芽生え
侑は通知を持ってバーに来た。葵と何度か来ているし,友達とも来るようになってからはバーテンダーとも顔なじみになった。いつも1杯目は何も言わなくても出してくれる。おれのお気に入りのゴッドチャイルドを飲み干し,それから通知を開いた。
この通知は,推薦留学の合否の通知である。
ワーストからベストに登りつめたとはいえ,腕の良い精鋭揃いの友達から留学枠を勝ち取るのはかなり難しい。おれ自身,受かるかどうか不安であった。もちろん力を使えば合格間違いなしだが,そんなことで勝ち取ってもこの世界では意味がない。
自分の腕でやっていかなければならないのだ。
ドキドキしながら内容を見る。裏から透かせば文字がやたらと書いてあって余計に緊張した。
息を吐き,覚悟を決めてから目を通す。一瞬見間違えじゃないかと思った。だが,書かれている文字はなぞっても消えない。合格だ。
『やったっ…!』
小声で感激し,ガッツポーズを小さく決める。
(これで行ける…!)
飲みながら通知を見てニヤニヤしていたら,バーテンダーがやってきた。
『なんだかご機嫌ですね。ラブレターですか?』
明るく笑い,通知を見せた。目を通したバーテンダーは驚いたように声を出し,それから笑顔を向けた。
『素晴らしいですね。おめでとうございます。』
そう言い,お祝いとしてマリネとゴッドチャイルドを出してくれた。
『さんきゅ。ほんと嬉しいよ。』
『いつからウィーンに?』
『9月に入ってからだな。』
それからまた通知を見る。何度見ても気持ちの良いものだ。
しばらくして,葵と玲がやって来た。この2人もよく一緒にいることが多い。掠夜と玻紅璃の関係も怪しいが,こっちも怪しく感じてしまう。それを言うと不機嫌になるから絶対に言わないけど。
『珍しいな。』
『いや。祝い酒なんで。』
照れくさそうに言うと,玲が目を丸くした。
『誕生日だったの?』
『違うよ。留学が決まったんだ。』
『あら。それはおめでとう。』
あっさりとした祝辞だが,心はこもっていた。侑は軽く頭を下げる。
『1年間の留学でしたよね?』
『ああ。上手くいけば,延長出来るんだけど。そこまでは無理かなぁ。』
自分の実力は分かっている。そこまで楽観は出来ない。だが,葵はにこやかに首を振った。
『きっといけますよ。聞くたびに音の質が変わってきているから。』
さすがは楽団の1人。耳が良い。侑は葵の評価に満足し,グラスを空にした。
『じゃあ,今度みんなでお祝いをしましょうよ。そうね…掠夜の家はダメだから,醒の家でいいでしょ。』
『醒さんに了承を取らなくていいんですか?』
玲はアドニスをのどに流し。クスッと微笑んだ。
『私が言えば平気よ。じゃ,いつにする?』
玲はすっかり楽しみ,3人で予定を合わせて日取りを決めていった。
玻紅璃は綾子が起こした事件の記事を読んでいた。
『相次ぐ音楽家への受難…アホらいいタイトル。』
いくらアホらしいタイトルでも,内容はどす黒い。
自分たちの力がいかに人様から見れば得体の知れないものであるか。また,犯罪に当たることや倫理観から外れていることなど。それらは全て承知していることである。それでも使っているのは,その人個人の思惑があるからだ。ただそれも,表面に出すのではなくあくまで裏でのこと。
表には決して何も残さない。
しかし,こうして大々的に表に出し,悪びれることなく使って人の生命をクズとしてきた行為。もちろん,綾子個人の思惑があってしたことは分かる。分かるが,それを許せるわけがない。
今まで隠してきた意味を消されたのだから。
『持ってる力を使うのはいいけど,その方法と考えがダメだったのね。』
玻紅璃は蔑むように呟いて雑誌を閉じた。
『同じような人が出なければいいけれど。』
そう言いながらも,都を思い出した。彼女は確実に持っている。その勘は外れていない。ただ,問題は彼女がどう思うかだ。掠夜からはもう少し様子を見ようと言われたが,これ以上待てるような気はしていなかった。
きっと自分の力を知れば,殻に閉じこもるだろうと思っていた。
鳥籠から出たのに,また籠に戻ることはない。
掠夜は初めての楽団と打ち合わせをしていた。クリスマスコンサートということで今回は合唱も入るのだが,今日はオーケストラのみ。曲調やイメージの意見交換をしてその楽団としての味を理解し,そこに掠夜のスパイスを仕込んでいく。楽団員はまだ30歳にも満たない指揮者に戸惑っている様子だが,話し込んでいくうちに掠夜の天才肌に感嘆してのめり込んでいく。
そこが掠夜の強みでもあった。
ただ,今日はどことなくいつもの力が出ていなかった。昨夜の玻紅璃との別れ方が気に引っかかっているのだ。
それに気付かれることなく終え,釈然としない気持ちで車を走らせて家に向かう途中,ある人に気付いた。都だ。なるべく家にいようとしているのでどうしたのかと思って声をかけようとしたが,あることに気付いてそのまま車を走らせてパーキングエリアに停め,都のあとを追いかけた。
都はあとをつけられていることに気付く以前に,どことなくボンヤリとしている。
どこに向かうのかと,この辺りの地図を頭に浮かべる。この先には公園と病院しかない。さらに歩くと,浄水場があるだけだ。いったいどこへ向かっているのだろうか。家の中では見ない行動を不審に思いつつあとをつける。
着いた所は病院であった。
そして,不思議なことに,病院が近くになるにつれて都の周りに見えない黒い靄が漂っていた。
やはり芽吹いていたのだと思うのと同時に,本質を知りたくなった。だが,さすがに病院内まで付けていくわけにも行かず,掠夜はそこで引き返した。
CDや楽典を買いに行ったりしたので,掠夜が家に着いたのは21時に近かった。さすがに都は帰っており,いつも通りに玄関まで迎えに来ていた。
『暑いので,そうめんを茹でておきましたけれど。』
『ああ,じゃあ少しだけ貰うか。』
食べる気はなかったが,話をしたかったので承諾した。
ダイニングに行くとテーブルにそうめんや付け合わせが並べられていた。
少しだけ口にし,都を見る。
『茹で加減が悪かったのでしょうか?』
味に文句を付けられると思った都が先制して言うが,掠夜は肩を竦めて首を振った。
『今日どこかへ出かけたか?』
思いもよらぬ質問に,都はハッキリと反応していた。怯えているような,後ろめたいような。そんな反応。
『別にお前がどこへ行こうと構わないが,似た人を見かけたからだよ。』
少し優しい口調で言うと,都は軽く息をはいて力を抜いた。
『病院へ行っていたんです。』
『病院?どこか具合でも悪いのか?』
『いいえ,違いますわ。えっと,その…友達のお見舞いと思いまして。』
掠夜はとっさの嘘であることを見抜いていた。
『へぇ,そう。何か聞いてきたのか?』
『え?』
都はドキリとして掠夜を見つめる。
(なぜ?)
『ま,いいや。ご馳走様。』
都の反応だけを頼りに推測し,掠夜は満足そうに微笑んで自室へ向かった。
残された都は片付けながらも,テーブルに置いてあるカスタネットを見た。