表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/39

政党内閣

 明治三十一年、大命が伊藤博文に降下し、第三次伊藤内閣が成立しました。伊藤は政党との連立を模索し、進歩党に接近しました。大隈重信は乗り気を見せましたが、行雄ら進歩党幹部は松方内閣でコリゴリしていたので拒絶しました。進歩党に振られた伊藤博文は自由党に接近します。自由党は伊藤内閣支持を表明して、第五回総選挙に突入しました。投票日は明治三十一年三月十五日です。結果は解散前とほぼ同じで、自由党と進歩党がほぼ議席を二分しました。選挙後、自由党は板垣退助総裁の入閣を要請しました。ところが伊藤総理はなぜかこれを拒絶しました。そのため自由党は激怒し、政府と対決することになり、進歩党との共闘に方針を変えました。

 第十二議会は五月十九日に始まりました。連携した政党勢力は圧倒的な多数を以て伊藤内閣を追い詰めます。尾崎行雄ら九名は「外政に関する質問主意書」を提出し、政府の遼東還付が失敗であったとして責めました。また自由党と進歩党は、政府の財政予算案をことごとく否認しました。もはや超然内閣が成り立たないことは誰の目にも明らかでした。六月十日、衆議院は解散となりました。

 六月十七日、自由党と進歩党は江東中村楼にて懇親会を開催し、第十二議会における健闘をたたえ合いました。来会者は五百名にのぼり、大隈重信と板垣退助は五年ぶりに顔を合わせました。その五日後、進歩党と自由党が合同して憲政党が成立しました。これを資金面から支えたのは福岡出身の平岡浩太朗です。平岡は炭坑事業で得た数十万円の財産を惜しげもなく散在したのです。議席のほぼ三分の二を占める大政党の誕生です。総裁は設置せず、四名の総務委員が党務を行うことに決まりました。行雄も総務委員の一人に選ばれました。


 驚くべきことですが、憲政党は成立して十日も経たぬうちに内閣を組織することになります。これは憲政党が勝ちとったものではありません。むしろ藩閥政府側の事情、特に伊藤博文の策動によってもたらされたものでした。

 いわゆる吏党の議席数が一向に伸びない。そのため藩閥政府は表面では政党との提携を図り、裏面では金銭や官職で政党員を買収することで議会を乗り切ってきました。ですが、もはやそれも限界でした。かねてより政党の必要性を認識していた伊藤総理は、第十二議会の議会運営が全く思うにまかせなかったことから、いよいよ政党設立に動きます。政府の親兵たる与党政党がどうしても必要だったからです。この時、資金面から伊藤を支えたのは後にビール王と呼ばれる馬越恭兵です。馬越は三十万円を提供しました。ひととおりの政党設立準備を終えた伊藤は、六月十九日の閣議で政党設立を報告しました。ほとんどの閣員はただ沈黙しました。伊藤の真意を計りかねたのです。ただ金子堅太郎農商務相と黒田清隆枢密院議長だけが賛意を示しました。

 薩長藩閥政治家たちは憲政党の成立にも驚きましたが、それ以上に驚愕したのは伊藤博文による政党設立です。戊辰戦争によって幕府を倒し、馬上天下をとった藩閥政治家たちには立憲政治というものがどうしても理解できなかったようです。憲法や議会さえなければ、かつて徳川家康や豊臣秀吉がそうしたように自由に日本を支配できるはずでした。そんな藩閥政治家にしてみれば、伊藤博文の思惑が理解できません。

 六月二十三日、桂太郎陸相の官邸に山県有朋、井上馨、西郷従道海相が集まりました。桂は伊藤の立党行動を遺憾とし、元勲による組閣を主張しました。

「各元老を長官とし、少壮者はことごとく次官となりて、その衝に当たらば、民党あえて恐るるに足らざるべし」

 さらに桂は憲法停止論さえ唱えました。

「幾回反抗を受くとも、幾回も解散を行ない、結局は憲法を中止してなりとも戦後経営は忽略に附し去る能わざるなり」

 藩閥政治家にとって憲法や議会がどれほど厄介な存在だったかがわかります。翌日の御前会議では、伊藤博文と山県有朋が衝突しました。伊藤は政党設立のやむを得ざる所以を説き、理解を求めます。山県は容赦なく反論しました。

「身は内閣総理大臣の職にありながら、その同士を糾合して一党を樹てんとするは、徒に官民の抗争を激発するものであって、政策の上からも決して上策とはいえない。政府は何れの政党に対しても公平でなくてはならぬのに、総理直参の与党があっては公平を失うまいと思ってもできないことである」

 山県はあくまでも超然内閣主義でした。議院内閣制という制度を理解しきれなかったのかも知れません。伊藤も伊藤で覚悟を示しました。

「我が意は既に決している。もし現職にあっての結党がいけないというのであれば、潔く総理の印綬を解き、野に下って政党を組織するのみ」

 山県は納得しません。

「たとえ現職を去っても、予は黙して止むわけにはいかない。伊藤侯は元老ではないか。元老は陛下に対し奉り国家の大事を翼賛するの地位にある。その元老が一方の政党に長たる以上、一党一派に偏せずと言い得るか。予は断じて反対する」

「現職総理大臣だからいかん、元老だからいかんといわれるか。然らば吾輩は勲爵一切を拝辞し、一個の平民として結党に従事するのみである」

 見事な啖呵です。伊藤は平民になってでもやると言いました。そこまで言われては是非もありません。山県は舌鋒をやや緩め、同じ長州出身の友人として言いました。

「政党内閣は我が国体の破壊である。金甌無欠の帝国をして、民主政治に陥らしむるものである」

 民主政治は国体の破壊であるという山県の思想は、藩閥政治家たちの本音だったでしょう。この専制主義的国体思想は明治維新の経過からして自然なものだったでしょう。彼らはサムライだったのです。しかし、伊藤博文にしてみれば議会の開設や憲法の制定は国体と何ら矛盾しません。日本の国体の根本は天皇の存在であり、一君万民の思想です。その根本の上に専制政体を載せようと、議会政治を載せようと国体そのものは磐石です。

 国体、という言葉に現実味を感じる日本人が今では少なくなってしまいました。国体とは何でしょう。要するに国柄のことです。そして、日本の国柄は一君万民思想に基づいて、万世一系の天皇の下、万民が平等に暮らし、君意民心相和していることをいいます。

 人々が平等思想を共有するためには絶対的存在が必要になります。欧州キリスト教圏には神という絶対的存在があります。中世の宗教改革者カルバンは神の絶対性を究極まで追求して予定説という教義にまとめました。全ては神によって決められ予定されている。その絶対神の前では人間など無に等しい。王であろうと乞食であろうと人間に過ぎない。絶対神との対比から平等思想が生まれたのです。

 明治憲法の起草者たちは困りました。日本には絶対的一神教がありません。どうやって平等思想を日本社会に根づかせるか。平等思想が社会に根づかなければ近代化は為し得ないのです。そこで天皇という存在に目を付けました。天皇を絶対化することにより、天皇以外は誰もが平等であるということにしたのです。

 この一君万民思想を日本人はごく自然に受け容れました。行雄もこの思想を護持しています。行雄は生涯にわたって皇室を尊崇し続けます。例えば昭和九年に年賀電報が始まると、行雄は書生に命じて郵便局に一番乗りさせ、皇室に宛てて年賀の言上を送信せしめました。

「一番だ」

 一番にこだわる行雄のため、尾崎家の書生は元日の暗いうちに起きだし、寒空の下、郵便局が開くのを待たねばならなりませんでした。

 そんな行雄と藩閥政治家との違いは現実論と理想論の違いだったようです。藩閥政治家たちは自らの専政を維持しようとしました。これはこれで維新成立過程からみて当然でした。対して尾崎行雄らは民主政治こそが君臣和合の国体を実現する方法だと信じていました。

 明治天皇が憲法を公布し、議会を開設したことに民主政治信奉者は驚喜しました。君意が憲法政治と民主政治にあると信じたのです。明治天皇は専政主義の国家に憲法と議会を接ぎ木して民主政治を育てようとしたのです。大いなる実験というべきでした。民主思想は既に幕末頃から流入してはいましが、必ずしも普及していたわけではありません。日本人はまだまだ封建的思想感情とともに生きています。その事実に立脚していたのは藩閥政治家です。議会も憲法も表看板であり、実質的な政治については藩閥専制が望ましいと考えました。

 山県と伊藤が衝突した翌日、伊藤博文は辞表を明治天皇に捧呈しました。内閣総辞職です。伊藤は勲爵をも奉還したいと願い出ましたが、明治天皇はお許しになりませんでした。このため伊藤は自身による政党設立をあきらめました。伊藤は、これまでにも何度か政党の設立を画策したことがありました。ですが、そのたびに伊藤は失敗してきました。長州閥であり元老であるという伊藤の立場がそれを許さなかったのです。しかしながら帝国議会の現実は、元勲内閣を組織したところでうまくいかないことを示しています。無理に元勲内閣を組織しても無益な衆院解散がくり返されるだけです。伊藤は飛躍せざるを得ませんでした。

 六月二十五日、伊藤博文は元老会議を欠席し、官邸に大隈重信と板垣退助を招きました。伊藤はふたりに後任を奏請する旨を伝えます。要するに憲政党が組閣せよというのです。驚いたのは大隈と板垣でした。いくらなんでも成立間もない憲政党が政府を組織できるはずがない。乱世維新の功臣といえども戸惑いました。躊躇するふたりを伊藤は説得しました。

「憲政党すでに成り、国民の多数を代表する政党が現出した以上は、その首領が内閣を組織することこそ、国務の進行を円滑にする道にして、至尊の叡慮を安んじ奉る所以である」

 伊藤は後継内閣の首班として大隈と板垣の両名を奏請しました。山県一派は激しく反対しましたが、明治天皇はこれを嘉しました。六月二十七日、大命は大隈、板垣の両名に降下しました。

「伊藤博文、民意の赴くところを案じて辞表を呈出したれば、朕その乞いを容れ、ここに卿等に新内閣の組織を命ず。国家内外の政務は一日の遅滞を許さず、卿等相談して速やかに新内閣を組織せよ」

 こうして日本初の政党内閣の組閣が始まります。憲政党はまだ出来たばかりの政党です。組閣に当たっては党内に亀裂を生まぬよう、旧自由党と旧進歩党との均衡が重視されました。陸海軍大臣を除く八閣僚ポストが平等に分けられました。大隈重信は総理と外相を兼務し、板垣退助は内相となりました。四人の総務委員はみな入閣することとなりました。行雄は文部大臣として初入閣しました。弱冠四十才です。その若さが世の注目を集めました。

 大隈と板垣が頭を抱えたのは陸海軍大臣の任命です。陸軍も海軍も薩長によって牛耳られています。政党内閣を好まない藩閥は当然ながら陸海軍大臣を出し渋りました。万策尽きた大隈と板垣は参内し、天皇に組閣の困難を訴えました。大日本帝国が亡びるまで陸海軍大臣の任命は政党内閣のアキレス腱となり続けるのですが、このときは明治天皇が助け船を出しました。

「陸海の二大臣は朕自ら任命して、内閣の組織を助けよう」

 明治天皇は第三次伊藤内閣の桂陸相と西郷海相をそのまま留任させました。桂と西郷が天皇から任命され、宮中を下がるとき、西郷が桂に言いました。

「この内閣はすぐに内輪喧嘩をはじめます。そのとき自由党派はあなたに、進歩党派は私に援助を求めるでしょうが、お互い何れにも加担しないことにしましょう。喧嘩の仲間に入ってはいけませんよ」

 六月三十日、第一次大隈内閣いわゆる隈板わいはん内閣が成立しました。長年の自由民権運動の成果といってよかったでしょう。新聞各紙は「明治政府の終焉」、「明治政府の落城」等の見出しを掲げました。親任式の後、閣僚全員が総理官邸に集まったとき、板垣退助内相が発言しました。

「今日は大隈伯と自分だけで特に懇談したいことがある。しかし各大臣も聞いていて差し支えない」

 そう前置きして板垣内相の語ったことは、要するに提携の誓いでした。

「この内閣は元来、多年争ってきた自由、進歩両党の寄り合い所帯である。権力争いやその他の事情によって、いつ仲間喧嘩が起こるかも知れぬ。しかし自分と大隈伯だけは断じて喧嘩の仲間には入らぬ」

 行雄は板垣の高潔さに打たれ感動しました。

(この内閣はうまくいく)

 行雄は期待を持ちましたが、それはあくまでも大隈と板垣のことであり、実際の政策調整は難航しました。旧自由党と旧進歩党は、鉄道国有化、警視庁廃止、文官任用令などをめぐって対立を深めていきます。加えて過去の争いからくる感情のもつれ、猟官合戦などもあり、八月の総選挙直前にはほとんど分裂状態といってよいほどに内訌を深めました。八月十日投票の第六回総選挙で憲政党は二百四十三議席を獲得するという大勝利をおさめました。しかし、その勝利がかすむほどに党内情勢は悪化していました。

 そんな折も折、星亨が帰国しました。星亨は衆議院議長を解任された後、第三回総選挙で再当選を果たしたものの、借金がふくれあがって首が回らなくなりました。やむなく伝手を頼って朝鮮政府法律顧問となりました。閔妃殺害事件が起こると一時帰国し、駐米公使としてワシントンに赴任しました。公使時代の星は読書三昧の日々を送りました。その星が帰国したのです。外務大臣になるつもりだったようです。外相を兼務していた大隈総理もそのつもりでした。これに文相の行雄が反対します。理由は明確です。

「星という男は喧嘩好きな人であるから内に入れても喧嘩するし、外に置いても喧嘩する。しかしどちらがうるさいかといえば内で喧嘩する方がうるさい。だから外に置く方がましである」

 ただでさえぐらついている憲政党内の融和は、爆弾男の星によって簡単に破裂してしまう。行雄はそれを心配したのです。

「内に入れておけば、大丈夫だよ」

 大隈総理は言いますが、行雄は納得しませんた。星を快く思わぬ者は旧進歩党ばかりでなく、旧自由党内にも多くいました。結果、星亨外相は実現しませんでした。こうなると腹の虫がおさまらないのが星です。

「こんな内閣ならつぶしてくれる」

 星亨は倒閣運動を開始しました。悪いことはまだありました。陸相桂太郎と海相西郷従道です。明治天皇がこのふたりを任命することによって隈板内閣は成立したのですが、このふたりは薩長藩閥の内偵者でもありました。特に如才ない桂陸相は、軍人とは思えぬ人当たりのよさで板垣内相に接近し、時に密談したりしました。そんな桂を行雄は苦々しく眺めます。まるで売り子か販売員のように口が軽く、人を籠絡するのが上手い桂を行雄は嫌いました。行雄も生身の人間である以上、好き嫌いがあります。どういうわけか行雄は、桂の軽薄さが気に障って仕方がありません。そういう生の感情に加えて、桂陸相が獅子身中の虫となり、悠々と内閣破壊を画策しているという状況に腸が煮えくりかえったのです。

 一閣僚として隈板内閣の行く末を心配していた行雄ですが、その行雄自身に火の粉がふりかかり、大隈内閣瓦解の火種になってしまいます。事件は八月二十二日に起こりました。帝国教育会茶話会に招かれた行雄は文相として演説を行ないました。聴衆はおよそ五百人、主に教員です。行雄は持論であるところの民権論、教育論、道徳論を開陳しました。この中で行雄は現今の拝金主義的風潮を批判し、警告のために次のような比喩表現を使いました。

「近来世間には、徒に金力を尊んで節義を思わざる者が多い。かくの如くんば、帝国の将来は深く憂慮に堪えない。教育の任に当たる者は、これを矯正せねばならぬ」

 行雄は続けて、拝金主義といわれているアメリカでさえこれほど非道くはないと訴えました。

「米国では、金があるおかげで大統領になった者は一人もない。歴代の米国大統領はむしろ貧乏人の方が多いのである。日本にては共和政治を行なう気遣いはない。たとえ千万年を経るとも共和政治を行なうということはないが、説明の便利のため日本に仮に共和政治ありという夢を見たと仮定せられよ。恐らくは三井、三菱は大統領候補者となるであろう」

 演説会は好評を博し、拍手と共に無事に終わりました。何も問題はないはずでした。しかし、悪意を以て発言を切り取り、悪意を以て解釈し、悪意を以て評すれば、無問題を問題に変えることが出来ます。

 翌日、吏党系の東京日々新聞は尾崎文相の発言を引用し、共和政治の部分に傍点を付けてことさらに強調しました。二十四日、同新聞はコラム欄においてさらに尾崎文相への中傷攻撃を開始しました。

「文相尾崎が未来に共和政体必無を期すべからずと放言せしは不臣極まれり」

 東京日々新聞に追随して京華新聞と中央新聞が尾崎文相批判を開始しました。これら三紙は尾崎行雄文相に共和主義者のレッテルを張り、速記録を改竄した卑怯者と罵り、文相不適格だと書き立て、文相辞任の虚報まで流しました。事実関係の詮索などは無意味でした。要するに攻撃なのです。火のないところに煙を立て、大隈内閣あるいは憲政党内を動揺させるのが目的でした。

 これに対して民党系各紙は尾崎文相に対する同情論を掲載し、中立紙も冷静な評論記事を載せました。行雄自身まったく動揺していませんでした。むしろ意気軒昂といってよい。大隈総理には堂々と言いました。

「非難がある以上、総理大臣の職掌として公然吏員を派出して、いかなることを私が述べたか、その事実を取り調べられたらよかろう。その上でいよいよ不都合なことを言ったとあらば、当然、処分するべきである」

 内閣では書記官を帝国教育会に派遣し、速記録を調べさせました。その結果、「問題なし」という結論になりました。これで終わりになるべきところでしたが、閣内は揺れつづけました。旧自由党系の閣僚と陸海軍大臣は、しつこく尾崎文相の処分を大隈総理に求めつづけたのです。しかし、大隈総理はこれを握りつぶしました。時間とともに問題は沈静化したように見えました。

 憲政党内の軋轢、閣内の不和、藩閥勢力の報道攻撃にもかかわらず、行雄は文部大臣としての仕事を進めました。在野にいる間は大言壮語して与党を批判していた政治家が、いざ要職に就くと急に怖じ気づき、現状維持しかできなくなる例は少なくありません。ですが行雄は持論どおりの政策を打ち出しました。そのひとつは教員の言論を自由化したことです。行雄が文相に就任した時点では、教員の言論を制限する省令、訓令、内達の類が全部でなんと二十二種類もありました。行雄は文相としてこれらを一括して廃止しました。この措置は教育界に歓迎されました。また行雄は教科書選定の仕組みを変えようとしました。各府県の教科書採択審査会を廃止し、それぞれの小学校に採択権を与えようとしたのです。残念ながらこの問題は中道で挫折しました。というのも行雄の在任期間がわずか四ヶ月間に過ぎなかったからです。

 閣内において行雄は板垣退助内相と親しく接していました。閣議が終わるとふたりで談笑しながら帰途に就くのが常でした。

「もう帰ろうじゃありませんか」

 この日も行雄はいつもどおり板垣内相を誘いました。十月二十一日のことです。板垣内相はいつになく落ち着かない様子でした。

「いや、私はこれから参内しなければならぬ」

「それならお先に御免蒙ります」

 そう言って別れました。板垣退助内相は参内し、こともあろうに尾崎文相を弾劾する上奏を行ないました。

「自分と尾崎とは閣内に両立できない」

 これが行雄を辞職へと追込むことになります。この頃、板垣は「仏敵」問題で世論の攻撃を受けていました。従来、監獄の教誨師は仏教僧に限られていたのですが、板垣内相は巣鴨監獄の教誨師にキリスト教徒を初めて採用しました。これに怒った仏教界は「仏敵板垣」の標語を掲げて世論に訴えていたのです。このことを気に病んでいた板垣内相に何者かが入れ知恵をしたのです。

「仏敵問題をもみ消すには共和問題を蒸し返すに限る」

 一方の行雄は安心していました。すでに共和演説問題は沈静化している。まさか親しくしている板垣内相によって弾劾上奏されるとは夢にも思っていません。ですが上奏はなされました。侍従職幹事岩倉具定が尾崎文相の官邸を訪問しました。岩倉は板垣の上奏について経緯を説明し、天皇陛下の思し召しを伝えました。

「先輩たる板垣伯が両立できぬと言う以上、事の如何にかかわらず、後輩たる尾崎が退いて内閣を全うすべきであろう」

 ソワソワした板垣の様子を思い出して行雄は合点のいく思いでした。目の前の岩倉には、叡慮を煩わせた事に対して恐懼する旨を答えたものの、辞職は拒否しました。

「御沙汰とあらばいつでも辞表を捧呈いたします。しかしながら共和演説の罪責を負えとという思し召しならば、私は辞職するよりも、むしろ国法によって処分されることを希望いたします」

 行雄は実に潔い。岩倉は言いました。

「決して共和演説のためではない。ただ先輩たる板垣伯が両立しがたいと上奏されたためである」

 行雄はいつも懐にしている辞表を岩倉に示しました。

「早速先輩のために退くことに致します」

 十月二十二日、行雄は大隈総理に辞表を提出しました。行雄は後任に犬養毅を推薦しましたが、後任人事は紛糾しました。旧自由党と旧進歩党は文相ポストをめぐって互いに一歩も引きません。十月二十六日の閣議は紛糾しました。旧自由党側は星亨の名を挙げて入閣を要請しました。旧進歩党側とて一歩も引きません。いっそのこと憲政党外から人を得ようということになりました。数名の名が挙がったものの、彼奴は自由党寄りだ、此奴は進歩党寄りだという中傷合戦になって決まりません。ついには文部大臣の指名を陸海両大臣に一任してはどうかという意見さえ出ました。これには大隈総理が憤然として反論しました。内閣総理大臣の権力の源泉は閣僚人事権にあります。その人事権を、こともあろうに薩長藩閥政治家に一任するなど政党内閣の自殺に等しい。

「大隈、不肖といえども国務大臣の指名を他に任せることはできない。かくなるうえは自ら文部大臣の後任を選び、陛下に奏薦する」

 大隈総理は席を立ち、その足で参内すると犬養毅を文部大臣に奏薦しました。翌日、犬養毅は文部大臣に親任されました。これに怒った旧自由党は分裂に動きます。組閣直後に板垣が宣言した提携の誓いも、もはや虚しくなりました。特に腹の虫がおさまらないのは星亨です。先には外務大臣の椅子を狙ったものの拒絶され、ふたたび文相の座を逃しました。度重なる屈辱に星は豪腕を振るいました。

 十月二十八日、旧自由党系の総務委員が憲政党解散を提議しました。行雄は旧進歩党の総務委員として当然これを拒否しました。星は間髪入れずに手を打ちます。憲政党の名で旧自由党議員に通知を発し、翌二十九日に神田錦輝館にて臨時協議会を開きました。いざ協議会が始まると、協議会は党大会と変更され、憲政党解散を議し、これを可決してしまいました。次いで新党の綱領と党則を議決しました。あっと言う間の解党と新党結成でした。

 憲政党の解散とともに、旧自由党の板垣内相、松田蔵相、林逓相の三閣僚は辞表を提出しました。辞表は大隈総理にではなく、宮中に持ちこまれました。大隈総理は面目をつぶされましたが、旧進歩党の人材で欠員をうめれば内閣を維持できると考えました。大隈総理は参内してその旨を奏請しました。しかし天皇の御言葉は大隈を追い詰めます。

「内閣の組織は卿と板垣の二名に命じたのであるから、板垣と融和するよう努めよ」

 困った大隈総理に引導を渡したのは西郷従道海相です。ともに辞しましょうと説いたのです。

「卿にして其の職を辞するにおいては、予もまた同じく其の職を辞すべし」

 大隈は遂に総辞職を決意しました。西郷は日頃から大隈に接近し、常に敬い、大隈を支持する姿勢を見せていたのですが、最後の最後にトドメを刺しました。こうして十月三十一日、初の政党内閣である隈板内閣は総辞職しました。わずか四ヶ月の短命でした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ