蜘蛛の糸
都が来てからは倦厭しがちな掠夜の洋館を久々に訪れた。都への日用品を届けるためにだ。
ドアノッカーを叩けば,いつものようにすーっと軽く開く重たい扉。いつも不思議に思うけれど,ここは掠夜の洋館。不思議ではない。
そこから入れば,ホテルのロビーのように広いエントランス。相変わらずの反響で,足音すら軽く響く。それを聞きつけたのか,都が2階から顔を覗かせた。
『あ,玻紅璃さん。』
その声は幾分嬉しそうであった。
確かに年は近いが,そこまで打ち解けているわけではない。でも,都は寄ってくる。仕方ない。合わせるしかないのだろう。
『こんばんは。お久しぶりです。』
『ええ。お元気でした?』
『まぁね。都さんのご両親もお元気そうでしたよ。』
そう言うと,都は驚いた表情をした。
『会ってきたんですか?』
『いいえ。見かけたんですよ。あなたを捜すチラシを駅前で配っていたので。』
都の表情が強張る。やはりまだ帰りたくないのだ。
『チラシを配られているのなら,尚更外に出られなくなってしまいますわ。』
『そうですよね。』
でも,別の鳥籠に入ろうとしているのでは?
感じ取った都の黒い力はまだ彼女を彷徨っている。
もう黒い力を受け入れるか,いつだかの女性のように手放させないと,生きていけない。
私はそのどちらに行くのか楽しみだ。
どうせなら……。
『ところで掠夜はいますか?』
『はい。』
今まで見た中で1番の笑顔を見せられた気がした。明らかに嬉しい表情。
それが嫌だった。
『そう。』
私は小さく呟き,2階の応接間へ向かった。応接間では既に掠夜が赤ワインを飲んでいた。
『こんばんは。あれ?醒さんはいらっしゃらないんですか?』
『醒はコンサートだよ。』
『ああ,そうだった。』
いつものように隣に座ろうと思ったが,グラスを置いてあることに気付き,掠夜の向のソファーに腰を降ろした。ちょうどよく都が上善水如と杯を持って来てくれた。
『ありがとうございます。』
『いいえ。どうぞ。』
都に注いでもらい,ひと口飲む。
『美味しい。』
『相変わらず日本酒が好きなんだな。』
『掠夜の赤ワインと一緒よ。』
そのとき気付いた。都のグラスにも赤ワインが注がれていることに。以前来たときには飲めないからと言って,烏龍茶があったはずだ。それが変わっていた。
なんとなく気に食わない。
だが,それを気にした様子も出さずにお酒を飲んだ。
『そう,都さんに渡すのがあるんです。』
大き目の紙袋に入っているのは頼まれていた化粧品や洋服。それらをどさっと渡すと,都はにっこりと微笑んだ。
『ありがとうございます。』
『どういたしまして。』
『いつもすみません,お手を煩わせちゃって。』
丁寧に頭を下げた都は大事そうに紙袋を持って部屋へ行った。
『侑の留学祝いは明後日だったよな?』
『うん。先に行って料理とか用意しているから。』
『玻紅璃の手料理か?』
『不味くても文句は受け付けないから。』
この言い返しに掠夜は小さく笑った。
『都とどっちが美味しいかな?楽しみだね。』
都と引き合いにされ,複雑になる。私は返事をしないで,ただお酒をのどに流した。美味しいはずの日本酒が,なぜか今日は苦い。
都が戻ってきてから料理のことなどを話していたけれど,どうしても上の空になってしまう。この空間そのものが嫌なのかもしれない。気持ちの乗らないことに気付いた掠夜は視線で問いかけてきたが,さりげなく首を振った。
スイートルームで過ごしたのが嘘のように,また気持ちがあの時のように戻っている。いや,あの時以上のわだかまりがあるのかもしれない。
『もう帰るわ。』
『え?』
掠夜は不思議そうに私を見てきた。その横で,都も不思議そうに見てきた。
『明日会議があるから。』
『そうか。都,片付けを。』
『はい。』
『じゃあね,都さん。』
『はい,失礼します。』
都が礼をするのもあまり見ず,バックを肩にかけて応接間を出た。
以前にもこんな事があっただけに,掠夜は何か言いたそうではあったが,何も言わずに一緒に玄関まで来てくれた。
『どうした?』
あの時と同じようにここで問いかけられたが,私は首を振った。
こんなモヤモヤした掴みどころのない気持ちなんて,口で言えない。言葉にも出来ない。
『大丈夫だよ,私は。』
『そうか?』
頭を撫でながら目で問う。その視線にくらくらしそうになりながらも,首を振る。
『平気よ。また明後日ね。』
掠夜の手を振りきり,私は洋館から出た。
胸につかえるこの気持ちがどうなるかも知らない。