Violin
マンションの屋上に立ち,夜空を見上げる。漆黒の空には満月が住んでいた。淡く,黄色く光る月を見ていると,自然と落ち着いていく。
私はケースからヴァイオリンを出し,肩に当てる。それから弦を数回弾き,納得する音を引き出す。
深呼吸してから弓を引く。奏でられるヴァイオリンが月光を受けて浮かび上がる。
それがまた,美しくて妖しい。
その音色に誘われてきたように,中年の男性が後ろに現れた。それを感じ取り,鼻先で笑ってから弾く手を止める。
「あなたはどういった御用件で?」
ひんやりとした空気とともに耳に入る言葉。とても冷たい声である。
それに対しての返事は無かった。
軽く舌打ちをし,再びヴァイオリンを弾き始めた。古典調の緩やかなメロディーが空気の中ですべり,人の心に侵食する。
その証拠に,男性の表情がほころび始める。それを見てから手を休め,同じ質問をした。すると,今度は返事があった。
「死にたいんだ。」
表情が一気に苦渋へと変わり,声には苦いものが混ざっていた。だが,私はそんなものを気にせず,冷めた目で見返した。
「なぜ?」
「それは……!」
男性は膝をつき,頭を抱えた。薄くなった頭髪をかき乱し,小さく呻いている。
「世話が焼けるわね。」
私はヴァイオリンを奏で,その辺一体を柔らかな空気で囲んだ。
すると,男性は吐き出すように話し始めた。
会社の金で愛人を囲み,それがばれてクビになったこと。警察沙汰となり,家庭崩壊したこと。身寄りが無いこと。仕事に付けないこと。金が尽きたこと。
どれを取っても,負の事ばかりだ。
「で,あなたはどうしたいわけ?」
「おれは,死にたい…!でも……。」
私は苛立った。その証拠に顔が険しくなり,曲調も鋭くなった。それに反応して,男性は縮こまって頭を抑える。
「人に散々な事をしてきて,家族に除け者にされて,仕事も無くて金も無い。それで,どうして生きたいわけ?」
「それは,あああ…!」
惨めな姿のまま,屋上の汚い床に顔をするようにして泣く男性。
私は大きくため息をつき,曲調をゆったりとした優雅なものに変えた。
優しい空気が男性を包み,涙が引いていった。それとともに,表情が苦しみから快楽へ変わっていった。
「愛人が産んだ赤ちゃんがいるのね。」
ハッと顔を上げる。
「なぜそれを?」
「あなたの心はそれで埋まっているからよ。落ちる?」
引くのを止め,弓で屋上の橋を示す。すると男性は大きく首を振った。
「そう。じゃあ真っ当に生きる事ね。」
「はいぃ。すいませんでした。」
土下座して謝る男性をつまらなそうに見て,それから月に視線を向けた。
「次は止めないから。むしろ,落としてやる。」
「はい。心得ておきます。」
男性はもう1度深く頭を下げ,階段を駆け降りていった。
残った私はヴァイオリンで子守唄を奏でた。
「自殺したい人はあとを絶えないわ。止めるのも,気持ちを聞きだすのも容易じゃないわね。」
子守唄は優しい響きを持ってかなたへ流れていった。
その音はどこかで,誰かの気持ちを暴いている。
それは,私の能力。
ヴァイオリンの音色で人の気持ちを引き出し,時には心を覗く。
そして人を裁く。
それがヴァイオリンを弾く私。
引き出された気持ちと,覗かれた心。
それが吉と出るか,凶と出るか。
ヴァイオリンの微笑みのままに。