Cello
交響楽団に入団してまだ1ヶ月。新米中の新米だが,期待の星としてされている。実際色々なコンクールで賞をとっているからだ。自分で言うのもなんだが,実力はかなりある。
それでも追いつけない部分はある。
弦楽器で有名な音楽大学をトップで卒業しても,やはり世界は広い。
今日も飽きることなくチェロを弾く。
防音室から窓を覗くと,空はうっすらと青黒く染まっていた。
僕はチェロを手入れしてから片付け,身体を引きずるようにして部屋から出た。1日中弾いていれば,かなり体力を消耗するものだ。これを何度も経験しているのに,いつまでたっても昼食を入れる事は出来なかった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り,喉に流し込む。ひんやりとした感覚が心地よかった。
でも,まだ足りない。
練習用でも,本番用でもない,もう1つのチェロを担いで家を出た。夕食の団欒を思わせる笑い声を聞きながら,公園へ急ぐ。
通勤客や学生が多く通る公園の真ん中にある噴水の縁に座り,優しくチェロを出す。
街灯に照らされたチェロの表面が綺麗に光り,魅惑的だ。
僕は周りを見渡してから弦を確かめ,弾き始める。
かの有名なチェリストがアメリカの公園で弾いていたように,僕も弾く。人に構わず,ただひたすら弾く。
コンサートホールではないから響くはずはないのだが,どことなく響いているような音色が美しい。余韻を心に残していく音だ。
しばらくするとちらほらと立ち止まって聴きいる人も出てきた。早くも酔っている人は微妙なダンスをする。それでも僕は弾き続けた。
得るために。
次々に曲を弾き,潤す。
僕も,みんなも。
小1時間弾いた頃,救急車のサイレンが耳に入った。
時間を悟った僕は適当に曲を切り上げ,チェロを大切にしまってその場をあとにした。
その時,かすかにヴァイオリンの音色が耳に入った。
いつも寄るショットバーのカウンターに座り,チェロをそっと自分の横に置く。すると,バーテンダーがいつものを用意してくれた。キールだ。
「しばらくだね。」
「ええ。音合わせとか色々ありまして。元気でした?」
「景気はよくないけど,元気だよ。」
バーテンダーはそう言って笑った。僕もつられて少しだけ笑う。
「ちょっと痩せたか?」
「そんなことはないですが。」
「やっぱ交響楽団ってのはキツイのかね。おれのところで弾いてくれりゃあもっといい金集るよ?」
僕は困った表情を浮かべ,それから首を振った。
「ここはお気に入りだから,仕事まで持ち込みたくなくて。」
「そっか。まぁ,ゆっくりしていきなよ。」
軽く会釈をして,バーテンダーの背を見送る。
僕はキールを少しずつ飲み,ぼんやりと過ごす。
グラスが空いた頃,バーテンダーが来てサッとグラスを渡してきた。キールのあとはカーディナルと決まっていたのに違う。ハンターを差し出され,怪訝そうな顔で見上げると,僕の右手側を示した。
「あちらの方からです。」
びっくりした。こんなの初めてだ。
「どうも。」
戸惑いながら返事する僕にバーテンダーがクスリと笑みを向けてから席をはずした。
「いいえ。そろそろ大丈夫かしら?」
その声は優しくて。それでいてひんやりするものがあった。
言外の意味が伝わったせいかもしれない。
―――そろそろ体力が戻ってきたかしら?
なぜ彼女は分かったのだろう。
「そちらにいい?」
「はい。」
女性はヴァイオリンを持って僕の右側に座った。
「私は玲よ。」
「僕は葵です。」
ドキドキするのを隠したくてハンターに口を付ける。が,別の意味で見事に仮面がはがれた。
「初めて飲んだの?」
表情を見て小さく微笑んだ彼女に,小さくうなずく。
「ハンターはウイスキーの苦さとチェリー・ブランデーの甘さがマッチして美味しいんだけど。慣れていないと,舌がびっくりするのよね。」
そう言って彼女もハンターを口に含んだ。それは美味しそうに飲んでいるものだから,思わず見とれてしまった。
「そんなに見ないでよ。恥ずかしいじゃない。」
「あ,すいません。こんな事って初めてだから,落ち着かなくて。」
見栄を張っても意味が無いと思って正直に言うと,彼女は納得したようにうなずいた。
「驚かせてすいません。ただ,弦楽器を持っているから気になっちゃったのよ。」
「いいえ。玲さんはどのくらいヴァイオリンを弾いているんですか?」
「20年以上は。」
「僕と同じ位ですね。」
「ほかの意味で弾き始めたのは5年位よ。あなたは?」
肘をついて僕を見上げるその表情は,凄くなまめかしく感じた。それと同時に,背筋に氷が滑った。
「何のことですか?」
こわばった声しか出ないのが情けなく感じる。だが,彼女は気にしていないようにクスリと笑んだ。
「しらばっくれても意味ないわ。私も似たようなものだから。いらっしゃい。」
そう言って僕の分も支払い,指でついて来るように促した。僕はどうしたらいいのか迷ったが,なぜかバーテンダーが背中を押してきたのでついて行く羽目になった。
彼女と一緒に歩いて着いたところは,僕がチェロを弾いていた公園であった。
「葵さんはチェロで人から取っていたわね。」
まっすぐ見つめられながら言われ,激しく動揺する。
初めてばれた,僕の能力。
チェロの音色で人から色々なものを奪う能力。
僕が無言でいると,玲はクスクスと笑い出した。
「どうしてばれたのか気になったの?」
「はい。」
「私も力を持っているのよ。人の気持ちなどを引き出す力をね。葵さんがチェロを弾いているとき,私も離れた所で弾いていたの。だから,あなたの事が分かったのよ。」
チェロを弾きながら思っていたこと・人の生気を奪って自分を生かすことがばれていた。そのことが恐ろしく感じて,身震いがする。
自分のことなのに。
だが,彼女は気にした様子もなく笑っていた。そんなことを気にするなと言っているような笑顔だった。
「さっきは生気だったけど,人の才能だって奪えるんでしょ。」
さらりと恐ろしいことを口にしているのに,まったく嫌な感じがしなかった。むしろ,安心する。
「同じ香りを持つ人に,安心した?」
顔に出ていたのだろう。彼女の言う通りだ。
「はい。」
「狙った通りね。仲間になりましょ。」
明るく言ってから差し出した手。
綺麗な手。
でも,血塗れな手。
それでも,僕は手を差し出した。