進歩党
第九議会の終盤、政界に大きな変動が起きました。進歩党の結成です。改進党、革新党、財政革新党、中国進歩党などの民党勢力が結集したのです。衆議院では九十九議席を占め、自由党とほぼ互角の勢力となりました。事実上の党首は大隈重信でしたが、党首は定めず五名の総務委員が合議によって党を運営する体制となりました。尾崎行雄も犬養毅と共にこの五名の総務委員に名を連ねました。
かつては超然主義を唱えていた藩閥政府ですが、この頃になると政党の力を認めざるを得なくなっていました。第二次伊藤内閣は自由党総裁板垣退助を司法相として入閣させ、自由党を与党とすることで議会を乗り切ろうとしていました。いわば帝室内閣制と議院内閣制との混血のような内閣でした。しかし、三国干渉後に第二次伊藤内閣は急速に支持を失い、総辞職に至っていました。次期内閣組閣の大命は薩摩出身の松方正義に降りました。政党を味方につけたい松方正義は大隈重信の入閣を求めます。
「受けるべきか受けざるべきか」
進歩党としては難しいところです。入閣すれば政策実現の好機です。しかし、政府に塩を送ることにもなります。行雄は、大隈の入閣に賛成でしたが、大隈自身は煮え切らない態度でした。
「薩摩のイモ侍を正直者だと思ったら大間違えさ」
薩閥との連携は上手くいかないと予想し、大隈は駄々をこねます。行雄は大隈の我ままに手を焼きましたが、ともかく奔走の甲斐あって何とか第二次松方内閣に大隈を入閣させることができました。松方内閣の成立は九月十九日のことです。この内閣は薩閥と進歩党との連立内閣であり、進歩党からは大隈重信が外務大臣として入閣したほか、高橋健三が内閣書記官、神鞭知常が法制局長官となりました。世間は松隈内閣と呼びました。
松方内閣は進歩党の政策要求を採り入れ、政綱十箇条を閣議決定しました。そのうちの一条は次のとおりです。
「言論出版集会等憲法上人民の享有すべき権利自由は政府厚く之を尊重し、その保障を固からしめんことを計るべし」
この一条が政綱に入っただけでも進歩党が政権に参加した意味があったと行雄は思いました。この政綱十箇条は十月十二日の地方長官会議に伝達されたし、その翌日には樺山資紀内相が次のような訓示をしました。
「公安を害せざる限りはなるべく人民の自由権利を伸張せざるべからず」
進歩党は大いに喜び、各地を遊説しては言論の自由の守られるべきことを約束し、進歩党の成果を強調しました。松隈内閣の初動は順調といってよかったのです。
行雄はといえば、外務省勅任参事官となりました。勅任参事官といえば次官あるいは局長クラスの重要ポストです。ところが藩閥政府も外務官僚も政党から転がり込んできた参事官を好みませんでした。行雄は階段脇の行灯部屋に押し込められ、しかも仕事を与えられませんでした。仕事がないから暇です。行雄は外交文書の閲読に日々を送りました。もともと軍事、外交に関心の強い行雄です。明治の始めから三国干渉に至るまでの外交文書を読み返し、外交交渉の内幕を知ったことは大きな収穫でした。
三国干渉当時のドイツ公使は青木周蔵でした。長州出身の青木は若くしてドイツに留学して医学を学びましたが、後に政治学に転科しました。自他共に認めるドイツ通です。青木周蔵はかつて外務次官として陸奥宗光の上司だったことがあります。ですが、日清戦争当時には地位が転倒し、陸奥外相の訓令を受けるべき立場となっていました。気位の高い青木は、陸奥外相の訓令をともすれば軽視しました。日清戦争の末期、陸奥外相は列国の干渉を恐れ、その動きを探るべく各国公使に繰り返し情勢を尋ねていました。ところが、青木公使はこれをうるさがり、ついに次のように返電しました。
「拙者にして苟もこの地に居る以上、ドイツを日本の反対に立たせるようなことは断じてない。御安心あってしかるべし」
ところが独仏露の三国干渉です。陸奥外相は訓電を通じて青木に嫌味を言いました。
「前電は何の意味なりしや」
窓がひとつもない行雄の行灯部屋を、大隈外相や小村寿太郎外務次官がしばしば訪れました。密談したり、一息入れたりするには格好の場所だったからです。田中正造が来ることもありました。田中は改進党以来の党友です。足尾銅山鉱毒事件で有名な田中正造は、この時代の日本人らしく血性溢るる人格です。その迫力は凄まじく、栃木鎮台あるいは栃鎮先生という綽名がついたほどです。周囲が驚くような大声でしゃべり、しゃべれば相手の悪口が機関銃のように溢れ出ます。しかも腕っぷしが強くて喧嘩っ早い。風貌にも着物にも頓着せず、常にシラミまみれの汚らしい格好をしていました。尾崎と田中が行灯部屋で議論をはじめると、その大声が外務省内に響いたといいます。別に喧嘩をしていたわけでもないのですが、職員たちには口喧嘩にしか聞こえませんでした。
上手くいくかに見えた松隈内閣に亀裂を生んだのは二十六世紀事件です。十月二十五日発行の雑誌「二十六世紀」に「宮内大臣」という論文が掲載されました。その内容は宮内大臣土方久元が伊藤博文の一派と共に不明朗な宮内行政を行なっていることを告発するものでした。十一月九日、新聞日本が同論文を再掲したところから事態が急変します。激怒した長州閥は薩閥の樺山内相に発行禁止処分を求めました。樺山内相は政綱の手前もあり、これを突っぱねました。一方、進歩党は樺山内相に会い、発行禁止処分を実施せぬように何度も念を押しました。
「首が飛んでも発行禁止処分はしない」
樺山内相は手を首に当てて答えました。樺山資紀は日清戦争時の海軍軍令部長です。樺山は最前線の黄海に民間船で乗りこみ連合艦隊を督励した猛将です。そんな樺山を行雄は信用しました。ところが十一月十四日、樺山内相は雑誌「二十六世紀」を発行禁止とし、新聞日本を発行停止とする処分を実行したのです。何も知らない行雄は茨城県内を遊説していました。
「人民の自由権利たる言論集会の自由は必ず守られる」
そう演説しているところに進歩党本部から連絡が入りました。行雄は開いた口がふさがりませんでした。樺山内相は、長州閥と進歩党との板挟みになり、結局、進歩党を棄てたのです。東京に帰った行雄は樺山の食言を責めましたが、樺山は悪びれる様子さえも見せませんた。進歩党は薩閥に対する不信を強め、ついには倒閣に動きます。
十二月二十五日から始まった第十議会に行雄の出番はありませんでした。外務省参事官には答弁の機会などあるはずがない。松隈内閣は組閣から日が浅かったため、前年度とほぼ同じ予算案を提出しました。このため自由党は攻撃材料を失い、比較的平穏に議事が進行していました。樺山内相に一杯食わされた進歩党は新聞紙条例改正案の成立に向けて邁進しました。もはや政綱十箇条も薩閥も信用できない。そこで自由党との連携を図ろうとしました。政府提出の新聞紙条例改正案は発行停止条項を含んでおり、進歩党にとっては不満足な内容のものでした。そこで進歩党は自由党と協力し、政府案を修正して発行停止の全廃を盛り込み、そのうえで新聞紙条例改正案を通過させました。
もはや進歩党と薩閥の連立は事実上の破綻です。行雄も倒閣運動に動きました。やがて外務参事官でありながら倒閣運動に参加したことが政府内で問題となり、懲戒免職となりました。
「辞表を出せ。そうすれば再任官できるぞ」
忠告してくれる人もありましたが、もともと官職に未練のない行雄は辞表を出しませんでした。それでもまだ大隈外相、高橋内閣書記官、神鞭法制局長官らは閣内に残り、進歩党の政策を実行するよう松方総理に要請しつづけました。弊制の刷新、非立憲的行為の厳禁などがその内容でしたが、松方総理は言を左右にしてはぐらかし続けました。
「松方公は夜寝ている間にひっくり返る」
そんな悪口が進歩党内に広がりました。ついに高橋、神鞭の両名も匙を投げます。行雄は大隈に会い、辞表を提出するよう依頼しました。そのとき、大隈は言いました。
「どうだ判ったか」
大隈はニヤニヤしながら言います。大隈には、こうなることが予想できていたのです。薩摩人はときに大嘘をつくのです。十一月六日、大隈は辞表を提出しました。進歩党と決裂した松方内閣は自由党との提携を図りましたがうまくゆかず、せっぱ詰まったまま第十一議会に臨まざるを得ませんでした。明治三十年十二月二十五日の本会議において、進歩党や自由党などからなる民党勢は内閣不信任の緊急動議を提出しました。その説明演説が行なわれようとした時、解散の詔勅が下りました。
衆議院を解散したものの、総選挙後の展望を持つことのできなかった松方総理は同日中に辞表を提出し、内閣を総辞職しました。憲政史上、解散と総辞職が同時に行なわれた唯一の例となりました。
政党の政治力が増すことは行雄にとっては悦ばしいことでしたが、藩閥政治家にとってこれほど厄介なことはありませんでした。
(議会さえなければ、憲法さえなければ)
藩閥政治家はそう思っていました。議会対策に苦しんでいた松方正義総理は、しばしば明治天皇に向かって愚痴をこぼしました。どうして議会や憲法などという面倒なものをつくったのか、というのです。松方にしてみれば、薩長専制時代が懐かしかったに違いありません。
薩摩出身の松方には木訥なところがあり、そういう松方の性格に明治天皇はおかしみを感じておられたようです。松方はその生涯で十五人もの男女をもうけた子沢山でした。
「松方、子供は幾人あるか」
ある日、明治天皇が松方にお尋ねになりました。松方はいかにも律儀な田舎者のような風情で指を折って数える仕種をし、やがて顔を上げました。
「いずれ取調べまして、奏上いたします」
生真面目な顔で松方は答えました。薩人らしいユーモアです。これがよほど面白かったらしく、明治天皇は会う度に松方に子供の数を尋ねるようになりました。松方の返事は決まっていました。
「取調べました上で申し上げます」
そんな松方正義も議会対策には頭を悩ませ続け、明治天皇に苦衷を訴え続けました。藩閥政治家にとって憲法と議会がいかに厄介だったか、こんな逸話があります。
明治三十年四月十日のことです。拝謁にきた佐々木高行に明治天皇が松方の話題を持ち出しました。
「松方はそうとうに弱っているよ」
佐々木高行は土佐藩出身の志士あがりで、土佐の三伯として板垣退助、後藤象二郎と並び称され、枢密院顧問官と皇典研究所所長を兼務しています。明治天皇は佐々木に言いました。
「松方は党人に困って、つくづく憲法政治は難しいものだと言っていたよ」
民党の横暴に腹を立てていた佐々木高行は常日頃の存念のまま遠慮ない意見を申し上げました。
「そもそも我が国の憲法は特殊の国体に淵源したる欽定憲法であり、欧米の憲法とは異なります。欧米流の議院政治などに顧慮する必要はございますまい。もし議院が欽定憲法の趣意を遵奉せず、議院政治を目指して喧囂するようであるなら、機を見て断然、憲法政治を廃止されたらよろしゅうございましょう」
これを聞いた明治天皇は容儀を改められて、佐々木をおたしなめになりました。
「朕はただ憲法政治は難しいことだと申したのであって、今日これを廃止すると申したのではない。また今後とも廃止という考えはない。憲法政治は難しい、と申したまでだ」