政友会
憲政本党を除名された尾崎行雄は、伊藤博文のもとに参じました。身ひとつでやってきた行雄を伊藤は厚遇し、新党の創立委員にしました。明治三十三年八月二十五日から始まった設立委員会において新党の政綱および宣言が発表され、立憲政友会が九月十三日に発足しました。二日後に帝国ホテルで開催された発会式には千五百名が参集し、全国からの祝電は六千通を越えました。
「立憲政友会をして政党の模範たらしめん」
総裁伊藤博文は高らかに抱負を述べました。政友会の議席数は百五十二で衆議院の過半数を超えます。そのうち百十一名は星亨率いる旧自由党派です。総裁の下に幹事長、幹事、総務委員が置かれ、党務に当たることとされました。行雄は総務委員のひとりとなりました。
発足して間もない政友会に対し、政党嫌いの山県有朋は早くも揺さぶりをかけてきました。九月二十六日に第二次山県内閣を総辞職し、後任首班に伊藤博文を推薦したのです。これは好意でも敬意でもなく、計略です。
「敵の陣容整わざるを討つは山県特有の兵法だ」
伊藤には山県の考えが手に取るようにわかりました。伊藤自身、かつて発足間もない憲政党に政権を与えて隈板内閣を発足せしめ、わずか四ヶ月後に総辞職へと追込んだことがあります。それだけに伊藤は組閣を固辞しました。何しろ政友会は発足したばかりであり、党内体制は固まっていません。この状況で組閣したところで内閣は機能するどころか、却って混乱するであろう。そして、それこそが山県の狙いです。しかしながら、政友会の大勢を占める旧自由党派は組閣すべしと伊藤を突き上げました。
「政権の座に在ってこそ党勢は増し、組織も固まる」
彼等はそう主張しました。もちろんその底意は猟官欲です。これに加えて伊藤と顔見知りの元老たちも大命拝受を要請してきました。結局、伊藤は逃げ切れなくなり、十月七日に大命を拝受して組閣工作を開始し、同月十九日に第四次伊藤内閣の成立をみました。
「最初からこの内閣は出来損ないであった」
のちに行雄が自伝に書いたほど第四次伊藤内閣は不安定でした。政友党内で多数を擁する旧自由党派の横暴が目立ち、伊藤総裁といえどもこれを抑えることが出来ませんでした。
「それでは皆がついてきません」
旧自由党派を率いる星亨は事ごとにそう言いつのり、自派の要求を伊藤に呑ませたのです。当然ながら党内に反発が起こります。組閣に手間取ったのはそのためでした。
「意の如くならず、困ったことだ」
伊藤は早くも愚痴のような手紙を行雄によこすようになりました。伊藤博文は自身の声望に自信を持ちすぎていたといえます。一方の星亨としては計算どおりだったでしょう。星は首尾よく逓信大臣になりました。ところがです。かねてより金と利権にまつわる噂の絶えない星亨を世論が攻撃しはじめました。さらに星の配下の市会議員等が汚職の嫌疑で拘留されました。このため星亨ひいては伊藤内閣への非難が高まりました。ほくそ笑んだのは山県有朋です。藩閥勢力の強い貴族院を動かし、伊藤内閣の弾劾を進めました。伊藤はやむなく星を辞任させようとしましたが、温和しく聞くはずがありません。
「事件はことごとく虚構の流説である。自分には一片のやましさもない。法廷で白黒をつけるまでである」
弁護士でもある星は自信満々でした。さらには伊藤の任命責任を問うて、逆襲してきました。
「私を閣員に奏請したのは閣下ではありませんか。私に辞めろというなら閣下も辞めるべきではないですか」
伊藤は貴族院の動向を説き、内閣弾劾の危機にあることを星に訴えました。伊藤内閣が瓦解してしまえば元も子もなくなります。星はようやく辞職を受け入れました。後任の逓信相には原敬が抜擢されました。このとき星亨は身辺の者にこうつぶやいたといいます。
「一大臣でさえこうであれば、この上もっと偉くなるには、この流儀ではいけない」
流儀というのは星亨流の政治力涵養方法のことです。星は天下に志がありました。のし上がるためには金、恫喝、暴力を容赦なく使います。わずか二ヶ月間の逓信大臣でしたが、逓信省内では星大臣の評判はすこぶる好かったのです。星は元来が聡明な男です。いっさい盲目判は捺さず、きちんと調べました。それでいて事務処理は迅速で、しかも細部にまで理解がゆきとどいていました。次官や局長の説明だけに満足せず、実際に政策を立案した属官を大臣室に呼んで説明させました。属官たちは大臣に直接説明できるというので張りきりました。星は、見所のある属官を見つけると酒宴や私邸に招き、飲食でもてなし、帰り際には金を渡しました。なかには金品の受け取りを辞退する官僚もいました。そう言う場合、星は途端に態度を変えました。
「取れというのをなぜ取らぬか」
星は大声で怒鳴りつけました。大臣に叱責されれば官僚は受取らざるを得ません。金が嫌いな人間はいないのです。そうやって子飼の官僚をつくり、公務の他に私事を調べさせました。また、星亨のもとには荒っぽい壮士が何人もいて、いざというときには彼等が大騒ぎをしました。政友会の設立時、それを祝う宴会場に川上行義という子飼の壮士が居ました。
「総裁ごときが威張るなら小便を引っかけてやる」
そう言うと川上は、伊藤総裁の面前で小便をしたのです。実に行儀が悪い。川上は維新後に仇討ちを果たした数少ないひとりであり、一説には人殺しの名人ともいわれていました。このようにして官界に浸透し、荒くれ者の子分を養い、さらには旧自由党派の議員を派閥としてまとめるためには莫大な金が必要でした。黒い噂が常に星につきまとったのは、そのためです。
行雄は星亨の流儀を認めません。星の実力は大いに認めるものの、星の政治流儀は行雄のもっとも嫌悪するところでした。これは行雄の長所であるとともに短所でもあります。行雄は常に高い理想から政治を評し、後世の評価にも耐えうる政論を吐きはしましたが、政治権力からは縁遠い場所に居つづけました。
そうこうしているうちに第十五議会が迫ってきました。星亨と行雄の力を議会運営に活かそうと考えていた伊藤博文は、ある晩、一席を設けて三人だけの宴を催しました。酒間の話題は政治に及ばず、共通の趣味である読書話に終始しましたが、行雄は何か政治的意図を感じました。しばらくすると伊藤は星と行雄の両名を院内総務に任命しました。院内総務とは衆議院内における政友会のリーダーです。今日でいえば国会対策委員長に相当するでしょう。伊藤としては政友会で最大勢力を持つ星亨を院内総務に任命しないわけにはいかなかったのです。ですが、何かと独断専行の目立つ星を牽制する必要がありました。そこで行雄を星に対置させたのです。この人事が発表されると星亨は病と称して栃木の別荘に引っ込んでしまいました。不満だったのです。伊藤は困って行雄に相談しました。
「心配はいりません。星君の病気は簡単に治ります」
行雄はすぐさま院内総務を辞任しました。すると星亨は恥ずかしげもなく上京し、党内を切り回しはじめました。結局、星亨がヘソを曲げれば政友党は立ちゆかなくなるのです。行雄はただ静観するしかありませんでした。
第十五議会は明治三十三年十二月二十五日から始まりました。政友会は衆議院で過半数を占めていたから議院運営に滞りはありません。問題は藩閥の影響下にある貴族院です。貴族院は大幅な予算修正を要求して伊藤内閣を攻めました。伊藤総理は参内して勅語を賜り、それを以って貴族院を納得させようとしました。困ったときの奉勅頼みは伊藤の得意技です。こうして議会を乗り切ったものの、議会閉会後に閣内から問題が噴出しました。
大蔵大臣渡辺国武が公債による官業の中止を強硬に主張したのです。渡辺蔵相は大蔵官僚から政治家となった財政通で、かねてより財政悪化と公債膨張を憂えていました。その渡辺蔵相が唐突に官業中止を言い出したので、閣内からは反対論が出ました。特に旧自由党派の五大臣は強硬に反対しました。旧自由党派と渡辺蔵相との間には組閣の当初から感情的対立がありました。渡辺蔵相は旧自由党派の横暴を快く思わず、旧自由党派は蔵相の座を渡辺に奪われたと遺恨を抱いていました。そのため問題は深刻化し、閣内不一致が外部にまで漏れ伝わる状態となりました。それでもどうにか四月三十日の閣議において調整が図られました。
行雄が伊藤総理を訪問したのはその翌日です。行雄は前日の閣議のことを知りませんでした。行雄は苦言を呈するため面会に及んだのです。行雄の顔を見るなり伊藤は愚痴りはじめます。
「渡辺には困ったものだ。どうしてもっと早く言わなかったのか」
伊藤は例によって「困った、困った」を連発しました。維新の英雄高杉晋作はどんな困難な状況下でも「困った」と言ったことがなかったといいますが、伊藤は正直でした。むしろ無邪気なほど正直に「困った」と言い、本当に困ったような顔をします。
「それは貴方が悪いのである」
忠告のために来訪した行雄は伊藤に同情するつもりはありませんでした。財政問題は天下周知の事実です。それを蔵相からの報告がなかったなどと言い訳するのは見苦しい。そもそも総理大臣たる者、財政、外交、軍事の三大要件くらいは言われなくとも知って居らねばならない。行雄の正論に伊藤は沈黙しました。行雄は憲政本党を除名処分にされてまで伊藤の新党に賭けたのです。それがこの有様です。期待が大きかっただけに失望も大きく、厳しい忠言になりました。伊藤は憮然とした顔で聞いていました。
その翌日、行雄が驚いたことに伊藤総理は辞表を捧呈しました。閣僚の誰もが寝耳に水でした。行雄の叱責に絶望したわけではないにせよ、とうとつな総辞職です。後任に山県有朋を推薦したあたりに伊藤の真意があったようです。要するに反撃です。成立して十日しかたたない政友会に政権を投げたのは山県でした。山県の計略は当り、党内基盤の脆弱な政友会内閣は右往左往しました。伊藤はそのボールを山県に投げ返し、衆議院での多数を以って山県内閣をきりきり舞いさせようと謀ったようです。おそらく山県は辞退するでしょう。衆議院で政友会が過半数を占めている以上、藩閥政治家の誰もが固辞します。結局、ボールは伊藤の所に戻ってくる。その時こそ内閣を改造し、藩閥にも文句を言わせぬ心積もりでした。
事実、山県有朋は政権の継承を断り、西園寺公望も断り、いったん乗り気になった井上馨も投げ出しました。誰も継承する者がないと思われていた次期内閣を、ひょいと受け取ったのは桂太郎です。長州出身の桂太郎は山県や伊藤など維新の元勲たちよりもひとまわり若い。
「お鉢が回ってきたら引受けて伊藤公の度肝を抜いてやれ」
同郷の曾禰荒助や児玉源太郎が桂をけしかけたのです。政治家の流儀にも様々あるものです。星亨が金なら、山県有朋は派閥、尾崎行雄は言論です。そして、桂太郎のそれは人心韜晦でした。ニコニコしながらポンと肩を叩いて誰とでも仲良くなります。行雄は桂のニコポン流を嫌いましたが、不仲の元勲たちをまとめあげてしまうほどの人心掌握術は賞讃されてよいでしょう。こうして第一次桂内閣が六月二日に成立しました。
お茶の水の高等師範学校で行雄が講演をしたのは同じ月の二十一日です。行雄は学生たちに政治向きの話をしました。この頃、どうした風潮か、金と壮士を使った豪快な星亨流の政治手法が若者に人気を博していました。若い政治家の中には星流のやり方を無理して真似ようとする者さえありました。こうした弊風を正そうと行雄は演壇に立ちました。
「この頃は星君の崇拝者がたいそう多い。私も星君の仕事ぶりには感服するばかりである。しかし、片手には金、片手にはステッキという流儀ではせいぜい内閣の一大臣が関の山である。実際、伊藤内閣の逓信大臣となった星君は、間もなく辞職を余儀なくされた。将来、星君があの流儀をやめればよし、もしやめなければ殺されるか、あるいは牢につながれるであろう」
その帰り道、行雄が人力車にゆられていると号外鈴の音と共に「号外!」の叫び声が耳に入りました。求めてみると驚いたことに星亨遭難の記事です。星は、東京市庁内で伊庭想太郎に惨殺されたのです。