表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/39

日露戦争

 明治三十六年六月四日に第十八議会は終わりました。傷心の行雄が自宅で静養の日々を送りはじめて間もなく、丸山名政と中鉢美明のふたりが尾崎邸を訪れました。

「東京市長になってくれ」

 二人は突飛なことを依頼してきました。

「冗談じゃない」

 そもそも行雄は神経衰弱で療養中です。激務に耐えられない上、東京市政についてはほとんど無智に等しい。引受けられるものではありません。

「いやいや、そこは大丈夫です」

 行雄が市長になってくれさえすれば、丸山と中鉢が助役として実務一切を取り仕切るから大丈夫だといいます。それというのも、この時代の地方自治制度は現在のそれと大きく異なっていたからです。市長は市議会によって選出されますが、市長が市政の執行者というわけではなかったのです。市政の執行主体は参事会という合議体であり、市長はその議長であり、議事進行を司る役割に過ぎなかったのです。したがって丸山、中鉢の申し出には現実味がありました。

「それにしても御門違いだろう」

 行雄は話題を変えました。もともと星亨の麾下にあった両名が、どうして行雄に白羽の矢を立てたのかということです。生前の星と行雄とは互いに相知る仲ではありましたが、その政治手法は全く相容れず、時に議会で激しく対立したこともありました。

「星は亡くなる直前、尾崎と一所にやるのが一番良いと言っていたんだ」

 ふたりによれば、星は賄賂を懐に入れるような男ではなかったといいます。事実、星亨の死後、めぼしい財産は見あたらず、ただ借金だけが残っていました。私利私欲のためではなかったとはいえ、政治のためには貪欲に金を集め、気前よく金を配ったことは確かです。第四次伊藤内閣で逓信大臣に就任したものの、間もなく醜聞のために辞任に追込まれた星は、その醜名を雪ぐことに真剣だったようです。

「俺たちとしても星の汚名を返上したい」

 そのために金銭にきれいな尾崎行雄を担ぐのだとふたりは言いました。行雄は承諾しました。星亨の残党たちが政治姿勢を根本から改めるというなら、一肌脱いでやってもよいと思いました。それにしても名ばかりの東京市長など、頼む方も頼む方なら引受ける方もどうかしています。ちなみにこの頃、衆議院議員の兼職が認められていました。星亨が死んだとき、衆議院議員であり東京市議会議長でもありました。ですから、行雄が東京市長を兼ねることに何も問題はありません。星亨の残党は東京市議会内に多くいます。彼等の奔走によって行雄は第二代東京市長に選出されました。明治三十六年六月二十九日のことです。助役には丸山と中鉢が名を連ねました。

 名前を貸すだけのつもりで引受けた東京市長ではありましたが、実際に就任してみると勝手が違いました。参事会は東京市長、助役三名、名誉参事会員十二名からなっています。行雄は議事の進行だけをして、実務はすべて丸山と中鉢の二人に任せるつもりでいました。

 参事会が始まると割栗石道の坪単価がどうとか、材木の値段がどうとか、行雄のまったく知らない事柄が話題になりました。国政についてなら湧くが如き政論を吐く行雄も、東京市政については赤子同然でした。それでも行雄は他人事だと割り切って安心していました。ところが困ったことに参事会員は東京市長の行雄に対して容赦ない質問を浴びせてきます。市政に不案内な行雄は答えることが出来ません。実務の一切を引受けると豪語していた丸山と中鉢でしたが、いざとなると全く頼りになりません。参事会員の中には行雄の顔見知りもいるのですが、行雄を助けるどころか、市長の無知を責め立ててきます。行雄はバカバカしくなりました。

(辞めてしまおう)

 そもそも丸山と中鉢の背信ぶりはどうでしょう。このふたりの口車に乗って気安く引受けたのが間違いでした。参事会でぶざまな無能ぶりを曝さざるを得なかったことは行雄の自尊心を傷つけました。もはや市長を続ける動機もなければ、義理もない。

(星の残党どもは役立たずばかりだ。次の参事会で辞意を表明しよう)

 そう思いました。ところが辞めるつもりの行雄を心機一転させる事態が発生しました。市長の無能ぶりにあきれた参事会が市長の不信任を決議したのです。こうなると行雄の負けじ魂に火が付きます。

(ふざけるな、辞めてたまるか)

 奇妙なことに行雄は意地でも辞めない決意をしました。辞めるつもりでいたところ、参事会の方から都合好く不信任してくれたのですから、有り難いとばかりに辞めればよさそうなものですが、行雄の行動原理はそうではありません。自発的にやめるのは良いが、辞めさせられることには我慢がならない。もうすでに四十代半ばの大人になっている行雄ですが、若造のような反骨心を持っています。

 不信任を決議されたにもかかわらず、尾崎市長は面の皮厚く参事会にやってきます。決して「辞める」といわない。こうなると参事会は「尾崎いじめ」の場と化しました。割栗石の単価、材木の相場、ドブ浚いの費用など行雄が知りそうもない市政の細々したことをいちいち質問し、それに答えられない行雄をからかいました。行雄は猛然と勉強をはじめます。

(知識は勢力の基なり)

 勉強するしかありません。知ってしまえば何でもない質問なのです。ですが一夜漬けの勉強には限界があります。なんといっても経験豊富な参事会員に一日の長がありました。参事会側は勢いづき、市長の委任事項を取り上げようとしました。先にも述べたとおり、この頃、市政の執行機関は参事会であり、市長は単なる議事進行役といったほどの権能しか与えられていません。例外的に物品購入や公吏任免など一部の権限が市長に委任されていましたが、これはあくまでも参事会の事務を簡素化するためでした。その委任事項を市長から取り上げてしまおうというのです。取り上げてしまえば市長は本当に何もできなくなります。

 参事会は委任事項の放棄を尾崎市長に要求しました。すると、意外なことに行雄はすんなり放棄しました。これで行雄は市長として議事を進行する以外、事実上なにもできない存在になりました。ところが、これは参事会の勇み足でした。細々とした事務事項のすべてを参事会で議決しなければならなくなり、参事会は多忙になりました。参事会の開催回数が増え、時間も長くなりました。やがて参事会員が音をあげはじめます。多忙の理由は、細々とした事務処理の決裁に過ぎません。やり甲斐がない。今度は参事会の方から頭を下げて行雄に事務を委任してきました。

「お断りします」

 行雄は内心ほくそ笑みながら拒絶しました。すると参事会は懇願するように依頼してきました。行雄は市長の権限を拡大すべく交渉し、以前よりも広範な委任事項を了承させました。こうして行雄は参事会に対して一矢を報い、参事会も行雄を市長として認めるようになりました。

 以後、行雄は東京市政に没頭していくことになりますが、国政を忘れたわけではありません。中でも時節柄、日露関係に強い関心を寄せざるを得ませんでした。既に日露関係は切迫の度を増していました。満洲を占有し終えたロシアは鴨緑江下流の九連城と鳳凰城に租借地を得、要塞を構築しつつあります。英国との同盟を成立させたとはいえ、国力の隔絶したロシアと事を構えるべきではない、それが行雄の持論です。

「満洲は遂に露西亜の物たるべし。我が国がいかに露国の侵略を妨げ、いかに露国の南下を防がんとするも、到底力の及ぶところに非ず」

 これは両国の戦力や国力を素直に比較考究した結果です。

「満洲は露国のなすがままに任せ、我は朝鮮の経営に怠る事勿れ。是実に上策なり」

 行雄は中央公論誌上に持論を発表しました。行雄の考えは日本政府の方針とほぼ同様です。ロシアの侵蝕が満洲にとどまる限り、日本は自重できます。しかし、ロシアが朝鮮半島にまで食指を伸ばしてきた場合には国防上どうしても一戦を交えざるを得ません。とはいえ衝突回避の可能性もなくはないのです。行雄は論文の中でその見通しを述べています。

「露国何ぞ茫漠たる蒙古地方を顧みずして、掌大の朝鮮を争わんや」

 広大な満洲を手にしたロシアは朝鮮半島などを欲しがるまいというのです。さらにもう一つの理由がありました。それはロシアの伝統的な行動原理です。

「最も抵抗力の少ないところに突出せよ」

 これがロシアの行動原理です。日本は小国ながら近代的な陸海軍を装備しています。ロシアの行動原理からすれば、ロシアの矛先は衰弱しきっている清国へと向かうはずでした。既に清国は亡国状態に近い、と行雄は書きます。

「支那人、愛国心なし、政治的能力なし、戦闘力なし。この三のものは、国を維持するに必要欠くべからざる要素にして、いやしくもそのひとつなくば、国即ち亡ぶ」

 日本の抵抗が必至である以上、ロシアは朝鮮半島には進まず、最も抵抗力の弱い清国に向かうに違いない。とはいえ予想は予想にすぎません。不幸にしてロシアが朝鮮半島を指向した場合はどうするか。行雄は防衛戦略に利があると主張します。

「朝鮮以外に一歩も進むこと勿れ、一歩も退くこと勿れ」

 朝鮮半島をひたすら守り抜くことが日本のとりうる唯一の戦略だといいます。劣勢の日本軍が広大な満洲平野に進出し、ロシア陸軍とまともに会戦すれば多勢に無勢で勝ち目がない。したがって朝鮮半島国境に戦線を縮小し、恒久陣地を構築して守備を固める一方、日本海軍をして渤海、黄海、日本海の制海権を掌握せしめて守り抜く。行雄は軍事専門家でもなく、軍事技術者でもありません。だから部隊を指揮することもできないし、大砲を撃つことも出来ない。それでも戦略というものは軍事技術とは次元の異なるものであり、むしろ政治、経済、地勢、歴史、外交などが判断材料となります。その意味で戦略は決して武官の専売特許ではないのです。行雄の戦略論は堅牢な経綸に立脚しており、玄人はだしの卓説といえました。

 明治三十六年十月から外相小村寿太郎と露国駐日公使ローゼンとの会談が始まりました。小村外相は、満洲におけるロシア権益を認める代わりに、朝鮮の日本権益を認めるよう提案しました。ロシア側からの回答には時間がかかりました。待ちに待ったローゼン公使の返答に小村外相は絶望せざるを得ませんでした。ロシアの眼中、日本など無きに等しかったのです。行雄の希望的観測は外れました。しかし、その原因はロシア側にあったでしょう。老朽化したロシア帝国は冷静な理性を失っていました。

 第十九議会は明治三十六年十二月十日に開かれましたが、その冒頭、弾劾決議文事件が起こり、翌日には衆議院解散となりました。この弾劾決議文事件を首謀したのは衆議院議員秋山定輔です。秋山は桂内閣を揺さぶるため悪戯じみた計略を考えました。儀礼の悪用です。

 衆議院および貴族院の開院に際しては天皇からそれぞれ詔勅が下されまする。これに対して貴衆両院は、勅語に対する奉答文を決議して天皇に捧呈します。秋山はその奉答文に目を付けました。奉答文は毎度お定まりの儀礼的文案であるため、その内容に細かい注意を払う議員はまず居ません。そこで奉答文の中に政府を弾劾する文言を盛り込んでしまうのです。秋山がこの計画を小川平吉に打ち明けると、小川は賛同しました。ふたりは衆議院議長の河野広中に計画を打ち明けましたが、河野議長は拒絶しました。河野広中は自由民権運動の草創期から活動し続けてきた根っからの政党政治家です。桂内閣に不満はあっても、このような悪戯に同調するほど愚劣ではありませんでした。秋山と小川は行雄を訪ね、事の次第を話しました。

「そりゃ面白い。やったらよかろう」

 行雄は迂闊にも賛成したのです。桂太郎に対する個人的嫌悪感情と、政友会を離れて無所属議員になっている気安さがあったのです。行雄は、秋山が持参した奉答文案を添削までしました。秋山と小川が再び河野広中議長を訪ね、尾崎行雄が賛成しているからと説得したところ、河野議長もついに同意してしまいました。

 明治三十六年十二月十日、衆議院本会議において奉答文案が朗読されました。その短い文章中、次のような文言が含まれていました。

「内政は弥縫を事とし、外交は機宜を失し、臣等をして憂慮措く能わざらしむ」

 明らかに内閣を弾劾しています。にもかかわらず、朗読が終わると議場には「異議なし」の声が満ちました。ごくわずかに文言の異常さに気づいた議員が「異議あり」と声をあげましたが、その声は打ち消されました。河野議長は慎み深げに採決しました。

「御異議ございませぬから、可決いたします」

 議席から見ていた行雄は河野の演技力に感心しました。困ったのは政府です。このような奉答文を捧呈されては体面が立ちません。やむなく衆議院の解散をもって報いたのです。結果として日露関係の緊迫した重大期に帝国議会は機能しないことになりました。


 明治三十七年二月、ついに日露は国交を断絶し、日本はロシアに対して宣戦を布告しました。緒戦に活躍したのは海軍です。仁川沖海戦に勝利すると、ウラジオストク港を砲撃し、ロシア極東艦隊の根拠地たる旅順港の閉塞作戦を実施しました。折から解散中だった衆議院の総選挙は三月一日に行なわれましたが、国民の関心はもっぱら戦争の方に向いていました。

 第二十議会は三月二十日から始まりましたが、政友会も憲政本党も全面的に政府に協賛することを宣言し、国民にも挙国一致を訴えました。無論、行雄にも異存はありません。衆議院は全会一致で政府予算案をほぼ原案のまま承認し、戦争の遂行に協力しました。異例のことといえば、内閣弾劾決議文事件を首謀した秋山定輔に露探疑惑がもちあがり、「秋山定輔君に関する調査の件委員会」が設置されたことです。事の発端は怪文書に過ぎません。一笑に付されてもいいようなものですが、戦時下であるために議会はこれを看過しませんでした。行雄と犬養毅は弁明書を提出して秋山の無実を訴え、秋山自身が委員会に出席して事実を陳述しました。小川平吉も委員のひとりとして秋山の弁護に努めましたが、委員会の結論は次のようなものとなりました。

「委員会は本院議員秋山定輔君は露国の間諜たる確実の証拠を発見せずと雖も同君一身の利益を図るが為に帝国の利益に反し露国に利益なる行動ありしことは之を認む」

 秋山が露探であるという証拠はないにもかかわらず、衆議院は秋山に対する辞職勧告を決議しました。秋山は辞職しました。行雄は悔いました。秋山が画策した弾劾奉答文の計略に同調したこと、それにより第十九議会が開会翌日に解散してしまったこと、第二十議会で秋山が辞職に追込まれたこと。つまらない罪作りでした。


 日露の戦局は五月に入って陸上戦の段階に入りました。第一軍は鴨緑江渡河作戦に成功して九連城を占領し、第二軍は遼東半島の要地である金州、南山でロシア軍を撃退しました。ロシア軍は遼東半島最先端部にある旅順要塞に集結し、籠城戦に入りました。旅順港にはロシア極東艦隊が潜んでいます。これを撃退せぬ限り東郷平八郎中将率いる連合艦隊は旅順港閉塞任務から離れられず、やがて来寇するであろうバルチック艦隊に備えることが出来ません。そのため陸上から旅順を攻撃することになりました。旅順要塞攻撃のために第三軍が組織され、司令官に乃木希典中将が任命されました。六月になると、すでに金州と南山を扼した第二軍が北進を開始し、得利寺においてロシア軍と交戦、これを排除しました。こうして遼東半島を平定した日本軍は、満洲軍総司令部を編成し、いよいよ満洲平原を北進する態勢を整えました。朝鮮国境での防衛戦略を主張した行雄と異なり、日本陸軍は満洲を北進する攻勢戦略をとったのです。

「到底力の及ぶところに非ず」

 という行雄の予想は外れ、日本軍は海上に陸上に戦術的勝利を重ねました。意外な日本軍の強さを行雄は素直に喜びました。七月になると第三軍による旅順攻撃が始まりました。この事態にロシア極東艦隊は刺激され、ウラジオストク港への脱出を決意するに至ります。こうして八月に生起したのが黄海海戦と蔚山沖海戦です。黄海海戦はロシア極東艦隊と連合艦隊との主力決戦でした。日本艦隊はロシア艦隊に重大な損害を与えはしましたが、撃滅することはできず、ロシア艦隊の残存艦は再び旅順要塞に逃げ帰り、連合艦隊は再び旅順港の監視活動に縛りつけられました。一方、上村彦之丞中将率いる第二艦隊は蔚山沖においてウラジオストク艦隊と交戦し、再起不能の損害を与えました。

 連合艦隊がふたつの海戦で戦術的勝利をおさめた数日後の八月十九日、第三軍は第一次旅順総攻撃を敢行しました。近代要塞に対して正面から歩兵突撃を実施した第三軍は大損害を被って退却しました。この後、第三軍はおよそ半年間にわたる屍山血河の絶望的攻城戦に足をとられます。一方、満洲軍総司令部に率いられた第一軍と第二軍は満洲を北上し、遼陽を目指しました。

 国内世論は日本軍の勝利に興奮し、景気のいいロシア征伐論が横行しました。モスクワを陥落させよ、などという基本的な地理的知識を欠いた記事さえ現われていました。そんな中、中央公論八月号に掲載された行雄の論文は冷静な情勢判断に裏打ちされた現実的戦略論でした。「対局耐久の籌謀」と題された論文は楽観論から始まります。

「日本の捷利は最早疑うべからず」

 来るべき遼陽会戦も旅順攻囲戦も日本軍が勝つとしました。ただ、問題の本質はそこではないと行雄は指摘します。日本軍が旅順要塞を陥落させるとともに、遼陽、奉天、哈爾浜と勝ち進んで北上し、たとえバイカル湖まで進出したとしても、ロシアが負けを認めない限り戦争は終結しない。

「戦線の延長、戦期の延引、ほとんどその終局地と終結期とを知るべからず」

 日本は終わりのない戦争に突入してしまう。戦術的勝利に浮かれている場合ではない。戦争の終局を見据えよと行雄は論じます。日露戦争は、ある意味で奇妙な戦争でした。戦争終結の決定者は連戦連勝の日本ではなく、連戦連敗のロシアだったのです。ロシアにとって満洲は本国を遠くはなれた辺境の地であり、たとえこれを失ったとしてもさほど痛痒を感じません。日本軍が勝利を続けてバイカル湖まで進撃したとしても、戦線はロシア本国に近づいてロシアにむしろ有利となります。これとは逆に日本軍の補給線は伸び切ってしまいます。その時こそ日本軍が敗北するであろう。だからこそ「耐久屈せざるの籌策」が必要だと行雄は書きます。

 ではその籌策とは何か。行雄は徒な進軍を戒めます。国力を無視しての進軍は最終的な敗北を招く。そこで行雄は敵に一大打撃を与えた後に長期持久態勢を構築せよと説きます。

「敵に痛撃なる大打撃を加えたる後、国力の許す範囲に顧みて、戦費を要すること甚だしく多からず、しかして敵の来襲を防遏し得べき、軍事上最も有効なるだけの地域を限定して之を占領し、之を固守して余力を養い、内は国富民力の蘊蓄に鋭意努力し、おもむろに起って外は敵軍を追撃して、絶えず之に大打撃を加え、一方に実力を積みて、一方に戦争を継続するあらば、戦争いかに長年月にわたるとも、我もとより之に屈することなかるべくして、彼れついに為に事実極東の侵略を断念するに至らん」

 行雄は占領して固守すべき地域を具体的に挙げます。旅順、遼陽、奉天、長白山一帯、鴨緑江流域、ウラジオストク港。つまりウラジオストクから、長白山、鴨緑江、奉天、遼東半島に至る地域を進撃の限界とし、長期持久の態勢をとれというのです。

 結果からみれば行雄でさえ日本の国力と日本軍の戦力とを過大に評価していたことになりますが、進撃一辺倒の暴論が世を蔽っていたこの時期にあっては出色の戦略論だったといってよいでしょう。

 日本の満洲軍が遼陽会戦で勝利した九月、行雄は妻の繁子を失いました。まだ四十才でした。この時代の男らしく行雄は家事を顧みず、弟妹や書生の世話から借金まで家事いっさいを繁子に任せきりにしました。その無理がたたったのか結婚十年にして繁子は肺病を病み、その後の十年間は闘病の日々となっていました。主治医は感染をおそれて別居を進めましたが、行雄はあくまでも同居を続け、仕事の合間には自ら看病しました。繁子の方も感染が夫に及ばぬようにと気を使いました。この頃の尾崎家は賑やかでした。長男彦麿二十二才、次男行衛十九才、三男行輝十六才、長女清香十三才、繁子の養母田中藤子六十才、女中四人、書生三人。多くの家人に看取られながら妻は逝きました。


  病める日に騒音(おと)を嫌ひし妻なれば 死にし床にも忍びつつ寄る


 翌十月、無名時代の石川啄木が前ぶれなく尾崎邸を訪ねてきました。啄木は処女詩集出版のために上京し、金策のため方々を訪ね歩いていたのです。知人友人はおろか、著名な文学者、同郷人、有名人など手当たり次第に面会して歩きました。東京市長の尾崎行雄を訪れたのもそういう事情からでした。人を訪ね歩くのはこの時代の風でしたから、名刺も紹介状も持たぬ少年に行雄は面会しました。啄木は詩稿を示しました。行雄は手にとって読みましたが、この少年の詩才を見抜くことはついに出来ませんでした。

「歌など作っていないで、もっと役に立つ学問をやれ」

 行雄は愚にもつかぬ説教をして追い返してしまいました。啄木の文学は容易には世に容れられなかったのです。のちに石川啄木の文名が高まり、行雄がそれと知ったのは東京市長を辞した頃です。すでに啄木は亡く、行雄は不明を悔いました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ