005
気まぐれなるままに物語は続く。
私はうさぎのラビ・ラヴィに連れられてキョトロの寝ている広場から、森の中へと入っていった。さっきまで集まっていた何千羽ものうさぎの姿は一切なく、ときおり動物の鳴き声が聞こえるだけの静まり返った森だ。おまけに暗い。そして一番奇妙なのは、森を形成している木々の形だ。
「この森はねじまきの森と呼ばれているんだぜ。理由は、見れば分かるよな?」
私の前を歩くラヴィが言った。
そう、この森の木々は、木の根元からねじまきのようにぐねぐねとひん曲がって伸びていた。アンモナイトのように渦巻いているところもあれば、ふたつの枝が絡まって蝶々結びになっているところもある。鉄格子のように網目状になっているところもあれば、巨大なクモの巣のようになっているところもある。
「おい、それに近づくんじゃねえぞ」
とラヴィが突然言った。
「えっ? 何に?」
「それだよ。よく見るんだな」
ラヴィはクモの巣状になっている木をピンと尖った耳でさした。
私は視力検査のときのようにジッと見た。そして後悔した。あれは本当にクモの巣だったのだ。その真ん中には人間サイズの巨大なクモ!
「うわっ。何あれ!」
巨大なおかげで足の一本一本どころか、その足から生えている産毛まで見えてしまった。それを見た瞬間私の体はぶるっと震えて鳥肌が立った。
八本の足をもぞもぞと動かしている。き、気持ち悪いよお……。
「キグモだよ。見ての通り木に擬態してやがる。あれに捕まったら糸でグルグル巻きにされて、血をちゅーちゅー吸われちまうからな」
「この森にはあんなのがたくさんいるの?」
私はおずおずと聞いた。
「ま、ひねくれ者は多いわな。なんせ、ここは見ての通りひねくれの森だからな」
「ねじまきだったりひねくれだったり、いろんな呼び名があるのね」
と私はラヴィの後をぴったりとくっつきながら言った。彼の後ろはきっと安全だ。
「世界の元は混沌だ」
うさぎが突然語りだした。
「お前の世界と比べるとこっちの世界は混沌に近い。いろんなものが渦巻いていて、くっついては離れている。ものの名前だってころころ変わる。もちろん性質だって変わるのさ。シニフィアンもシニフィエも、世界の鍋でぐるぐる混ざる。時間は一方通行どころか、丁字路十字路どんと来いだ。空間だってねじ曲がる。表だと思ったら裏へ出るメビウスの輪。内側だと思ったら表面に出るクラインの壷。別々のものがくっついていく。それがこのツギハギの世界だ。どうだい、覚えておくといい」
「は、はあ……」
とは言うものの私はラヴィについて行くのに精一杯で、いまいちちゃんと聞けなかった。だってさ、この森と来たら障害物が多過ぎる。ぐるぐる巻の木の幹は空間を埋めるように渦巻いている。小さい体のラヴィはいいよね。すき間をするりと抜けられるから。でも私は、人間の中では小さいし細いとは言え、あなたの三倍はあるのよ。そのあたりすこし考えてほしいわ。
木の枝に引っかかって制服が傷ついた。この制服、かわいくて気に入っているのに。
「ねえ、あとどれくらい歩くの? 私もう疲れた」
私は情けない声で言いました。だってね、部活で散々足を酷使したあとにこの森を歩くのはさすがに辛い。合宿じゃないんだから、もう休ませてよって感じ。このままじゃ足がむきむきになっちゃうよ。
「もう森を抜けるぜ。そしたらお目当ての場所はすぐそこだ。ほら」
顔を上げると光が見えた。やった、森の切れ目だ!
私は力を振り絞って歩いた。ラヴィはぴょんぴょん私の前を歩いている。もふもふのおしりがかわいい。希望が持てるとこんなことまで考える余裕ができるのか、と私はこのとき不思議に思った。
森を出た。ぽっかりと開かれた広場だった。その真ん中に背の高い木が一本。なんと木には家がくっ付いている。きっとツリーハウスってやつなんだろうけど、バランスが明らかにおかしい。横に飛び出すぎている。家の先のほうまでいったら、バキっと折れてしまいそう。
「とりあえず今日はここに泊まれ」
とラヴィが言った。
私たちは宿泊先にむかっていたのだった。
「これ、大丈夫? 崩れたりしない?」
「するもんか。二百羽乗っても大丈夫、だぜ?」
うさぎの体重がどんなものか私には分からないけど、きっと大丈夫でしょう! それに、早く座りたい、できればお風呂に入ってさっぱりして、早く横になりたいというのが本音だった。
三十メートルはあるはしごを上ってツリーハウスに入ると、私はすこしわくわくした。思っていた以上にすてきな家だったのだ。木の家具はどれもきれいでぬくもりがあるし、飾りもなかなか。ゆっくりくつろげるカフェに来たみたい。木のにおいもここちよい。
「わあ。すてきなおうちね」
私は家の中を見て回った。大きな本棚があって本がたくさん収められている。ちょうど読んでみたいと思っていた本がたくさん! でもいまは手を出さないで次を見てみよう。驚くことに水洗トイレがある。これはひと安心。お風呂もばっちり。食事をするための大きなテーブル、それに……、おや?
「これは……」
机の上にあったのは白いノートパソコンだった。
「ああ、ちゃんとネットも繋がるようにしておいたぜ。無線LANがびゅんびゅんとな。最近のアリスはな、この辺りも完備しておかないと機嫌を損ねるってな。ま、ありがたく思うんだな」
「ネットが見られるの?」
「ああ。サーフィンし放題だ。ビッグウェーブが来ているぜ」
ラビットジョークはよく分からない。
とにかく私はパソコンの電源をつけてブラウザを立ち上げた。何これ、普通にグーグレで検索できるんですけど。アカウント登録してあるつぶやきサイトにも普通に行ける。友達のつぶやきも見られる!
「不思議の国なう」
あえて死語でつぶやいてみる。普通につぶやけた。だけど返信はこない。あ、これはいつものことか。
「いちおうお前の世界のサイトも見られるようにしてあるけどな、いろいろ不具合が起こるかもしれねえ。なんせ、こっちの世界とあっちの世界のつながりはそんなに強くねえからな」
私が座ろうとしたイスを占拠して画面をのぞき込んだラヴィが言った。
「ま、これがあれば現代っ子のお前は退屈しないだろう? こういうのなんて言ったっけ。デジタルネイティブ?」
「知らないよ」
「ググレカス」
「それ、言いたいだけなんじゃ……」
「ま、とりあえず、だ」
ラヴィはぴょんとイスから降りて言った。
「俺は、今日はこれで帰るぜ。この家は自由に使っていいから、ゆっくり休むんだな。寝不足だとか体調不良だとか言って死なれても困るんでな」
さらっと怖いことを言う……。ラヴィはさらに続けた。
「いいか。忠告しておくぜ? この世界は混沌に近い。お前の世界の常識なんてもので考えていたらパクっと食われちまうかもしれねえからな。気をつけるんだぜ」
「ちょっと、そんな世界で私をひとりにする気? それなら私を守ってよ」
私は怖くなって言った。
「おいおい、俺は騎士じゃないんだぜ」
そう言うとラヴィは取り出した時計を見つめた。金色に光る懐中時計だ。
「騎士の出番はもうすこし先だ。それまでは自分ひとりでなんとかしな。ま、大丈夫だろう。アリスはそう簡単に死なないからな。おっと、お前はアリサだったか」
懐中時計をポケットにしまってラヴィは家のドアを開けた。外はいつの間にか暗くなっていて、ラヴィ越しに大きな月が見えた。
「じゃ、またな」
うさぎはぴょんと飛んでった。
私は家のあらゆる出入口を丹念に調べて戸締まりをするとお湯をためてお風呂に入った。着替えはクローゼットとタンスに入っていたのを拝借した。どれも気持ち悪いくらい私にぴったりだ。服はパジャマが数着と、それと不思議なことに私の学校の制服が何十着もあった。お前はこれを着ていればいいんだ、と言わんばかりだ。
暖かいお風呂が体にしみ込む。うとうとしてお湯に顔を突っ込んで目が覚めるというのを三回ほどしたところで、さすがに私は危険を感じてお風呂からあがった。とにかくもう眠かった。
ベッドになだれ込む。すぐに眠くなってボーッとして来る。
大変な一日だった。不思議な一日だった。これからどうなるんだろう。私は不安だった。だけど、もしかしたら面白い体験ができるのでは、との期待もあった。何もない日常に比べたら刺激的でわくわくするかも。空っぽな私もすこしは何かで満たされるかもしれない。
そうだ。せっかくパソコンがあるのだから、ここでの体験を書き留めておこう。それをウェブに公開するのもおもしろいかもしれない。毎日空いている時間にすこしずつ書いて、アップしていくのだ。私の世界の人たちも、何人か見てくれるかな。そしたら、私は……。
アリサの思考はここで途切れた。清潔なベッドの上、暖かい布団に包まれて、アリサは眠りに落ちて行く。
夢すらも見ないような、深い、深い、眠りに。