戸惑い
都はカスタネットを叩きながら家中を歩いていた。掠夜のいないこの洋館はいつも以上に広さを感じ,音も響きが深くなった気がした。
(聞いたからって,何が出来ると言うのかしら?)
フラメンコを踊っている人のように連続でカスタネットを叩く。
その音がずっと響いていた。
醒はコンサートの練習をしていたが,力み過ぎた身体をほぐすために外へ出た。日中の強い日差しは夕方になっても衰えず,夕焼けが眩しい。
目を細めながら歩いていくと,見知った後姿に気付いた。早足にしてその人の肩を叩くと,心底驚いたようにして振り向かれた。
『よう,久しぶりだな。覚えているか?』
驚いた表情が数秒張り付いた顔が,一気に柔らかく変わった。
『醒さん。お久しぶりでございます。』
都は丁寧に頭を下げた。
『日中に出てバレないか心配で,出るのは止めたって掠夜に聞いたけど?』
『ええ,そうなんですけれど。でも,今日は掠夜さんがいらっしゃらなくて。ひとりでいるのが怖くて出てきたんです。』
そういう顔は,それ以上に強張ったように伺えた。
『へぇ,掠夜はいないのか。』
(これから行こうと思っていたが,しょうがないか。)
醒は予定が狂い,どうしようかと思ったときに,あることに気付いた。都を纏う空気だ。
微かに感じる,黒い力。
醒は聞くべきか悩んだが,声にならない声で歌ってみた。もちろん,彼女から何があったのかを聞き出すためにだ。だが,簡単には言わなかった。むしろ,醒から感じ取ったのか,怯えた目で見つめ返してきた。
『なんですか?』
『何が?』
珍しく気付かれたことが分かっただけに,シラを切る。首を傾げて見せるが,都はあまり納得していないようだ。
『だって,今……。』
『何も触れてないけど,どうしたんだ?』
ある種の強みを掛けて問い返すと,都は視線を逸らして首を振った。
本当なんだな。
何か疼いている。
玻紅璃はホテルのレストランで掠夜を待っていた。以前あれこれと迷って決めた黒いドレスにアクセサリーをアクセントとして付けていた。普段は幼いが,化粧と洋服でいつもと雰囲気は違う。大人な雰囲気だ。しかし,胸中はそうでもなさそうである。夜景が煌いて綺麗なのだが,緊張で身体は硬直気味だ。掠夜の家以外で2人きりで会うのは,今夜が初めてだからでもあるし,この場の雰囲気に圧されているからでもある。
『お待たせ。』
うしろから声がかかり,振り向くとスーツ姿の掠夜が立っていた。普段からシックな装いだが,スーツは初めてである。さらにドキドキするが,掠夜に微笑んで見せた。
『いいえ。』
掠夜は席に着き,ワインをオーダーしてから玻紅璃と向き合った。
『緊張しているのか?』
『だって。こんな所で待ち合わせしたのも,食事をしたこともないのよ。』
『見れば分かるよ。』
見透かされている言い方に,拗ねて視線を逸らす。
『拗ねるなよ。』
そう言いながらテーブルにカードキーを差し出した。
『スイート用意したけど?』
驚く玻紅璃に,掠夜は涼しげな笑みを浮かべて見つめた。口元を片方上げて笑っていても漂う雰囲気が優しくて,玻紅璃は一気に機嫌が直った。
『うん,ありがとう。』
ワインを注いでもらい,掠夜は玻紅璃にグラスを掲げた。
『乾杯。』
玻紅璃もグラスを掲げ,それから口をつけた。濃厚な葡萄の香りと,それでいて爽やかな口当たり。掠夜らしい濃い赤のワインであった。
『それから。プレゼント。』
小さなケースを差し出される。思いも寄らない展開に目を丸くしてしまうが,それでも嬉しそうに笑って受け取った。
『玻紅璃に似合うと思ってね。』
『何かしら?』
『開けてもいいけど。』
早速,といわんばかりにリボンを解き,ケースを開けた。中にはサファイアが輝くピンキーリングであった。
『綺麗。』
おねだりしようかと思っていたジュエリーをもらえたことと,掠夜からの初めてのプレゼントに嬉しくて涙が出そうであった。
『ありがとう,掠夜。』
『いいえ。貸して。』
差し出された手にケースを乗せると,掠夜は指輪を取り,玻紅璃の左小指に付けてあげた。そっと手に口付けを添えて。
醒と食事を終えて掠夜の家に帰ってきた都。誰もいないこの洋館は,いつも以上にひっそりとしていて,不気味だ。それが掠夜に似合っているとメンバーは思うのだが,都はそんなことも知らず,ここにいる自分に情けなく思っていた。しかし,家にいるよりはマシなのだ。
真っ先にシャワーを浴び,ベッドに倒れこむ。家では決してしない動作だが,今はしたかった。倒れこんですぐはいけない事をしてしまったようで落ち着かなかったが,段々と柔らかなベッドに飲み込まれるような,なんとも言えぬ安心感があった。
実家を出て約1ヶ月。両親も心配だし,自分のこれからも心配である。
『どうしましょう?』