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司法相の奮闘

 年の明けた大正四年正月、尾崎行雄司法相は閣内で孤軍奮闘していました。

 加藤高明外相は対支交渉の開始を閣議に提案しました。加藤外相は、交渉によって二十一箇条からなる要求を支那政府に呑ませると説明しました。その内容は日本の支那権益を保全しようとするものであり、国益の観点からして至極当然のことでした。すでに列強諸国と支那とが結んでいる諸条約と同様の内容であり、特に問題はありません。だから行雄は、その要求事項については異議がありませんでした。

 ただし、同じことをするにも国際世論の批判を招かぬように上手くやるのが外交の基本です。その意味でこの提案は時期が悪いと行雄は論じました。

「世界が欧州の大戦に関心を奪われているこの時期に、日本がまるで火事場泥棒のように支那に要求を突きつけるのは得策ではない。世界は日本の野心に警戒感を強めるだろう。日本の心証を悪くするのは外交的失敗である。対支要求は戦争が終結してからでも遅くはない」

 そう行雄は主張しました。しかし加藤高明外相には急ぐべき理由がありました。膠州湾の攻略は昨年十一月七日に終了していましたが、早くも同月十八日、支那政府が日本軍の撤退を要求してきたのです。ドイツに対する最後通牒に「支那国に還付するの目的を以って」の文言を盛り込んだ加藤外相の落ち度が顕在化したのです。加藤外相は失策の挽回を図るとともに、かねてからの対支懸案事項をも一気に解決してしまおうと目論みました。失敗を糊塗しようとする焦りと功名心から、実に不器用で強引な外交を進めようとしていたのです。この対支要求が通ったところで、列強諸国の警戒心を買ってしまえば、総合的に見て外交的失敗です。国益の観点から行雄は反対しました。しかし、加藤外相は自信満々に交渉開始を主張し、閣内も総じて加藤外相を支持しました。大隈内閣は実質的に加藤内閣でしたし、外交は外相の任務であるとして、だれもが加藤外相を信任したのです。他人の領域を侵さないというのは麗しい礼節にもみえますが、反面、無関心ともいえるし、縦割り行政ともいえます。

「すべてを呑ませようというのじゃない。この中の幾つかを承認させればいいんだ」

 周囲からの説得に行雄は黙らざるを得ませんでした。結局、衆寡敵せず、行雄は閣議決定の書類に署名しました。

 大正四年一月十八日、加藤高明外相は日置益公使をして中華民国政府に二十一箇条の要求を提出せしめました。支那政府はもはや清朝ではありません。去る明治四十四年十月、武昌蜂起が成功して辛亥革命が成ると、翌年二月には清帝が退位し、中華民国臨時政府が成立していました。初代総統は孫文でしたが、現在の総統は袁世凱です。袁は清国の軍人から身を立て、高位高官にまで登りつめましたが、失脚して野に下っていました。ところが辛亥革命の混乱に乗じて北洋軍を掌握すると、清朝代理として革命軍と交渉しました。袁は孫文から総統就任の言質を取ると、態度を変えて清朝を裏切り、清帝を退位をさせてしまいます。まさに乱世の梟雄というべき人物です。

 袁世凱は、日本から二十一箇条の要求を受けとると直ちに列国にその内容を知らせ、同情を引き出そうとし、列国の干渉によって日本の要求を撤回させようと企てました。しかし、加藤外相にも抜かりはありません。先手を打って対華要求の内容を列国に通知していたのです。ただ、二十一箇条のうち最後の七箇条を伏せました。これが結果的に失敗となります。加藤外相はこの七箇条を重要視していませんでした。どうでもよい項目だったから伏せたのです。ですが、伏せたために列国の疑心暗鬼を招き、対日感情を急激に悪化さるという副作用を招きました。英国政府は数回にわたって日本政府に反省を促し、米国政府は質問状を送りつけてきました。対支交渉は長引きました。支那側は頑強に日本の要求を拒み、四ヶ月間に二十六回もの日支会談が開かれたにもかかわらず妥結には至りませんでした。

 それでも加藤外相は交渉を諦めず、それを止めようとする閣員もいませんでした。唯一、反対意見を言うのは行雄でしたが、加藤外相が行雄を敬遠しました。外交政策に対して事ある毎に反論する行雄に加藤外相は辟易し、意固地になっていきました。加藤外相は突っ走り、周囲がそれを支援しました。

 五月六日には御前会議が開かれ、最後通牒の交付が決められました。要求を容れなければ開戦するという意味です。五月七日、日本政府は最後通牒を支那政府に突きつけました。翌八日、支那政府はついに承諾の回答を行ない、二十一箇条のうち十六箇条を承認しました。こうして二条約、二公文、一声明、一商議約諾が調印されたのは大正四年五月のことです。

 この対華二十一箇条要求は数々の批判を招きました。支那人の対日感情が悪化し、欧米列強の対日警戒感が高まりました。英米は支那市場を日本が独占するのではないかと恐れました。それでも日本が第一次世界大戦に参戦していたことから、英米の抗議は穏やかでしたし、支那も表面上は平静でした。


 日支交渉と時を同じくして第十二回衆議院総選挙が行なわれました。大正三年末、衆議院で最大議席を有する政友会の反対に遭い、二個師団増設予算を成立させられなかった大隈総理は衆院解散に踏み切りました。同志会、国民党、中正会の三党としては、この総選挙で党勢を拡張し、政友会を追い落とさねばなりません。衆院解散と同時に農商務相から内務相に代わっていた大浦兼武は、当然のごとくに選挙干渉を指揮しました。地方長官と警察組織を動員して与党側の選挙違反を見過ごす一方、野党側の選挙違反を厳重に取り締まりました。といって大浦に罪悪感はありません。

 大浦は若き巡査の頃からその任務に従事してきたのだし、そうすることで手柄を挙げて位人臣を極めるまでになったのです。戦国時代の武士が敵の首級を挙げることに疑問を感じないように、大浦は選挙に干渉し、議員を買収することを任務としてきたのです。藩閥的価値観をまったく疑うことを知りません。大隈内閣の組閣時、選挙干渉を悪むことの甚だしい行雄が大浦を警戒したのは当然でした。そして、いま、司法大臣たる行雄は、閣議において明言しました。

「もし地方官が選挙に干渉したら、検事の力を持って検挙させる」

 大浦内相を意識しての発言です。内務大臣と司法大臣の戦いとなりました。行雄は全国の裁判所に検事を配置させ、選挙干渉監視のために必要な措置をとるように下命しました。

「警察官が検挙に協力しない場合には、独自に人を雇い、干渉の被疑者を検挙せよ。政府の役人とて容赦は無用」

 これに要する経費には機密費を充てました。大浦内相は地方官と警察を使って選挙干渉を推進しようとし、尾崎司法相は検事を動員して干渉を検挙しようとする。実に奇妙な閣内対立でした。

 行雄は司法大臣として必要な指示を出し終えると、自身は四十日間の遊説旅行に発ちました。遊説は強行軍です。この間、畳の部屋で蒲団に寝たのはわずか七日ほどに過ぎず、それ以外は船内、列車内、自動車内での居眠りでした。遊説の終盤になると虚弱な行雄の身体は悲鳴をあげ、発熱してフラフラになりました。それでも遊説を続けます。ともかく演壇に立って口を動かしました。幸いなことに声だけは出ました。遊説後、行雄を診察した医師は、体調よりもむしろそのスケジュールに驚嘆したといいます。

「こんな生活をしていたら死にますよ。戦場の兵士より苛酷です」

 こうして大正四年三月二十五日の投票日を迎えました。結果は、大隈内閣にとって喜ぶべきものでした。政友会は八十一議席を失って百四議席に落ち込んだのに対し、与党三党は二百議席を確保し、勢力が逆転しました。なかでも同志会の躍進が顕著でした。ところが、この大躍進の裏には大浦主導の選挙干渉があり、数多の選挙違反が検挙されはじめました。

 五月二十日に第三十六議会が始まると、凋落させられ恨み骨髄に達している政友会は、選挙干渉の非違を挙げ、大浦内相の関与を証明しようと躍起になりました。大浦内相の選挙違反と贈収賄を検事局に告発する一方、議会には内相弾劾決議案を上程しました。しかし大浦内相の関与を証明する証拠は出ず、第三十六議会は与党ペースで進みました。二個師団増設予算をはじめ、追加予算のことごとくが成立しました。やむなく政友会は弾劾決議案を連発して抵抗を試みましたが、いずれも不発に終わり、大隈内閣優勢のまま議会は閉じられました。

 このまま事態は収束に向かうかと思われましたが、政友会からの告発をうけて捜査を進めていた検事局はついに事実をつかみました。それは選挙違反に関するものではなく、第三十五議会における議員買収の事実です。第三十五議会は二個師団増設問題で紛糾しましたが、増設予算を通したい大隈内閣に対し、過半数を占める政友会が反対していました。議員買収が必要でだったのです。大浦兼武の出番となりました。大浦は衆議院書記官長林田亀太郎を通じて十六名の政友会議員を買収しました。その資金源は内閣機密費で、総額は四万円に及びました。

 捜査によって明らかにされた事実は司法大臣たる行雄のもとへ逐一報告されてきます。大浦内相の買収工作は林田等の証言によって裏づけられました。行雄は決断せねばなりません。法治主義の原則からすれば、大浦内相はじめ総ての関係者を逮捕し、処罰せねばなりません。しかし閣内から逮捕者が出れば、大隈内閣への打撃は計り知れず、悪くすれば総辞職に至るでしょう。内閣の安泰を考えるなら、事件そのものを握りつぶすしかありません。司法相たる行雄にはそれも可能です。時の司法大臣が藩閥の息のかかった官僚政治家であったなら、事件は握りつぶされたに違いありません。

 行雄は、司法次官鈴木喜三郎や検事総長平沼騏一郎と省議して方針を決めました。行雄といえども法治主義に徹することはできず、いわゆる刑事政策を採用しました。つまり大浦兼武は検挙せぬかわりに政界から隠退せしめる一方、大浦以外の十七名は検挙するというものです。七月初旬の閣議で行雄はこの方針を説明しました。このとき行雄は根回し無く、いきなり全閣僚に対して方針を表明しました。大浦にも予め引導を渡しておくことをしませんでした。行雄らしいといえばそれまでですが、クソ真面目な級長のようでもあります。

「苛酷に過ぎる」

 反対意見が閣議の大勢となりました。そもそも大隈内閣の閣僚は大部分が藩閥の息のかかった官僚政治家ばかりです。行雄に対する風当たりは強い。

「大浦君は私利私欲のためにやったのではない」

 大浦に対する同情論が出ました。行雄とて大浦に対しては同情を持っています。だからこそ罪状が明確であるにもかかわらず、起訴猶予まで譲歩しているのです。ですが、藩閥政治家と行雄との間には根本的な思想に違いがあります。憲政主義と藩閥主義の違いといってもいい。しばらく議論の応酬が続きました。やがて真一文字に口を結んでいた大浦内相が昂然と起ちあがりました。

「この自分には一点のやましいところもない。然らば正々堂々、法廷に出て是非を争いましょう」

 大浦内相には罪を犯したという意識がありません。大浦は日本国国民というよりは、薩摩藩士という意識で生きています。藩閥のために命をかけるのが当たり前でした。

「すでに罪状は明らかなのです。正々堂々いったい何を争うのですか」

 行雄は半ばあきれました。法廷に出れば大浦は間違いなく有罪なのです。検挙されて収監されるよりは隠退の方がましでしょう。これには大浦同情論者も黙らざるを得ません。

 検察の捜査はその後も進み、収賄側議員に加えて贈賄側の林田亀太郎までが検束され、ついには検察官と予審判事が大浦私邸を訪問すること二度に及びました。大浦もついに観念しました。七月三十日の晩、早稲田の大隈私邸で開かれた閣議において、大浦は事件の経過と内容を自らの言葉で説明したうえ、内相を辞任して隠退すると表明しました。最後に大浦は一言だけ行雄に怨み言を述べました。

「先に尾崎君が、閣議の席上で自分に対し、収賄の事実なきかと質問された時、自分は断じてさることなしと明言した。その際は自分として斯く言う外やむを得なかったのである。もし尾崎君が自分を別室に招いて懇談されたとすれば、自分は事件の内容を明白に説明するの機会を得たことと思う」

 結局、行雄の決めた方針どおりに事は進みました。この決定にあたって行雄は情理両全を追求したつもりでした。しかし、この決定は敵からも味方からも不評です。正義にも悪にも徹し切れておらず、法の下の平等を侵し、情実に流され、それでいて大浦の政治生命を奪っているからです。行雄の措置は憲政主義者や法律家から微罪不検挙の濫用と批判されました。例えば法律家の大場茂馬は「湖南事件と大浦庇護事件」の中で尾崎司法相を酷評しています。文中、不徹底依怙贔屓、専横極まる枉法、憲法破壊など辛辣な言葉が並んでいます。一方、藩閥主義者は大浦への隠退強制は苛酷すぎるとして行雄を非難しました。大浦に対するこの措置は、選挙買収が黙認され続けてきた過去に比べればずいぶん苛酷です。だからこそ一罰百戒の効果があると行雄は判断したのですが、現実にはこの程度の措置で年来の悪弊が止むはずはありませんでした。それでも行雄に悔いはありません。ギリギリの選択をしたと思いました。とはいえ、果断に欠ける自身の性格を再び思い知らされました。常日頃の主義主張を実際の行政に反映させることがいかに難しいか。権力の座は行雄にとってサイズ違いの靴のようでした。


 話は飛んで大正八年です。行雄はすでに一議員の立場に戻っています。奇妙なことに、この年、突如として対華二十一箇条要求の悪名が高まりました。いわゆる五四運動が支那に起こり、排日、抗日、日貨排斥などの声が高まったのです。五四運動は明らかに謀略的意図から画策されたものでした。結成されたばかりのコミンテルンと、日本の支那市場独占を阻もうとする英米とがその主体です。北京大学の学生を巧妙なプロパガンダで煽り、金銭で学生や失業者を集めてデモ行進や暴動を行なわせました。英米系の新聞や、キリスト教会組織もこれに加担しました。既に軍閥割拠の支那大陸では、治安を守るべき主権が存在しませんでした。親日であれ、反日であれ、軍閥政府は五四運動を放置しました。

 五四運動という名の情報謀略は効を奏し、以後、年を経る毎に支那世論は反日へと傾斜していきました。排日商売という言葉まで生まれました。反日デモに参加すれば金がもらえるし、多数の人を集めれば多くの金が手に入る。一部の支那人学生は学業を放棄して反日デモに熱中しました。日本にとっての不幸は、こうして意図的に作為された反日感情が支那から世界へと広がってゆき、列強諸国の中でもなぜか日本だけが侵略的だとみなされるようになっていったことです。日本にとっては実に不本意な国際世論です。

 日本と支那とを反目させ、ソ連の割りこむ余地を得ようとするコミンテルンの情報宣伝戦略と、支那市場への日本の影響力を衰退させたい英米の対日戦略とに、対華二十一箇条要求がうまく利用されたのです。

 ですが、行雄はそう思いませんでした。行雄だけでなく、日本人全般がそうでしたが、国際的な謀略というものに対する認識が日本全体に希薄でした。ほとんどの政治家が無警戒だったと言えます。このため行雄は必要以上に自罰的な解釈を持ってしまいました。

(支那における反日感情の高まりは、大隈内閣の拙劣な外交交渉が原因だったのだ)

 そのように行雄は思い込み、しなくてもよい後悔をしはじめました。

(なぜ閣議の書類に署名してしまったか)

 あのとき勇気があれば辞職することもできたし、第二次大隈内閣を瓦解させることもできたのではないか。

(俺は弱い)

 性格の弱さを行雄は羞じたまし。幼い頃、気弱だった彦太郎は人のいうことを何でも聞きました。異常なほどに従順でした。弱い自分を守るためでした。やがて自我に目覚めた行雄少年はその性格を矯めながら生きてきました。ついには人々から強情者といわれるまでになりましたが、結局、その本質は変わっていなかったようです。ここぞという切所で蛮勇を発揮できないのです。

(もう二度と入閣しない)

 行雄は誓いを立て、自身への戒めとしました。このあたり、行雄の世界認識は甘く、ずいぶん人が好いといえます。また、加藤高明外相については、その才を惜しみつつも辛辣な人物評を自伝に書き残しました。

「いかに天分に恵まれても、苦労の足りない人間は結局駄目だ」



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