三国干渉
明治二十七年七月二十五日、豊島沖海戦によって日清戦争が始まりました。日清両軍はまず朝鮮半島内で衝突しました。成歓、牙山、元山、平壌で清国軍を破った第一軍は鴨緑江を渡河し、遼東平原の制圧を目指しました。遼東半島に敵前上陸した第二軍は、大連に続いて旅順要塞を攻略しました。九月、連合艦隊は黄海海戦で清国北洋艦隊に勝利し、その残存艦隊を威海衛に封じ込めました。遼東半島全域を支配下においた陸軍は山東半島に進出し、その要地である威海衛を攻略しました。清国北洋艦隊は陸上から攻められ、やむなく降伏し、提督丁汝昌は自決しました。制海権が完全に日本のものになると、日本軍は台湾の澎湖諸島へ兵を送りました。これが開戦後ほぼ八ヶ月間の経過です。
戦捷が奉じられる毎に国内は熱狂しました。日本軍の意外な強さに日本人自身が驚いたのです。日本政府と帝国議会の激しい対立を知っていた清国政府は、日本がまさか開戦に踏みきるとは思っていなかったようです。日本軍の強さを見せつけられた朝鮮政府内では日本寄りの開化党が勢力を得ました。列強諸国も驚きました。その驚きは日本軍の意外な強さに対してであり、また、清国軍の弱さに対して向けられました。
驚かなかったのは尾崎行雄です。行雄は既に十年前から「清国伐つべし」という独自の対清論を唱えていました。行雄の説に耳を貸す者はほとんど居らず、時に狂人扱いさえされました。しかし、今、行雄の持論の正当性が証明されたのです。
「大いに愉快であった」
行雄は自伝に書いています。千数百年間にわたって「師の国」であり続けた支那を、日本人は相変わらず尊敬し、畏怖していました。だからこそ行雄の説は人々の理解を得られなかったのです。しかし、日本陸海軍は清国軍を相手に連戦連勝を続けています。この事実は、十年来の行雄の持論が正しかったことを証明しました。行雄の筆鋒は勢いづきました。
「積屍以て渤海を埋むるも、なお北京を陥れざるべからず」
北京を陥落させて清朝を打倒し、さらに四百余州を征服せよと行雄は論じました。古来、支那には国家がなく、朝廷があるのみです。例えばモンゴル族が支那大陸を征服して元朝を建てれば、支那人はその支配に甘んじ、女真族が清朝を建てれば支那人はそれに服してきたのです。したがって、北京を陥落させれば清朝は倒れるでしょう。支配者を失った支那大陸は混乱し、列強諸国の草刈場と化す。しかし、欧米諸国の本国は遠く、動員可能兵力はごく限られています。日本だけが支那に近い。
「十倍の速力を以て、十倍近い所へ、十倍の兵隊を出すことが出来る」
だから支那を制圧することは可能だと行雄は書きました。そして、かつてモンゴル族や女真族がそうしたように日本が支那を支配せよと書きます。
「四百余州愛新覚羅氏の天下を取って、之を我が皇帝陛下の主権の下に置くというのが日本の天職である。日本が天に対して尽くすべき義務である」
清朝下の支那にはまだナショナリズムが育っていませんでしたから、行雄の支那征伐論は必ずしも空論ではなかったかも知れません。が、あまりに気宇壮大に過ぎたといえるでしょう。行雄の対清論は、まさに国権論者のそれです。行雄は民権論者であり、憲政主義者であり、議会主義者であると同時に、国権論者でもありました。此等の論や主義は何ら矛盾し合わずに行雄の精神に収っています。
日清戦争中、帝国議会は全面的に政府に協賛しました。まさに挙国一致です。戦時下の九月一日に第四回総選挙が行なわれると、十月十八日に第七議会が開かれました。場所は広島です。広島には兵站基地の宇品港があります。天皇陛下をはじめ大本営、帝国議会といった国家中枢が広島に移動していたのです。二日後には一億五千万円もの軍事予算が満場一致で可決されました。この頃の国家予算二ヶ年分です。その翌日、議会は閉会となりました。
第八議会が始まったのは十二月二十四日です。遼東半島の平定は概ね完了していました。いまだ戦時下ではありましたが、東京に戻って通常どおりに議案が審議されました。年明けの一月二十三日、行雄は久しぶりに本会議場の演壇に登り、予算案に賛成の意見を述べました。戦争遂行中の政府に協賛するというのがその主意です。
「政府を信任するとせざるとを問わず、この際に当たっては事の大小緩急を計って、なるべく政府に自由を与えたいと云うのが目的で、是を賛成を致して政府をして内に顧みて困るという心配せしむるということをなからしむるが目的であります」
詳細に見れば予算案中にいくつもの不満がありました。しかし、外戦中のことでもあり、行雄は舌鋒を弛めました。二月二十二日、行雄は本会議場で伊藤博文総理の演説を聞いていました。朝鮮政府に三百万円を貸与するという予算案について、伊藤総理はその理由を説明しました。朝鮮政府は国内における農民の反乱と不作によってひどく疲弊していました。これを助けることによって朝鮮に対する影響力を強めるという狙いがありました。伊藤総理の説明に対して長谷川純孝議院が質問し、数回の応酬がありました。
その予算案自体に行雄は賛成でした。ただ伊藤総理の答弁中に気になる文言がありました。行雄は速記録によってその文言を確認すると、翌二十三日の本会議で質問しました。行雄が問題にした伊藤総理の発言は次の部分です。
「いやしくも私は今日は至尊を代表して、この席に臨んでこの日本帝国の安危存亡に関する大事を担任して居る」
果たして伊藤総理は「至尊を代表」しているのか。「至尊の政府を代表して」と言うべきではないのか。このあたりの法文解釈の厳密さは行雄の特長です。立憲主義なのです。この日、伊藤総理自身は出席して居らず、代わって法制局長官末松謙澄が答弁しました。行雄は末松の答弁に納得せず、さらに丁寧な説明を政府に要求しました。政府からの回答があったのは三月二日です。伊藤総理はすでに日清講和会議のため下関に行っていました。司法大臣芳川顕正が登壇し釈明します。伊藤総理は答弁の際「政府」という言葉を言い飛ばしたので、「至尊を代表し」を「至尊の政府を代表し」に修正するといいます。行雄は納得しました。
行雄は三月二十三日にも登壇し、議会における決算の扱い方について重要な演説を行ないました。第八議会には明治二十五年度歳入歳出決算が提出されていました。衆議院が決算を扱うのはこれが最初です。決算を単なる報告あるいは参考書として扱うべきか、それとも議案として扱うべきかが問題となりました。要するに憲法第七十二条をいかに解釈するかの問題です。
「国家の歳出歳入の決算は会計検査院之を検査確定し、政府はその検査報告とともに之を帝国議会に提出すべし」
自由党の井上甚之助議員は、決算は議案ではないと主張しました。なぜなら既に会計検査院が検査をして、決算を確定しているからです。
「決算は議会を待たないで既に成就したるものである」
したがって決算は報告であり、議題とする必要はないと井上は主張しました。これに対して行雄は反論します。
「則ち一種の議案と見るべきものである」
決算は議案として扱うべきだと主張しました。憲法第七十二条には「帝国議会に総決算を提出すべし」とある。議会に提出するということは、それはとりもなおさず議案にほかなりません。報告書や参考書は何らかの議案に添付されるべきものです。憲法条文中にに「提出」とある以上、これは議案として扱わねばならぬというのが行雄の主張でした。
「宜しいなれば是認して政府の責任を解除してやらなければならぬ、悪ければ否認してその責に任ぜしめなければならぬ」
種々の議論の後、採決が取られ、行雄の主張どおり決算は議案として扱われるべきことが決められました。この日、第八議会は閉会しました。すでに下関では日清講和会談が始まっています。大本営は北京を目指して直隷決戦を構想していましたが、政府は講和に踏み切りました。日清両国は三月三十日に休戦条約に調印し、具体的な講和条件の交渉に入りました。伊藤総理も陸奥外相も列強諸国の動向に気を配りながらの講和交渉です。列国は東洋の情勢次第では干渉する気配を見せており、直接的に日本政府に対して講和条件の提示を要求してきたりしていたのです。
第八議会を終えた政党各派の領袖らは、下関の交渉が心配で仕方がありません。居ても立ってもおられず、ともかく政府を後援し、鞭撻すべく下関に集まりました。行雄もその中にいましたが、政府の対応は全く冷淡でした。議員らは憤慨しました。政府が後顧の憂いなく戦い、対外交渉を続けていられるのは、民党六派が政争を避け、挙国一致の方針をとったからこそである。話くらい聞いてくれてもよかろうに、政府は一切無視するのです。
政府は四月十七日に講和条約の調印にこぎつけました。安堵したのも束の間、露仏独の三国が遼東半島の返還を勧告してきました。四月二十三日のことです。対応を迫られた政府は、翌日の御前会議において列国会議の開催を決めようとしました。露仏独に英米伊なども加えた国際会議を開催し、列国間の均衡を図り、干渉問題を解決しようと考えたのです。ただ、外相陸奥宗光だけは反対しました。
「国際会議などを開けば日本の権益などは無視され、列強諸国は支那を分け取りにするに違いない」
清国との戦争によって日本が勝ち取った権益は、すべて列強によって横取りされるおそれが多分にありました。結局、御前会議の決定はひっくり返ります。五月四日、日本政府は三国干渉の受容を閣議決定し、その翌日には遼東半島を清国に返還すると声明しました。陸奥外相にしてみれば苦渋の選択です。問題を長期化させて列強の容喙を招くよりは、思いきって遼東半島を手放し、一気に事態の収束を図る方が得策であると考えたのです。
「何人をして、その局に当らしむるも、三国の干渉に対しては、伊藤内閣の為せるが如く、遼東還付を約諾するほか、他に策の出べきなし」
当時もそして今日も、そのように評されている三国干渉ですが、国内世論は沸騰しました。行雄も収めていた矛を抜き、容赦ない政府批判を再開しました。「三国干渉論」などの論文を発表し、他策なしとする政府を論破したのです。世論の激昂に対し、政府は言論統制によってこれに応じました。行雄の論文「責任派の三国干渉策」は発禁となり、ようやく発表できたのは三年後でした。
「千古無双の大屈辱」
と行雄は書いています。そもそも北京を陥落させよと主張していた行雄です。講和そのものに不満がありました。況んや遼東還付をや、です。陸海軍将兵の流血伏屍によって領略した要地をなぜ唯々諾々と返還せねばならないのか。そもそも列強諸国の提携離反は常のないことであって、互いに仇敵視しあっている露独仏の提携などは簡単に崩せるはずだ、と行雄は主張したのです。要するに断わればよかった。断乎として拒否すれば三国は離間する。それが行雄の観測でした。その程度のことが解らぬ外務省が無能に思えました。
「然るに我が外交当局者は、干渉の来たるや、錯愕狼狽の極、外交上普通の抗議すら試みずして、忽ち之に屈従したり」
外務省は露仏独の同盟を察知することが出来ず、三国の同盟を防止することも出来ず、三国同盟に対抗するための反対同盟を形成することも出来ませんでした。これは外交上の大失敗であると行雄は論じたのです。
しかし、外務省は出来る限りの対応をしていました。列強諸国の動向に神経をとがらせ、三国干渉後には英米に同盟を打診するなど可能な手は打っていました。しかし、藩閥政府は極端な秘密主義をとっており、議会には何も知らせなかったのです。そうである以上、行雄としては政府を無能と断ずる以外になかったのです。
「不義の要求は、勝算なきもなお之を拒絶せざるべからず」
行雄の論は血性に富んでいます。たとえ日本が三国干渉を拒否しても独仏が実力に訴える事はない。何しろ極東は本国から遠い。大兵力を極東にまわす余裕はない。露国とて単独で実力行使に出るとは思えない。ありうることは露清の同盟であるが、清国軍の弱体が明白である以上、露国単独の軍事行動と同じことであり、結局、露国は実力行使には出ないであろう。そのように行雄は事態をみていました。
さらに行雄は、三国干渉が朝鮮政府に悪影響を与えることを憂慮しました。清国に勝利した日本を見て、朝鮮政府内では日本を頼ろうとする開化党が勢力を得つつありました。しかし、その日本がたやすく三国干渉に屈服した以上、事大主義の朝鮮政府は露国への依頼心を増すに違いないのです。露国は清国以上の脅威です。朝鮮半島が露国の支配下に置かれれば、日本の独立そのものが危うくなります。
行雄の観測はあるいは正しかったかも知れません。少なくとも、その後の朝鮮半島情勢は行雄の心配したとおりになります。三国干渉を峻拒しておけば、必ずしも利害の一致しない露独仏はおそらく離間したかもしれません。しかし、それはあくまでも観測であり、予想に過ぎないのです。伊藤総理と陸奥外相は、行雄の何倍も慎重であったといえます。
第九議会は年末の十二月二十八日にようやく始まりました。本格的な議論は年明けの一月八日からでした。対外硬の立場から民党六派は、政府の責任を追及する上奏案を上程しました。
「然るに閣臣心を外交に用ふること切ならず、ただに戦勝の利を完くする能はざるのみならず併せて国家の体面を汚すに至れり」
三国干渉とともに非難の的となったのは乙未事件である。当時、朝鮮政府は激しく動揺していました。朝鮮国王は高宗でしたが、その実父である大院君は、国妃の閔氏と激しく対立していました。日清戦争で日本が優勢になると、朝鮮政府内では日本寄りの開化党が勢力を占め、大院君を復権させて閔氏勢力を排除しました。ところが三国干渉が起こると閔氏一族はロシアの力をかりてクーデターを決行し、政権を奪取しました。七月のことです。公使の三浦梧郎は大院君の復権と閔氏排除を画策し、十月十八日にクーデターを決行しました。これが乙未事件です。閔妃は殺害されましたが、クーデターそのものは失敗し、三浦公使の責任が問われることになりました。
明治二十九年一月九日、行雄は上奏案の説明演説に立ちました。日清政争に際して、議会も世論も政府を助け、まさに挙国一致の後援を行ないましたが、にもかかわらず政府は失策を重ねた、と行雄は非難します。
「あるいは遼東に失敗を致し、あるいは朝鮮において失敗を致し、その他内外諸般の機務に失策陸続踵を接した」
ひとつは臨時議会を開かなかったことです。昨夏、行雄は臨時議会を開くように再三督促しましたが、政府は聞きませんでした。
「閣臣はこれに応ぜざるのみならず、恬然としてこれを冷笑の下に附し去り、かえって己の責任を免れんとするに至っては、実に慨嘆を致さなければならぬ」
続いて行雄は、帝室の威信を政府が傷つけたと訴えました。下関講和条約が調印され批准されると、「清国と講和後に関する詔勅」が渙発されました。この中には遼東と台湾の割譲、戦勝償金などの事が明記されています。ところが三国干渉が起きたため、政府は先の詔勅と矛盾する内容の「遼東半島還附の詔勅」を奏請せざるを得ませんでした。行雄はこれを「綸言反覆の詔」と表現しました。綸言とは天子の御言葉、反覆とはひっくり返ることです。三国干渉に関する行雄の政府批判は辛辣です。
「古来何れの戦と雖も、これを開くに当たっては、先ず中立国を如何に処置するかという成算なくして、突然と開戦を致すというが如きは、国としてなした例はない」
ところが日本政府は中立国の動向を等閑視していたために、干渉を惹起したと行雄は主張します。さらに行雄は、干渉の前後における政府の態度を皮肉まじりに描写します。
「未だ干渉の来たらざるや、意気揚々として、傲然たる言語を吐き、置酒高会しては大風の歌を謡い、ほとんど眼中人なしと言わぬばかりの挙動をなし」
その態度は干渉によって豹変します。
「一朝干渉の来たるや何等の策もなく、干渉を予防することも出来ず、又既に成れるの後これを打破することもなさず、又同盟を以て同盟に当たるの術も講ぜず、又義によって断然之を拒絶し、わが日本人民の本来の性質を全うすることも出来ず」
要するに政府は無能であり、無能であるがために遼東還付という屈辱を受けたというのです。行雄の憤慨はまだ続きます。というのも政府はこの屈辱を隠蔽しようとしたからです。
「千古未曾有の大屈辱を受けたる後に内閣諸大臣の為したる挙動は如何である。彼は敵愾心を圧伏するがために言論を抑圧し、彼は屈辱の屈辱たるを知らしめざるがために頻りに全国に号令をして祝宴を開かせ、平和の祝宴、戦勝の祝宴、戸毎に旗を立て、人ごとに酒を飲み、平素咎むるところの醜態すら許して、苟もこの平和なることを喜ぶ」
行雄は政府の不正直を責め続けます。行雄の演説は三時間にも及び、世間からは大雄弁と評されました。しかしながら上奏案は否決されます。この頃、自由党は完全に政府与党と化していたからです。
この後、行雄は第九議会の予算委員会において陸海軍予算の審議に当たったほか、二月三日の本会議において陸奥外相の俸給を減額すべしと訴えました。陸奥宗光外相は肺結核に冒されながら日清講和交渉と三国干渉への対応を成し遂げたましが、遂に力尽き、昨年六月以来病床に伏しています。重病の陸奥に対してさえ行雄は手厳しい。
「我が外務大臣は出勤もせずして大磯に寝ている。凡そ十有余ヶ月、一日も外務省に出勤したことはない」
さらに行雄は三国干渉時の不手際を責め、外務省の弱腰をなじります。
「一人大臣が出勤せざるのみならず、外務省はほとんど休業という有り様で、何をして居るのやら本員等一向わからぬのである。たまたま店を開いて働くこともありますけれども、その働くときは、外国に対して低頭平身するときには開業いたします」
こんな事例を行雄は引きます。江戸期以来、日本ではロシアを「魯西亜」と表記していました。新聞雑誌はすべて「魯西亜」でした。しかし露国政府から外務省に苦情が来ました。
「魯西亜の魯は魯鈍の魯である」
外務省は全国に触れを出して「露西亜」と表記するように改めさせました。明治十年のことです。一方的に責められるばかりで、少しも主張しない外務省を行雄は嘆きます。
「伸ぶべき権利を伸べずして、誤りでも致すときには、謝らぬでも宜しいところに謝る。進んで詰責すべき事をも詰責せずして、他人から一言かけられればその事の当否はおいて、さしあたり先ず御託を致しておく」
行雄を含め対外硬派は強気でしたが、明治政府は一貫して慎重でした。この後、陸奥外相は五月に辞任、伊藤内閣も八月に総辞職しました。