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シーメンス事件

 政友会を脱党した尾崎行雄らは政友倶楽部を組織しました。もはや帝国議会では力を発揮し得ない小集団です。政友会が山本内閣と妥協してしまったため議会内での憲政擁護運動は完全に気勢をそがれてしまいました。やむなく行雄は全国遊説に活路を見出すべく東奔西走します。幸いなことに在野における国民の憲政擁護熱はなお盛んでした。大正二年三月十六日、大阪中之島公会堂における演説会には五万人もの聴衆が集まりました。憲政擁護熱のお陰で新聞各紙も販売部数を伸ばしました。

 憲政芸妓の異名を持つ川勝歌蝶と出会ったのはこの頃です。歌蝶は祇園の芸妓として美人の誉れ高く、屈指の踊り上手でもありましたが、加えて政治への関心が強いことでも知られていました。憲政擁護運動に共鳴し、白薔薇を胸に付けてお座敷に出るほどでした。彼女の一番の贔屓は尾崎行雄です。行雄が京都を訪れると、懇親会が催され、川勝歌蝶にもお呼びがかかりました。やがて宴が果てると、行雄の帰路に歌蝶がつきそいました。余計な社交や接待を敬遠している行雄は最初こそ警戒していましたが、やがて杞憂だとわかりました。祇園の夜道で政治を語りつつふたりは歩きました。やがて行雄の宿所に着きました。

「先生がまだお一人のままどしたら、押し掛け女房しよかと思てたのどす」

 もちろん冗談です。歌蝶には旦那がいるし、行雄もすでに再婚しています。

 憲政擁護運動の全国的な広がりを第一次山本内閣は必ずしも無視しませんでした。軍部大臣現役武官制を改正したのです。予備役、後備役の武官でも陸海軍大臣に就任できることになりました。これにより長州閥および陸軍の横車は抑制できるに違いありません。山本権権兵衛という人物は人事政策の名人でした。

 山本には海軍軍務局長時代に海軍の大リストラを断行したという履歴があります。幕末維新のどさくさにまぎれて海軍の要職に就いていた薩閥の先輩将官に馘を言い渡したのです。海相西郷従道でさえたじろいだ過激な人事政策を軍務局長に過ぎない山本権兵衛が断行したのです。非常な勇気といえます。この結果、薩摩出身の将官八名、尉官八十九名が予備役に編入され、正規の教育を受けた海軍士官がその後任となりました。日露戦争を前に海軍の人材は一新されたといってよかったのです。合理的人事政策を信条とする山本権兵衛の目には軍部大臣現役武官制が不合理に見えたようです。

 山本権兵衛総理の方針に陸相木越安綱は賛成しましたが、参謀総長の長谷川好道が反対しました。ふたりとも日清日露の戦役で武功を立てた軍人でしたが、木越は石川県出身、長谷川は長州出身です。長州閥と陸軍の反対は強硬でした。それでも山本は、「軍政は陸相の専管事項である」という理屈で押し切りました。山本権兵衛らしい勇断といえます。

 果断な人事は報復的な人事を生むものです。第一次山本内閣がシーメンス事件の責任を負って総辞職し、第二次大隈内閣が成立すると、海相八代六郎は山本権兵衛を予備役に編入しました。東郷平八郎元帥などはこの人事に反対しましたが、山本権兵衛自身は一切抗弁しませんでした。

「人事は海相の専管事項である」

 山本は原則に従いました。この後、山本は元帥に上ることなく生涯を終えます。木越安綱も中将のまま軍歴を終えました。一方、山本の方針に反対した長谷川好道は元帥に上りました。

 大正二年十月十日、桂太郎が死去しました。死因は胃ガンです。桂は二年ほど前から左側視神経萎縮症、食欲不振、全身貧血などの体調不良に襲われていましたが、世間には秘しつつ、この年の二月まで総理を務めました。そのため世間には唐突な死という印象を与えたようです。加えて憲政擁護熱の高まりの中で尾崎行雄の記事を書きたがっていた新聞各紙は、いい加減な記事を書きました。部数が伸びるからです。

「尾崎行雄が桂太郎を気死せしめた」

 馬鹿げた俗説が新聞に掲載されました。去る二月五日の本会議において行雄が鬼気迫る演説を行ない、これが桂総理を動揺させたことは確かです。それにしても「気死」とは、ずいぶん誇大な表現です。ちなみに行雄は、その長い政治生命の間、新聞各紙によっておだて上げられたり、蹴落とされたりしました。行雄が弱冠四十才にして文相に就任すると「政界の麒麟児」と持ちあげられましたが、共和発言が問題化すると「共和主義者」とこき下ろされました。行雄が東京市長になって国政から離れると「愕堂死せり」と書かれ、国政に復帰すると「愕堂、蘇生せり」と書かれました。そして今は「憲政擁護の神」と祭り上げられています。この後、行雄が司法大臣に就任すると評判は極めて悪くなり、「愕堂すでに老いたり」と書かれますが、さらに普通選挙運動に取り組むようになると「愕堂復活」となります。死んだり生きたり、老いたり復活したりと実に忙しいことです。

 新聞記者出身の行雄には新聞社の内情が手に取るようにわかります。この時代、新聞政略を使う政治家が少なくありませんでした。新聞政略とは大袈裟ですが、要するに新聞記者に金銭を遣り、飲食で接待し、情報を与えて手なずければ、新聞には常に好意的な記事が載るようになるのです。新聞政略を施さなければ悪し様に書かれることを覚悟しなければなりません。

 行雄のような男には新聞記者のご機嫌取りなどできる芸当ではありませんでした。行雄は「得意冷然、失意淡然」と自分に言い聞かせました。

 大正二年も十二月となり第三十一議会が近づきました。行雄の政友倶楽部は、花井卓蔵らの亦楽会と合同し、中正会を組織しました。議席数はわずかに三十七です。与党政友会が衆議院で多数を占めている以上、野党側の苦戦は必至の情勢です。第三十一議会の争点は営業税でした。政府提案の営業税は、銀行業、製造業、運送業、物品販売業、請負業、席貸業、料理店業などの広範な業種を対象としたものです。しかも収益に対する課税ではなく、資本金額、売上金額、建物賃貸価格、従業員数といった外形的基準によって課税しようとするものでした。このため収益がなくても課税されます。野党側はこの点をあげて「悪税」とし、反対の烽火を上げました。野党とは中正会、国民党、同志会です。このうち同志会は桂太郎が十ヶ月前に設立した政党であり、当時は行雄の政敵でしたが、今や共闘態勢をとっています。政治とは実に離合集散の常なきものです。行雄はそのことについて何の不思議も不都合も感じていません。

「政党とは主義政策によって団結するものである」

 これが行雄の持論です。

 二十六日から始まった第三十一議会は、慣例どおり二十八日から年明けの一月二十日まで休会となりました。休会中、行雄は都内各所の演説会に出演し、憲政擁護、藩閥打倒、悪税廃止を訴えました。いずれの演説会も盛況ではありましたが、議会では苦戦が予想されました。何しろ最大会派の政友会が与党です。それに山本内閣は成立後わずかの期間に著しい成果をあげています。軍部大臣現役武官制を改正し、二個師団増設を取り下げ、大規模な行政整理を断行して五千三百人の人員整理と三千五百万円の予算削減を達成しました。山本権兵衛のすぐれた政治手腕というべきであり、政府攻撃の材料は必ずしも多くありません。山本内閣は第三十一議会を易々と乗り切れるはずでした。

 それが意外にも、この議会の終盤に総辞職してしまいます。頓死といってよいでしょう。その原因は海軍を舞台とした贈収賄事件、いわゆるシーメンス事件です。

 事件の発端は、休会明けの一月二十一日に飛び込んできた一通の外電です。曰く、シーメンス社元社員カール・リヒテルはドイツ海事裁判所において日本海軍関係者に多額の贈賄をしたと自白した。翌日の新聞はいっせいにこのロイター電を報じました。政府攻撃を目論む野党にとって贈収賄疑惑ほどの好材料はありません。先陣を切ったのは同志会の島田三郎です。一月二十三日の予算委員会で海相斉藤実を追及しました。政府は事態の沈静化を図りましたが、その後の外電が具体的な海軍将官名を挙げるに及び、世論が沸騰しました。憲政擁護運動の余熱は、海軍贈収賄疑惑によって再燃しました。

「我に一点のやましき所なし」

 山本権兵衛総理は大見得を切りましたが、そんなことでは議会も世論も納得しませんでした。一月二十九日、やむなく政府は海軍省内に査問委員会を設けて取調べを開始しました。この後、海軍中将松本和、海軍大佐沢崎寛猛、海軍造兵中監鈴木周二らが軍法会議において有罪判決を受けることになります。

 先の議会では長州閥と陸軍が世論の槍玉に上がりましたが、今度は薩閥と海軍が非難の標的となりました。燃えあがる世論に乗じて野党は頻繁に演説会や集会を開き、悪税廃止と海軍問題追及を訴えました。いずれの集会も盛況で万余の聴衆が集まりました。二月十日、日比谷公園の国民大会に集まった群衆は、大会後に議事堂を取り巻き、これを警戒する警官隊との間に小競り合いを生じました。二日後、議事堂を取り巻く群衆と警官隊との間に騒擾が起こり、四百名以上の検挙者が出ました。

 衆議院では、世論を背にした野党の攻勢が続いていました。行雄も活躍しました。一月二十二日の予算委員会において質問に立ち、陸海軍の両翼主義、両輪主義を批判しました。

「従来の両翼主義というのは、ただ薩長の権衡をとるがために起こったことで、帝国の利害から割り出されたものではない」

 二十九日には本会議においてシーメンス事件の事実関係を斎藤海相に質問しました。斎藤海相は即答を避け、後日文書で回答すると逃げました。翌日の予算委員第四分科会では国防方針について山本総理に質問を投げかけ、特に政府と統帥部との関係を追求しました。

「国防といえば無論きわめて大切なる事柄であるが、その問題を決めるに当たっては、内閣大臣には関係せずして、内閣以外の機関においてこれを決定する。しかして然る後にこれを内閣に下して諮詢する。直近の一年二年に関する予算と関係した所にいたって始めて内閣総理大臣はこれを承知する。これは驚くべき、吾々にとってはほとんど信じられぬほど驚くべき事実である」

 行雄は統帥権の独立について疑義を呈示したのです。陸軍参謀本部あるいは海軍軍令部が政府と何の相談もなく帝国国防方針を定めてしまってよいのか、と問うたのです。

「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」

 この憲法第五十五条に違反しているではないか、と行雄は追しました。これに対して山本総理は実際上の手続きを説明しました。

「国防に対する用兵の責任はすべて参謀本部の條例および軍令部の條例に基づいてやるのであります。その計画が予算として議会の協賛を与えられ、実行された暁においては責任は内閣にあります」

 行雄は納得しません。

「私は憲法上の大義を御尋ねしているのに、あなたは参謀本部の條例がどうとか言う。法律以下の官制勅令に縛られた御答弁であるから、いつまでたってもかみ合わない。條例などは悪ければ上奏して改訂しなければならぬ。しかし憲法はそうはいかない」

 このあたりが憲政主義の行雄と、藩閥政治家山本との相違でした。行雄は憲法を遵守せよと迫りますが、山本総理は官制條例があるのだから良いじゃないかとかわします。ちなみに官制とは政府組織や官職を定める法規のことで、この頃は勅令によって定められていました。勅令とは天皇の命令であり、帝国議会の協賛を必要としません。憲法が行雄の武器なら、勅令が藩閥の武器でした。法律以下の勅令、閣令、省令等が藩閥側にとって格好の権益防衛手段です。行雄は憲政主義の立場から勅令主義に闘いを挑みました。憲政主義者は憲法に拠り、官僚は勅令、閣令、省令に拠る。この後、行雄の奮闘にもかかわらず官僚主義が強まり、日本は憲法よりむしろ勅令等によって動かされるようになっていきます。

 行雄は、翌一月三十一日の予算委員第四分科会で海軍継続費について質問し、二月三日の本会議では陸軍大臣の責任に関する質問という演説を行ないました。すでに述べたとおり政府は二個師団増設予算案を今国会に提出していませんでした。しかし、前国会まで政府は二個師団増設が焦眉の急であると訴えていました。

「師団を増加するに非ずんばどうしても国防の任務を尽くすことができない」

 そう訴えていたにもかかわらず、今国会ではそれを要求しない。その理由は何か、それで国防を全うできるのか、前国会での説明は間違いだったのかと、行雄は問いました。いわば政府側の方針転換を逆用した質問です。行雄は議論を発展させ、国防方針の無定見を追求しました。

「元来、我国に於いては国防の大方針が定まって居らなければならぬはずである。海国である以上は海軍を主として陸軍を従とするとかいう方針が定まって居らなければならぬはずであるのに、ただ薩長の権衡を維持するという情実的の思想から、陸海軍の権衡を維持するという結果を生じて、海国でありながらなお陸軍と海軍を対等に拡張していくという方針をとってきたのであります」

 政府はこのことを両翼主義あるいは両輪主義として説明してきました。行雄はその誤謬を追求します。

「閥族の勢力が依然として存しているとはいいながら、薩長の権衡をとるがために我が帝国を犠牲に供するというが如き状況は多少改まって居らねばならぬはずであります。単に薩長の必要でなく、帝国の必要上陸軍が大切か、海軍が大切かという問題が決定して居らなければならぬ。とかく陸海軍を対等に拡張し、あたかもその使うところの予算までも海軍が五千万円使えば陸軍も五千万円、陸軍の経費が一億近くに上れば海軍もまた一億近くの金を使うというが如き、純然たる藩閥の情実のために国家を犠牲に供するが如き状態は改めておかなければならぬ」

 さらに行雄は両翼主義がすでに破綻していることを事実から例証します。日露戦争開戦時、二十四万トンだった海軍は、大正三年現在六十四万トンにまで拡張しています。これに対し、陸軍は十三師団が十九師団に増加したに過ぎません。また明治四十年に決定した国防方針では海軍五十万トン、陸軍二十五師団という整備目標が示されていましたが、陸軍は目標を下回り、海軍は目標を上回っています。事実上、両翼主義は破綻していたのです。

「両翼主義を存して居ると言いながら、一方は予定計画以上に超過して居る、一方はその半ばにも達し得ぬ」

 行雄は政府の矛盾を皮肉りました。ちなみに行雄自身の国防論は海主陸従軍備論です。行雄は「軍備と外交政策」や「国防論」といった論文で自身の考えを明らかにしています。

「日本は島国である。故に敵は必ず海から来るに違いない。即ちこれを防ぐにはどうしても海軍の力を借らなければならぬ。故に国防政策の方から見れば海軍は必要であるけれども陸軍はその必要を見ないのである」

 行雄の陸軍論は本質をえぐります。

「しかしながら国防政策よりせずして、侵略政策よりするときは、もとより陸軍をも必要とすること勿論である。が、国防のために陸軍を必要とするという説は根本より誤れる観念である」

 日本政府あるいは陸軍が支那大陸への進出意図を持っていたことは確かです。そうでなければ二十五師団を必要としないからです。行雄の国防論は、何事も純軍事的にしか考えようとしない軍事官僚と違い、外交や財政と密接に関連づけられています。

「我が国の現状は、陸軍を以って露国を挑み、海軍を以って米国を挑むものたるを免れず。日本は、富力においても人口においても世界の貧小国たり。而して同時に米露に対抗せんと欲し、世界の富強国と雖も、敢て為し能わざる所をなさんとす。天地転倒すと雖も、此の戦争の勝算なきは確実にして明瞭なり」

 日本は貧小国であるという前提で行雄は国防を論じます。その日本が露軍並みの陸軍と米軍並みの海軍を持つなど妄想に等しい。だからこそ薩長権衡の両翼主義を棄てよというのが行雄の主張です。さらに行雄は大英帝国を見よと訴えます。

「英国の富裕を以てするも、海陸両本位主義を維持するは、その能わざる所にして、強いて之を維持せんとすれば、双方共に薄弱となり、国家の災厄に了るを以って、早くブリタニー及びノルマンディーを放棄して、大陸に断念し、単に海軍に全力を注いだ。英国の安寧幸福及び威厳は、主として海軍の力に依拠す」

 行雄にとって英国は、議会政治のみならず軍事政策においても手本でした。第三十一議会での行雄の活躍はさらに続きます。翌四日の予算委員第四分科会で再び二個師団増設問題を取り上げると、やや間をおいた二月十二日、本会議において二時間の大演説を行ないました。この日、議場は荒れていました。野党による執拗なシーメンス事件追及に対して、与党たる政友会はヤジによって対抗するしか方法がありませんでした。なにしろ政友会は多数の議員を抱えています。絶え間ないヤジに対して大岡育造議長の議場整理能力には限界がみえていました。

「尾崎行雄君」

 指名された行雄は登壇する前に、議長に矛先を向けました。

「議長は議場を整理するの能力ありや否や」

 議場は不規則発言で満ちています。

「ヒヤ、ヒヤ」

「議場整理の能力なし」

「答弁の必要なし」

「謹聴、謹聴」

「登壇したまえ」

 騒然たる議場中にあって行雄は再確認します。

「議長は議場を整理し得るや否や」

「無礼なる質問には返答する責任を持ちません」

 大岡議長は返答を拒みました。いくら注意してもヤジは止まない。議長は半ばあきらめています。行雄は登壇しようとしません。

「尾崎君は登壇しませぬか。登壇しなければ発言権を放棄したものと認めます」

 行雄はあくまでも議長の返答を要求し、登壇しません。議場のヤジは止まず、行雄は登壇しない。大岡議長も大変でした。

「静粛に」

 議長がどれだけ喚いたところで議場の騒ぎは収束しません。野党側はシーメンス事件の真相を暴こうと勢いに乗り、与党政友会は多数のヤジを以って議事を妨害しようとしていました。

「しばしば尾崎君を呼びましたが登壇がありませぬによって次の片岡直温君に許します」

 これには行雄も黙っていられません。ヤジに負けぬ大声を張り上げました。

「議長、議長、なぜ答えぬ。議長は職権を行ない得るや否や。問うて居るのに答えぬということがあるか」

 大岡議長は憤然として答えました。

「行ない得るんだ」

 行雄は念を押す。

「なぜ議長の職権を行なわない」

「行なって居る」

「議長が職権を行ない得るならば、本員は直ちに登壇する。行ない得るか」

「無論のことです」

「無論の事というならば、速記者が本員の演説を聞き得ない事態においては何とするか」

 議長は苦り切って黙りました。

「議長、議長」

「尾崎行雄君」

「議長、今の発言権はお取り消しになりましたか。お取り消しになりましたか」

 喧噪がひどい。

「取り消しはしません。君がやるなら許す」

 ここにいたって漸く行雄は登壇しました。

「諸君、私は議長がその職権を行ない得るという条件の下においてのみ議員の権利を要求します。議長にしてもし職権を行ない得ず、速記者が書くこともできないような状態を傍観座視して為すところを知らない状態においては、本員はやむを得ず、議員たるの権利を棄てます」

 ここまで言われれば、大岡議長は意地でも議場を整理せざるを得ません。議長は意地になって何度も大声を張り上げました。

「静粛に願います」

 議場は少しだけ静かになりました。行雄はようやく演説を開始しました。海軍拡張に偏重している政府予算案を非難し、海軍拡張費を削除せよと訴え、軍拡競争の不毛なることを説き、このままでは日本の財政が遠からず破綻するであろう懸念を表明しました。行雄の持論です。加えて海軍の腐敗を突き、予算の修正はもちろんのこと、内閣の不信任に言及しました。

「腐敗したる海軍。その海軍出身の総理大臣が組織して居る内閣に向かって、信用せずという決議を為しておりながら、兵糧だけはここに提供すると申しては吾々の立場が消滅するのであります」

 海軍予算を全面的に削除すればアメリカも安心して建艦の手を弛める。国防、外交、財政、あらゆる面から見てそれが得策であると行雄は主張しました。

「我が一隻を造る。相手が挑みに応じて三隻造れば、二隻だけ我は危険に陥ります。向こうが減らした場合に我も減らして、お互いにあまり造らなければ国家はいよいよ安泰になるのであります」

 第一次世界大戦前のこの時期、軍縮論は世界的に見てもまだまだ理想論でしかありませんでした。その意味で行雄の演説はきわめて先覚的でした。行雄は常に世界的思想潮流を鋭敏にとらえ、その中における日本を考え続けていたのです。行雄は、この日の演説が晩年に至るまで自慢で、微笑を浮かべながら人に語りました。

「予は起立して議長を呼び、先ず之を捕虜とし、その体躯を以って敵弾を防ぐの計を立て、以って平穏に演説を終えることを得た。独力以って絶対過半数を有する政友会を沈黙せしめたのは、予が議員生活三十余年間における痛快時のひとつである」

 行雄の活躍はさらに続きます。三月五日の本会議で若干の発言した後、十日の本会議では自らが提出した法案の説明演説を行ないました。衆議院議員選挙法中改正法案です。その趣旨は国会議員と官吏との兼任を禁止することでした。これも行雄の持論です。

「元来、官吏を衆議院議員に入るべきものなるや否やということは、世界列国において憲法上の大問題であります」

 行雄は世界の議会史を引きます。もともと欧州列国では官吏が議員を兼ねていたため、議会が政府に蹂躙され、政治腐敗を招きました。そのため英国は、政務官以外の官吏が議員を兼ねることを禁止しました。その後、いずれの列国においても官吏と議員との兼務が禁止されるにいたっています。

「然るに茲に最も不思議なるのは、ひとり日本国においては、ある種類の官吏を除いた者は議員を兼ぬることを得ずと他の国では書いてあるのに、日本の選挙法においては相兼ねることを得と書いてある。実に驚くべきことであります」

 日本だけが異例であると行雄はいいます。続いて議会政治の手本としている英国の事情を説明します。

「イギリスの如き制度においては、政府委員なるものと雖も大臣と雖も議席を持たない者は、一切議場に入ることを許さないがために、やむを得ず大臣及び大臣と進退を共にするところの政務官なるものは議場に出入りして政府の議案を説明弁護するの必要上から議員と相兼ぬることを許してあります。その数やきわめて少なくして且つその境界線はきわめて厳重に致してあります。日本の如き終身官であるべき純然たる事務官、純然たる刀筆の官吏をして議員を兼ぬることを許すが如き、不思議なる事例はほとんど世界列国において見ることのできない点であります」

 官吏を兼務している議員は、当然ながら吏党系議員として政府に賛成します。これは立法府に対する行政府の侵害であるといってよい。政党政治、議会政治の確立を目指している行雄が反対するのは当然でした。

 この後も行雄は精力的に働き、三月十一日の予算委員会、十四日の本会議、十六日の衆議院議員選挙法中改正法律案委員会で発言し、第三十一議会での活動を終えました。

 山本内閣は、海軍批判の逆風の中、海軍予算を縮小した予算修正案を衆議院に提出し、政友会の多数を以って可決させました。一段落かと思われましたが、山本内閣の敵は直ぐ隣にいました。長州閥と陸軍です。長州閥は貴族院を操り、衆議院を通過した予算案に反対せしめ、海軍予算のさらなる削減と陸軍予算の増額を要求させました。貴族院は藩閥の牙城とでも言うべき状態にあり、公侯二爵による世襲議員がほとんどを占めていました。衆議院では与野党とも貴族院の修正案を拒絶しました。衆議院と貴族院の意見が対立したため、議論は両院協議会に持ちこまれました。山本権兵衛総理は追い詰められました。貴族院は長州閥に握られているし、政友会は貴族院案に納得しない。予算の成立は不可能です。三月二十四日、山本内閣は総辞職しました。


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