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離合向背

 第一議会以来の民党の一貫した議会戦略だった予算削減は、詔勅によって潰えました。しかも自由党は第四議会の後半から政府側に接近し、準与党的態度を明らかにしました。議会の勢力図は大きく変化しました。このため改進党としては新しい議会戦略と党派形勢が必要となりました。そこで浮上してきたのが條約改正問題です。

 維新以来、不平等条約の改正は日本政府の懸案であり続けていますが、全く進展していません。当時の日本政府は対外的に穏健であり、むしろ弱腰でさえありました。こうした政府の姿勢に不満を抱き、強硬な外交姿勢を主張する意見は在野に多くありました。対外的な強硬姿勢のことを対外硬といいます。民権論者にして対外硬を主張する者は多く、尾崎行雄もその一人です。そして、対外硬論者は吏党、民党の別なく存在しています。こうした政治状況の中から生まれたのが硬六派です。改進党もこれに加わりました。硬六派の中には国民協会もあります。国民協会の副会頭は、未曾有の選挙干渉を主導した品川弥二郎でした。それが今や政府及び自由党に対する包囲網に参加しようとしています。

「政治上の離合集散は、変化出没窮まりなき筈のものなり」

 かつてそう論評したことのある行雄ではありましたが、抵抗感を否めません。とはいえ私情は胸中にとどめねばなりませんでした。行雄は硬六派の形成に賛成しました。

 硬六派は協力して対外硬政策で政府を追い詰めることで合意しました。具体的には條約励行、自主外交、対清強硬です。このうち條約励行とは、現状の不平等条約をむしろ厳密に励行せよという、やや意外な主張です。なぜ励行するかといえば、不平等条約の條文中にはむしろ列強諸国にとって不利になるものが含まれていたからです。たとえば内地雑居の問題です。條約によれば外国人は居留地から出てはならないことになっています。もしこれを厳守せしめれば外国人の経済活動等が制限され、著しい不利益を強いることになります。あえて列強諸国に不利益を被らせ、反省を促した上で不平等條約の改正を勝ちとろうというのが対外硬派の主張です。野党であるという気安さもあり、硬六派は威勢がよかったのです。

 震え上がったのは藩閥政府です。そんな無謀なことをすれば列強諸国がどんな報復をしてくるか知れたものではありません。何しろ不平等條約には日本側に不利益な條項がふんだんに盛り込まれているのです。政府は内外両面から板挟みにあっているようなものでした。

 明治二十六年十一月二十八日、第五議会が始まりました。翌日の衆議院本会議の冒頭、大日本協会の安部井磐根が星亨議長に対する不信任動議を提出しました。自由党に対する硬六派の攻勢が始まったのです。緊急動議案は言います。

「衆議院は議長星亨君に信任を置く能わず、同君の議長の地位にあるを欲せざるが故に同君自ら処決せられんことを望む」

 不信任動議を出された星亨は不本意ながら退席せざるを得ませんでした。退席する直前、星は言い残します。

「衆議院議長の星亨に対して信任問題があるということでございます。しかしてそのことは星亨においては不当なりと認めるのである。またそれが如何に決したところが、こちらは守る責任はないと考える」

 後にこの発言が問題となります。星議長が退席し、副議長の楠本正隆が議長席に着くと、議事が再開されました。安部井磐根や神鞭知常らは星亨の不品行と不徳義をあげつらい、緊急動議の理由を説明しました。

「彼の朝野政商と待合茶屋にて密会したるが如きは、わが衆議院の対面と栄誉を汚損したるものである」

 星に明らかな罪状があるわけでも、その証拠があるわけでもありません。新聞に掲載された根拠曖昧な醜聞を元にして、その不道徳を責めているだけです。週刊誌を国会審議のネタにする今どきの国会議員と変わりません。党派抗争の手段は今も昔も醜聞による中傷です。

 英国で弁護士資格を取得した星亨は、帰国後、弁護士活動によって財を成しました。「バリスター星」と呼ばれました。星は自由党の再結成に参加すると、その財産を惜しげもなく政治活動に投入し、自身の派閥を形成し、自由党内で重きを為すに至りました。第三議会からは衆議院議長を務めています。星は交友関係が広く、金遣いも派手で、性格的には剣呑なところがあり、容貌魁偉でもありました。そのために悪い噂には事欠かず、星の醜聞は新聞紙面を賑わしていました。そんな星は、硬六派にとって格好の標的だったのです。星は運が悪かったといえます。政治世界では往々にしてこうした不条理が横行します。

 賛否両論の議論の後、決が採られ、安部井磐根の緊急動議は可決されました。ところが星亨は堂々と議長席に戻ってきました。

「議長は内にやましいことがございませぬから、せっかく諸君の勧告でございますけれども、受けることはお断り申します」

 法律家の星にしてみれば当然でした。何等の法的根拠もない醜聞に立脚した勧告動議に従う道理はないのです。翌日も星亨は当たり前のように本会議場に現われました。すかさず中村弥六が休会の緊急動議を提出しました。休会の理由は言うまでもなく、不信任を突きつけられた星亨が議長を続けることへの抗議です。この日も賛否の議論があり、採決の結果、動議は可決され休会となりました。

 その翌日、十二月一日、本会議に上奏案が提出されました。星亨を弾劾する内容です。

「本院は衆議院議長星亨に信任を措く能わず。故にその職に在るを欲せずと決議す」

 この上奏案は可決されました。裁決後、議長席に戻った星は議場に抗議の意を表明しました。

「諸君の為され方が憲法的の動作に合わないと私は考えて居ります。しかして悪例をわが憲法歴史に残すの嫌いなしと・・・」

 ここで本会議場は怒号とヤジに包まれました。ヤジが止むと再び星は声をあげ、上奏案が可決になった以上、謹慎の意を表するために数日間は議事一切を副議長に任せると宣言し、閉会しました。

 翌日、上奏に対する御沙汰が下った旨、楠本副議長が議会に報告しました。

「上奏の主旨は朕に議長を更迭せよと請願するに在る乎。議員自ら不明なりとの過失を朕に対し謝するというに止まる乎。更に院議を尽くせ」

 この聖旨を受け、衆議院は星亨の処分を懲罰委員会で審議することに決しました。その理由は十二月二十九日の星の発言であす。

「それが如何に決したところが、こちらは守る責任はないと考える」

 この星の発言が、議院の体面を汚すべき所行とされました。懲罰委員会は、一週間の出席停止処分を星に課すことに決めました。このことが十二月五日の本会議で報告された時、誰もが思いました。

「星はもう戻らないだろう」

 ところが星亨は、処分の明けた十二月十二日の本会議場に現われ、何事もなかったかのように議長として議事を進行し始めました。星にしてみれば一週間の出席停止が終わったのだから出て当然と思ったに過ぎません。法律どおりの行動です。ところが硬六派は納得しません。緊急動議を提出し、星を再び懲罰委員会にかけようとしました。

「衆議院議員星亨君本日議長席に就き、その職務を行なうは院議を軽蔑し、その体面を汚したるものなり。依って議院法第九十四条の規定により懲罰委員に付せんことを請求す」

 出席停止処分が終わったにもかかわらず、処分の明けた後にさえ星議長の出席を非難するこの決議案は、理に薄く、情に流れたものです。ですが、この動議は起立多数により可決されてしまいました。星の敵は硬六派だけでなく、自由党内にもいました。星の傍若無人な態度に反発を感じる自由党員が多かったのです。星は議長席を楠本副議長に譲って去りました。この後、星亨は除名処分となり、議員籍を剥奪されてしまいます。

 第五議会では星亨の他、農商務大臣後藤象二郎も弾劾され辞職を余儀なくされました。官紀粛振がその理由でしたが、その根拠といえば新聞記事や噂話でしかありませんでした。いかに政争とはいえ、これらの議論には何の生産性もありません。

 それでも星と後藤の首を獲り、硬六派の意気は挙がりました。十二月十九日には現行條約励行建議案を提出し、いよいよ條約励行を政府に迫ろうとしました。が、安部井磐根が建議理由の説明演説をしていたところ、詔勅が伝達され十日間の停会となりました。停会明けの二十九日、同建議案が議題となりました。陸奥宗光外相は演壇に立って安政年間以来の外交情勢を説き、建議案の非を鳴らしました。

「これを締結したる時代と今日とにおいては内外の時勢大いに変換し、また我邦の進歩は著しく変換したるが故に、明らかに條約の條文に違背せざる限りは弛張操縦その宜しきを得て、内外臣民の利便を図るが外交上必要の得策と信ずるのである」

 陸奥外相の説明は周到かつ現実的なものでした。

「現行條約なるものは、一方に偏する條約であるものを、矢鱈千万に励行をしたところで外国人に何ほどの不自由を感ずることがあるか。たとえ多少の不自由を感ずることがあるとしても、それがために外国政府より條約改正を促し来たるなどという想像はつかぬのである。條約改正の目的を達せんとするには畢竟、我国の進歩、我国の開化が真に亜細亜洲中の特例なる文明強力の国であるという実証を外国に知らしむるにあり」

 陸奥外相は「諸君の反省を求むるのである」という言葉で演説を締めくくり、退場しました。その後も議論は続きましたが、間もなくして十四日間の停会を命ずる詔勅が伝達されました。さらに翌日には議会解散の詔勅が下ります。

 この頃、外務省は日英通商航海条約の改正によって治外法権だけでも廃止しようと秘かに交渉を進めていました。條約励行が議会で議論されているというだけでも英国に警戒感を与え、交渉が破裂するかもしれません。政府としては解散して議論そのものを封じるしか手がなかったのです。結局、第五議会は本質的な議論の無いままに終わりました。尾崎行雄は一言の発言さえできませんでした。

 第三回総選挙は明治二十七年三月一日に行なわれました。前回選挙とは異なり、大がかりな選挙干渉もなく比較的に平穏でした。しかし、平穏といっても死者が出なかったという程度のことです。あいかわらず壮士が横行し、賄賂や脅迫が蔓延しました。政府は選挙法の励行を疾呼してはいましたが、現場の巡査は準与党的態度をとる自由党に甘く、政府攻撃をする硬六派に厳しい態度をとりました。演説の中止、集会の解散、運動員の拘引などで硬六派の選挙運動はかなり妨害されました。行雄も苦戦しました。

「私は今日まで何十回の選挙を経験したが、ほんとに苦しいと思ったのはこの時であった」

 後に自伝に書いたほどです。なぜ苦戦したかといえば、同じ選挙区から自由党の門野幾之進が立候補したからです。門野は地元の名家出身です。そのうえ慶應義塾では行雄の先生でした。行雄がどんなに意地の悪い質問をぶつけても、よどみなくスラスラと答えたのが門野でした。

「門野は尾崎の恩師である」

 このように宣伝して門野陣営は票の獲得を図りました。状勢は行雄にとって非常に不利でした。ところが行雄の不思議さは、状勢が有利であれ不利であれ、一向構わずに自己の主義主張や言動を堅持できることでした。状勢に頓着せず、行雄は選挙活動を続けました。

「左甚五郎の師匠を知る者は居まい。弟子は師匠を越えるのだ」

 そんな理屈を言い続け、それでなんとか勝ってしまいました。この選挙で改進党は四十八議席を得ました。硬六派全体では百三十議席を獲得し、民党六派と名乗りを変えて来たるべき第六議会を待ちました。対する吏党側は、準与党の自由党が百十九議席を得、これに無所属議員二十名ほどが加わっています。与野党ほぼ伯仲といってよい情勢です。ちなみに除名処分を受けた星亨は当選を果たし、議会に復帰しました。

 五月十五日に第六議会が始まると、民党六派は條約励行を政府に迫ろうとしました。さっそく十七日に上奏案を提出しました。本会議場では提出者による説明演説、それに対する反対演説が行なわれました。行雄も登壇し、この上奏案に自由党が反対するのは矛盾だと訴え、伊藤博文総理を皮肉りました。

「伊藤伯が内閣を組織して以来、事々物々につき天皇陛下を担ぎ出して袞龍(こんりょう)の御袖に隠るるということは天下著名の事実である。これを打ち捨ておきますれば、帝室の尊厳を維持するということは到底出来ない。故に我々はこれを咎むる。自由党は何故に伊藤内閣が袞龍の御袖に隠るるのを非難するこの上奏案に反対するか」

 袞龍(こんりょう)とは、天子の礼服につける龍の縫い取りのことです。その御袖に隠れるとは、天子の権威にすがって勝手放題をするというほどの意味です。

「伊藤伯は、己の力では軍艦製造を致すことが出来ぬ為に、詔を籍り来たってこれを成し遂げ、己の力では官吏の俸給の一小部ですらも減らすことができぬために、また詔を籍り来たってこれを減ず、即ち彼は大臣の国に尽くすべき仕事は一もなし得ずして、総て詔を籍って漸く成し遂げた」

 第五議会の伊藤内閣は、予算確保も行政整理も議会解散も、何から何まで詔勅に頼りました。行雄はそれを皮肉ったのです。伊藤総理に対する嫌味としては見事なほどの出来映えです。しかしこの上奏案は僅差で否決されました。その後、自由党から別の上奏案が提案されました。その内容は当たり障りのないものでしたが、民党六派は得たりとばかりに同案の修正を要求し、内閣弾劾の文言を盛り込みました。採決の結果、この修正した上奏案が可決しました。

「之を以って臣等、閣臣に信を置く能わざるなり」

 明らかに内閣不信任を表明しています。あわてたのは政府です。六月二日に詔勅を得、衆議院を解散してしまいました。ほんの三ヶ月前に総選挙が行なわれたばかりなのにです。行雄はこれを「重複解散」と称し、不当解散として非難しました。一方、政府は何としてでも條約励行を封じ込めたかったのです。議会を解散したほか、言論統制によって総ての新聞雑誌から條約改正の四字を消し去り、條約改正を議題とする集会会議を禁止しました。民権論者である行雄の持論は、外交交渉といえども民意を背景にしなければ実効が挙がらないというものです。これに対して藩閥政府はあくまでも秘密主義であり、民意に信頼するところは全くありませんでした。


 同じ頃、朝鮮半島内では東学党の乱と呼ばれる農民の反乱が起こり、騒乱が全土に蔓延していました。李氏朝鮮政府は五百年もの永い歳月を経た老朽政権であり、すでに内政統治の能力を失っていました。大国依存だけが朝鮮政府の基本政策であり、その依存先によって清国派、ロシア派、日本派に政治勢力が分裂していました。各派の争いはやまず、朝鮮政府は一貫して無為、無能、無責任でありつづけていました。列強諸国の爪牙は遅かれ早かれ朝鮮半島を呑み込むに違いない情勢でした。

 朝鮮政府は内乱の鎮圧を外国に依存するしかありませんでした。朝鮮は宗主国の清国に出兵を要請しました。これを見た日本は天津条約の規定に基づいて軍隊を朝鮮に送りました。やがて朝鮮政府と農民軍との間に和約が成ったので、朝鮮政府は日清両国に撤兵を要請します。ところが両軍ともに朝鮮内に居すわり、にらみ合いながら増派を続けました。すでに清仏戦争でベトナムを失っていた清国は、朝鮮半島まで失うわけにいきませんでした。日本は、地政学上の理由から朝鮮半島を野放しにはできません。朝鮮半島の情勢が緊迫すると日本政府には英国ならびにロシアから撤兵や仲裁の勧告が相次いで届きました。外務省はその対応に追われました。政府は議会対策どころではなかったのです。

 そんな最中、陸奥外相は大きな成果をあげました。七月十六日に調印した日英通商航海条約によって領事裁判権を撤廃したのです。幕末以来の治外法権の一端がようやく解消されました。日清戦争直前のことです。


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