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行雄

 明治七年一月十七日、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら八名は民撰議院設立の建白書を太政官左院に提出しました。この建白書は日新真事誌という新聞に掲載されました。次いで他社各紙がその賛否を世に問うたことで世論の注目を集めます。いわゆる自由民権運動の原点ともいうべき文書です。まだ十五才の尾崎行雄もこの記事を読み、漢文調の格調高い文章に興奮しました。建白書はその冒頭で藩閥官僚の専政を非難しています。

「政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、(かみ)帝室ニ在ラズ、(しも)人民ニ在ラズ、シカシテ(ひとり)有司(ゆうし)ニ帰ス」

 有司とは官吏、官僚のことです。建白書とともに提出された「民撰議院弁辯」という書類には藩閥専制の実態が数字で示されています。勅任官という高等官吏六十七名中、薩長土肥出身者は四十一名で、六割五分を占めています。勅任官の下の奏任官では、総数二千百二十六名中、八百名が薩長土肥出身者であり、四割弱を占めていました。総人口に占める薩長土肥四藩の人口比率は七分に過ぎなかったので異常な高率です。とはいえ、維新回天の事情からみれば当然の結果だったかもしれません。

 建白書の記事を読んだ尾崎行雄は、藩閥による有司専政に若者らしい義憤を感じました。尾崎一家が藩閥の恩恵に浴していることには思い至りません。そのあたりはまだ子供でした。つづいて建白書は藩閥政治の弊害を訴えています。

「政令百端、朝出暮改、(まつりごと)情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路げんご壅蔽(ようへい)困苦こんく(つぐ)ルナシ」

 このままの悪政が続けば「国家土崩ノ勢ヲ致サン」と建白書は警鐘を鳴らしています。そして、この窮状から国家を救うためには民撰議院の設立が必要だとしています。

「乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ルノミ。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ルノミ」

 要するに議会を設置しろというのです。


 行雄はあいかわらず従順でした。父の行正は依然として拷問、斬首、遺棄死体の検分を行雄に課していました。行雄は温和しく従ってはいたものの、心の内には不満が渦巻いています。

(いったい、いつまでやらせるのか)

 斬首の光景は何度見ても慣れるものではありませんでした。凄まじい血しぶきが吹き上がり、辺り一面が血腥くなります。行雄は血を見るのも、血の臭いを嗅ぐのも嫌いでした。何度見せられても嫌いなものはどうにもなりません。

(東京へ行きたい)

 まったく別のことを考えました。東京には福沢諭吉という開明思想家がいます。福沢のことは新聞記事を通じて知りました。できることなら慶應義塾で学びたい。そんな折、再び父の転勤が決まりました。上司の安岡良亮が白川県権令として熊本へ赴任することになったのです。父の行正も行きます。行雄は思いきって父に願い出てみました。

「東京に出してください」

 行雄が十五才にして初めて言い出した我が儘です。父はこれを許しました。


 この時代、最も便利な国内交通機関は汽船でした。行雄は、十歳の弟行隆とともに伊勢から横浜行きの汽船に乗りました。父に上京を許されたとき、天にも昇る思いがしました。天下の慶應義塾で学ぶことができる。父や母から口うるさく干渉されることもなくなる。首斬りや拷問に立ち会う必要もなくなる。ところが今、隣でスヤスヤ眠る行隆の寝息を聞きながら、行雄は巨大な不安に押し潰されそうになっています。

(天下の秀才が集まるという慶應義塾で伍してゆけるのか)

 行雄には乏しい学歴しかありません。東京の平田塾に二年、高崎と伊勢山田の英語学校に三年通っただけです。行雄は父の行正から漢学を学んだほか、礼儀作法や護身術の基礎について手ほどきを受けていました。ですが、それが天下の慶應義塾で通用するとは思えなかったのです。幼い頃から劣等感を蓄積させてきた行雄の心中では、心配が次から次へと誘爆を起こしました。

(周囲の人から嫌われるのではないか)

(身体が保つだろうか)

(入塾を断わられるのではないか)

(恥をかかされたらどうしよう)

(やっぱり伊勢に帰りたい)

 思春期の心理ほど不安定なものはありません。抱えきれぬほどの心配は行雄の心を押し潰すほどでした。行雄は自己保存の方法を懸命に考えました。

(無口で通そう)

 一睡もせずに考え続けたあげく、到達した結論がこれでした。

(ものを言うから無学無能を見抜かれるのだ。無言で通せば見透かされることはあるまい)

 慶事は弔事でもあります。慶應義塾への入学は行雄にとって空を飛ぶような快事であるとともに、とてつもない心理的負担でもあったのです。行雄は巨大な不安を心に蔵し、防衛的態度で心身を固めつつ横浜に上陸しました。ぐっすり眠り、無邪気に笑っている弟がうらやましくもあり、小面憎くもありました。

 明治七年夏、行雄は無事に慶應義塾に入塾しました。本塾ではなく童子局です。当時の規則では十二歳以上、十六歳以下の子供は童子局に入ることになっていました。行雄から見ると周囲の塾生はひどく子供っぽくみえました。小柄で無口な行雄は空気のように違和感なく教室におさまっていました。どんなに馬鹿げたことでも思い込んだらやり抜くのが思春期の特徴です。行雄は汽船の中で決心したとおり無言を通しました。必要なこと以外は一切しゃべりません。友人をつくろうとさえしませんでした。行雄は目立たぬ事を願いました。行雄の心中は針で突けば泣き出しそうなほどに緊張し、身を守るために必死だったのです。幸いなことに周囲の子供たちも行雄に関心を向けませんでした。

 童子局では毎月一回試験があります。この試験が行雄を徐々に変えていきます。

(天下の秀才が集まる慶應義塾で田舎者がやっていけるのか)

 ひどく心配して身と心を固めていた行雄ですが、試験を受けてみると行雄の学力は立派に通用しました。毎月、試験のたびに級が上がります。時には一度に二級あがることもありました。こうして短期間に行雄は童子局内の高級生となっていきました。ゴボウ抜きです。行雄は安心し、やがて慢心します。自分の学力が通用するとわかり、童子局とはいえ天下の慶應義塾で上級に位置できたのです。行雄は生まれて初めて優越感を味わいました。優越感と劣等感とは同じ心理の裏表です。幼い頃から病弱で人並みのことができなかった行雄は劣等感をひたすら膨張させてきました。そんな行雄が生まれてはじめて人を下に見る経験をしたのです。舞上がっても無理はありませんでした。巨大な劣等感は一気にその色を変え、鼻持ちならない優越感に変貌していきました。

 それでも行雄はあいかわらず無口です。当初は身を守るための防衛的無言でした。それが今では傲岸不遜な思い上がりからくる無言に変わっていました。

(学力劣等な奴らと口をきく必要はない)

 同じ無口でも態度が違います。不思議なもので、童子局の塾生たちは敏感に感応し、急に目立ちはじめた行雄に反感をもちました。「おすまし」、「気どり屋」、「強情者」などという悪口を言われるようになったのはこの頃からです。行雄は悪口を言われても一向に平気でいられました。完全な増上慢です。

 そんな変人の行雄にもごくわずかながら友人ができました。類は友を呼ぶ。三宅米吉という同級生は行雄に輪をかけた無言居士で全く口をききません。三宅はふらりと行雄の下宿を訪ねてきて日がな一日だまっています。行雄も黙っています。二人ともそれが全く苦痛ではありませんでした。三宅は何がうれしいのか、ときに微笑さえ浮かべました。妙な友情もあったものです。ちなみに三宅は長じて歴史学者となり、東京帝室博物館や帝国博物館の要職を歴任し、考古学会を創設します。

 行雄の思い上がりにドンドン拍車がかかりました。行雄は教師に質問するときだけ口をきくようになりました。その質問の意図は教師を困らせ、自分の学力を認めさせようという悪戯心からくるものでした。行雄は、教室で教えられているものより難解な書物をひそかに独習し、それについて質問しました。教師は答えられません。教師をやりこめることで学力を認めさせ、さらに級を上げようという下心です。動機は不純でしたが勉強にはなりました、級も上昇しました。ですが、上には上があります。行雄の質問にことごとく即答する教師がいたのです。門野幾之進と後藤牧太の二名は、行雄の質問をことごとくはね返しました。行雄がどれほど勉強しても、この二人には敵いませんでした。行雄は素直に心服しました。

 ところが、あこがれていたはずの福沢諭吉先生にはむしろ反発を感じ、親しむことができませんでした。福沢には強烈な癖があり、ぞんざいな言葉づかいで塾生を小僧扱いにするところがありました。もちろん福沢に悪意はなく、性格であり、習慣であるに過ぎません。ですが、行雄は福沢先生の言動に屈辱を感じ、許すまいと誓い、反骨を現わしました。

 一方の福沢諭吉は、そんな小僧の心情など知る由もなく、そんな細事にかかわっている暇もありません。福沢諭吉は独自の文明史観から自発的に日本の近代化を推進しようとしています。そのために慶應義塾を開き、精力的に文章を書き、発表しています。福沢は急いでいました。急がなければなりません。西洋列強諸国に日本列島が蚕食される前に近代化の実を挙げねばならないのです。急進的開化論者の福沢は矯激な言辞をしばしば用いざるを得ませんでした。

「諸君は巧言令色をしなければならぬ」

 福沢はあえて刺激的な表現を使って塾生を激励しました。西洋流の売買交渉、政治交渉、外交交渉を行なうためには大いに社交をしなければなりません。多くの人と話し合い、論じ合って、互いの信頼を醸成し、ときには相手の腹の内をさぐり、こちらの意図を隠し、競争相手を出し抜かねばなりません。こうして交際範囲を広げていくのが西洋流の交際術です。そのことを福沢は独自の表現で教えたのです。

「大いに巧言令色せよ」

 ところが当時の日本人の基礎教養は漢学です。聖賢の教えにそむく福沢の言辞に反感をおぼえる者が少なくありませんでした。世情物騒な時代です。中には福沢に殺意を抱く者さえいました。ですが福沢は自分にも社会にも容赦しませんでした。知的豪傑というべきでしょう。

 行雄も漢学によって育ってきましたから、福沢の過激さにはついて行けず、反発しました。加えてこの時期、行雄は奇妙な努力をしながら生きていました。その努力とは、人格改造の努力です。慶應義塾に入塾して数ヶ月、行雄は調子づいていました。心理の表層には優越感と自信と少年の客気とが渦を巻いています。ですが心理の深層には幼い頃から蓄積されてきた臆病と劣等感の巨塊が厳然と存在しています。学友になじまず、教師をやりこめ、悪童ぶりを発揮してはいましたが、行雄の内心は自信と臆病とが交錯する不安定な状態でした。

(こんなことではいけない)

 行雄は自分の臆病心を矯めるため、いっそう無口になろうとし、どんどん反抗しようと決めたのです。

(臆病の克服には反抗することだ)

 困ったことに行雄はそう信じ込み、実践しました。ついには反抗と強情が尾崎行雄の生涯不変の性格になっていきます。周囲こそ迷惑です。馬鹿馬鹿しい思いつきとはいえ、当の行雄は真剣です。福沢が「巧言令色をせよ」と言えば言うほど、行雄は反抗心を燃えあがらせ、意地になって黙ります。そうではありましたが、教師から一本とるためには口を開き、難解な質問をしました。これとて巧言令色の類であったのですが、本人はそのことに気づきません。

 慶應義塾に演説館が建設されたのは明治八年五月です。そもそも演説とは何か、というところから福沢諭吉は説き起こし、その効用と必要性を欧米諸国の例を引きながら解説し、みずから実演して見せ、塾生にも練習させました。「演説」という言葉そのものからして福沢の造語です。文明の輸入とは天才にしか為し得ぬ事業のようです。福沢は、特に政治に志のある者は演説を身につけねばならぬと教えました。民撰議院設立の建白書を読んで以来、政治の道を志していた行雄は、福沢に反発を感じつつも、演説を練習しはじめました。後年、帝国議会において数度にわたり歴史的大演説をやってのける尾崎行雄ですが、塾生時代の行雄の演説はひどく拙く、聞いていられるような代物ではありませんでした。行雄は冷めた態度で話したのです。

(意味さえ通じればいいのだろう)

 行雄の演説には聴衆に訴えようという熱意もなければ、うまく話そうという意志もありません。「巧言令色すくなし仁」という孔子の教えは、この後も行雄の心を縛り続け、「大いに巧言令色を行なえ」という福沢への反感が消えませんでした。心の中に演説に対するわだかまりがあります。心と身体が分裂していました。そもそも慶應義塾に入塾して以来、無言生活を続けてきたのです。聴衆の前で話すことなど、できるはずがありませんでした。

 そんな演説下手の行雄でしたが、演説する機会はいくらでもありました。演説という目新しいイベントが流行り、演説会がそこかしこで頻繁に開かれていたからです。慶應義塾の塾生は引っ張りだこでした。行雄も招かれれば演壇に立ち、うまくもない演説をくり返しました。


 慶應義塾の演説館が完成した翌月、明治八年六月、太政官政府は二つの法令を制定しました。新聞紙條例と讒謗律です。自由民権運動の高まりに神経をとがらせていた太政官政府は、その封じ込めを図ったのでした。新聞紙條例によって新聞の発行を許可制とし、筆名ペンネームを禁じました。罰則規定も設けられました。たとえば第十三条は次のとおりです。

「政府を変壊し国家を転覆するの論を載せ騒乱を煽起せんとする者は禁獄一年以上三年に至る迄を科す」

 讒謗律は、名誉毀損や誹謗中傷を禁止する法令ですが、第一条の冒頭にこうあります。

「凡そ事実の有無を論ぜず」

 たとえ事実であっても、人の名誉を害してはならない。たとえば政治家や官吏が汚職をしたとします。その事実を新聞記事にすると、その新聞は発行停止となり、記者は罰せられることになるのです。しかも罰則規定は、記事対象が天皇、皇族、官吏、その他の順に重くなっています。天皇と皇族は別格としても、明らかに官尊民卑の思想でした。

 行雄は義憤を感じました。とはいえ書生に過ぎません。政府の言論弾圧と闘うのはもっと先のことです。行雄はあいかわらず塾内で教師に対する反抗と無言生活を続けていました。福沢諭吉が自ら教鞭を執って塾生を教えることはほとんどありませんでしたが、かといって塾生を野放しにしていたわけでもありません。折に触れて個別指導をしてくれます。例えば、めぼしい塾生を呼びつけて福沢の口述を筆記させます。それを文章にして清書せよと命じます。これをやると塾生の性格がよくわかるのです。尾崎行雄は落第でした。その文章から福沢の論旨が消え失せており、行雄の持論にすり替えられていたからです。福沢の口述を正確に文章化したのは箕浦勝人という塾生でした。福沢は行雄には注意を与え、箕浦をほめました。ですが、それはあくまでも課題に対する評価です。福沢はむしろ人間としての適性をみようとしていたようです。行雄には強烈な自負心があり、箕浦には冷静な自制心があるとみました。

 福沢は、文章に秀でた塾生に論文を書かせ、それを添削指導することもありました。行雄にも声がかかりました。演説よりもむしろ文章に強い関心を持っていた行雄は、熱心に推敲を重ね、ついに「学者自立論」を書き上げました。その論旨は、猟官運動に熱心で官吏になりたがる風潮を批判し、学者たる者は独立すべきだというものでした。いかにも独立自尊を重んずる慶應義塾の校風にふさわしいと行雄は考えたのです。やがて添削されて返ってきた原稿には短い評語が付されていました。

「議論は甚だよろしいが、実行する者のないのは遺憾である」

 まずは肯定的な評価といってよいでしょう。行雄の論旨に賛意を表し、世に猟官運動の盛んなことを嘆いています。ところが行雄は曲解しました。世相に対する批判を、行雄個人に対する侮蔑と受け取ったのです。

(これは侮辱ではないか)

 日頃の反抗心が生んだ曲解です。行雄は、思考と行動を飛躍させました。反抗期の少年というものは救いがたいものです。

「やってやる」

 行雄はただちに独立を実行しようと決心し、その決意を作文して福沢諭吉に提出すると、ただちに退塾の手続きをとり、工学寮に転校してしまいました。若者らしい瞬発力です。こういう飛躍した行動が思わぬ成功をもたらすことも希にはありますが、失敗することも少なくありません。結局、あこがれの慶應義塾に在塾した期間は二年たらずでした。

(今すぐに独立して見せ、福沢先生を見返してやりたい)

 そう考えた行雄は、読みかじりの知識だけを頼りに染物職人になろうと決めたのです。染色技術の向上が日本の発展に役立つと思ったからです。そこで工学寮に入りました。工学寮は東京大学工学部の前身です。染色を学ぶためには様々な化学薬品を使い、化学実験をくり返さねばなりません。ところが、この化学薬品が行雄を苦しめます。行雄の体質は化学物質に対して過敏に反応しました。よほど耐性が弱いらしく、化学薬品の匂いを嗅いだだけで頭痛がしました。実験どころか医務室に担ぎ込まれるはめになりました。およそ一年の在学期間のうち、半分以上を医務室で過したのです。


 行雄が若い時間を浪費していたその頃、父の赴任地熊本で乱が起きました。神風連の乱といいます。明治六年に征韓論が破裂し、西郷隆盛が薩摩に下野して以来、秩禄処分や廃刀令といった政府の施策に対する士族の不満は高まり続けていました。明治九年十月、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が立て続けに起こります。幸い父の行正は無事でしたが、上司の安岡良亮は死亡しました。行正は、これを機に宮仕えをやめ、伊勢山田に隠棲しました。伊勢山田での行正は、地場産業の振興に貢献するなどしたため、やがて地元の名士となっていきます。明治十年刊行「山蚕或問」は尾崎父子の共著ですが、養蚕の解説書です。伊勢山田は後に行雄の選挙地盤になりますが、それは行正の陰徳のおかげでした。


 染物職人としての独立をあきらめて工学寮を退学した行雄は自由になりました。読書、翻訳、新聞投書の生活に入りました。尾崎行雄は若いながらもすでに一角の政治評論家であり、文筆家となっていました。工学寮在学中に書いた「討薩論」という一文は曙新聞に掲載されたし、明治十年中には「公会演説法」、「権利提綱」といった翻訳書を出版しています。「権利提綱」はハーバート・スペンサー著「社会静学」を翻訳したもので、自由と権利に関する諸概念を紹介しています。さらに行雄は休刊中の「民間雑誌」という雑誌に目を付け、これを友人とともに再刊しました。もともと「民間雑誌」は福沢諭吉が明治七年に創刊した学術雑誌です。行雄は、自分から慶應義塾を飛び出しておきながら、結局は福沢の周辺にとどまり、世話になり続けていました。ときに文章を示したり、教えを乞うたりします。ある日、著述について福沢諭吉の意見を質してみました。

「あん?」

 めんどくせえなあ、といわんばかりに顔を斜めの方に向けたまま福沢は鼻毛を抜きました。

「おめえさんはいったい、誰に読ませるつもりで著述なんかするんかい」

「大方の識者に見せるためです」

「馬鹿!猿に見せるつもりで書け。俺なんかいつでも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれで丁度いいのだ」

 言い終わると福沢は破顔一笑しました。福沢諭吉はいつもこんな調子です。別に悪気があるわけではなく、ただ若僧を若僧あつかいしているに過ぎません。なにしろ行雄が生まれた年に福沢はこの慶應義塾を開いたのです。

(口をきいてやるだけでも、ありがてえと思え)

 福沢諭吉はそう思っています。一方、劣等感の裏返しで人並み以上に鋭い自尊感情を持っている行雄は、こういう福沢先生の横柄さがどうしても好きになれません。

(西洋の文明国では鼻毛を抜きながら学生を教えるのか?)

 そう思いましたが、黙っていました。行雄は福沢諭吉を尊敬しつつも敬遠しました。そして、敬遠しつつも世話にはなり続けました。そんな行雄を福沢は許していました。

 ある日、定職のない行雄に仕事が舞い込みます。英国史の講義をしてみないか、というのです。共慣義塾という学校からの依頼です。行雄は気安く引受けました。実際に講義してみると、学生の評判がひどく悪く、行雄の講義は幽霊講義とさえ言われました。

「語尾がスーッと消えてしまう」

 この頃の行雄には語尾を明確に言わない癖があったのです。そのため、学生たちには結論が判りませんでした。肯定しているのか否定しているのか、断定しているのか推定しているのか、それがサッパリわからないのです。学生たちは真面目に行雄の講義を聴いている。にもかかわらず、話しの最後のところで語尾が曖昧に濁されるので裏切られたような気分になり、鬱憤が溜まりました。学生の多くが行雄よりも年長だったこともあり、容赦ない苦情が湧き上がりました。講義の回数を重ねるうち、ついに尾崎行雄排斥運動が起こりました。結局、行雄の講義は五回きりで中断されました。

 迂闊なことですが、行雄には全く自覚がありませんでした。きちんと話しているつもりだったのです。職を失って初めて行雄は反省しました。

(俺の話はそんなに解りにくいのか)

 学生たちの容赦ない評価によって初めて気づかされました。増上慢が少し醒めました。

(無言生活の酬いだ)

 自分の悪癖に気づかされた行雄は、以後、語尾に注意して話すようになりました。行雄の演説が少しは聞けるようになるのは、この失敗のおかげです。行雄は死ぬまで語尾を大切にするようになりました。

「尾崎行雄の演説は語尾が上がる」

 という世評が生まれたのはこのためです。行雄は友人とともに協議社を興し、討論会や演説会を開催しました。同じころ犬養毅も猶予社を興して弁論活動を盛んに行なっていました。やがて二人は相知るようになります。


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