Skeleton
綾子の耳に入った音は,ピアノの音。曲はベートーヴェン作曲『テンペスト』第3楽章であった。『嵐』という題名だけに,曲調は激しい。
荒波がぶつかり合い,木々が横倒しになる。そんな強さを感じる音色であった。プロの腕前ではないことは明らかだが,惹きつけられる音。綾子は掠夜が普通に動ける事に気づかず,聞こえてくる音に気を取られていた。
だが,それはすぐにほかの事にすりかわった。
自分が確実に撃ち殺した醒,玲,葵,侑の身体から弾丸がポトリと抜け落ち,傷跡が消えたのだ。そして,頬に赤みが増し,ゆっくりと瞼が開いた。
(なぜ!?)
死んだ者が蘇る様を見せられ呆然としてしまう。慌てて我に返り,また撃ち殺すために拳銃を持ち上げようと力を込めた。だが,出来るわけがない。掠夜が見えないロープで締め付けているのだ。身動きが取れず,4人が生き返る様を見る羽目になった。
「うー,変な感じだ。」
侑が撃たれた額を撫でる。その横で醒は肩をもみ,硬直した身体をほぐす。
「やぁだ。服に血が付いちゃったじゃない。困るわ。」
「洗濯してもおちないでしょうね。」
拭き取って血が消える段階が過ぎてしまった服をもったいなく思ってため息をつく玲と葵。
「サンキュ,掠夜。」
「いや。玻紅璃だ。」
「そうね。」
「テンペストですよね。強い…。」
耳を澄ませばまだ聞こえるピアノの音色。最初から最後まで吹き荒ぶ雨のように,人の心の窓を叩きつけていた。
掠夜が片手を振ると,綾子は崩れるようにソファーに沈んだ。拘束を解いたのだ。
「なんて人たちよ…!!」
この言葉を聞いて,その場にいる全員が顔をしかめる。確かに,自分の持つ力が世間的には悪いとみなされることは自覚している。だが,その力を乱用して,挙句利用したいから同業者を扱き使おうとした人の口からは言って欲しくない。
「これでもまだ利用したいのか?」
呆れた声で言った醒を睨む。
「だから私は−−」
「見捨てられたくないだけですよね?」
開けられたドアに視線が集まる。玻紅璃だ。4人を生き返らせただけに,ひどく疲労感を窺える。それでも彼女はしっかりと立って綾子を見据えた。
「あなたの力に目を付けた彼から見捨てられたくないんでしょ?」
ビクリと肩を震わせる綾子。図星の証拠だ。
「あなたの彼は記者。あなたが起こした一連の記事を書いていますよね。ゴシップ雑誌の売り上げを上げるために,あなたに頼んでいたんじゃないですか?」
「どうして?どうして分かったのよ?」
今の綾子は,始め見た強さも余裕も全くなかった。追い詰められた小動物のように,弱々しい。
「記事には必ず記者の名前が入ります。その9割が同じ名前でした。あとは勘です。」
「たったそれだけで?」
「あなたは全く私たちを知らない。知ろうともしてない。頭から私たちを丸めることしか考えていなかった。それは,彼に指図されていたからだと思います。私たちを知ろうとしていれば,‘下に付け’なんて言えないはずですから。」
綾子は眉をひそめる。
「上に立てば,楽に操って力を使えるじゃない。」
「分かりませんか?私たちは対等に付き合っているんです。誰かが上に立つ事もなく,誰もが卑下する事もなく。命令することは絶対にしません。何かあるときは,頼むことしか出来ないんです。断られても,それは仕方ありませんから。」
それが私たちであると,全員が頷いて綾子を見る。
こうなれば,綾子の完敗である。
玻紅璃はゆっくりと綾子に近づき,泣き崩れる彼女の手から拳銃を取り上げ,肩を撫でた。
「彼に見捨てられたくない気持ちは分かります。でも,他人を消してまでするのはおかしいですよ。」
優しい言葉。だが,それは一切届かなかった。
「あんたなんかに分からないわよ!!」
綾子の荒んだ激しい気持ちをぶつけられ,伸ばしてきた手に首を掴まれそうになる玻紅璃。
しかし,その手は届かなかった。
綾子は虚空を見つめてソファーに倒れ込んだ。何が起こったのか分からなかった。分かったのは掠夜だけ。
指揮を振り,彼女の精神を破壊したのだ。
腕の振り具合で楽器を操る以外にも出来ることではあったが,これは極みに近いことであった。その証拠にひどく辛そうに息をしている。
「掠夜……。」
「その女をこの館から追い出してくれ。」
「ああ。だけど,お前…?」
駆け寄ろうとする醒の腕を掴む玻紅璃。
「私が弾いてきますから,早くその女性を。」
「そうか。じゃあ頼む。」
死んではいないが,魂をも抜き取られたような綾子を醒と葵で運び,玲と侑は応接間を片付けた。
その間に玻紅璃はグランドピアノまでなんとか行き,ベートーヴェン作曲『月光』の第2楽章を弾いていた。4人も生き返らせていただけに,弾く力は若干弱かったが,それでも掠夜の力を戻すには十分であった。
弾き終わると,玻紅璃はゆっくりと椅子から降りて床に伸びた。息は短く,汗も掻いている。そんな彼女を抱き上げ,ゆっくりとキスをしたのは掠夜だった。
「ありがとう,玻紅璃。」