第一次世界大戦
欧州諸国は互いに軍備の増強を競い合い、万一の場合に備えて戦略や戦術を練り、仮想敵国を出し抜くために様々な同盟関係を構築し、一朝事あらば半ば自動的に戦争準備から開戦へと進み得るよう国家態勢を整えていました。なかでもドイツ帝国は徴兵制を布き、多くの常備兵を整え、シュリーフェン計画という東西二正面作戦を用意していました。
大正三年六月二十八日、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ皇太子がセルビア人青年に暗殺されると、欧州情勢は一気に緊張の度合いを高めました。七月二十八日、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦を布告しました。するとセルビア王国の独立を支持していたロシア帝国は、セルビア支援のため総動員を発令しました。これが自動的にドイツの参戦を決定づけました。なぜならシュリーフェン計画は、ロシアの総動員を確認次第すみやかに宣戦布告すると定めていたからです。ロシアの総動員を確認したドイツ帝国はロシア及びフランスに対して宣戦を布告しました。ドイツ軍はプログラムどおりベルギーへの侵攻を開始しました。これをみたイギリスがドイツに対して宣戦を布告しました。まるで一本の導火線が次々と爆竹を破裂させていくように、十数ヶ国がどんどん戦争に巻き込まれていきました。こうして人類史上初めての世界戦争が勃発したのです。
当然のことながら日本政府は欧州の状勢を注視しました。八月四日、イギリスが対独宣戦布告を行なうと、大隈総理は臨時閣議を招集し、今後の政府方針を検討しました。
「日本が参戦するか否かはイギリスと相談の上で決めます」
加藤高明外相が発言しました。日英同盟のことを思えば加藤外相の発言は当然に思われました。ですが、司法相の行雄はあえて忠告しました。
「英国が日本の参戦に反対した場合、温和しくそれに従うつもりならご相談なさい。どうしても参戦するつもりなら相談などせず、同盟の誼で参戦すると一方的に宣言すればよろしい」
主権を見失うな、と行雄は忠告したのです。しかし、閣員はみな意外に思いました。閣内の誰もが行雄の外交的才能を認めておらず、加藤外相に任せきっていたからです。加藤外相こそが外交の専門家だと誰もが思っていたのです。注意された加藤外相は少し不愉快でした。自負心があったからです。
(外交の素人が専門家の俺に何を言うか)
そう思いましたが、外交官上がりの加藤外相は表情には出しません。閣議後、大隈総理が日本政府の態度を声明しました。
「日英協約の目的あるいは危殆に瀕する等の場合には、日本は協約の義務として必要なる措置を執ることある可し」
協約とはもちろん日英同盟のことです。その日のうちに早くも英国のグリーン駐日大使は加藤外相を訪問し、日本の参戦を要望してきました。加藤外相はこれを諒承しました。戦争は、危機でもあり、好機でもあります。外相加藤高明は、これを機会に日英同盟の真価を発揮し、アジアにおける日本の地歩を拡張し、さらには自己の名声を高めんものと張り切りました。
八月七日、加藤外相とグリーン大使の会談が開かれ、英国政府から正式な参戦要請がなされました。
「もし貴国にして為に若干の軍艦を活用せらるるにおいては、右は英国政府に対して最大の便益たるべきものなり」
英国の懸念は、ドイツ極東艦隊による通商破壊、および香港および威海衛への攻撃です。日本海軍がこれを撃破してくれるなら、英国海軍は戦力を欧州方面に集中させることができます。その夜、早稲田の大隈私邸において臨時閣議が開かれました。例によって加藤外相主導のもと論議が交わされました。加藤外相が積極的に参戦を主張したのに対し、岡陸相と八代海相はどちらかといえば慎重でした。
「日英同盟の誼により」
この参戦動機は外交官を興奮させるには十分でしたが、軍人を動かすには抽象的すぎました。祖国防衛のためでもなく、領土拡張のためでもなく、しかも戦場ははるか彼方のヨーロッパです。実際に砲弾の下をくぐり、命を的に働かねばならぬ軍人にとってはむしろ迷惑です。それでも四時間にわたる議論の末、参戦と決まりました。
「今回の参戦はドイツの軍国主義を懲らすための戦であると同時に、日英同盟に基づく義戦である。また三国干渉に対する復讐戦である」
大隈は参戦の意義をそう語りました。翌八日、閣議決定を経たうえ、加藤外相はグリーン大使に対して正式に参戦する意向を伝え、参戦理由への同意を求めました。
「英国政府は該協約に基づき、日本政府に援助を求むるに依り、日本政府は熟慮の末、右請求に応じドイツに対し参戦することに決したり」
ところがです。グリーン大使が難色を示しました。
「日本は海上貿易保護の範囲に活動を局限されたい」
英国の勝手な言い分です。そんな局限をされる理由が日本にはありません。同盟国であるとはいえ、日本は英国に服従しているわけではなく、日本はあくまで日本の意志で参戦するのです。当然ながら加藤外相は反論しました。
「支那海におけるドイツ武装商船の撃滅だけでは参戦の理由になりません」
そういう加藤外相に対してグリーン大使は英本国政府の認識を伝達しました。
「日本の参戦は支那の不安を誘発する恐れがある。英国政府は近く閣議において決定する予定であるから、それまで日本は軍事行動を見合わされんことを望む」
アメリカおよび大英帝国自治領オーストラリア政府は、日本に対する警戒心を持っています。
「日本はドイツにとってかわろうとしているのではないか」
英国政府としてもオーストラリア政府の意向を無視できなかったのです。そのため英国政府は慎重になっていました。そのようにグリーン大使は説明しました。こうなると日本国内で押し問答していても意味がありません。加藤外相は英国政府に宛てて長文の覚書を送り、直接抗議しました。
「日本宣戦するも一は海上の貿易保護、他の一はドイツ根拠地の掃蕩のみであるから、支那を脅かし、または英国の貿易に損害を及ぼすはずはない。はたまた日本の念願は極東平和の確立にあって、領土上の欲求はその目標と最も遠いものである。日本は素と英国の援助申し込みに応じて参戦に決し、その議はすでに陛下に伏奏済みとなり、よほどの大事由のない限り変更は不可能の状態にある。況んや民心は三国干渉の当時を顧みて敵愾心に燃え、今に至って参戦を遅疑すれば政治上にも重大な結果を予期せねばならぬ形勢である」
だから参戦理由に同意してくれと加藤外相は英国に訴えました。英国政府からの回答は十一日に届きました。
「同盟条約に基づく軍事行動は当分これを自制して今後の形勢を注視されんことを望む」
英国政府は身勝手でした。もともと援助を申し入れてきたのは英国側なのです。それが今は自制せよという。この方針転換の一因には戦争の行く末への楽観がありました。第一次世界大戦の戦端が開かれてまだ間がないこの時期、欧州各国はまだまだ戦況を楽観視していました。まさか足かけ五年にもわたる長期消耗戦になろうとは夢にも思っていなかったのです。英国政府は日本参戦による利害を比較考量し、当初の方針を変えたのです。おさまらないのは加藤外相です。再度抗議の覚書を送り、参戦理由への同意を求めました。この後、日英間で数度の応酬があり、結局、英国は日本の参戦を認めましたが、あくまでも戦域の限定を要求してきました。このため加藤外相は英国との交渉を打ち切ってしまいました。参戦に血道をあげる加藤外相を、行雄は覚めた目で見ていました。
(いったい何のための参戦か)
そもそも日本自身の戦争ではないのです。同盟国イギリスが参戦不要と言ってきているのだから、とりあえず参戦を延期しておけばよい。まさに渡りに舟である。
「ハイ、そうですか」
とばかりに引っ込んで見て居ればよい。そうすれば無駄な血を流さずにすみます。外交上からいっても静観する方が得策でした。日本の方から強引に参戦したところで英国は迷惑に思いこそすれ、感謝のひとつもしないでしょう。これでは兵士の血を流す意味がありません。行雄は加藤外相に危うさを感じました。官僚上がりの加藤高明は目標を与えられれば、その達成に向かって猪突邁進しますが、目標そのものを自身で設定したり、与えられた目標を疑ってみることが苦手な様子でした。今は黙って見ているのが得策です。戦況によっては、いずれ英国側から参戦を懇願してくるかもしれません。懇請数度に及んでから徐ろに参戦してやっても遅くはないのです。いやむしろ、それでこそ英国は日本に感謝するでしょう。同じ参戦するにしても同盟国から感謝されるようにやるのが外交の妙というものです。
(加藤は外交のために外交をしている)
複数の元老にその才幹を認められた加藤高明でしたが、行雄の目には加藤外相が単なる事務屋に見えて仕方がありません。外交の方式、形式、手続き、儀礼、書式、用語、応接、事例等、そういう事務事項については、加藤外相の豊富な知識は誰よりも優れていました。しかしながら、肝心要の外交的な駈け引きには疎いようです。柔軟で臨機応変な対応ができず、すべてを事務的に進めようとしていました。手段に溺れ、目的を見失っているようです。第一次大戦への参戦は国益増進の手段にすぎません。無理に参戦して同盟国に疎まれるようでは国益の毀損なのです。
それでも加藤外相は参戦に向けて突進しました。英国との交渉を打ち切った以上、別の参戦理由を考えねばなりません。加藤外相はドイツに対して最後通牒を送り、ドイツの拒絶をもって参戦理由にする方法を考えました。その最後通牒の文案が作成され、閣議に諮られました。最後通牒はドイツ政府に対する勧告の形式をとっています。勧告は二項目からなっていて、第一項はドイツ極東艦隊の退去あるいは武装解除です。第二項は膠州湾租借地の無条件明け渡しです。
「ドイツ帝国政府は膠州湾租借地全部を支那国に還付するの目的を以って、九月十五日を限り、無償無条件にて大日本帝国官憲に交付すること」
この勧告をドイツが拒絶したことを以って日本の参戦理由とするわけです。閣員の誰もが外相一任の態度をとるなか、この文案に異議を唱えたのは行雄です。
「第二項中『支那国に還付するの目的を以って』の部分が不可である。削除すべきだ」
行雄の主張はもっともです。この最後通牒の内容が支那側に知られてしまった場合、日本は無条件で膠州湾を支那に返還しなければならなくなります。日本軍が血を流して攻略するのです。返すにしても何らかの条件があって当然です。しかし、もし支那側からこの通牒を突きつけられたら日本は無条件で膠州湾租借地を支那に献上せねばなりません。これでは日本軍兵士はいったい何のために戦うのかわかりません。外交的に拙劣といってよい。
「そもそもこのような最後通牒は理屈が通らない。租借地を支那に還せと勧告するならまだしも、支那に還すためにまず日本に明け渡せなどと要求するのは強引すぎる。これではドイツが応じるはずがないし、支那も決して感謝しないだろう」
行雄は言いました。しかし、加藤外相は意地になっていました。
(当たり前のことを言うな)
加藤外相は思います。加藤には加藤の都合がありました。加藤は参戦理由を無理にでも作り上げようとしていたのです。そもそもドイツが拒絶するように文案を練ったのであり、拒絶してくれなければ困るのです。それでも行雄は執拗でした。
「そもそも英国が参戦不要と言ってきているのだから、わが国が動く必要はない。いずれ欧州の戦況が苦しくなれば英国の方から頭を下げて要請してくるに違いない。その時にこそ参戦すればよい。時機の問題である。時機を待ちさえすれば、『日英同盟の誼により』という正当な理由で堂々と参戦できるのである。いま無理に参戦するのは拙策である」
行雄は力説しましたが、賛同者は現われません。なんといっても外交の専門家は加藤高明と目されていたし、大隈内閣内における加藤外相の発言力は絶大でした。結局、この文案どおりの最後通牒がドイツ政府に交付されました。八月十五日のことです。加藤外相はご丁寧にも最後通牒の内容を関係列国に通知しました。日本に領土的野心がないことを証明するためでした。加藤外相の措置は列国政府を安心させはしましたが、その内容は支那政府の知るところとなりました。やがて回答期限の八月二十三日が来ました。ドイツは無回答によって拒絶の意を示しました。こうしてようやく加藤外相は参戦理由を得ました。
九月四日、第三十四議会が開かれました。言うまでもなく参戦という重大緊急事態に対応するためです。議会では大隈総理および加藤外相が参戦までの経緯を説明し、臨時軍事費特別会計法、臨時軍事費予算案、戦時海上保険に関する法律案などが審議されました。議会は政府案に協賛しました。
日本軍が本格的に動き出したのは十月からです。十月初旬、海軍部隊を派遣してドイツ領南洋諸島を占領し、十月三十一日から日本陸海軍は英国軍とともにドイツ東洋艦隊根拠地である膠州湾への攻撃を開始しました。日本軍は第十八師団と第二艦隊を動員し、ほぼ一週間で占領を完了しました。ドイツ極東艦隊はこれより先に膠州湾を脱出しており、その一部は太平洋やインド洋で通商破壊活動を展開しました。巡洋艦エムデン号や仮装巡洋艦ボルフ号などが有名です。が、それらもやがて連合国海軍によって沈められました。
日本軍の仕事はひととおり終わりました。すると英仏露の三ヶ国は欧州戦線への陸軍部隊派兵を再三にわたり日本政府に要請してきました。日本がこれを拒絶したのは当然です。そもそも陸軍の大部隊を欧州大陸にまで遠征させるような輸送力もなければ財政力もないのです。他国の戦争にそこまで肩入れする馬鹿はいません。幸い英国政府は日本の事情を諒解してくれました。
第三十五議会は大正三年十二月七日に開会しました。大隈総理、加藤外相、岡陸相、八代海相らは第一次大戦に参戦した経緯と、陸海軍の奮戦とを胸を張って報告しました。司法大臣の行雄には脚光が当たらず、むしろ野党時代と入閣後での変説改論を追求され続けました。十二月十一日の予算委員会では鈴木梅四郎議員が行雄を質しました。
「多年に民間に居られて、大いに経済問題も御研究になり、ことに軍事問題については御研究になって、増師も海軍拡張も共に不必要であると唱えられた尾崎司法大臣が現内閣に列せられて、前説をお取り消しになって、そうしてこの二個師団増設も必要であるという論を発表されて居ります」
大隈内閣は二個師団増設を含む予算案を提出していたのです。そもそも大隈重信は、総理を引受けるに際し、二個師団増設を四元老と約束していました。そこで大隈は就任後、二個師団増設を閣議に諮りました。かねてより増設に反対していた行雄は、やむなくこれに賛成しました。閣内の多数に従ったという面もありますが、同時に行雄なりの対露観もありました。日露の緊張関係はよほど緩和されており、師団増設が日露の緊張を招く可能性はないと判断したのです。
「第一に反対した最も強き理由は外交上の関係であります。前年の場合において師団を増加することは外交上に悪影響を及ぼすと私は確信したのである。然るに今日は世界の形勢大いに一変して師団を増設しても悪影響は及ぼさぬと信じております」
十二月十四日には三土忠造議員が行雄に質問を投げかけました。かねて行雄は文官任用令の改正を主張しており、議会における政府委員を特別任用にせよと主張していました。政府委員は政府と共に進退するべきというのが行雄の考えでしたが、現状では終身官たる事務官が政府委員を勤めています。三土は、その持論に今でも変わりはないかと問いました。
「今もその御説を持って居るか、あるいは増師問題と同じく変説改論をせられたのであるか。此処に列し居るところの威風堂々たる数十百人の政府委員をことごとく芸娼妓の如きものと今も見て居られるや否や」
行雄はかつて文官任用令の欠陥を指摘した際、現状の政府委員を「節操のない芸娼妓の如きもの」であると極論したことがありました。三土議員はそこに目を付けたのです。過去の過剰な比喩表現が攻勢の種になったのです。
「文官任用令について従来主張したところの希望は今もなお持っております。また現在の政府委員をどう見て居るかというが如きことは、これは答うるの必要がないと思いますから答えませぬ」
十二月十五日の予算委員会では小久保喜七議員が行雄の論説「人と禽獣」を取り上げ、文意を曲解して責めてきました。小久保が問題としたのは次の部分です。
「二千有余年の久しき、官吏のために生殺与奪の全権を占有せられたる、帝国八千万の同胞兄弟は、この時初めて禽獣状態、草木状態を脱して完全なる人類となったのである」
要するに比喩表現です。前後の文脈からすれば何の問題もないのですが、小久保は禽獣の語に焦点をあて、憲法と教育勅語に反しているとし、不敬であると主張しました。もはや中傷のための小理屈に過ぎませんが、それでも答弁せねばなりません。
「小冊子に書いてあるとおりの意見は、今日もなお持っております」
十二月十七日の予算委員会では松田源治議員が憲法と国防計画の問題を取り上げました。
「国防計画は憲法上国務であり、大臣の輔弼を要する国務である。国務は国務大臣によって決せられ、他の国家機関に於いて決すべきものに非ず」
にもかかわらず陸軍参謀本部および海軍軍令部が国防計画を決定している現状は違憲状態であると松田は訴えました。松田源治の主張は行雄の持論とほぼ等しいものです。松田は大隈総理、一木文相に答弁を求めました。法学博士でもある一木喜徳郎文相は防務会議において調整を図っているから違憲ではないとした。防務会議とは大正三年に設けられたばかりの審議会で、その構成員は内閣総理大臣・外務大臣・大蔵大臣・陸軍大臣・海軍大臣・参謀総長・海軍軍令部長です。しかし松田議員は納得しません。そもそも国防計画は国務なのか、統帥なのか、こんな問題が生じる原因は官制にあると松田は踏み込みます。陸軍参謀本部条例第一条は次のとおりです。
「参謀本部は国防及び用兵のことを掌ること」
また海軍軍令部条例第一条も同様です。
「海軍軍令部は国防及び用兵のことを掌ること」
一方で憲法第十二条はまさに国防計画のことを述べています。
「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」
この問題を解決するために官制を改正せよというのが松田議員の結論です。参謀本部条例および軍令部条例から「国防」の二字を削除すればよい。そうすれば憲法と官制との衝突が解消され、参謀本部も軍令部も専ら用兵のみを掌ることになり、国防計画は国務大臣の輔弼を要する国務となり、議会においても論議が可能となります。大隈や一木の答弁に満足できなかった松田議員は、行雄に答弁を求めました。
「尾崎司法大臣は私と同論のはずである。数年来、議会において言っておる。その御説は今日も維持して居るのでありますか」
行雄の答弁は、人がわりがしたように冴えません。
「憲法その他の問題について私は私で独自の意見を持って居ります。しかしながらそれをここで一々説明するの必要はない。故に問題に触れて必要の起こったときに申します」
松田議員は行雄の答弁ぶりをなじります。
「これは怪しからぬことを承る。今日は司法大臣として訊くのではない。国務大臣として訊くのである。国防の計画は軍閥から取り上げて、国務大臣の権内において専決すべきものであるという尾崎君の年来の議論である。これを取り上げてしまったら尾崎君はもはや尾崎君ではなくなるのである。年来の御議論をなお維持されるかどうか、明らかに答えなければならぬ」
「ただ今それを答えたのであります。ただいま明白に答えたからよく速記録をご覧なさい」
苦しい答弁をせざるを得ません。行雄はもはや行雄ではないのです。尾崎行雄ではなく大隈内閣の国務大臣が答弁しています。肩書きがしゃべっているのです。閣内一致のためです。行雄はもはや五十代半ばの大人です。それなりに立場というものを理解しています。だからこそ本人らしからぬ官僚的答弁をしています。ですが、内心は屈辱を感じていました。
(これが俺の言葉なのか)
情けないと思いました。立場というものの奇妙さを厭というほど味わいました。権力者の仕事の半分は演技なのかも知れません。心にも思っていない事柄であってもまるで長年の持論であるかのように熱情をこめて話さねばならないのです。それが政治家なのでしょう。ですが行雄にはその種の演技力はまったくありませんでした。むしろ正直一路が行雄の真骨頂です。その意味で大臣の座は行雄にとって針のムシロでしかありません。松田源治の追求はなおも執拗に続きました。
第三十五議会は陸軍の二個師団増設問題で紛糾しました。衆議院で多数を得るには議会工作が必要でした。そのため農商務相の大浦兼武は議員買収を行ないましたが、それにもかかわらず十二月二十五日の本会議において増設予算案は否決されました。大浦の買収工作が後に発覚し、大問題を惹起することになります。大隈総理は四元老との約束を果たすため、やむなく衆議院を解散しました。
この頃、当然ながら、日本国内では欧州戦争の趨勢に関する議論がさかんでした。大多数はドイツの勝利を予想しました。政界、官界を問わずドイツの勝利を疑わない者が多く、特に陸軍軍人はドイツの勝利を確信していました。陸海軍が参戦に消極的だった理由はここにあったのです。同盟国とはいえ、負ける側に加勢するのは得策ではないと考えたわけです。ですが、行雄はまったく違う予想をしていました。行雄の脳裏にはナポレオン戦争の場景があります。
「たとえドイツ軍が欧州大陸を支配しても、英本国には手が出せない。ドイツ皇帝はドイツ海軍を飛躍的に拡充させたが、それでも英国海軍には及ばない。制海権を英国が握れば、ドイツの輸出入が杜絶し、やがて力尽きるに違いない。またアメリカが英国側について参戦すれば、ドイツの敗北は早まるだろう」
要するにナポレオンが敗北したのと同じ理由でドイツが敗れると予想したのです。行雄の大局観は結果的に正しいものでした。これに対し、ドイツの信奉者たちは敗戦必至な終盤になるまでドイツ軍の勝利を疑いませんでした。行雄が寒心に堪えなかったのは、軍人たちの議論がきわめて狭隘な専門知識の連呼に過ぎなかったことです。ドイツ軍の兵器がどうの、作戦がどうの、将兵の練度がどうのという知識自慢の域を出ず、歴史観や大局観に欠け、対戦国相互の国力分析にも関心が払われていませんでした。行雄は様々な人と話し合いましたが、軍人には話し合うという姿勢がなく、議論というよりは自己主張あるいは自己顕示をくり返すばかりでした。




