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憲政擁護

 尾崎行雄が東京市政に精力を注いでいた十年間、中央政界では西園寺公望と桂太郎との間で政権がキャッチボールのようにやりとりされていました。つまり政友会と藩閥とで政権を交代させていたのです。第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣という具合です。後世、桂園時代といいます。公家出身の西園寺は藩閥に対しても顔が利きました。衆議院での過半数を背景として政友会総裁の西園寺公望は藩閥との調整能力を発揮しました。一方、総理大臣として日露戦争を勝利に導いた桂太郎は、第二次桂内閣において日韓併合や日英同盟更新を成し遂げ、長州閥最大の実力者に成りあがりました。藩閥と政党、この二つの権力が妥協しながら政権を交互に運営したのがこの時期です。

 この両者の関係に亀裂が生じはじめたのは、行雄が東京市長を辞した頃です。二個師団増設問題が起こりました。西園寺総理は緊縮財政政策を執り、すべての省庁に財政整理を命じていました。そんな中、陸軍だけがこれに異を唱えました。陸軍大臣上原勇作は、陸軍の財政整理によって削減した財源を以って二個師団の増設を断行すると主張してやみませんでした。

 実のところ、上原陸相の背後には政権奪取を目論む桂太郎がいたのです。このとき、桂太郎は内大臣兼侍従長の職にありました。いわゆる宮中職です。当時の内閣制度では宮中と府中(政府のこと)の区別を明確にするため、宮中職の者が政府に介入することが禁じられていました。禁じられていはいましたが、陰謀を禁じ得る制度はありません。

 上原陸相は西園寺総理の説得に応じませんでした。このため大正元年十二月二日、閣議はついに決裂し、上原陸相は単独で参内して辞表を捧呈してしまいました。これはこれで問題なのですが、だからといってすみやかに西園寺内閣が行き詰まるわけではありませんでした。後任の陸相を任命すればよいのです。西園寺総理は慣例どおり後任陸相の選定を山県有朋と桂太郎に依頼しました。桂の謀略はここにありました。桂は長州閥および陸軍に威令を行き渡らせ、後任陸相の推薦を押しとどめたのです。西園寺総理が待てど暮らせど返事が来ません。西園寺総理はここではじめて長州閥の策謀を嗅ぎ取りました。やむなく西園寺総理は適任者を自ら物色してみたものの、軍部大臣現役武官制という官制に行く手を阻まれました。この官制は明治三十三年に山県有朋が制定したもので、陸海軍大臣に就任できる者を現役大中将に制限しています。現役陸軍武官が山県有朋や桂太郎に造反するなどあり得ぬことでした。結局、西園寺総理は陸相を選任することができず、総辞職のやむなきに至りました。

 藩閥による組閣妨害と倒閣、悪しき前例を残して桂園時代は終わりました。桂太郎は思惑どおり総理に返り咲いたものの、世論は騒然となりました。政友会総裁の西園寺には衆議院の過半数という切り札があったにもかかわらず、陸相ひとりを任命できないがために総辞職せざるをえなかったという事実にだれもが疑問を感じたのです。しかも西園寺内閣を瓦解せしめた二個師団増設問題は、桂内閣が成立すると、あっさり延期が決められました。これは憲政上の異常事態といってよかったのです。世論は異常を異常としてとらえ、驚ろきかつ憤慨しました。非難の矛先は長州閥、陸軍、そして第三次桂内閣に向きました。こうした世論は民党勢力にとって追い風です。民党が衆議院で桂内閣を追及するのは必至でした。このため桂内閣は、第三十議会を開会後わずか二日で休会してしまいました。

 行雄が本格的に国政復帰したのはちょうどこの頃です。東京市長を辞任してから半年が経過しています。ちなみに行雄が政友会に再入会したのは三年前の明治四十二年にさかのぼります。原敬日記の十二月十八日の項にその記述があります。ちなみに原の尾崎評は手厳しいものでした。

「尾崎行雄、政友会に入会。余等より勧誘すべき事情もなし。而して、彼は世間に頻りに入会の旨公言せしにより、突然入会せしものならんと思はる。彼も口先ばかりにて案外に無能なれば、今は世間にて重をおく者なし」

 原敬日記には辛辣な尾崎評が幾つか見え、原が行雄を信頼していなかったことがわかります。それどころか厳しい人格攻撃さえあります。一方、行雄の「咢堂自伝」には原攻撃の記述はありません。どのような経緯で原が行雄に信を置かなくなったのかは不明です。

 それはともかく大正元年十二月十四日、上野精養軒で対時局有志会という名の会合が開かれました。交詢社が主催したこの会には数十名の政治家、言論人、財界人が参集しましたが、政友会からは行雄と岡崎邦輔、国民党からは犬養毅が参加しました。「憲政擁護」なる標語はこの日の論議から生まれたものです。十九日、京橋歌舞伎座において第一回憲政擁護大会が開催されると、折からの桂内閣批判の世論もあって三千人もの聴衆が集まりました。

「閥族の横暴跋扈その極に達し、憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断乎妥協を排し、閥族政治を根絶し、以って憲政を擁護せんことを期す」

 決議文案は満場一致で可決され、憲政擁護運動がここに始まりました。「憲政擁護」の四字は人心を見事につかみました。「憲政擁護、滅閥興民」の声は燎原の火の如く全国に広まり、憲政擁護運動は国民的政治運動と化していきました。その普及の早さと反響の大きさは行雄でさえ驚いたほどです。

 年の改まった大正二年一月、行雄は犬養毅とともに憲政擁護運動の先頭に立っていました。大阪土佐堀の青年会館における憲政擁護各派連合大会、日比谷松本楼における政友会国民党両党院外団大会、上野精養軒における全国記者大会、憲政擁護会主催第二回懇親会など、犬養と尾崎のふたりはほとんど連日のように集会に参加し、演説しました。二月九日、両国国技館で開かれた両党院外団主催大演説会には二万人もの聴衆が集まりました。行雄と犬養毅が会場に現われると聴衆の間から拍手喝采が湧き起こりました。やがて「脱帽」の声がかかると聴衆は帽子をとって二人に敬意を表しました。行雄が演壇に立つとしばらくは拍手が鳴りやまず、演説を始めることができないほどでした。重税と物価高に苦しむ民衆の鬱憤を巻き込んで憲政擁護運動はいやが上にも盛り上がりました。この頃の行雄の活躍ぶりを杉山茂丸著「桂大将伝」は次のように伝えています。

「愕堂尾崎行雄の如きは、天稟の弁舌を以って盛んに挑発的に煽動した。如何なる不条理も彼の舌端から美化されると理路整然たる金玉と成る。彼は当代一人の雄弁家で彼の飾火的弁舌を聞く者は、興奮剤を投ぜられたように俄に元気が恢復し、火の中へでも水の中へでも飛び込まん勢いになる」

 政権側からみれば、巧みな弁舌によって群衆を扇動する行雄は悪魔的存在でさえあったでしょう。この悪魔性は、憲政擁護派からみれば神性にほかなりません。憲政擁護派の新聞各紙は藩閥批判の論陣を張る一方、犬養と行雄の記事を盛んに掲載しました。それが販売部数を伸ばしたからです。行雄の周囲には常に記者が張り付き、行雄の一言半句をも記事にしようとしました。あげく犬養と行雄二人を神様扱いする見出しが紙面に踊ります。

「憲政二柱の神」

「憲政擁護の神」

「閥族打破の守護神」

 今日もなお犬養・尾崎の両名が「憲政の神様」と呼ばれるのは、この頃の活躍ぶりが際立っていたからにほかなりません。確かに全国に波及した憲政擁護運動の先頭に立ち、各地を遊説して回るふたりの姿は、いささか誇張が過ぎるとしても「憲政の神様」と呼ぶにふさわしかったのです。そして、新聞も商売である以上、売らんがための見出しを使うのも致し方ないでしょう。しかしながら、すでに百年以上の歳月が経過して歴史の冷却した今日、なお尾崎・犬養の両名を「憲政の神様」と評するのはいささか見当違いのようです。ふたりは決して神様などではありませんでした。もし憲政の神様であるならば、二人は憲政における万能者でなければなりません。確かに憲政擁護運動の燃えあがったこの一時期、ふたりは神の如き活躍を為して世論を喚起しましたが、それだけのことでした。特に行雄は、この例外期をのぞけば万能というよりむしろ無力であり続けます。神の出現を乞い願う信仰者のように行雄は憲政を希求しましたが、その力は及ばずに終わったのです。憲政は藩閥や軍閥によってないがしろにされ、議会政治は充全に機能せぬばかりか、やがて死にいたり、民権はついに張りませんでした。そういう現実の中で切歯扼腕する姿こそが尾崎行雄の真実でした。

 とはいえこの時期、犬養・尾崎が時流に乗っていたことは間違いありません。桂太郎総理は事態打開のための秘策に打って出ました。議会が再開されるべき一月二十日、桂は議会を再び停会にしました。そして、新政党の設立を発表しました。新党を設立し、自らその党首となることによって藩閥色を薄め、憲政擁護の姿勢を示そうと図ったのです。しかしながら、裏面でやることはあいかわらずでした。買収工作によって政友会および国民党を切り崩せると桂は考えていました。しかし、この目算は半ば当り、半ば外れます。国民党のおよそ半数が造反したのに対し、政友会からはほとんど造反者が出ませんでした。結局、新政党には八十七名が集まり、立憲同志会を名乗りました。

 議会の再開に先立ち、政友会内部では原敬、松田正久、元田肇、尾崎行雄といった面々が集まり、国会対策を討議しました。直ちに内閣不信任案の採決を迫るべきだと主張したのは行雄です。

「質問をしたところでろくな答弁は返ってこない。むしろ論鋒を鈍らせ、敵に活路を与えかねない。直ちに不信任案の採決に踏み込むべきだ」

 原敬はこれに反対しました。まずは質問戦で桂内閣を追い詰め、しかる後に不信任決議案に移るべきであるとしました。松田と元田が原に賛同したため、行雄の意見は却下され、政友会は質問戦を挑むことに決まりました。決まった以上は仕方がありません。

(しかたがない。あえて穏やかな言葉を使い、理詰めで桂総理を追い詰めてやろう。そのほうが凄味が出るだろう)

 そう考えた行雄は法理論を縦横に駆使した演説原稿を用意して二月五日の本会議に臨みました。先ず質問に立ったのは元田肇です。元田は詔勅を濫発した桂総理を責めました。桂は大命を拝した際と、海軍大臣を留任させた際に詔勅を賜っていました。これは詔勅の乱発であると元田は論じました。しかも桂は侍従長兼内大臣という宮中職を辞した直後に総理になっています。これは宮中と府中との区別を曖昧にし、内閣制度の趣旨を乱す行為である。元田の質問主旨は悪くありませんでした。ただ、その質問ぶりに行雄はイライラしました。

(だから言わないことじゃない)

 行雄が心配したとおり、元田の舌鋒は鋭さに欠けていました。桂総理は鷹揚な態度でのらりくらりと答弁します。

「詔勅ではございません。勅語でございます」

 その態度は余裕綽々で、ややもすれば元田を愚弄するかのような表情を見せました。この日、行雄はどうかしていたようです。桂総理の慇懃無礼な答弁ぶりを見て、我を忘れるほどに激怒してしまったのです。元田は桂総理の答弁に納得せず、再質問に立ったものの、何ら核心に迫る答弁は得られません。所詮、議会での質疑応答などは茶番なのかも知れません。質問者は一方的に質問演説をし、答弁者もやはり一方的に答弁演説をする。答弁者は質問の論旨を微妙にすり替えて巧妙に言い逃れます。それにしても元田の質問ぶりは迫力に欠けていました。

「元田君、総理大臣の施政方針に関しての質問の通告の御連名がありますが質問なさいますか」

 大岡育造議長がさらなる質問を促したのに対して、元田は「いえ、今日はもう」と力なく答えて降壇してしまいました。

(質問戦が聞いて呆れる)

 元田のふがいなさは行雄を怒らせ、時を得顔の桂総理が行雄の憤りを爆発させました。すでに守屋此助が外交方針に関する質問を始めていましたが、激情の中にいる行雄は質疑など聞いていません。

(早く終われ)

 ただひたすら念じました。加藤高明外相の答弁が終わると行雄はすかさず発言しました。

「議長の御手許に差し出してあります決議案につきまして、一応、この際、日程を変更の上、議に付せられんことを望みます」

 行雄は嚇怒のあまり半ば無意識のうちに内閣弾劾決議案の審議を提案してしまいました。まずは質問戦で、という党の方針を無視したのです。議場では行雄の動議が通ってしまい、議事日程が変更されました。決議案が書記によって朗読されます。

「内閣総理大臣公爵桂太郎は大命を拝するに当りしばしば聖勅を煩わし、宮中府中の別を紊り、官権を私して党与を募り、また帝国議会の開会に際し濫りに停会を行ない、また大正二年一月二十一日本院に提出したる質問に対し至誠その責を重するの意を昭らかにせず。これみな立憲の本義に背き累を大政の進路に及ぼすものにして、上皇室の尊厳を保ち、下国民の福祉を進むる所以に非ず。本院は此の如き内閣を信任するを得ず。よってここに之を決議す」

 行雄は登壇し、話し始めました。用意した原稿のことなどすっかり忘れています。すべて即興です。

「勅語もまた詔勅のひとつである。勅語と言おうとも勅諭と言おうとも詔勅であることにかわりはない」

 議場から弥次が沸き上がりました。同志会所属議員は桂総理を助けるため喚き始めました。これが行雄の怒りに油を注ぎました。

「立憲の本義を弁えざる者は黙して居るべし」

 議場は騒然となりました。

「静かになさい」

 大岡議長が注意します。静まるのを待たずに行雄は口を開きました。

「お聴きなさい、お聴きなさい」

 この日の行雄の演説は異様なほどの気魄に満ちていました。議場の議員、傍聴記者、そしてひな壇に座っていた大臣らもそれを感じました。

「勅語と詔勅とは違うと言うが如きは、彼等一輩の曲学阿世の徒の憲法論においてこそ此の如きことあるやも知れぬが、天下通有の大義においてそのようなことは許さぬのである」

 行雄は忘我の境地に入り、考えるよりも感じるままに論じました。弁舌は流れ、論鋒は肺腑をえぐり、気迫は議場を圧しました。

「彼等は常に口を開けばすぐ忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売の如く唱えておりますが、その為すところを見れば常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動をとって居るのである。彼等は玉座を以って胸壁となし、詔勅を弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか」

 議場では野次が減り、拍手と応援が優勢となりました。鬼気迫る行雄の演説は続きます。

「常侍輔弼なる者は、その品行端正、挙止謹厳、一挙一動帝王の師と為るべき者にして始めて成就するのである。桂公爵はそれらの資格を一点だも備えて居る所がありますか」

 このとき行雄は、ひな壇に座る桂総理に向かって一歩踏み出し、睨み据えながら大きく腕を突き出し、指頭を以って射ました。瞬間、指差された桂総理が動揺するのを多数が目撃しました。

「咢堂の演説は指を人の目に突っ込んでかき回すようだ」

 行雄の演説をこの様に評した人がいます。行雄のただならぬ気迫にさすがの桂総理も覚えず動揺したようです。この調子で行雄はおよそ二十分間にわたり論じ立てました。興奮冷めやらぬままに自席に戻ると、いつになく疲れました。ですが党友が名演説を讃えてくれ、党の質問戦略を独断で覆したことを責める者はいませんでした。行雄に対する短い答弁を桂総理が終えたところで議会は再び停会となりました。午後三時十分でした。

 この日、江東回向院では憲政擁護の全国大会が開かれていました。大会が終わると群衆は議事堂を取り巻きました。衆議院の散会とともに議員が退出してきます。群衆は民党議員を万歳の歓呼で迎える一方、吏党議員には罵声を浴びせました。不幸にして激昂した群衆に馬車を止められ、車外に引き摺り出さて殴打された議員さえいました。

 憲政擁護運動の大きなうねりを背にして政友会と国民党とは桂内閣を追い詰めつつありました。桂総理は事態の打開を図るため停会期間中に次々と手を打ちました。二月七日に立憲同志会を発足させると、翌八日には加藤高明外相をして政友会総裁西園寺公望と会談せしめ、妥協を模索しました。この会談は不調に終わりましたが、桂はあきらめず詔勅にすがりました。

 翌九日、政友会総裁西園寺公望は宮中に召されました。大正天皇は世の騒乱を憂え、服喪の期間中でもあるから国輔の任を尽くすようにとの御諚を降されました。西園寺公は恐懼して拝しました。公家出身の西園寺には拒絶できません。桂総理の思惑どおりでした。西園寺総裁は帰邸すると、ただちに原敬、元田肇、松田正久、尾崎行雄を呼び集めて協議しました。要するに天意を奉ずるため内閣弾劾案を撤回して桂内閣と妥協したい、という相談です。行雄は西園寺公の苦しい立場を理解しつつも、それとこれとは話が別だと反対意見を口にしました。

「元凶の桂総理をそのままにしておくことはどうしてもできない。たとえ御沙汰があったにしても、あなたは軽々に御請けするべきではなかった。ダメなものはダメというのも臣下の道ではありませんか」

 西園寺はすでに大正天皇に対して奉答してしまった後です。これに背けば違勅になります。公家出身の西園寺にとって違勅を犯すことは死ぬよりつらい。西園寺は苦しげに言います。

「今さら取り消すことは出来ない」

 五人の思考は袋小路に入り、いい知恵は浮かびません。時間ばかりが過ぎ、深夜になりました。

「今さら矛をおさめることは出来ません。強いて妥協するというのであれば、私は院内総務を辞めさせていただきます」

 行雄はそう言い残して西園寺邸を辞しました。駿河台から品川の私邸に戻る途中、政友会本部の灯りが見えました。すでに深夜ですが電灯が煌々と輝いています。皆が会談の結果を待っているのでしょう。しかし行雄は素通りして帰りました。翌朝は停会明けの二月十日です。行雄が政友会本部に行くと、徹夜明けの赤い眼をした会員がたくさん残っていました。

「たとえ総裁の命と雖も、桂との妥協は出来ない」

 強硬意見が大勢を占めています。やや後れてやってきた西園寺総裁に行雄は言いました。

「総裁が説得しても会員は聞かないと思います。昨夜、私は辞めると言いましたが、撤回します」

「あなたが辞める必要はない。皆が反対ならば私が総裁を辞すより外あるまい」

 すでに進退の窮まっている西園寺は心情を正直に吐露しました。これに対する行雄の返答は冷厳でした。

「無論のことでございます」

 午前十一時四十分、政友会総会が開かれました。西園寺総裁は登壇し、昨夜来の出来事を述べ、陛下の御沙汰にしたがって内閣不信任案の撤回を求めました。しかし、総会は全会一致で既定方針の堅持を決議しました。このため西園寺は違勅のやむなきに至りました。この後、西園寺は政友会総裁を辞し、桂内閣の後継指名も辞退し、ついには政界そのものから去ります。

 その同じ日の朝、日比谷に参集した数万の群衆は国会仮議事堂を囲み憲政擁護を叫んでいました。白いバラを胸に挿した憲政擁護派議員は歓呼の声に送られて意気揚々と当院しました。吏党系議員に対しては悪罵が投げつけられました。容易ならざる事態に制服警察官三千、私服警官二百、騎馬憲兵三個小隊が動員されたていましたが、すでに各所に小競り合いを生じ、だだでさえ興奮状態の群衆をいっそう刺激しました。

 桂総理が停会中に繰り出した数々の打開策は効奏しませんでした。やむなく桂総理は議会解散によってこの難局を乗り切ろうと考えました。それに反対したのは加藤高明外相や大岡育造議長です。

「解散などしたら内乱になる」

 大岡議長はそう言って制止しました。桂総理は解散をあきらめ、停会五日のやむなきにいたりました。議場を取り巻いている群衆に停会の報が伝わると、人々はあたかも勝利を得たかのような感興を催し、万歳を叫びました。解散を予想していたものが停会でおさまったからです。

「都新聞は官僚新聞なり」

 暴動の始まりは野次でした。興奮状態の群衆は野次に反応して都新聞社屋に投石をはじめ、ついには放火に及びました。さらに一部は国民新聞社屋への投石を始めました。ここから警官隊との騒擾を生じ、警察署、交番、読売新聞、二六新聞、やまと新聞などが破壊されました。この暴動騒ぎは大阪、京都、神戸、広島にも波及しました。翌二月十一日、桂総理は事態を黙視できず、ついに内閣総辞職を決めました。第三次桂内閣はわずか五十日の短命でした。桂内閣が総辞職するとただちに元老会議が開かれ、山本権兵衛への大命降下が決められました。山本権兵衛は薩摩出身の政治家であり、海軍軍政畑の重鎮です。

 この間、行雄も動いていました。次期政権は政友会と国民党が担当すべきであると考えました。それでこそ藩閥打倒と憲政擁護が一歩進む。行雄は、松田正久への大命降下を期待しつつ組閣工作を進めました。そこへ山本権兵衛への大命降下です。

「元の木阿弥じゃないか」

 政権は長州閥から薩摩閥に移っただけのことです。行雄は山本内閣の打倒を主張しました。政友会は衆議院で過半数を保持しています。次期国会に内閣不信任決議案を提出して対決すればよい。しかし、政友会の主流は原敬を筆頭とする現実路線でした。原敬は山本内閣との妥協を主張しました。

 原敬の政治手法は星亨に似ています。星亨ほど露骨ではないにせよ、金をまき、利権を操ることで自派の影響力を高め、さらに政友会の党勢を拡大するために藩閥との協調路線をとったのです。情意投合といいます。ほぼ十年にわたる桂園時代、政友会は一貫して藩閥と共存しました。その間に政府官庁内への浸透を図り、利権によって選挙を有利に進め、ひたすらに政友会の党勢拡大を図りました。原敬の方針と努力は実を結び、政友会の議席数は百三十九から百九十三へと増加しています。単独過半数を得たのです。大躍進でした。

 とはいえ原敬に対する批判も決して少なくありません。「藩閥の走狗」といった類の誹謗中傷や、「藩閥への降伏」という協調路線批判は世間だけでなく党内にさえありました。それでも原の信念はゆるぎません。

「むしろ藩閥を利用するのである。政党は政権をとらねば発達するものではない。予は数年の妥協によってこのとおり政党の地盤を開拓し、行政部内に勢力を扶植したではないか。政権を離れて何とするか」

 原敬は、憲政擁護運動にも当初は冷淡でした。憲政擁護運動そのものに意義を見出していた行雄と違い、原敬は憲政擁護運動を政権復帰への道具として利用しました。憲政擁護運動の高まりによって桂内閣が苦境に陥いると、ようやく原敬は憲政擁護運動に参加しはじめました。さらに桂内閣の総辞職を見越し、次期政権における藩閥側との協調を模索しました。いよいよ桂内閣が総辞職して山本権兵衛に大命が降下すると、原敬は直ちに交渉をまとめ、藩閥との連立合意をとりつけたのです。その条件とは、首相、外相、陸相、海相以外の閣僚を政友会に入会させること、および政友会から三名を入閣させることでした。この変則的な連立案に対して政友会内には反対意見が起こりました。行雄がその先鋒でした。ですが原敬は意にも介しません。

「愚図愚図していると桂が大詔渙発で居すわるぞ」

 原敬の一喝で政友会内は静まってしまいました。結局、第一次山本内閣には政友会から原敬、元田肇、松田正久の三名が入閣しました。党内の政争に敗れた行雄は、その強情ゆえに行動を飛躍させます。意見を同じくする党友二十四名とともに政友会を脱退したのです。


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