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生活相談室(名残雪)

作者: 巴邑克弥

『生活相談室』


 『生活相談室』は市内の生活困窮者に対する様々な支援制度の活用に関しての説明を主な目的として設置された部署である。しかし市の広報不足もあり、市民の周知度は低く、『生活相談室』を利用する市民はほとんどいない。

 『生活相談室』は、相談員三名と室長の計四名の職員で構成されている。そしてまた『生活相談室』は、市役所で働く職員からは『お荷物相談室』と呼ばれている。それは『生活相談室』は、市の職員としては不適合者の烙印を押された者が配属になる部署であり『生活相談室』に配属になった相談員の仕事のスキルは著しく低く、また仕事に対する熱意も皆無であり、いわゆる市役所内の各課をたらい回しにされても役に立たなかった、市のお荷物的存在、いわゆる税金泥棒の職員がたどり着く場所なのであった。そして厄介なことに『お荷物相談室』に配属になった職員は自分が職員として不適合者であることに気がつく者もいなかった。

 そのような『生活相談室』であったので、利用する市民はほとんどおらず、一日誰も来なかったという日も珍しく無い。『生活相談室』に配属になった相談員は一日中何もすることも無く、ただ自分の席に座って過ごすことが多く、またそれを苦にする者もいない。

そんな中でも一日に、ひとりやふたりは『生活相談室』のドアを開けて相談にやってくる相談者もいる。そしてその相談者はと言うと、嫁の愚痴をこぼす姑、旦那の浮気を心配するご婦人、自宅近くのコンビニで働く店員の態度が気に入らない老人など、本来の『生活相談室』の目的とは大きくかけ離れた相談者が多い。その多くは常連と呼ばれている。

相談員は定期的にやってくる、それらの常連の相談者たちの愚痴をただ「うん、うん」と聞いていれば仕事になり、市の職員として不適合者の者にとって『生活相談室』は天国のような職場であった。

 そしてまた『生活相談室』の室長の席は、市役所内の職員からは『窓際の頂点』と呼ばれ、市の職員不適合者にとって最高の名誉ある席であった。


 私はその名誉ある『窓際の頂点』の席にかれこれ十年近く座っている。しかし来年は私も定年を迎えるので、この名誉席に座っているのもあと一年となっていた。


 『生活相談室』のドアを開けると、三人の相談員のカウンターが横一列に並んでおり、その横に私の『窓際の頂点』の席が相談員と並んである。相談員三人のカウンターが相談者で同時に埋まることは無かったが、もし仮に相談者が四人以上になった場合は私も他の相談員と同じように、相談者の対応をすることになっていた。


『再会』


 今日も来室者も無くいつもと同じように新聞のクロスワードパズルとにらめっこする、暇な一日を楽しんでいた。午後三時を回ってから、嫁の愚痴を話したい姑、デパートの店員の態度が悪いと愚痴る老人、そして旦那の素行が心配なご婦人と、珍しく相談員三人全員が窓口の対応をしていた。

もうひとり誰か相談者が来室したら、私が対応しないといけないのであるが、いつもの常連の相談者意外に『生活相談室』を訪れる人などいないことは分かっているので、私は何の心配をすることも無くクロスワードパズルとの格闘を楽しんでいた。


「相談、お願い出来ますか? 」

急な声に驚いて、

「ど、どうぞ」

と少々声が上ずってしまった。

慌てて新聞をたたんでカウンターの下にしまって前を見ると、歳は五十前後と思われる女性が立っていた。女性は黒のジーパンに薄いピンクのトックリのセーター、その上に濃い緑色の防寒ジャケットを着ている。心なしかピンクのトックリのセーターが薄汚れている。

 こういう仕事長年続けている私は、相談者の着ている物でだいたいの収入がわかるようになってきていた。この女性はどう見ても満足な収入があるようには思えない。私はまた生活保護の申請相談だなと直感した。もしそうだとしたら、福祉課の窓口を案内すればいいだけのことである。相談に時間はかからない。

「どうぞ、かけて下さい」

立っている女性にそう促すと、

「失礼します」

私の前に腰を下ろした女性は、少し栗色に染めた髪の毛を肩まで伸ばしている。色の白い女性で、切れ長の目…… 


 私はその女性の目を見た時に、その女性の目は、私の中の思い出、それも忘れ去ってしまいたい、一番思い出したくない、そして四十年間、誰にも話したことのない思い出という暗くて深く静かで暗い森の中に小さな一筋の風を吹かせ始めた。

「初めてですね。こちらの登録票に氏名と住所をお願いします」

私は冷静を装いながら女性に登録票と鉛筆を差し出した。女性が登録票の氏名の欄に名前を書き始めた。すらすらと書かれていく名前に私は心臓の鼓動が激しくなるのを感じていた。


《陽花…… は、る、か》なんて切ない思い出の名前なんんだ。


私の消してしまいたい思い出ばかりの、深くて静かで暗い森の中に吹き始めた小さな風は、次第にその風の勢いを増して、いま四十年前の切ない思い出という名の木々の、静かだった枝を大きく揺らし始めて、次々にあの日のことをよみがえらせ始めていた。


「ハル…… ハルちゃん…… ? 」


 私の言葉に女性は手をとめて、私の顔と首からぶら下げている名札を交互に見ていたが、やがてその切れ長の目が少し大きく見開かれて、その目の奥に驚きの光が走った。女性は私の顔を気まずそうに見ていたが、やがて


「ワ…… タ…… あなた…… ワッタ…… なの? 」


ワッタ、それは高校を卒業するまでの私のあだ名であった。そして目の前の女性は同じ高校に通っていた同級生の陽花だった。


「ハルちゃん…… だよね? 」

「えぇ…… ひさしぶり」

「ああ、元気だった? 」

「まあね、ワッタは? 」

「見ての通りだよ」

陽花は、また私の名札を見ると

「ワッタは…… 室長なんだ? 」

「まあね」

「偉い人になったんだね? 」

「生活相談室の室長なんて偉くなんかないよ。市役所のお荷物さ。それに私もあと一年で定年なんだ」

「お互い年を取ったわね」

「…… 」

私は返す言葉を探していたが、その言葉と探せないまま下を向いていた。私と陽花の間に、しばらく沈黙の時間が続いた。


「ねぇ」

「なに? 」

「おぼえてる…… ? 約束のこと」


「…… 」

忘れてはいない。私は陽花との約束をしっかりと覚えていた。守ることが出来なかった陽花との約束のことを。


「ねぇ」

「なに? 」

「おぼえてる…… ? あの日のこと」


私は返事に困っていた。それは、陽花が言ったあの日のことを忘れてしまっていたからではない。あの日のこと、それは私が忘れ去ってしまいたいと思いながら、四十年の間、一日も忘れたことがない日のこと、遠く切ないあの日のことに違いない。私は言葉を返せないまま、陽花の白い指先を見つめていた。


『あの日』


 あの日のこと、それは高校の卒業式を二日後に控えた放課後から始まった。


 私と陽花は同じ高校に通う同級生であった。一年生の時にはクラスも違っており、そんなに親しく話すことは無かったが、二年生の時に一緒のクラスになると、仲の良い数人のグループの一人として、何かと話をするようになった。

そうしているうちにどちらかともなく、お互いを意識するようになり、三年生になる頃には、クラスで誰もが認める二人として交際をするようになった。

 当時は交際といっても、ときどき喫茶店でお茶をのんだり、映画を観に行ったりと、その程度の交際であったが、私にとっては楽しい時間であった。

 三年の三学期になると、私は東京の名も無い大学に進学を決め、陽花は地元の短大に進学を決めていた。そして私は真剣に陽花との将来のことを考えるようになっていた。


 卒業式が二日後に迫った日の放課後、私と陽花はいつもの様に誰もいなくなった教室で、たわいもない会話を楽しんでいた。

 そんな時だった、陽花は急に黙りこんで、無造作に机の上に投げ出していた私の手に、陽花はそっと自分の手を重ねると、小さな声で、

「ねぇ」

と囁いた。

「なに? 」

「ねぇ、あした、時間ある? 」

「ああ、明日はなんにも予定はないよ」

「じゃぁ、あした、三時に部室に来て…… 」

「三時に、部室…… ? なにか? 」

「ひみつ、三時に部室に来てほしいの」

「わかった、行くよ」

「約束よ」

 陽花が小指を出した。私たちは指切りをすると、誰もいない教室から帰ることにした。学校の裏門を出て、バス通りの方へ並んで歩いた。バス通りへの曲がり角に来ると、

「わたし、バスで帰るわ」

「バス停まで送るよ」

「ワッタが遠回りになるからいいわ。ひとりで帰る」

「そう」

「じゃあ、バイバイ、あしたの三時、約束よ」

「わかってる」

 陽花はそう言うと、バス通りの方へひとりで歩き出し、私は自宅への道を歩き出した。


 翌日、午後三時前に約束通り、体育館裏の部室に私は向かった。

 午前中に卒業式の準備を済ませた学校は、午後になると生徒も教員も帰ってしまい、ひっそりと静かであった。

 部室の前には陽花が先に待っていた。

「待たせたみたいだね」

「ううん、わたしもいま来たところ、それより寒いわ、部室に入りましょ」

そう言うと、陽花は私の手を握って、部室のドアを開け、ちょっと強引に私を部室の中に引き入れた。

 部室に入ると、陽花は私の首に手を回して、唇を重ねて来た。

実を言うと陽花とキスをするのは、これが初めてでは無かった。三年の夏休みに、初めて陽花とキスをしてから、今までも何度か、人目を避けて陽花と私はキスをしながら二人の時間を楽しんでいた。もちろんそのことは家族にも友人にも話したことは無かった。

 しかしその日の陽花のキスはいつもより情熱的であった。どこで知ったのか知らないが、陽花は私の口の中に舌を滑りこませて、私の舌に陽花の舌を絡ませて来た。私は陽花の大胆なキスに少し驚いたが、直にその甘美な感触を楽しむようになっていた。

 私と陽花はいつもより長く、そして執拗にお互いの舌を求めてキスを楽しんだ。

 しばらくキスを楽しんだあと、陽花は私の唇から陽花の唇を離すと、

「ねぇ」

「なに? 」

「ねぇ、わたしのこと好き? 」

「もちろん、好きだよ」

「わたしも、ワッタのこと、大好きだよ」

「ねぇ」

「なに? 」

「大学に行っても、浮気しないでよ」

「浮気なんかしないよ」

「ねぇ」

「なに? 」

「大学、卒業したら、わたしをワッタの、お嫁さんにしてくれる」

「もちろん」

「ほんと、約束だよ。絶対にしてよ」

「約束するよ。大学を出たら、お嫁さんにするよ」

「ねぇ」

「なに? 」

「向こう、向いてて」

 陽花はそう言うと、私を後ろ向きにさせた。

しばらくすると、

「いいわよ、こっち向いて」

 私は陽花に言われるままに振り向いた。

  私が振り向くと、そこには上半身裸になった陽花が立っていた。陽花の肌はどこまでも白く、そしてその胸には、大人の女性の白い乳房があった。

「ワッタだけに、見せてあげる」

「風邪ひくぞ」

私はそう言うのが精一杯で、床に脱ぎすれられていた陽花のコートを拾うと肩からかけてやった。

「触ってもいいよ」

そう言うと陽花は私の右手を、陽花は自分の左の乳房に導いた。

「冷たい手」

「ごめん」

私は「ごめん」と言うのがやっとで、陽花の柔らかな乳房の暖かさと、かすかに伝わってくる陽花の心臓の鼓動を右手に感じていた。そして、私の右手の親指と人差し指の間には、陽花の小さな乳首があった。

「ワッタ、好きだよ」

そう言うと陽花はまた唇を重ねて来た。やがて私は右手に感じる陽花の体温と、陽花の舌の柔らかさに大人の世界にまた一歩足を踏み入れたように感じていた。


「ねぇ」

「なに? 」

「いいよ、好きにして」

そう言うと陽花は今まで以上に激しく、唇を押し当てて舌を絡ませて来た。しかし、その時の私はまだ幼く、陽花の言葉の意味を理解してやることは出来なかった。

その時、陽花は大人の女で、私はまだ子どもの男の子だった。


 どれくらいの時間が経っただろうか、私と陽花は時間を忘れて抱き合っていた。明かりの無い部室の中は、小さな小窓から差し込む街灯の明かりで、やっと陽花の顔を見ることが出来るほどであった。


「もう、帰ろうか? 」

「うん」

陽花は脱ぎ捨ててあった制服を着ると、私の手を握って部室のドアを開けて外に出た。

「ワッタ、雪が降ってる」

部室の外はすでに暗く、体育館と部室との間の街灯の明かりの中を、ひらひらとやわらかい大きな雪が舞っていた。

 雪は陽花の髪の毛に舞い落ちるとすぐに解けて、陽花の髪を濡らしていた。

「濡れると風邪をひくよ」

私はそう言うと、陽花のコートのフードを被せた。陽花は私の手を握ったまま、私のコートのポケットに手を入れて歩き出した。

 学校の裏門を出て、昨日と同じようにバス通りの方へ歩いた。昨日と同じ曲がり角で、

「バスで帰るわ」

「バス停まで送るよ」

「ううん、いい、ひとりで帰る」

陽花はそう言うと、私のコートのポケットから手を抜いて、

「じゃあ、バイバイ………… 約束、守ってね………… 」

くるりと私に背を向けるとバス通りに向かって歩き出した。陽花の後姿はとても細く、寂しげであった。

 私はバス通りに向かって歩く陽花の後ろ姿をじっと見ていた。雪はまだ降っている。私の髪の毛に舞い落ちた雪はすぐに解けて、頬を伝わって流れた。

何故か一緒に涙が流れた。

 その日以降、私と陽花は二度と会話をすることは無かった。


 そして、いま、私の目の前にその陽花が座っている。


「覚えているよ、昨日のことのようだ」

「私も…… 」

「どうしてたの? 」

「いろいろあって…… 大阪で…… 暮らしていたわ」


 卒業式を終えて二日後、私は東京へ行くための準備をしている私のところに、ひとりの友達がやって来た。

「もう準備は出来たのか? 」

「いやまだだよ。いよいよかと思うと、なにを持って行ったらいいのか、分からなくてさ…… 持って行きたいものがたくさんありすぎて、整理ができないよ」

「なあ」

「なに? 」

「知ってるか? 」

「なにを? 」

「陽花のことだよ」

「陽花のこと? なんだよ? 」

「駆け落ちしたってよ」

「…… 駆け落ち…… 」

その言葉はそれまで静かだった私の心に大きな嵐を巻き起こしていた。

「ああ、卒業式の次の日に、大阪に行くって家を出たってよ…… 」

「駆け落ちって…… 誰と? 」

「俺もさっき聞いたんだけど、なんでも奥さんのいる男らしぜ」

「………… 」

私は言葉が出なかった。私は荒れ狂う嵐の中で、何故か陽花の柔らかな唇と、右手に微かに残った陽花の乳房の温もりを思い出していた。


『終雪(名残雪)』


その陽花がいま私の目の前に座っている。私は陽花の白く細い指を見ながら、


「いつ帰ってきたの? 」

「半年前…… 」

「大阪で暮らしていたのに、どうして? 」

「一年ほど前に、旦那ががんで死んだの…… ひとりになったら、なんだか寂しくて…… そしたら故郷がなんだか恋しくなって、帰って来たの」

「…… 」

「でも、ダメよね。家を出て四十年も連絡もしなかった者が急に家に帰っても、父ちゃんは死んでいたし、母ちゃんはボケて分けがわかんないし、兄ちゃんは嫁さん貰って…… 私のいる場所なんか無かったわ。だから…… また喧嘩して家を出たの。でももう行くところが無くなって」

「どこに住んでいるの? 」

「兄ちゃんが、嫁さんに内緒でアパートを借りてくれたの」

「生活費はどうしてるの? 」

「何とかなっているわ」

「それなら、いいけど」

 私は陽花の様子から、生活費もままならないことは、容易に想像出来たが、あえて口にはしなかった。

 私と陽花は黙りこんでいた。時間はすでに閉庁の時間になっていた。

 『生活相談室』で愚痴をこぼしていた人達もいつしかいなくなっており、閉庁時間を過ぎると三人の相談員もそれぞれに帰ってしまい、『生活相談室』中には、私と陽花の二人になっていた。壁に掛けられた時計の音だけが聞こえていた。


「ワッタは、結婚したの? 」

「ああ、子どもも二人いる。もう成人したけどね」


 私は大学を卒業すると、市の職員試験に合格し、市役所で勤務するようになった。そして何人かの女性と付き合い、中には男女の関係になった女性もいたが、結局、両親が勧めてくれた女性と見合いで結婚した。 

 私たち夫婦の生活は単調でつまらないものであった。そして私はいつも陽花のことを心のどこかで思い続けていた。



「………… 」

「…… 」


 しばらく静かな時間だけが過ぎていった。カウンターの上に無造作に投げ出していた私の手に、陽花は白く華奢な手をそっと重ねて来た。その手は私の想像以上に冷たかった。


「ねぇ」

「なに? 」

「せっかくワッタに会えたんだから…… またどっかで食事でもしながら、ゆっくりお話がしたいな…… 」

「…… 」

「今日じゃ無くてもいいの、またいつかお時間、作れない? 」


 私の目の前に座っている陽花が着ているピンクのトックリのセーターの下には、あの日と同じ陽花の乳房があるかと思うと私の心は、しばらく男性として忘れていたときめきを覚えた。

私は陽花と食事をすれば、その後、どうなるかくらいは想像できた。もう私はあの日の幼い男の子ではなかった。


「いや…… やめとくよ…… 」

私はぼそりとそう言った。

「そうよね…… 許してはくれないわよね」

「そうじゃないけど…… 」

「いいの、悪いのは私だわ…… 」

 陽花は重ねた手を離すと、


「今日はありがとう…… ワッタに会えて嬉しかったわ」

「私もだよ、何かあったら、また話に来たらいいよ」

「そうさせてもらうわ」

 陽花はそう言うと『生活相談室』を出て行った。

 

陽花は二度と『生活相談室』には来ないと私は思った。


 陽花が出て行ったあと、私は誰もいなくなった『生活相談室』の明かりを消した。暗くなった室内にまだ陽花の姿があるように思えてならなかった。

ドアに鍵をかけると、市役所の通用口から外に出た。

 市の職員はすでに大半が帰宅しており、通用口を出た職員駐車場には車が無かった。外はすでに暗くなっており、駐車場の街灯だけが明るかった。

 その明かりの中を、大きな柔らかい雪がひらひらと舞っていた。

「雪か、この冬、最後の雪になるだろうな…… 」

私は誰に話すでもなく、声にならない声でぽつんと言った。


 あの日もこんな雪だった。陽花は雪の中をひとりで帰って行った。


 もしかしたら、あの日、陽花は私に助けを求めていたのかも知れない。私に身体を許すことで、妻子ある男との関係を絶ちたいと思っていたのかも知れない。陽花はそんな思いで私に助けを求めていたのかも知れなかった。

 しかし、私は陽花の思いを理解することが出来ない子どもだった。陽花を助けてやることは出来なかった。


 そして四十年経った今日、久しぶりに会った陽花はまた私に助けを求めていたのかも知れない。ご主人を病気で亡くし、一人ぼっちになって、実家に帰っても居場所の無い陽花は、私に心の温もりを求めていたのかも知れない。


 しかし、私は陽花を…… また、助けてやることが出来なかった…… 


 私はこの四十年間、一日も陽花のことを忘れたことは無かった。

 

この冬、おそらく最後の雪は、四十年前の淡く切ない陽花との思い出をのせて、次々に舞い落ちてきてはすぐに消えていく。私はその舞い落ちては消えていく雪をじっと見ていた。私はまだ陽花のことを好きなのかも知れない。


次々と落ちては消えていく雪の中、私は傘を差さずに歩き出した。


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