002
私は落ちて行く。どんどん、どんどん落ちて行く。まっ暗な穴の中。隣には赤い瞳の白うさぎ。
「それよりもお嬢ちゃん。隠したいのならちゃんと抑えたほうがいいぜ。さっきから中身がチラチラ見えている」
うさぎに言われて私はめくれ上がろうとするスカートを必死に抑えた。こんなときに、しかも相手はうさぎだというのに、それでも反射的に隠そうとする。たぶん、身体に染み付いてしまっているんだ。それにしても学生カバンが邪魔だ。いっその事捨ててしまおうか。
学校の帰り道、十字路で井戸のような穴に落ちてから五分は経った気がする。それなのにいまだにまっ暗な穴の中だ。いったいどうなっているの? このまま底に激突して私はぺしゃんこになってしまうのだろうか。
だけどしゃべるうさぎとあり得ない深さの穴からしてそれはないような気がした。
これはきっと夢だ。
「ねえ、うさぎさん。これ、どうなっているの?」
私は隣で一緒に落ちているうさぎに聞いた。
「どうって、落ちているところだが?」
「それは分かるわよ! そうじゃなくて、えっと……。これからどうなるの?」
「どうって、地面に落ちるだけだが?」
「このまま?」
私は叫んだ。
「うるせえな。そら、通路を抜けるぜ」
うさぎに促されて私は進行方向を見た。トンネルの出口のような小さな光の点が見えた。その点はどんどん大きくなっていく。その大きくなり方で私がどんなに早く移動しているのかが分かった。きっと時速500キロくらい出ている。私は弾丸のように筒の中を飛び、そして、銃口から射出される。
「ちょっと待ってよ……」
私は思わずつぶやいた。
暗い穴を抜けると、そこには青空が広がっていた。眼下には大陸が広がり、森とか人工物とかいろんなものが小さく見える。でも教科書で見た航空写真とえらい違いだ。普通なら緑や青、茶色、灰色といった色が広がっているはずなのに、この大陸は蛍光塗料でも塗っているんじゃないかと思うくらいとにかくカラフル。
ってそんなこと考えている場合じゃない!
「どうするのよこれ! ちょっと、なんとかしてよ!」
私はうさぎに言った。
「黙ってろ」
うさぎはそう言うとポケットから何かを取り出した。スマホ?
「俺だ。ああ、予定の位置から少しズレている。……分かった。軌道修正を開始する」
うさぎは何かと連絡を取った。それから私にむかって、
「このままじゃ地面に激突しちまうからすこし移動するぞ」
と言った。
「は? 移動? どうやって?」
「俺の後ろ足を両手でつかめ」
私は学生カバンをなんとか背負うと、うさぎの後ろ足をつかんだ。うさぎの後ろ足はもふもふしていた。
「行くぞ。振り落とされるなよ!」
うさぎは両耳を大きく広げた。次の瞬間、腕がグンと引っ張られた。
「うわっ!」
うさぎは広げた両耳をしきりに動かして滑空を始めた。まっすぐ落ちていた私の体をグングンと横へ引っ張って行くのが、地面の風景の変化で分かった。
っていうか、地面がもうこんなに近いんですけど!
死ぬ。
地面が急速に近づいて来て目をつむった私は、そう思った。
たった16年の短い人生だった。こんなことならお菓子、我慢しなければよかった。撮りだめしたアニメの最終回も見てない。続きが気になる小説はそのまま。あと、それから、それから、えーっと……。あっ、雨宮くんに告白すればよかった! いや、やっぱりいいや。たぶん恋に恋しているだけだったし……。
それから、他には?
死にたくないことは確かなのに、やり残したと思っていることがしょぼくてすこしがっかりした。それほど自分にはやりたいことがない。やりたいことが分からない。
すこし残念な人生。
次の瞬間、体が叩き付けられた。いや、何かにめり込んだ? 私は弾力のある何かに包まれて、その反動で再び宙に跳ねた。目を開けると、私は何十メートルの高さにいた。
何が起きたのか分からない。混乱したまま下を見ると、そこにはまんまるお腹の猫のような巨大な生き物が仰向けに寝そべっていた。宙に跳ねた私は再び落下を始める。落ちる先はまんまるお腹の中心だ。落ちてみて初めて分かった。まんまるお腹は直径が50メートルくらいあるということ。最初に私を受け止めたのもこのお腹だということ。
毛に覆われたお腹はすごくやわらかくて弾力があって、私を包み込むように衝撃を吸収すると、反動で再び私を宙へ舞い上がらせた。まるでトランポリンだ。ぽよーん、ぽよーんと何回も飛ぶ。その度にすこしずつ高度が下がっていく。
「おい、いつまでつかんでる。離しやがれ」
うさぎが言った。私は後ろ足をつかんだままだった。
「ご、ごめんなさい」
「まったく」
しばらくして私たちは、まんまるお腹に降り立った。今度はその巨大なお腹から地面に降りなくちゃいけない。
「さっさとしろよ」
軽快な動きで先に降りたうさぎが言った。
「そんなこと言っても無理だよ。こんな高さ降りられない!」
まんまるお腹の上から地面までは、たぶん30メートルはある。それを手すりもはしごもなしに降りるなんてできっこない。私は人間なんだぞ!
「ちっ。しかたねーな。おいキョトロ、降ろしてやれ」
うさぎがそう言うと。まんまるお腹が揺れ始めた。
「今度は何なの?」
まんまるお腹の持ち主が頭を起こしてお腹の上にいる私を見た。顔を見る限りでは、やっぱり猫だ。超巨大な猫。それが私を見て、にっこりと微笑んでいる。
「こ、こんにちは」
私の視界のほとんどを覆っているその猫に私は恐る恐るあいさつをした。すると猫はにんまりと大きな笑顔を作り、それからその大きな手で、私をわしづかみにした。
「キャッ!」
私はなす術もなくされるがままになった。体はしっかりと固定されていて動けない。何かぷにぷにしたものに包まれている。
ぷにぷに。なんだか気持ちがいい。
そう思っているうちに私は地面にゆっくりと降ろされた。降ろされてから気がついた。あのぷにぷには肉球だったのだ。
「サンキュー、キョトロ。もう寝てもいいぞ」
「ぶわああああ」
キョトロ。あなた、キョトロって言うのね。
キョトロは大きな声で返事をすると、そのままスヤスヤと寝息を立て始めた。この巨体にしては静かでかわいい寝息だ。
それにしても疲れた。神経がすり減った。この数分でふたつくらい歳を取ったんじゃないかしら。そしたらこの童顔も少しは大人になっているかも。
周りは木々に囲まれている。形はともかく、とりあえずいつもの見慣れている色の木々なのは安心だ。というか、もうそういうところにしか安心を見いだせない。
その時、茂みがガサガサと動いて、何かが飛び出してきた。
「おやおや。どうやら無事に辿り着けたようですね」
「おう。キョトロを呼んでくれて助かったぜ。礼を言う」
「いいんですよ。アリスを無事にこちらの世界に導くのもラビの務めじゃないですか」
うさぎとうさぎが話しをしている。
茂みから現れたのは、口の悪いうさぎとまったく同じ姿の、口の良いうさぎだった。
「それで、あなたが今度のアリスですか」
口の良いうさぎはスマートフォンをポケットに閉まってからそう言った。