参加しました。大勢は賛成論です。不信任案が出るというのであれば、憲政会としてはこれに賛成し、内閣総辞職か衆院解散に追込めばよい。これは議会戦術の基本です。とはいえ、与党の一角たる国民党が不信任案を提議してくるというのはどう考えても不自然です。
(木堂はいったい何を考えているのやら)
木堂とは犬養毅の雅号です。犬養毅は不信任案提出の理由として寺内内閣の超然主義を掲げていますが、そんな理屈はどうとでも言えます。
(これは反間苦肉の策ではないか)
行雄は疑いました。与党が仲間割れをしていると見せかけて憲政会を誘い、内閣不信任案を通す。寺内内閣は衆議院を解散し、総選挙に持ちこむ。ここで問題になるのが選挙の勝敗です。過去の総選挙では常に与党が勝利し、野党が敗北しています。与党勝利の裏側には内務省による選挙干渉があります。これは疑いようもない日本政治の病弊です。藩閥政府たる寺内内閣は容赦なく干渉を決行するでしょう。結果、与党政友会は大勝するに違いない。だが国民党は苦しくなる。内閣不信任案を提出した手前、野党として選挙を闘わねばなりません。ですが、おそらくそれも計算のうちなのでしょう。いわば国民党を犠牲にして政友会を大勝せしめ、衆議院の過半数を得ようという計略です。それならば国民党があえて内閣不信任案を提出したのも筋が通る。
(もしそうだとすれば木堂はよくぞ納得したものだ)
なにしろ自党を犠牲にするのです。通常ならば出来ることではありません。しかし、それが起こりうるのが政界です。行雄はそうに違いないと確信しましたが、発言はしませんでした。客観的な証拠が何もないし、発言したところで加藤高明総裁が行雄に同意することはありえません。ふたりの関係はすでに冷え切っています。党議は不信任案への賛成に決まりました。
大正六年一月二十三日に国会は再開しました。この日、行雄は本会議に出席し、その後は演説会に出ました。その翌日も同様の日程です。行雄は予算委員会に出席した後、明治座の演説会に参加しました。
(最近、壮士が増えたなあ)
寺内内閣成立後、目立って壮士が増え、行く先々の演説会が荒れているのです。国会開設当時は盛んに横行した壮士も近頃はよほど減少していたのですが、また復活したかのようです。この日、明治座は盛況で、百名を超える巡査が警戒していましたが、それでも場内各所で喧嘩が起こり、罵声が飛び交い、不穏な雰囲気に包まれました。三階で喧嘩を始めた二人がもつれ合ったまま花道に落ちてきました。
「おおっ」
場内に驚声が湧き上がり、巡査が駆けつけます。こういうことには慣れっこの行雄は、いつもどおり演壇に立ちました。演説を始めてしばらくすると一人の壮漢が舞台に駆け上がってくるのが見えました。手元に短刀が光っています。男は刃を上に向け、行雄をめがけて突進してきます。行雄は妙に冷静でした。その場を動かず、刃の動きを見ました。兇刃が行雄の胸に到達しようとする刹那、くるりと身を捻り、刃をかわしました。男は目標を失い、前につんのめります。あとは大混乱です。場内は総立ちとなりました。巡査の警笛が鳴り、壮漢に向かって数人が突進し、興奮した聴衆が舞台に駆け上がり、彼方此方で殴り合いが始まりました。行雄は動かずに立って居ましたが、突然、ぐいと後から引っ張られ、逞しい腕に羽交い締めされ、舞台下の薄暗い小部屋に押し込まれました。非力な行雄は抵抗のしようもありません。
(俺もこれまでか)
背筋にヒヤッとする悪寒が走りました。
「先生、しばらくここで」
その声で味方と分かりました。行雄は一安心し、狭く薄暗い小部屋で聞き耳を立てました。会場の混乱はなかなかおさまりまっせん。巡査が駆け回り、声をからしています。うなりのような喚声は徐々に落ち着いていきました。壮士たちが巡査に拘束され、場内が冷静を取りもどし始めます。もちろん演壇に尾崎行雄の姿はありまえん。すると行雄を案ずる声が場内に湧きだしました。
「尾崎君は如何」
「尾崎君は無事なり哉」
尾崎行雄の安否を問う声が場内に満ちました。主催者側は会場内の安全を確認し、協議の上、尾崎行雄は無事であるとを聴衆に告げ、演説の再開を予告しました。場内は大歓声となりました。
「尾崎君万歳」
歓呼の声に迎えられて行雄は演壇に立ちました。
「諸君」
いつもどおりの落ち着いた声で行雄は演説を再開しました。どういうわけか記憶が冴え、中断した箇所を憶えていたので、そこから再開しました。落ち着き払った行雄の態度に聴衆は感嘆しました。この日の模様は新聞や雑誌に掲載され、憲政擁護の闘士として尾崎行雄の名を高からしめました。
翌二十五日の本会議は午後一時十一分から始まりました。議事の進行するなか、緊急動議を提案したのは福田又一です。
「緊急動議があります。今日の議事日程を変更しまして重大なる案件なる政府不信任決議案を直ちに議事に上せて、十分の討論あらんことを望みます」
この動議に衆議院が賛成し、政府も同意したため、政府不信任決議案の審議が始まりました。趣意弁明に立ったのは犬養毅です。犬養は超然内閣に対する批判論を展開しました。その内容はいわゆる藩閥批判であり、政党政治家たる犬養の持論というべきものでした。
(木堂はいったいどこまで本気なのか)
これがもし演技だとすれば上出来だと行雄は思いました。かねてより行雄は、この不信任案を反間苦肉策だと見ていますが、その真相は確かめようもありません。犬養に次いで登壇したのは政友会の元田肇です。元田は不信任案への反対演説を行いました。続いて寺内正毅総理が登壇して所信を述べ、不信任案への反対と提案者への反省を求めました。その次が行雄の出番です。
「尾崎行雄君」
島田三郎議長の指名に応じて行雄が登壇すると、議場に拍手が湧き上がりました。議場が静まるのを待ち、行雄が第一声を発しようと口を開けた瞬間、島田議長が発言しました。
「諸君、詔勅が降りました」
行雄の予想どおり、寺内内閣は衆議院を解散しました。
第十三回総選挙が始まると、行雄は例によって四十日間の遊説を敢行しました。自分の選挙区を放置して、党友の応援演説に行雄は奔走しました。連日の車中泊で距離を稼ぎ、多い日には一日八回の演説をこなしました。やがて行雄の体力が尽きました。投票日の三日前、行雄は高熱を発して床に伏しました。身動きできないどころか、舌さえ動かない。無理にしゃべろうとすると舌が激しく痛みます。一方、寺内内閣は与野党逆転に向けて選挙干渉に動いていました。
「不自然なる多数党の打破」
この大義名分を掲げたのは内務大臣後藤新平です。不自然なる多数党とはもちろん憲政会のことです。後藤内相は、選挙取締の名目で官僚を全国各地に派遣し、実際には選挙干渉を督励せしめました。地方長官、警察官、在郷軍人、学校職員等、ありとあらゆる官脈を利用して政友会を応援し、憲政会の選挙活動を妨害しました。四月二十日に行なわれた投票の結果は、行雄の予想どおりとなりました。政友会が百六十五議席を獲得して第一党となり、憲政会は大幅に議席を失って百二十一議席を確保するに止まりました。苦戦が予想されたはずの国民党さえ議席を増し、三十五議席を得ました。
(木堂の大成功だな)
行雄がにらんだとおり犬養毅が反間苦肉の策を施したとするなら、まさに思惑どおりの結果だったでしょう。選挙後、寺内内閣はさらに巧妙な工作を行ないました。臨時外交調査会の設置です。その主要構成員は、総理、外相、内相、陸相、海相のほか、与党党首です。この調査会の目的は国防と外交に関する国策を定め、議会状勢や政権交代によって方針がぶれたり遅れたりしないようにすることです。一見もっともらしいですが、外交と国防を議会から切り離すための策謀とも見えました。憲政会は臨時外交調査会への参加を拒否しました。ですが、与党の政友会と国民党は参加しました。さらに、新党の維新会までが与党側についたため、与党の議席は二百を超え、野党は憲政会ただ一党という勢力図となりました。
憲政会の苦戦必至の第三十九議会は大正六年六月二十三日に始まりました。行雄は二十七日の予算委員会と三十日の本会議で質問に立ちました。特に三十日の本会議では寺内内閣不信任決議案提案者の一人として登壇し、二時間半にわたる熱弁を振るいました。これほどの長時間を要した理由のひとつは、絶え間ない野次による議事妨害があったからです。
「身の程を知れ」
「自分たちはどうだ」
「大隈内閣はどうだ」
「ノウノウ」
「それは皆、自分の方だ」
「それだけは言わぬ方がよい」
「馬鹿なことを言ってる」
「降壇すべし」
「やかましい」
「まだやるのか、つまらぬことはよせ」
「共和思想が充満して居る」
「恥を知れば下がれ」
「落第、落第」
「尾崎も耄碌したな」
「それは大隈内閣のことだ」
「田舎の政談演説」
「大浦問題はどうした」
衆院議長は議場整理に声を涸らしますが、野次は収まりません。行雄も言い返さざるを得ません。
「諸君が静かにすればなるべく簡明に述べてすみやかに降壇いたすが、騒ぐ以上は何時間たとうとも降壇しない」
行雄は野次の豪雨に耐えながら寺内内閣の弾劾演説を続けます。そして、外交調査会のことに触れました。
「輔弼機関の他に啓沃機関を設けたものでありますが故に、憲法の正條とは違うたる違憲の事たること疑いを容れぬのであります」
輔弼機関たる内閣があるにもかかわらず、屋上屋を架すように啓沃機関を設けたものが外交調査会だと行雄は訴えました。これでは国家権力が二元化し、統一が取れなくなる。政府はこれまでも、そしてこれからも議会を有名無実化するために機関を新設するであろう。これは憲法違反であるとしました。
次いで行雄は地中海への特務艦隊派遣について注文を付けました。政府はすでに同盟国イギリスの要請に応えるため、地中海に第二特務艦隊を派遣していました。同艦隊は巡洋艦一隻、駆逐艦十二隻からなり、その任務は連合国軍輸送船団の護衛とドイツ軍潜水艦の撃沈です。同艦隊は一年半にわたって船団護衛活動に従事し、地中海全域を縦横に駆け回り、数十回に及ぶ海上戦闘に耐えました。同艦隊の貢献は高く評価され、犠牲となった七十八名の慰霊碑が現在もマルタ島にあります。行雄は艦隊派遣に反対はしませんでした。ただその手続上の問題を指摘しました。
「この度の日独戦争は戦争の御詔勅にも明らかに書いてあるが如く、その区域は日英同盟条約の範囲内であります。故に自然にその区域はインド以東ということに限らるるのである。日英同盟条約にも無論そのとおりになって居る。然らば地中海に軍艦を出すということは確かに御詔勅ならびに日英条約の範囲外の働きであるということは疑いを容れぬ」
行雄のこだわりは法治ということです。詔勅や条約などを政府が勝手に拡大解釈することへの懸念です。続いて行雄が俎上にあげたのは支那問題です。
「現在の内閣の失策は多しと雖も、支那に対する失策ほど重大なるものはない。不干渉と唱えておりながら指導誘掖と称して色々なことをして居る。しかしてその機関としては無責任なる民間人を使い、ほとんど公使、外務省を度外して、国家の重大なる事件を交渉せしむるという働きをすら致しておるのである」
行雄のいう民間人とは西原亀三のことです。西原は朝鮮で成功した事業家で、朝鮮総督時代の寺内正毅と相知るようになりました。寺内内閣成立後は、北京の段棋瑞政府と日本政府との仲介役を務めています。北京政府は親日的でしたから、寺内総理としてはこれを支援して支那大陸への地歩を固めようとしたのです。しかしながら袁世凱死後の支那大陸は混乱を極めています。満洲には張作霖の軍閥政府があり、北京には段棋瑞政府があり、南部には孫文の系統をひく広東政府があります。このほか各地には小規模な軍閥が群立していて、将来を展望しがたい状況です。そのなかでも張作霖の如きは、日本陸軍の支援によって勢力を拡張したにもかかわらず、今では反日的態度を取りはじめています。いわば飼い犬に手を噛まれたようなものです。混乱状態の他国に干渉するのはいかにもあぶない。寺内総理の北京政府支援は張作霖と同じ轍を踏むのではないか。行雄はそう危惧し、そのことを訴えました。一方を援助すれば他方からの反発を招くのは当然で、事実、北京政府への援助を理由に広東政府が日本を非難してきています。
「ことに北洋軍閥派の機関であるところの交通銀行に五百万円の金を貸してこれを政治的の目的に使わせたということは、弁解せんとして弁解すること能わざるところの事実であります」
政府の正式な機関や法的手続きを無視し、隣国の内政に不用意な介入を実施することの違法性を行雄は指摘しました。この指摘は結果的に正しかったといえます。この翌月、寺内内閣は段棋瑞政権の支援を閣議決定し、西原亀三を介して一億八千万円に及ぶ各種援助を実施します。その効果は結果的に皆無でした。多額の援助金は北京政府内で雲散霧消してしまいました。日清戦争の賠償金の大部分をドブに棄てたようなものでした。
行雄は言論弾圧にも言及しました。寺内内閣は元老批判を厳しく取締り、これに不敬罪を適用していました。
「元老その他の権臣を保護するがために、ややもすれば帝室に関係する罪名を以って之を告発し、検挙するに至っては実に驚くべきものがあります」
不敬罪は皇室に対する罪を定めたものであり、刑法第七十三条から第七十六条までに明記されている。あたりまえだが元老は皇室ではない。その元老に不敬罪を適応するのは明らかにおかしい。このほか行雄は選挙干渉等の問題などをあげて寺内内閣不信任の理由としました。
行雄をはじめ憲政会の議員は奮闘しましたが報われず、投票の結果、内閣不信任決議案は反対多数で否決されました。
大正六年、行雄は「立憲勤王論」や「憲政の本義」、「咢堂叢書」等を出版しています。このうち「立憲勤王論」はベストセラーになりました。同書の中で行雄は日本人の思想傾向を論じます。
「孤島の住民は、その地理的関係上、自ら排外思想を起こし易し。特に古来海外列国との交通極めて尠少なりし我が帝国人民の思想感情は、ややもすれば排外孤立に傾きやすきは自然の理なり」
幕末の日本を風靡した尊王攘夷思想はその顕著な例です。それが維新後、強烈な崇外思想に変わりました。海外文明を崇拝し、洋行した日本人の多くは胸に劣等感を抱いて帰国しました。日本人の思想感情は排外から崇外へと大きく揺れています。
「極端なる原動が、極端なる反動を生ずるは物理の原則なり」
行雄は来るべき反動を予想します。日清日露の戦役を勝利し、不平等条約を解消し、世界大戦の特需景気を謳歌しつつある日本人は今や大なる自信を持ち始めています。
「その最も反動的勢力に感染したるものは、ほとんど幕末の攘夷と選ぶ所なきに至れり。此の輩は、事実を外にして空想にふけり、我が帝国の資源、兵力、知識、道徳、美術、工芸、商事、産業、皆以って全世界に横行闊歩するに足れりと妄断す。これ純然たる誇大妄想狂に非ずや」
日本が無謀な誇大妄想に陥ることを行雄はおそれました。その傾向の端緒を行雄の慧眼は的確にとらえ、すかさず警告を発したのです。しかし、多くの先覚者がそうであるように行雄の言説は理解を得られません。行雄は常に大日本帝国に対する警醒者として発言しつづけましたが、世に容れられることは薄かったのです。それでも行雄は考え、発言し、演説しました。
「大戦後の世界はどう変わるか」
この時期の行雄の重大関心事です。第一次世界大戦はすでに三年目に入っています。戦線は硬直化し、見通しのきかない長期戦が続いています。欧州列国はいずれも疲弊し、平和を希求しています。すでにドイツの敗戦が予想されていましたが、行雄は文明史観からこの戦争の意義を把握しようとしました。いうまでもなく第一次大戦はドイツを中心とする中欧同盟と、イギリスを主体とする連合国との戦争です。行雄はこの戦争の一側面を武断主義と公論主義の戦いと見ました。欧州だけでなく支那においても武断主義の軍閥政府と、公論主義をとる広東政府とが争っています。そしてわが日本においても武断主義の藩閥政治家と、公論主義の政党政治家が争っています。武断主義対公論主義という世界的潮流を感じつつ、行雄は日々の政治活動に邁進しました。できることなら世界の時流に乗って日本の公論主義を確立したい。
第四十議会は年明けの大正七年一月二十二日に再開しました。この日の本会議では寺内総理、本野外相、勝田蔵相の演説があり、その後、質疑に入りました。行雄は二人目の質疑者です。行雄は質問というよりもむしろ講義をしました。寺内内閣の蒙を啓かんという意気込みです。
「欧米列国が現在の目的として主張して居るところのものは、誠に明白で世論民意に従って総ての事を決しようという世の中を作って、しかして徐ろに世界永遠の平和を維持するの地歩を開こうというのであります」
ところが寺内内閣は武断主義にこだわり、民意を敵視している。そのことを行雄は具体的に指摘しました。
「昨年、警察部長が集会をせられた。寺内総理はこれに訓令を与えて、世論民意の勃興、ヨーロッパ人のいう民主主義、左様な危険思想は撲滅しなければならぬという訓令を発している。欧州諸国が全力を挙げて支持しようという思想は、寺内総理が撲滅せよと警察部長に訓令を下したものと同一実態のものである」
今日ともなれば不思議なことですが、大日本帝国時代の藩閥政治家は民主主義と共産主義をふたつながら危険思想とし、弾圧し続けました。公論主義の連合国に属しながら日本だけが武断主義を信奉し続けていました。世界の潮流に乗り遅れ、これに逆らえば、日本の将来は危うい。これが行雄の懸念でした。
「今や世界には画然たる二大潮流がある。一は世論民意を主として政治をしていこうという潮流である。ヨーロッパの政治家はこれを民主主義と言うて居る。我々は世論主義、もしくは公論主義というのである。それに反する者は武断主義、武力を恃みにして武断専政でいこうという主義である。この二大潮流の衝突が支那においても現われ、世界中においても現われているが、内閣はこの潮流の中、世論民意を基礎とするという政治に反抗して居る」
寺内内閣の武断主義は支那への介入にも現われていました。これを行雄は非難します。
「支那の擾乱が熄まぬという最大原因は、消ゆべき火に、すてておけば疾くに消ゆべき火に向かって日本が金、軍器というが如き油を注ぐから消えないのであります。真に支那の統一を保つの必要を感ずるならば、それに資金を供給せず、軍器を供給せなければ、金なく、武器なくして、空拳を揮っていつまでも内乱を継続することは出来ませぬが故に、自然に火は消えるのである」
四日後の予算委員会では、外交調査会の弊害について本野外相に質問をぶつけました。
「この無用なる機関の在るがために、政府が右に歩き出しても途中で左に引っ張られて、秘かに段棋瑞を助けていく方針も、途中で牽制に会って、遂にわが政府の代表者であるべき公使をして、政府の方針は朝令暮改、少しも定まるところがないからその任所にあってもほとんど何を為して宜しいか分からぬ、とまで人に向かって言わざるを得ざるに至ったについては、政府に過ちがあるであろうが、主としてこの外交調査会のために牽制をせられて、左支右吾ほとんど決するところ無きということは既に公の事実になって居る」
内閣と外交調査会、外交政策の策源機関が二つ存在するがために対支外交は滅裂になっていました。さらに行雄の不満は外交的無策に向かいました。第一次大戦後の世界秩序構築をにらみ、外務省は盛んに列国と外交交渉をせねばならない。にもかかわらず本野外相はじめ外務省は暢気でした。一方、英仏両政府はすでに戦後の国際秩序構築について会談を重ねており、しかも一定の合意に達し、それを声明さえしています。日本政府はまったく蚊帳の外であり、自発的に動こうともしていません。
「同盟国の意志を疎通しておかなければ他日どうしても国家及び世界のためになるべき働きの出来ぬということは分かりそうなものである」
二月十四日の本会議において、憲政会は寺内内閣不信任決議案を提出し、行雄はその賛成演説に立ちました。
「外交主張の無いのみならず、外交を致して居らぬ。また主張があっても之を貫くべき手段を持たない。世界の新局面に対して公然発言権を使用しなければならぬ場合に立って居りながら、何等の発議も致しておらぬ。また同盟国から何らの交渉を受けて居らずして、しかもそれを当然の事として我が外務大臣は説明致して居ります」
外務省の迂闊さに行雄は臍を噛む思いです。この後、予算委員会において寺内内閣の秘密主義を非難しつつ、シベリア出兵問題や対支武器輸出問題について三度にわたる質問をくり返しました。本野外相がようやくシベリア出兵問題について言及したのは大正七年三月二十六日の本会議でした。連合国政府からの出兵要請もなく、出兵を日本から発議したこともない、そのように本野外相は経過を報告しました。この外相の報告は実のところ嘘でしたが、行雄は知る由もありません。そのため行雄は、秘密主義を脱して経過報告をしたという理由で外相を評価してしまいます。ですが、そのうえで政府を批判しました。
「帝国政府は条約上においては連合国の仲間に入って居る。しかしその旗印をみればややもすれば武断主義の旗を掲げて自国において武断主義を維持するのみならず、隣邦たる支那に向かってまでも手を伸ばして武断主義の応援を致して居る。その居るところの位地と、その揚ぐるところの旗印とがいかにも衝突し、調和して居らぬように見える。あたかも源氏の側に立って赤旗を掲げたが如く世間には見ゆるのであります」
行雄が心配するのは、日本の孤立です。維新後の明治政府は列強諸国に倣って富国強兵を目指し、それを達成しました。それを達成した今、世界はさらに新しい標準を構築し始めています。民主主義、武断政治の打破、軍備制限、民族自決などです。それらは多分に理想論であり、列国の実態とは似ても似つかぬお題目です。ですが、たとえそうではあっても新潮流に露骨に逆らえば、世界的に非難を浴びることとなります。
「この世界の大勢に逆行すると否とは帝国盛衰の由って岐るるところであります」
この後、行雄は大正七年七月に「戦後の列強」を発表します。同著において行雄は戦後世界における思想感情の変化を予想しています。
「開戦以前の好戦的思想感情は、既に全く一変して、厭戦時代、即ち戦争恐怖時代が来て居ると見なすべき事実もある」
人間とはまったく勝手なもので、長く戦乱が続くと平和を欲し、平和が続くといつしか戦乱を望むようになります。日本では戦国時代が続いた後、長く平和な江戸時代が訪れ、幕末の戊辰戦争から再び戦争時代に入っています。欧州における和戦交代は、ナポレオン戦争、平和時代、普仏戦争以降の戦争時代と連なり、現在の第一次世界大戦へと続いています。そして、この大戦の被害は人類史上最大となっています。
「今日まで戦争のために起こりたる死、傷、病、俘虜は、敵味方を合すれば、遠く三千万人を超え、之が為に費やした戦費はほとんど三千億円に及んで居る。凡そ欧米に生活して居る者は、一人として、痛切に戦争の惨禍を身に実験しないものはない」
行雄は欧州に厭戦時代がくると予想します。その理由は人類の思想感情が平和に傾くからです。
「そもそも人類の思想感情は大勢の根本である。人類の思想感情が一変すれば、好戦時代においては痴人の空想として排除せられた言議も、厭戦時代においてはもっとも時務に適切なる良作として実効せらるる様になるかも知れない。その端緒として現在世上に唱導せられて居るものは、軍備制限、国際裁判、国際軍備、民族自決、秘密外交排除、国民外交、武断主義排斥、世論政治、国際連盟の類にして、これらの考案は戦前にあっては総て空論として排斥せられたが、今日においては既に空想として排斥するわけには参らぬようになった」
重ねて書きますが、行雄の心配は、世界の潮流から日本が外れて孤立化することです。
「帝国は遠く東洋に隔在し、名だけは交戦国の一員なれども、実際においてはただに戦争の惨禍を被らざるのみならず、却って貿易の逆潮を回復し、軍需品その他の輸出品のために十余億円の資力を増加し、戦争の利益をば受けたが、その損害及び惨禍をば受けない。したがって欧米列国人民の既に感知し居ることをも、境遇のしからしむるところ未だ之を感知して居らぬ。彼等の思想感情は既に変化して居るのに、我は未だ変化して居らぬのみならず、もし多少なりとも変化したりとすれば、却って世界の大勢とは逆行する方向に変化して居るようにも思われる」
不幸なことに行雄の悪い予感は的中してしまいます。それにしても驚くべきは行雄の世界感覚の正確さです。この稀有な能力の持ち主は、権力に執着を持たず、野に在って吼え続けることを真骨頂としました。




