離党
この頃すでに日露関係は抜き差しならぬ所まで悪化していました。朝鮮政府に対するロシアの影響力は増加する一方であり、朝鮮半島南部の要地を租借しようとするロシア政府の動きは活発でした。もし対馬海峡に面した朝鮮半島の一角にロシア海軍の要塞基地が完成してしまえば、日本の防衛は画餅に帰すでしょう。
伊藤博文は忙しくなりました。やっとの思いで誕生させた政友会ではありましたが、それにかかずらわっている余裕がなくなったのです。いまや国家そのものの存立のために奔走せねばなりません。伊藤は政友会の院内総務に松田正久と尾崎行雄を任命すると、何等の指示らしい指示も出さず、対露交渉のため出国しました。明治三十四年九月十八日のことです。
日露関係がそこまで悪化しているとは、さすがの行雄も知る由がありませんでした。そのため行雄はいつものとおり、来るべき第十六議会において桂内閣を打倒すべく準備し、いざ議会が始まると自ら演壇に立って政府攻撃の先陣を切りました。
議会開会二日目の十二月十二日、総理大臣桂太郎の演説に続き、大蔵大臣曾禰荒助が明治三十五年度予算案について演説しました。この中で曾禰蔵相は、清国からの賠償金およそ五千万円(清国債権)を日本国債に買い換えることで一般会計予算に繰り入れ、公債事業の支払いに充てる旨を述べました。清国からの賠償金とは明治三十三年の義和団事件に対する賠償のことです。義和団事件または北清事変ともいいます。山東省の自警組織である義和団が起こした反キリスト教運動が拡大し、列強諸国に対する排外運動となったものです。それを西太后が支持して列強諸国に宣戦を布告したことから起こった紛争です。義和団は「扶清滅洋」を掲げて戦いましたが二ヶ月ほどで列強諸国連合軍に鎮圧されました。義和団事件の後、日本を含む十一ヶ国が清国政府に賠償を要求しました。結果、北京議定書において決められた賠償総額は四億五千万両の巨額に上り、その支払いは三十九年間の年利四分付き清国債権によって支払われることとなっていました。ただし、十一ヶ国間での配分は未定でした。にもかかわらず大蔵省は見込みの賠償額を以って予算案を編成していたのです。曾禰蔵相の演説が終わると質疑が始まり、その何人目かに行雄が立ちました。
「財政に関係して質問しておきたい」
行雄は曾禰蔵相に三つの質問をぶつけます。第一の質問は賠償金額五千万円の根拠です。十一ヶ国に対する清国の賠償総額は定まっているが、列国間での配分はまだ未決定である。にもかかわらず何故に五千万円といえるのか。第二の質問は、このように金額の不確かな賠償金を予算案に編入した理由は何か。そして第三の質問は、混乱極まる清国の債権が確実に償還されると考える根拠は何か。何しろ償還期間は三十九年もの長期です。この間に清国そのものが滅亡しないとも限りません。答弁に立った曾禰蔵相はシドロモドロで要領を得ませんでした。
(曾禰蔵相、与しやすし)
そう見た行雄は一週間後の本会議において追撃しました。国債証券買入銷却法廃止法案と、清国事件に関する償金特別会計法案とを提出したのです。この二つの法案が衆議院を通過すれば政府は予算案を修正せざるをえなくなります。政友会が過半数を確保している以上、おそらく通過するでしょう。困惑した桂内閣は政友会に会談を申し入れてきました。行雄は強気です。
「財政のわからぬ曾禰蔵相では話しにならないから協議の席に顔を出さないでもらいたい。こちらから官邸に出むくのは面倒だから帝国ホテルまでお出で願いたい」
帝国ホテル内の政友会事務所に来いというのです。ずいぶん強引な条件を出したものですが、意外にも政府側は条件を呑みました。協議には政府側から桂総理と山本権兵衛海相が出席し、政友会からは院内総務たる松田と行雄の二名が応対しました。
「金額定かならぬ賠償金を予算に編入することはできぬはずだ」
行雄は大上段から予算案のあるべき姿を論じ、予算案の修正を要求しました。執拗なまでの順法精神が行雄の武器です。桂太郎総理は笑みを絶やさず低姿勢で応対しましたが、肝腎なところでは決して首を縦に振りません。かねてより桂総理の幇間じみた性格に嫌悪を感じていた行雄は、つい感情に呑まれて相手を見くびりました。行雄は強気の正論で協議を押し続けます。桂は丁重な物腰ながら一歩も引きません。協議は難航しましたが、政友会の有利を行雄は信じて疑いませんでした。
「自由党の連中が濱の家に集まっています」
会議の休憩中、驚くべき報告が行雄にもたらされました。旧自由党派の二十人ほどが結集し、行雄の方針に反旗を翻しているというのです。旧自由党派を牛耳っていた星亨は既に亡い。政友会は結成してからまだ日が浅く、自由民権運動の草創期から仇敵同士だった旧改進党派と旧自由党派とは未だに相許し合えぬ感情的軋轢を抱えていました。旧改進党の行雄が旧自由党派を抑えるのは不可能です。それでも同じ院内総務の松田が旧自由党であることから行雄は安心しきっていたのです。
(政府に買収されたか)
猟官漁利によって政府が旧自由党派を操るのは、もはや常套手段です。行雄は臍を噛みましたがどうしようもありません。身ひとつで政友会に投じた行雄の弱点です。
政府側との協議が再開されました。行雄は何食わぬ顔で予算案の修正を要求しましたが、その舌鋒は鈍りました。
(桂はすべて知っていたのだ)
慇懃ではあるが無礼と言えるほどに余裕のある桂の態度がそれを物語っています。結局、次回の協議を約して会談を閉じるのがやっとでした。真っ正面の論戦で押しとおそうとした行雄は、政治的な寝技で負けたと言えます。完膚無きまでに桂総理に一本とられました。
「政府に協賛せよ」
濱の家に集結して反抗する旧自由党派は三十名ほどに増えていました。行雄はやむなく除名処分で報いました。政友会の統制を維持するためにはやむを得ない措置でしたが、これにより政友会の議席は過半数を下回ってしまいました。もう一人の院内総務である松田正久はどういうつもりか、何等の動きを見せず、何から何まで行雄まかせにしました。松田は旧自由党の重鎮であり、その気さえあれば反乱の予兆を知り得たでしょう。院内総務の松田までが政府に懐柔されていたとすれば、行雄はピエロのようなものです。権力闘争をするには猜疑心がなさ過ぎました。
二回目の協議場所は総理官邸です。行雄と松田が官邸に到着すると、除名処分にされた旧自由党派の連中の姿が見え隠れしました。おそらく党内事情は政府側に筒抜けなのでしょう。政友会は内部分裂し、過半数を失っています。こうなれば行雄の弁舌など政府には痛くも痒くもありません。政府側は硬化しました。協議は不調のまま終わり、行雄は疲れて帝国ホテルに戻りました。そこへ露都にある伊藤博文総裁から電報が届きました。
「あまり強く政府を攻撃するな」
行雄はバカバカしくなりました。「何を今さら」と言ってやりたい。それならそれで、きちんと指示を出してからロシアでもイギリスでも行けと言いたい。伊藤と政友会本部とのやりとりには外務省の暗号電報が使われています。すべては政府に筒抜けです。さすがの行雄もこれ以上はがんばりようがなく、シャッポを脱ぎました。政府予算案は衆議院を通過しました。
予算通過後、明治三十五年一月三十日に日英同盟が調印されました。桂総理は政友会を黙らせて予算を通し、伊藤公の鼻を開かして日英同盟を成立させたのです。大手柄といってよいでしょう。そもそも桂内閣に対する世論は辛く「二流内閣」とか「次官内閣」などと揶揄されていました。行雄は反省せざるを得ません。ついつい世論に流され、自己の感情に呑まれ、桂総理を見くびっていたのです。桂総理は難問を次々に解決して大得意です。
第十六議会中に設置された委員会の中に、明治二十九年法律第六十三号中改正法律案委員会という長い名称の委員会がありました。行雄はその委員長を務めました。明治二十九年法律第六十三号は、台湾に施行すべき法令に関する法律ともいいます。いわば台湾統治のための法律です。四日間の審議を経て、満期三年を迎えようとしていた同法の継続が決められました。このほかに行雄は、刑法改正案委員会の委員長も務めました。
第十六議会が終わると、次なる政治日程は総選挙です。明治三十五年八月十日に投票が行なわれた第七回衆議院総選挙は、任期満了に伴って行なわれた初めての選挙であり、また初めて秘密投票が導入された選挙でもありました。政友会は百九十一議席を獲得し、過半数を得ました。憲政本党は九十五議席でした。選挙後、行雄は来るべき第十七議会に向けて党内体制の立て直しを図ります。既に総裁伊藤博文は帰国していました。伊藤総裁不在のままに悪戦苦闘した第十六議会とは異なり、諸事順調に進みました。しかも第十七議会を前に伊藤博文と大隈重信の会談が実現し、政友会と憲政本党の提携が実現しました。
(今度こそは正攻法で押し切れる)
行雄は意気込みます。明治三十五年十二月九日に議会が始まると、政府は海軍拡張案と地租増徴継続案とを提出しました。既に日英同盟が成立しており、政府は対露戦への準備を本格化させています。その事情は行雄にもわかっていました。行雄は党内を奔走し、海軍拡張案には賛成、地租増徴継続案には反対の方針で党内をまとめ、憲政本党の同意も得ました。政府の地租増徴継続案は予算委員会で否決され、議論の舞台は本会議に移りました。行雄自身が演説したのは十二月十六日の本会議においてです。
「内閣大臣が色々かわるがわる述べられたが、少しく下手な魚釣りに似て居る感触を起こした。下手な魚釣りは餌さえ多ければ魚が釣れるものと考えて居る」
何かと理由を付けて地租増徴を継続しようとする政府側の論説を行雄は下手な魚釣りになぞらえて愚弄しました。
「山本海軍大臣は国防充実という好問題を餌に捕まえて地租を釣ろうとし、芳川逓信大臣は鉄道電話という餌を付けて地租を釣ろうとした」
次いで行雄は、民権張らずんば国権伸びず、という持論を展開します。地租の増徴は民力を疲弊させるだけであり、国防充実には別の方法があるはずだと論じます。
「山本海軍大臣はただ軍艦のトン数、武器の長短のみを比べたのであるけれども、肝腎の国力の比較は一切せぬのである」
ロシアと日本が軍拡競争をすれば日本は必ず負ける。その愚をやめよと行雄は訴えました。
「日本の歳入は二億五千万円に足らぬけれども、露西亜一切の歳入は二十億円あるということを知らなければならぬ。二十億円の歳入を持って居る露西亜と、二億円の歳入しか持たぬ我帝国とが軍備拡張の競争を致すならば、いずれか先ず疲れるいう位の算盤は諸君といえども時あって考えてみなければならぬ」
行雄は目先の国防に汲々としている政府を批判しました。行雄に言わせれば政府の考え方は本末転倒です。
「国防の大切なることのみを知って、国力の充実というものはなお大切であるということを知らぬのである」
もちろん政府は納得しません。既に満洲にはロシア陸軍が居すわっています。やがては朝鮮国境を流れる鴨緑江にまで進出してくるに違いありません。陸海軍の当事者としては一隻の軍艦、一門の大砲、一丁の小銃、一発の砲弾にこだわらざるを得ない情勢です。この後、政府は議会を停会し、お定まりの買収工作の他、伊藤博文への説得工作を試みるなどして地租増徴継続案の通過を模索します。けれども政党勢力の結束は動かし難く、ついに政府は議会を解散しました。
わずか八ヶ月の間に二度の総選挙が行なわれることになりました。第八回衆議院総選挙の投票日は明治三十六年三月一日です。桂内閣は藩閥政府の悪弊たる選挙干渉を行なって切り崩しを図ったものの、地租増徴に対する反対は根強く、民党勢力の勝利となりました。政友会の百九十三議席と憲政本党九十一議席とで過半数を超えました。もはや政府予算案の修正は必至となったのです。行雄は勇躍して第十八議会に臨もうとしていました。
ところがです。行雄のまったく与り知らぬ所で伊藤博文は桂内閣と妥協し、地租増徴継続案に賛成するとの内約を交わしていました。伊藤の立場は複雑です。政友会総裁でありながら、元老でもあり、長州閥の中心人物でもある。そして明治国家を造りあげてきた中心人物でもある。政友会総裁としては総選挙大勝の余勢を駆って政府を追い詰めればよい。しかし伊藤は内外情勢を勘案し、この際、政党よりもむしろ国家を考えたようです。日露関係が険悪化するなか、桂内閣をこれ以上に攻めるべきではないと判断したのです。
腹の虫がおさまらないのは行雄です。院内総務として純粋に議会運営に邁進してきた行雄には解しかねる判断です。これまでの努力は水泡に帰したと言ってもよいのです。
「解散を賭してまで反対した問題を、そう容易く譲歩されては困る。あくまでも戦うべきだ」
行雄は伊藤総裁に抗議しました。行雄の立場や怒りを伊藤は理解しています。つまり、行雄を使い回したのです。行雄が激怒しても当然です。伊藤は弁明しました。頻りに妥協という言葉を使いました。伊藤に言わせればこの程度の変節は政治の常態です。何しろ伊藤の政治体験はすさまじい。幕末の長州藩政は大きく揺れていました。もともと佐幕藩だった長州藩は吉田松陰の影響などから急激に勤王化し、禁門の変の敗北によって佐幕化し、さらに高杉晋作の活躍によって再び勤王化しました。藩内政治が変転する度に多くの血が流れました。その激動期を生き延びてきたのが伊藤です。行雄にはそのような苛烈な政治体験はあありません。政治家というよりむしろ評論家的性格の強い行雄は理想家です。伊藤の変節をとうてい理解できない。同じ政治家とはいえ両者の経験と感覚には大きな懸隔がありました。
とはいえ実際に変節したのは伊藤であり、行雄の努力を無にしたのも伊藤です。伊藤の心中、やましさが無いではありません。一夕、党首脳を招いて小宴を開きました。伊藤はあらためて妥協に至った顛末を説明しました。ですが行雄は頑固です。ぜんぜん納得しません。
「ああいうことをされては困る。我々の立場がなくなる」
憤然たる口調で言います。伊藤も顔色を変えました。せっかく仲直りのために座を設けたのに行雄の仏頂面のせいでぶち壊しです。伊藤は感情に正直です。怒気を含んで行雄をなじりました。
「言必ず信あり、行ない必ず果たす、硜硜然として小人なるかな、という言葉を君は知っているか」
論語の一節を持ち出して行雄の人格を諷刺しました。硜とはコウと読みます。石と石とがぶつかり合って発する音を表わしています。要するに信用は出来るが石のような堅物の小人だというのです。行雄は黙りました。伊藤の皮肉は行雄の本質を突いていたからです。
行雄は第十八議会を前に悶々とし、院内総務でありながら為すこともなく時間を過しました。第十七議会以来、行雄は党内調整、議会運営、総選挙に汗を流してきました。その苦労も成果も、伊藤総裁の独断的妥協によって意味を失いました。
「それぐらいのことが何だ」
伊藤はそう言います。幕末の長州藩にあっては藩主が変心するたびに、家老たちが腹を切らされました。その不条理と残酷さを思えば行雄のこだわりはいかにも小さい。
「時代が違う。今は憲法政治、議会政治の時代だ」
行雄はそう反論します。小さな堅物にも強固な信念がありました。ついに行雄は伊藤総裁に脱党を申し入れました。伊藤は驚きます。
「君がやめる必要はない」
地租増徴案で政府と妥協したのは伊藤です。行雄が責任を感ずる必要はないのです。行雄は政策論に強く、しかも政治家には珍しく裏表がない。伊藤にとっては重宝な腹心でした。政友会の総裁室で伊藤は二時間にわたって行雄の説得に努めました。行雄は伊藤の慰留を快くは思いましたが、決心は変わりませんでした。院内総務に任命されて以来、行雄は第十七議会、第七回総選挙、第十八議会と、党務と議会運営に心血を注いできました。それが伊藤の独断で、いとも簡単にくつがえされたとき、なんとも言えぬ空しさを感じてしまいました。さらに行雄は疲れてもいました。院内総務という激務は、虚弱な行雄を疲労させ、神経衰弱にしていました。人間は疲労すると思考の柔軟性を失うものです。伊藤の説得は効を奏しませんでした。
翌日、末松謙澄が尾崎邸を訪れました。末松は記者上がりの政治家で、伊藤博文の長女を娶っています。伊藤に代わって行雄を説得に来たのです。辞める、辞めるな、話は同じことの繰り返しになりました。行雄は業を煮やしました。
「同じことを何度話しても無駄ですからもうお帰り下さい」
末松は窮しました。ここで帰れば終わりです。あげく、言わでものことを言いました。
「はなはだ失礼な申し様ではありますが、もし思い止まって下さればあなたの終身の生活費をお引き受けしたいと伊藤は申しております」
どうもありがとう、とは行雄は言いません。行雄は憤然として言い放ちました。
「伊藤という人は、もう少し人を見る目があると思っていたが、私の買いかぶりでした。そのような条件でこの私が政見を変えるとお思いか。だとすれば随分みくびられたものだ」
恥辱を感じる人間は、やせ我慢をしながら生きています。行雄は多額の借金を抱えていたのですが、末松の申し出を峻拒しました。結局、末松の一言によって行雄の脱党が確定してしまいました。行雄には多少の感慨があります。憲政本党を除名されてまで伊藤の新党に賭けてはみましたが、政友会の実態は従来の政党と何ら変わることがなかったのです。東奔西走の努力にもかかわらず、行雄が理想とする英国流の議会政治や政党政治は見出せませんでした。
行雄が脱党すると、追随する者が三十名ほど現われました。やはり伊藤総裁の独断による妥協に反旗を翻したのです。すでに五月十二日から第十八議会が始まっています。無所属となった行雄は一度も発言することなく、議論の成行きを見守りました。