乾杯
古めかしい,けれども頑丈そうな扉に付けられたドアノックをたたき付けると,すぐに扉は開かれた。誰もいないのにだ。
それは,この家では不思議なことではない。いたって普通のことである。だから,俺も驚きはしない。
俺は玄関に入り,扇状の広間の真ん中に立ち,皮製のアタッシュケースをそっと置く。その音ですらこの部屋に響いた。
(相変わらず音響はいいね。)
響きに納得し,深呼吸をする。かび臭いのとは違う,古い空気が肺に送られる。それとともに,血のにおいが鼻をかすめた。
(またか。)
肩をすくめ,それから大きく息を吸った。
口から流れるのは先日のコンサートで独唱した歌曲で,感情が溢れ出る調子のいい声だった。
突然声が耳に入った。
「相変わらずだね,その声は。」
バルコニーのように突き出ている2階から顔を覗かせて言ったのは,黒いロングコートを着た男性であった。
「まぁね。お前も相変わらずだろ?」
ロングコートを着た男性はニヤリと笑み,指揮棒を舐めて見せた。
「まったく。」
「ひさびさだな,お前が来るのは。」
俺はアタッシュケースを持ち,2階に上がる。
「掠夜のコンサートの批評をしに来たのさ。」
「批評だなんて,悪趣味だな。」
ロングコートを着た男性・掠夜は顔を顰めて見せるが,声は笑っている。
「で,どうだった?」
「パーフェクト。」
掠夜は当たり前と言うように笑み,俺は鼻で笑った。
「いつでもお前はそういう奴だよな。」
「まぁね。立ち話もなんだ,こいよ。」
掠夜はロングコートをサッと脱ぎ,壁に投げるける。ロングコートはまるですべきことが分かっているようにふわりと飛び,壁掛けに下がった。俺もそれに習ってコートを投げる。掠夜のロングコートと同様,隣の壁掛けに下がった。
掠夜と俺は応接間に行き,ソファーに座る。するとどこからともなく赤ワインのボトルとグラス,そしてチーズやチョコレートなどが盛られたお皿が出てきてアンティーク調のテーブルに置かれた。
「相変わらず働くやつがいるのか。」
「ああ,俺を気に入ってくれてるからな。」
「何言ってるんだよ。お前のタクトだろ。」
そう言いながらグラスを掲げる。それに合わせて掠夜も同じようにする。
それから俺たちはコンサートのことを話し合った。
程よい酔いが回った頃,俺は今日の獲物を聞いた。掠夜はいつも選り好みをしていないと言うが,やはり今回も20代の女性だった。
「やっぱ狙ってんじゃん。」
「そんなことはないよ。相手が来るだけさ。」
関心ない様子でグラスを口に運ぶ。
「俺の魅力が分かるのが,その位の年齢ってことさ。」
「いたずら心のあるおば様ってやつも来そうなんだけどな。」
「そう言うお前はどうなんだよ?」
掠夜が俺のグラスにワインを注ぎながら聞く。これを待っていたんだよな。
俺はアタッシュケースから札束を出した。全部で2000万は下らないはずだ。
「またたくさんだね。」
「当たり前だ。」
「お前の声は人を惑わすからな。」
クスリと陰のある笑みを向ける。
「まぁな。」
「今回はどうやって?」
俺はニヤッと笑み,状況を語り始めた。