新党構想
憲政党は分裂しました。分裂後、旧自由党はそのまま憲政党を名のり、旧進歩党は憲政本党を名のりました。一方、大命は山県有朋に降下し、第二次山県内閣が成立しました。この内閣は薩長藩閥の超然内閣でしたが、議会対策のため憲政党と提携しました。準与党たる憲政党は百十九議席、野党たる憲政本党は百二十三議席という伯仲の勢力比でした。
第十三議会は明治三十一年十二月三日に始まりました。大きな争点は地租増徴です。政府はかねてより地租増徴による税収増を望んでいました。対する民党は民力休養と政費節減の観点から反対し続けてきました。世論は増徴反対であり、各地に地租増徴反対の組織が設立され、東京にも地租増徴反対同盟が成立していました。準与党の憲政党内にさえも増徴反対意見があり、地租増徴法案の成立は難しい形勢でした。
この情勢を挽回するため山県内閣は躊躇なく非立憲的手段を行使しました。新聞紙条例や集会条例などを使って増徴反対の世論を封じる一方、金をばらまいて買収し、金になびかぬ者は警察力で拘禁しました。衆院議員も買収工作の対象とされました。この山県内閣の方針に憲政党は追従し、買収行為を助長さえしました。政府に恩を売っておき、大臣の椅子を得ることが憲政党の思惑でした。それにしても議員の買収に政党が一役買ったことは政党の自殺行為でした。
「議会は奴隷売買の市場にして、議員は市価を有する動物なり」
痛烈な議会批判の世論が興りました。行雄も憤懣やるかたない状態でした。本来なら藩閥政府に対して民党が一致協力して戦うべき所、憲政党と憲政本党に分裂してしまっています。藩閥政府に漁夫の利を与えているのです。しかも憲政党ばかりではなく、憲政本党内にさえ買収される議員が出てきました。行雄にできたことといえば、自分自身の廉潔を貫くことだけです。結局、地租増徴法案は衆議院を通過して成立しました。政党嫌いの山県総理は、議会中こそ憲政党を都合よく使いまわしましたが、閉会すると手の平を返します。憲政党からの入閣はいっさい許されませんでした。そればかりか政党員の政府内への浸透を防止する手を打ちました。文官任用令改正がそれです。
この頃の官吏は親任官(大臣など)、勅任官(次官や局長など)、奏任官(課長など)、判任官に分類されていました。すでに文官試験が実施されており、官吏になるためには試験に合格する必要がありました。ただし勅任官以上には自由任用が認められていました。そのため、文官としての経歴や文官試験とは無関係に人材を登用することが可能でした。事実、第一次大隈内閣では多くの憲政党員が勅任官として政府内に入りました。山県はこれを不可とし、文官任用令を改正して勅任官の自由任用を廃止しました。藩閥政権は官僚機構を政党から分離し、完全に自己の配下に置くことによって政党政治に対抗しようとしたのです。
裏切られたのは憲政党です。憲政党は山県内閣に協力して地租増徴案や予算案などの成立に貢献しました。その見返りとして相当の官職が与えられるものと期待していました。にもかかわらず山県有朋総理は一人の大臣どころか一人の勅任官をも許さなかったのです。その代わりに利権を喰らわせることで憲政党を鎖に繋ぎ留めました。
従来から英国流の政務官制度を理想としていた行雄にとって、山県内閣のこの措置は議院内閣制に逆行するものであり、当然ながら反対でした。同時に、自由任用をよいことに見苦しいばかりの猟官運動に走る政党政治家たちにも強い嫌悪感を抱いていました。
(どっちもどっちだ)
行雄は理想主義者です。そのため藩閥政府にも不満なら、政党にも不満です。行雄のこの性格は、彼を優れた政治批評家にしたものの、政治の実権からは遠のかせました。時期は少しさかのぼりますが、明治二十九年に行雄は「立憲的専政国」という自嘲的なタイトルの評論を発表しています。
「憲法ありと雖も、朝野未だ之を視て、真正犯すべからざるものとは為さず、ややもすれば則ち之に違背す。故にその効用素より全きことを得ず。議会ありと雖も、政府はその議決を重んぜず、また懲罰的解散を妄行す。而して人民はただに之に憤激せざるのみならず、却って議員の政府に盲従せざるを咎むるに至る。嗚呼、朝野官民の立憲的思想に乏しきこと凡そかくの如し」
行雄の不満は、政府だけでなく国民にも向けられていたことに注目すべきです。
「法律上に於いてこそ、人民は政府の奴隷に非ずと雖も、道徳上に於いては純然たる奴隷なり。この奴隷や、他より強迫束縛せられたる奴隷に非ずして、自ら進んで心折悦服したる精神的奴隷なり」
この時代の日本人は、精神的には江戸時代に近い感覚で生きていました。それが行雄には不満だったのです。
「専政の積習、肉を穿ち骨に入る」
行雄は嘆きますが、むしろ行雄があまりに性急だったでしょう。明治維新が起きたからといって急に人間が変わるわけではありません。歴史文化の慣性には巨大な質量が働いているのです。爪を切るようなわけにはいきません。
「我が帝国人民は憲法法律を以て自由と権利を許与せられながら、毫も独立自由の思想を発揮せず、ただ官吏の為す所を是れ模倣す」
民権論者であればあるほど、この時代の日本社会と日本人の有り様を歯痒く思い、切歯扼腕せざるをえなかったのです。行雄にとっては、所属政党たる憲政本党さえ不満の種です。憲政本党と雖も国家本意の政党ではなかったのです。親分子分の因縁や利害によって結ばれた私党に過ぎません。現状への不満と高い理想を抱えた行雄が、伊藤博文の新政党設立運動に興味を持ったのも無理はなかったと言えるでしょう。
政党設立をめぐって山県と激しく対立した伊藤は、第二次山県内閣とは距離をとっていました。伊藤は、諸外国の事情を調べ、全国各地を遊説して新政党の必要性を訴え、有為な人材を物色するなど、新政党の設立準備を進めました。
このような情勢下、第十四議会は明治三十二年十一月二十二日に始まりました。行雄は同僚議員との連名で議員汚職に関する法律案を提出しました。十二月八日、行雄は本会議において同法案の説明演説に立ちました。法案はごく簡素なものです。
「刑法中、官吏汚職の罪に関する条項は貴族院議員、衆議院議員、府県会議員、郡会議員、市町村区会議員、府県参事会員、郡参事会員、市参事会員その他法律命令を以て定めたる議員及び委員に適応す」
当時の刑法には議員の汚職について罰則が定められていませんでした。そのため議員の汚職行為が明らかな場合でも、それを処分することが出来ずにいたのです。だからこそ山県内閣の買収工作に憲政党は安心して加担できたのでした。そこで、すでに定められている官吏汚職についての罰則条項を議員にも適応するというのが法案の主旨です。
「今、かくの如き案を提出するの必要を感ずるに至ったのは、本員等の大いに悲しむところであります」
行雄は、汚職が横行する現状を嘆きます。この法案は特別委員会の審査にかけられることとなり、二日間にわたる審査が行なわれましたが、審議未了のまま廃案となってしまいました。
議会の山場はなんといっても予算案です。十二月二十四日の本会議において予算案が審議されました。政府案に対して憲政党は形ばかりの修正を要求しました。修正額は微々たるものです。憲政本党としては政府の原案にも憲政党の修正案にも賛成できません。憲政本党の武富時敏が緊急動議を提出しました。
「予算を修正し歳出を節減せんがため、本院は特に九名の委員を挙げ政府と協議せしむべし」
採決によって緊急動議が否決されると、尾崎行雄が発言しました。
「吾々の同志者は姑息なる修正案に反対なるは無論のこと、原案と雖も賛成すべからざるを認めております。どちらにも反対であるということは、予算全部を通じて修正にも原案にも反対である」
反対を表明しても、少数野党の悲しさで議事は容赦なく進行していきます。甲号歳入歳出予算、乙号継続費、丙号繰越明許費、歳入経常部、歳入臨時部と順次採決されていき、憲政党を中心とする多数によって予算案のすべてが通過しました。菅原傳が緊急動議を出したのはその時です。星亨に促されて登壇した菅原は決議案を朗読しました。
「尾崎行雄君の演説中に、我等同志議員は予算全部に反対す、と揚言したるは皇室に対して不穏当なる言辞にして取り消さしむべきものと認む。よって之を決議す」
菅原は理由を説明しました。予算の中には皇室費が含まれています。にもかかわらず予算全部に反対するというのは皇室に対して不敬であるというのです。幼稚な言いがかりといってよい内容でしたが、憲政党は意気盛んです。行雄に対するヤジが飛びます。
「共和主義者」
「神宮費も入っているぞ」
人間というのは一人でいると心細いものですが、徒党を組むとなぜか気が大きくなります。気が大きくなると、何でもできるような気分になるものです。憲政党は数を頼み、憲政本党を呑んでかかっていました。
(馬鹿か)
議場の騒ぎを余所に行雄は冷静でした。議長の許しを得て演壇に立ち、演説しました。
「全体、この動議を起こされた諸君は、未だ予算の何者かをご承知ないことと考える。いやしくも予算の何者たるを知ったならば、かくの如き見当違いの動議は起こさぬはずと思います」
行雄は動議提出者に皮肉をぶつけました。議場はヤジで騒然となります。
「皇室費は予算ではありませぬ。第六十六条。憲法でありますぞ。皇室経費は現在の定額により毎年国庫より之を支出し、将来増額を要する場合を除く外に帝国議会の協賛を要せず、と書いてある。協賛を要せざるものは予算ではない」
意気軒昂だった憲政党員たちは急に静かになりました。恥ずかしくなったのでしょう。憲法解釈の基礎ともいうべきことを、行雄は丁寧に義憤を込めて説明しました。五分にも満たない演説によって議場の雰囲気は一変しました。すると、劣勢を挽回すべく星亨が演壇に登り、決議案の正当性を訴えましたが、憲政党の意気はいよいよ消沈しました。この決議案の議決は元田肇の動議によって翌日に延期されました。
翌十二月十五日、内閣弾劾上奏案が議題となりました。上奏案の内容はすさまじいものです。山県有朋総理、西郷従道内相、星亨、小山田信蔵などの個人名を挙げて、先の第十三議会において贈収賄が行なわれたことを告発しています。
「有朋等の地租増徴案を衆議院に出すや国論の之に反対するを知り某々等に約するに私利を以ってし、・・・横浜海面埋築の利を小山田信蔵等に専断せしめたるは、実に内務大臣西郷従道等が地租増徴案通過の際、星亨輩と私約せし所を履践したるに是由る」
説明演説に立ったのは行雄です。行雄は官紀の紊乱を粛整すべしと訴え、贈収賄の事実を挙げ、実際に収賄したであろう議員に向けて痛烈な一撃を与えます。
「遺憾ながら当議会にも、その証拠人は、生きたる証拠人は多々ありまする」
賛否の凄まじいヤジにより議場は騒然となりました。行雄は声を張り上げ、府県会議員選挙における官僚の干渉を非難し、横浜海面埋立にかかわる贈収賄の証拠を提示しました。それは衆院議員小山久之助が小山田信蔵と交わした契約書です。小山は憲政本党の党員でしたが、行雄は容赦しませんでした。
「甚だ私情において忍びないところでありますが、本員の十数年の朋友たる小山久乃助君の事績より、此の機において明確に陳述いたしましょう」
一片の友情を示した上で、その契約書の内容を開示しました。
「第一項 自分儀憲政本党を脱党致し今期議会に付議せらるる地租増徴案、地価修正案及び之に関連する諸案に全然賛成し且つ憲政党と共同して通過に尽力致すべく、又鉄道国有問題議会に提出の際には前同様尽力致すべく、且つ貴下の意見に同意仕るべく其為貴下より金四千円を受領仕るべく候事。
第二項 前項四千円はただ今自分より憲政本党に差し出す脱党申込書を貴下に相渡すと同時に将に領収仕り候。残金二千円は地租増徴案地価修正案議会を通過致し候上にあらざれば受領仕らず候事。
第三項 もし議会を欠席し、もしくは反対し又は憲政本党に復帰しその他本契約の主旨に違犯致し候事之有り候えば其の如何なる理由に出づるを問わず、既に受領したる金額は保証人と連帯して直に全額返済仕るべくのみならず、いかさまのご処置相成り候とも苦しからず候事」
贈収賄の動かぬ証拠です。さらには贈収賄にかかわった自由党員四名の証言までも読み上げました。これだけ充分な証拠がありながら、甲論乙駁のすえ、この上奏案は否決となりました。
次いで議題となったのは、前日に緊急動議として提出された「尾崎行雄君の言辞を取り消さしむるの緊急動議」です。動議を出した憲政党はこの動議の無理を悟り、採決を避けようとしました。ですが憲政本党はあえて採決に持ちこみ、否決を勝ち取りました。
この第十四議会には治安警察法案が政府から上程され、特別委員会において一日ばかり審議された後、可決成立しました。同法は議会閉会後の三月十日に公布されました。さらに議会閉会後の五月には陸軍省官制、海軍省官制がそれぞれ改正され、陸海軍大臣の資格が厳格化されました。それまでは武官であることが陸海軍大臣たる唯一の資格でしたが、この後は現役将官に限定されたのです。陸海軍を薩長藩閥が牛耳っている限り、政党内閣の組閣はよほど困難になります。第二次山県内閣は民権を圧迫し、政党政治を摘み取るための手を着々と打ち続けました。
憲政党は、山県内閣の議会対策にいいように使い回されました。藩閥政府の御用党に堕してまで欲したものは閣僚の椅子でしたが、山県有朋は一切の入閣を拒みました。完全に騙されたといえます。ここに至ってようやく憲政党は山県内閣に見切りをつけ、同じ長州閥でありながら立党活動を進めつつある伊藤博文に接近しました。憲政党総務委員の星亨は思いきった提案を持ち出しました。伊藤博文を憲政党党首にするというのです。伊藤はこの要請を辞退しました。しかし将来には含みを残します。
「将来立憲の美果を収むるの必要より、余は之に関する愚見を公にする日あるべし」
伊藤博文の立党活動には行雄も尋常ならざる関心を寄せています。すでに行雄は憲政党にも憲政本党にも飽き足らなくなっていたのです。
(政党はこの様なものではないはずだ)
法律を軽視し、汚職にまみれ、猟官と利権に奔走する政党に、理想論者の行雄は嫌悪さえ感じています。そのため第十四議会において上奏案の提案理由を演説した際には、あえて党友の悪事をさえ暴露しました。もはや飛躍せずにはいられないのです。行雄はすでに四十代の大人です。理想に燃える若僧ではありません。ですが、理想家気質は生まれつきのものなのでしょう。現状へ不満が強い分だけ、伊藤が設立するであろう新政党への期待が高まり、抑えがたくなりました。あげく、行雄はついに伊藤博文の邸宅を訪問しました。伊藤と直に面談し、その意見を確かめるためです。
人を訪ね、意見を尋ね、その人格に触れることは江戸時代以来の学問的習慣です。行雄の邸にも頻繁に人が訪ねてきます。そのたびに行雄は会ってやります。だから行雄が伊藤に会いに行くのも奇異ではありません。ただ、伊藤博文は長州閥の中心人物であり、藩閥政治打倒を掲げて数十年来戦ってきた政党政治家の行雄にとっては不倶戴天の仇敵です。その伊藤を訪ねるについては行雄の心中に多少の葛藤がありました。
(憲政本党ひいては大隈重信をはじめとする党友を裏切ることになるかも知れない)
行雄は誰にも告げずに行きました。会って話してみると意見が合います。現状の政治への不満を、行雄以上にむしろ伊藤の方が強く感じていたのかもしれません。なにしろ大日本帝国憲法という国家の設計図を作成したのは伊藤です。その伊藤の目から見れば、藩閥政府も既存政党も設計図どおりに動こうとせぬ者たちです。今こそ真の政党を設立して立憲的な政府と議会と政党を実現したい。ふたりは理想を共有しました。その後、しばしば行雄は伊藤邸に出かけるようになり、意見を交換し、時に行雄が伊藤に献策したりしました。
「新党は三派鼎立の一大政党たるべし」
行雄は伊藤に言います。憲政党、憲政本党、そして伊藤直参の藩閥政治家や官僚たち、これらの三派を均衡させることによって政策的なバランスをとることができます。そのためには行雄自身も一肌脱いで、憲政本党を説得する覚悟でした。
日露関係についても意見を交換しました。ふたりは対露協調という一点で同意します。この頃すでに日露関係は悪化していました。三国干渉後、ロシアは旅順、大連を租借して軍事拠点化したばかりでなく、朝鮮政府への影響力を強めつつありました。さらに明治三十三年五月に北清事変が起こると、そのどさくさにまぎれて満洲を占有してしまったのです。清国に対しては強硬論を唱えた行雄でしたが、ロシアとの戦争は回避すべしと考えていました。
「我が国がいかに露国の侵略を妨げ、いかに露国の南下を防がんとするも、到底力の及ぶところに非ず」
ロシアの軍事力は強大であり、とうてい小国日本の力の及ぶべくもない。行雄の現実検討能力は冷静に働いていました。清国の衰亡が避けがたい以上、ロシアが満洲を占有するのは必然的な趨勢です。
「支那については成行きに任せよ」
それが行雄の対支政策です。しかしながら朝鮮半島の日本権益についてはこれを守らねばなりません。満洲におけるロシアの権益を認める代わりに、朝鮮における日本の権益をロシアに認めさせるというのが基本です。支那に手を伸ばしてロシアと事を構えても害のみが多く、利が少ない。なんといってもロシアは強国です。英国と結んでロシアに当たれという世論も少なくありませんでしたが、行雄はこれを不可としました。アジアにおける南下が遮断されれば、ペルシャ湾方面におけるロシアの南下運動が活発化します。英国にとってこれほど苦痛なことはないからです。英国にとってはむしろロシアがアジアにかかり切りになっていてくれる方が有り難いのです。その意味で日英の利害は一致しない、というのが行雄の見方でした。伊藤もほぼ同意見です。ただ、難しいのは戦争を避けながら、いかにして我が主張をロシアに納得させるかという点にありました。加えて、強硬な国内世論も懸念材料です。三国干渉以後、国内には対露強硬論が渦巻いています。協調路線を主張すれば世の非難を浴びるに違いなかったのです。
「今は国のために命を棄つべき場合である、世の毀誉のごときは度外視して進まねばならぬ」
行雄は伊藤に説きました。この四年後には日露開戦となりますが、伊藤は最後の最後まで対露協調を模索したし、行雄も対露非戦論を棄てませんでした。
ともかく行雄は伊藤の新党設立構想に熱中し、深入りしました。その行動は周囲に洩れ伝わりました。行雄は憲政党の幹部です。それが秘かに伊藤の立党運動に関与していたとなれば党内の反発は必至です。行雄はあまりに大胆すぎました。理想家の欠点といえるかも知れません。理想がすべてを浄化すると思い込んでいるのです。ただ、行雄には自己の行動を隠蔽しようとする意志がそもそもありません。堂々と伊藤邸を訪問し、伊藤邸内では堂々と意見を吐いたからです。伊藤邸には憲政党員や藩閥政治家が頻繁に訪れています。彼等とも顔を合わせないわけにはいきませんでした。行雄の独走はついに憲政本党幹部の知るところとなりました。
露見したからといって行雄は別にあわてはしません。説得すればなんとかなると思っていたし、それが駄目なら単身、伊藤の立党運動に投じるまでと肚を決めていました。それほど既存政党に対する失望が大きく、新党への希望が強かったのです。
一夜、大隈重信、犬養毅、大石正巳、尾崎行雄の四名が大隈邸に集まりました。行雄以外の三名は行雄の暴走を詰問しようとしています。その三名に行雄は言い訳もせず、むしろ正面から説得を試みました。
「憲政本党そのものをもって伊藤公の新党に参加すべし」
しかしながら行雄の抜駆けがすでに明らかとなっていたため、誰も聞く耳を持つ者は居ません。説得は、理屈よりむしろ信用で決まるのです。
「君は伊藤を買いかぶっている。我々ですらうまくいかないことが、どうして伊藤にできるというのだ」
大隈は諭すように言いました。伊藤を買いかぶっていた行雄は大隈を前に思いきったことを言います。
「あなたは既に失敗したが、伊藤公はまだ失敗していない。だから希望がある」
一同さすがに鼻白みましたが、誰もが行雄の強情な性格を知っているので、大目に見ました。行雄は「伊藤公のもとに民党結束して藩閥政府に当たるべし」と主張して止まない。その止みそうもない議論を終わらせたのは大隈の一喝でした。
「是非そんなことはやめてくれ」
行雄は大隈の憤怒を初めて見ました。大隈重信はよほど宏量大度の人物で、めったに怒ることがありませんでした。かつて玄洋社の来島恒喜によって爆弾を投じられ片脚を失った後でさえ怒りを表わさず、むしろ犯行直後に自害した来島の潔さを褒めました。「吾輩は彼を愛する」とまで言ったのです。その大隈の憤怒の形相を目の当たりにしたのは、後にも先にもこの時だけでした。しかし、これでしょげるようなら行雄もたいした奴ではありません。行雄は大隈の怒気を跳ね返します。
「これは国家人民のために考えた事柄だから、いかにやめろといわれても、やめるわけにはいかない。やめれば国家の不利益になる」
行雄も思い詰めていました。結局、話し合いはもの別れに終わり、在京党員を集めた総会を開くことが決まりました。行雄は総会で一場の演説を試み、伊藤新党への結束を党員に訴えるつもりでした。それで駄目なら除名もやむなしと思いました。犬養毅は尾崎の除名を回避するため奔走しましたが、党内世論は厳しいものでした。総会当日、「裏切り者」の声は会場を圧し、総会はただでさえ紛擾の様相を呈しました。
(尾崎にしゃべらせたら命が危ない)
犬養は、式次第を変更して尾崎の除名処分を即決してしまいました。