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東京市長

 日露戦争は続いています。遼陽会戦に勝利した満洲総軍は北へと推進し、沙河会戦にも勝利しました。日露両軍は対陣したまま越冬準備に入り、沙河の対陣といわれる膠着状況が続きます。旅順では九月の第二次総攻撃に続き、十一月の第三次総攻撃も失敗に終わり、損害ばかりがふくらんでいました。世論は第三軍の乃木軍司令官をはげしく非難し、バルチック艦隊襲来の風聞におののいていました。

 戦時下の第二十一議会は明治三十七年十一月十日に始まりました。政府は戦争継続のための予算案を提出し、衆議院はこれを全面的に承認しました。議会開会中の明治三十八年一月、難攻不落と思われた旅順要塞がようやく陥落しました。これによって連合艦隊は旅順港閉塞の任務から解放され、バルチック艦隊の迎撃に全力を傾注できることとなりました。同じく要塞攻撃から解放された第三軍は休む間もなく北上し、折からロシア軍の冬季攻勢を受けて苦戦中だった満洲総軍に合流し、きわどいところでロシア軍を押し返すことに成功しました。黒溝台の会戦です。

 第二十一議会では、二月四日、行政執行法改正法案を提出していた尾崎行雄が同法案説明のため久しぶりに議会で発言しました。当時、行政執行権限が市町村には与えられていませんでした。そのため東京市の市区改正が容易に進まなかったのです。市区改正とは都市計画のことです。道路の拡幅や新規建設のためには用地買収に伴う家屋の移転が必要になります。東京市は住人に移転料を支払って用地を買収しますが、移転料を受取った後も家屋に居すわる住人が絶えなかったのです。

「移転料を約束して本人希望の移転料を給与いたしても、それを受取ったまま立ち退かざるものがある。一、二年間立ち退かずに居るというのが十中の九までそれであります」

 行雄は市政の現状を述べ、法文中の「行政官庁」を「行政庁」に改正するよう訴えました。これは法技術的なことですが、「官庁」には市町村が含まれず、「庁」には含まれるのです。市町村に行政執行権を与えるにはこ「官」の字を削れば良い。行雄の改正案は委員会審議を経て可決されました。

 ある日、鋳物業界の集会が催されました。東京市長の尾崎行雄も招かれて挨拶することになっていました。その打ち合わせの際、鋳物業界の戦争協力に感謝の意を表わすようにと頼まれました。行雄は意外に思いました。

「鋳物屋が銃弾を作るのか?」

 鋳物というのは溶かした金属を鋳型に流し込んで作る金属製品です。例えば、お寺の鐘や鉄瓶やマンホールの蓋などを思い浮かべればよいでしょう。加工しやすい反面、鍛造品に比べれば脆い。銃砲弾の製造には複雑な工程があり、普通の鋳物屋で作れるものではありません。行雄の疑問は当然でしたが、驚いたことに作っているというのです。

「前線の兵士の士気を鼓舞するために政府が発注して作らせ、それを満洲に送っているのです」

 要するに物資の不足を誤魔化すためのダミーです。日本軍の物量枯渇は行雄の予想を超えて深刻化しているようでした。

 議会が閉会して三月になりました。満洲軍は奉天会戦において勝利し、ロシア軍に大損害を与えました。戦線は北上し、鉄嶺付近で日露両軍は再び対陣しました。ありえぬことですが満洲軍総参謀長児玉源太郎は秘かに戦場を離れて帰国していました。児玉は政府要人を訪ね回り「一刻も早く戦争を終わらせろ」と訴えました。

「これ以上はどうしようもないんじゃ」

 日本の国力の限界です。満洲軍の物資は枯渇し、兵員も不足し、将兵の質も低下していました。陸軍作戦を一手に引受け、しかも成功させてきた児玉がそう言うのです。要人の誰もが納得しました。しかし、ロシア陸軍にはまだ余裕があり、ロシア政府は降伏の意志を示しません。もし鉄嶺会戦が行なわれていれば、満洲軍は崩壊していたかも知れません。日本軍は朝鮮国境まで撤退を余儀なくされ、絶望的な防御戦を戦うことになったでしょう。

 日本にとって幸運だったのは、五月の日本海海戦で連合艦隊が海戦史上かつてない完勝を成し遂げたことです。また、国際世論が日本に同情的であったことと、講和を仲介してくれる大国があったことです。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介が効を奏しました。しかし、外交に無制限の善意はありません。日本がロシアに大勝すれば、アジアで強大な権益を有することになる。日本がロシアに取って代わるだけのことであり、それではアメリカの旨味がありません。ここは早めに講和させ、日本を小勝に甘んじさせるべきである。それがアメリカの本音です。それでも日本にとっては渡りに船でした。ポーツマスにおいて日露講和会議が始まったのは八月十日です。

 八月中旬になると、早くも講和の条件が日本国内で報道されはじめました。領土も賠償金も取れないらしい。国民の不満が沸騰しました。戦争継続と講和反対が各地で叫ばれ、集会が開かれ、政府の外交姿勢を新聞各紙は非難しました。連戦連勝しているはずなのにどうして賠償金が取れないのか。その理由のひとつは人種の壁でした。国際法すなわち欧米列国間の慣例によれば、戦勝国が敗戦国から領土と賠償金を得るのは当然のことです。まして列強がアジア諸国に戦勝した場合には、過剰なまでに領土と賠償金を要求しました。その事実を知っている日本人が領土と賠償金が手に入ると思ったのは当然です。ところが日露戦争は近代史上で初めての出来事でした。有色人種国が白色人種国を破り、アジアの国が欧州の国を打ち負かしたという意味においてです。

「白色人種が黄色人種に賠償金を支払うのは屈辱である」

 根拠なき白色人種優越主義が罷り通っていたのが、この時代の世界です。ロシア側に有利でした。さらに満洲の戦場では日本軍の戦力が枯渇しているのに対し、ロシア軍は増強されつつありました。渡航経験がほとんど無く、戦場の実態をも知らぬ日本国民には、こうした事情が理解できませんでした。現実を冷静に取材し、判断し、報道すべき新聞も、概ねその姿勢と能力に欠けていました。政治家も動きました。講和における政府の弱腰は格好の攻撃材料です。対露強硬、藩閥批判、桂内閣打倒を政党は訴えました。

 この様な状況下、講和問題同志連合会という団体が講和反対の国民大会を計画しました。ポーツマスで日露講和条約が調印される九月五日です。場所は日比谷公園です。警視庁は集会条例に基づいてこの国民大会の禁止を決め、その当日、警察官を動員して日比谷公園を封鎖しました。にもかかわらず数万の群衆が日比谷公園を取り巻き、ついに封鎖線を突破して公園内に突入しました。国民大会は強行されました。大会はわずか三十分で終わりましたが、群衆は暴徒と化し、各所で警官隊と衝突しました。二重橋前、新富座、内相官邸、国民新聞社のほか、付近の警察署、派出所、交番、キリスト教会、路面電車などが騒乱の場となりました。事態を収拾できない警視庁は戒厳令の施行を求めました。翌六日、勅令により戒厳令が施行され東京市は軍政下に置かれました。騒乱がおさまったのは七日です。死者十七名、負傷者二千名、検束者二千名が出ました。いわゆる日比谷焼打事件です。この後、同様の講和反対集会が全国百六十五ヶ所以上で開催されました。国民は重税に堪え、兵役に従い、家族の死をも甘受しましたが、それによって期待されるべき戦勝、賠償金、領土が得られないとわかると容赦なく不満を爆発させたのです。

 結局、日本は南樺太の領土を得、満洲のロシア権益を受け継いだものの、賠償金は得られませんでした。外債によって戦争経費を捻出していた日本の財政は、その償還のために長らく火の車となります。

(賠償金が取れなければ一流国ではない。軍備はまだ足りないのだ)

 世界中を黙らせて賠償金を取れるところまで登りつめようと、勃興期の日本国民は思いました。

 日露講和問題について行雄は無関心ではありません。東京市長として、国会議員として、民権論者として事態を注視し、東京市長として為すべきことはないかと考えました。ですが外交は国政問題であるし、治安の問題にも口を出しにくかったのです。警視庁は内務省直轄の警察組織であったからです。日露の国力比を知り、極東の地勢にも明るい行雄は即時講和に賛成でした。同時に民衆の不満もわからないではありません。ただ政府の不器用で強引なやり方に行雄は不満でした。

「国民大会など、やりたいだけやらせればよい。やりたいだけやれば自然に終わる。抑えつけるから暴れるのだ」

 第二十二議会において警視庁廃止の請願を行雄は提出しました。念頭には日比谷焼打事件があります。藩閥と直結している内務省から警視庁を分離させ、東京府あるいは東京市の統治組織にすることで警察行政を改善させるつもりでした。明治三十九年一月に請願委員会が始まり、警視庁廃止の請願も俎上に上りました。しかし、時の内相たる原敬はあくまで内務省直轄の必要性を主張しました。二月七日、行雄は委員ではなく請願者として出席し、発言しました。

「東京の如く府知事があり、警視総監があり、市長があるという所は世界中に何所にもありませぬ」

 日本の警視庁は世界に類のない三重行政であると行雄は訴え、その廃止を求めました。二時間ばかりの議論の後に採決がとられ、賛成十三名、反対二十二名で行雄の請願は棄却されました。

 かつては国会で獅子奮迅の活躍を演じた行雄ですが、政友会を除名され、東京市長となった後はめっきり発言機会が減っています。もちろん市政に打ち込むためでした。東京市長の勤務時間は通常午前十一時から午後四時までした。実に優雅に思えますが、行雄の日常は起床から就寝まで多忙です。その多忙は強制されたものではなく、みずからの志から発しています。朝は五時あるいは六時に起床する。早起きは行雄にとって健康法でした。身体の弱い行雄は、ともすれば生活時間が乱れがちになる。その乱れを修正する方法が早起きです。それでも前夜の疲れが残り、どうしても起きられない場合にはさらに一、二時間眠ることもありました。無理をしないのも行雄の健康法です。自宅を出るのは十時半だから数時間の余裕があります。この時間を行雄は大切にしました。読書や著述のほか、持ち帰った行政書類に目を通し、市政の方針を考量します。

「盲判を押すことが市長としての仕事である」

 行雄は人にもそう語り、事実、市庁内では書類に判を押し続けました。役所仕事は書類によって動きます。市長は判を押さねばならない。時にじっくり考えたい案件が持ち上がります。行雄はそういう案件をすべて自宅に持ち帰ります。どういうものか市庁舎内では落ち着いてものを考えることが出来なかったのです。自宅でひとり考えるのが行雄のスタイルでした。かつて若き新潟新聞主筆だった頃の行雄は世間話が大の苦手でしたが、年をとってもやはり形式的な挨拶や応接や表敬が嫌いでした。

(時間が無駄だ)

 よほど重要な内容を伴った用件以外、行雄は新聞紙に目を通しながら面接客の話を聞きました。

「無礼ではないか」

 なかには抗議する者もいましたが、行雄も強情です。当たり前の挨拶や世間話なら新聞を読みながらでも出来る。

「そうじゃありませんか。あなたもどうぞ」

 そう言って新聞紙を手渡したりしました。四時になると退庁しますが、参事会の会期中などには深夜まで勤務することもあります。定刻で帰宅した日は、必ず運動をします。散歩、自転車、弓道、乗馬、銃猟、ビリヤード、海水浴など行雄は多趣味です。

「運動するとよく眠れるし、食事が旨い」

 行雄には身体を頑健にするという考えはなく、快食と快眠が目的です。一時期はヘビースモーカーでしたが既に煙草をやめています。行雄が禁煙した理由は筆痙に悩まされたからでした。

「煙草をやめると食事が甘くなった」

 禁煙後は食事の量も増えました。音楽や絵画などにはあまり興味が無く、自己流の和歌をたまに詠む程度です。行雄にとって最大の道楽は読書です。中でも歴史書を精力的に読んでいます。行雄の弁論や著作の中には古今東西の豊富な史実が引用されていますが、それらの知識は毎日の読書によって蓄積されたものでした。

「過去は現在の母である」

 行雄は特に近世史を重視し、世界が進むべき方向を知ろうと努め、日本の進むべき針路を見出そうとしていました。夜は早く寝るのが基本でしたが、読書に時を忘れ、深更に及ぶこともありました。

 行雄の東京市長在任期間は足かけ十年にも及びます。この間に数々の事業を推進しましたが、上手く運んだ事業には市区改正、路面電車の市有化、ガス会社の合併、多摩川流域の水源林確保などがあります。なかでも路面電車の市有化は難問中の難問でした。東京市では東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社が路面電車を運行していました。各社は別々の料金体系を持っていたので、一体化して市有化した方が利用者の便利は向上します。しかし、この問題には政治の裏面がからんでいたため、反対意見が根強かったのです。従来から路面電車の市有化問題は何度か浮上しては消え、消えては浮上していました。そのたびに三社の株価は上下しましたが、その動きを巧妙に利用して巨利を得、それを元手にして東京市会に金権勢力を張っていたのが生前の星亨でした。星の死後もその残党勢力がその仕組みを継承し、市会に根を張り、市有化に反対していました。この反対を突破できれば、利便の向上だけでなく、市会の金権体質をも根絶できます。

 行雄は、市有化に必要な一億円もの財源を外債によって集めることを考え、これを政府に相談しました。慢性的な財源不足に悩まされている明治政府は外貨獲得に熱心で、行雄の構想に賛成し、大蔵省は何くれとなく外債の世話を焼いてくれました。政府が乗りだしてきたため星派の残党はおおっぴらな反対ができなくなり、ついに市有化が成立しました。優れた政治手腕といってよいでしょう。

 不本意ながら思うように進まなかった事業もあります。上下水道整備、路面改良、街路樹整備、築港事業、魚市場移転などは必ずしも進捗しませんでした。この頃の東京市にはまだ江戸時代そのままの街区も多く残されており、都市基盤はほとんど未整備といってよかったのです。特に下水道の未整備は運河を糞尿の巷と化しました。夏になると耐え難い臭気が紛々とわきあがり、外国の要人が宿泊する帝国ホテルまでがこの臭気に襲われました。

「日本の体面にかかわる」

 行雄は下水道整備に取り組みましたが、どういうわけか整備した下水施設が思いどおりの機能を発揮しませんでした。その原因は意外なものでした。気象統計の精度が不十分だったのです。基本的な水文学的統計が誤っていたために設計雨量が過小だったのです。遠回りなことに気象観測からやり直さねばなりませんでした。文明開化の道は決して平坦ではなかったのです。

 路面改良もなかなか進みませんでした。障害は市民の無理解です。当時の日本人にとって路は狭いもの、雨が降ればぬかるむもの、ぬかるめば下駄を履くものでした。

「路面改良をすれば下駄屋が失業するではないか」

 東京市会では大真面目にそんな反対論をぶつ議員さえいました。人間は保守的な生き物であるようです。このほか、行雄は市制の改正にも取り組み、数年にわたる国会審議を経て参事会を議決機関とし、市長の執行権限を確立しました。この点では国会議員を兼務していることが強みになりました。また行雄の国際感覚は自治体外交にも花を咲かせました。高名なポトマック河畔の桜はその典型です。

 日本の桜をアメリカに植樹しようと構想したのは、日本を旅行して桜の美しさに感銘を受けたフェアチャイルド博士やシドモア女史等です。この構想にタフト大統領夫人が興味を示したため世論が喚起されました。こうしたアメリカ側の動きはやがて駐米領事館の知るところとなりました。日露戦争の際、日本はアメリカから多大な支援を受けました。アメリカ財界は日本国債を大量に買ってくれたし、アメリカ政府は講和の労をとってくれたのです。その恩に多少とも報いるとともに日米間の友好関係を強化する良い機会だと外務省は考えました。当然の外国感覚といってよいでしょう。残念なことには、こういう感覚を日本の軍人は持たず、自分たちの力で勝ったと思い込んでいました。

「アメリカに苗木を寄贈してはどうか」

 外務省からの提案に行雄は大賛成でした。既に行雄のもとには髙峰譲吉博士からの手紙が届いていました。アメリカ在住の日本人化学者高峰譲吉博士は、かねてからアメリカに桜並木を作りたいと希望していました。ちなみに髙峰博士はデンプン分解酵素ジアスターゼの抽出に成功し、消化薬タカジアスターゼを世に送り出した人物です。髙峰博士は自らも寄贈の費用を負担すると申し出ています。

 行雄が市会および参事会に諮ると、幸い賛同を得ました。すぐさま若桜三千本が用意され、アメリカへと送られました。アメリカ政府も喜びました。ところが、この桜は検疫を通過できませんでした。害虫とその卵、数種の黴菌群が検出されたのです。アメリカ検疫当局はすべての桜を焼却処分にしてしまいました。駐日アメリカ代理大使は東京市庁を訪れ、恐縮しながらも事の次第を包み隠さずに話しました。

「ご懸念には及びません。その正直さはアメリカの誇るべき伝統です」

 行雄はそう答えました。

「せっかくの善意を台無しにしやがった」

 官吏や職人の中には怒りをぶちまける者もいましたが、行雄はたしなめました。

「そうではない。法治主義とはそういうものだ。我々はアメリカの法を尊重しなければならぬ。それでこそアメリカも日本の法を尊重するであろう」

 行雄は根本からやり直しました。最新の農業技術を駆使して消毒された畑を作り、そこに桜の種を蒔いて苗を育てました。三年後にようやく六千本の苗木をそろえ、アメリカに送りました。今度は無事に検疫を通過することができ、明治四十五年三月、めでたくポトマック公園に植樹されました。


 明治四十五年六月二十七日、尾崎行雄は東京市長を辞めました。国政に復帰するためです。行雄は政友会に復党していましたが、しばらくは静観に努めました。なんといっても十年間のブランクは長い。かつて院内総務として党務の先頭に立ちながら伊藤総裁の独断によって努力のすべてが覆されるという苦い経験もあります。

(あせらぬことだ)

 周囲の状況を把握するまでは動かぬと、自分に言い聞かせました。その頃、党務会議で松田正久、原敬、尾崎行雄の三名が顔を合わせました。この頃の原敬は非常な強情者で、わずかでも気に入らぬことがあると喧しく理屈を言い立てて決して譲りませんでした。松田は温厚一途の人物で大人しい。行雄も復党早々で遠慮していました。会議は長引きました。原敬が小さなことで異議を挟み納得しないのです。休憩中、たまたま松田と行雄は並んで小用を足しました。すると松田が耳打ちしてきました。

「あの小僧、仕方がないなあ。やっちまおうか」

 さすがの松田も腹に据えかねていたらしい。行雄は同意しました。会議が再開すると松田と行雄は大いに論じたて、原の口舌を封じ、ついには原の説を拒絶してしまいました。

 明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御しました。行雄は尊皇家です。幼い頃に父から天皇の尊ぶべきことを教えられ、やや長じてからは平田学に接して尊崇の念を強くしていました。行雄は生涯を尊皇家として通しましたが、中でも明治天皇の文徳を尊崇してやみませんでした。その文徳とは憲法と議会です。大日本帝国に曲がりなりにも憲法政治と議会政治が存在する理由は、ひとえに明治天皇の意志に帰着させることができます。明治天皇は五箇条の御誓文を空文にはしなかったのです。専制政治に固執する薩長藩閥政治家を抑え、憲法を制定せしめ、議会を開設せしめたのは明治天皇です。行雄がその生涯を憲法政治と議会政治のために消尽させた動機の根源は、明治天皇に対する尊崇の念でした。明治天皇が日本にまいた憲政の種を育て上げることこそが行雄にとっての尊皇活動だったのです。


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