New Moon
空は暗く,都市の明かりで見えにくい小さな星が,精一杯の光を出している。その中で,夏の大三角がひときわ目立って見えた。それから視線をはずし,ヴァイオリンケースをゆっくりと開ける。
生暖かい風が頬を撫でる。昼間の熱の余韻が纏いつくように感じて,鬱陶しいわ。
弾く時としては,不釣合いな時。
弦も弓も,しけって重い。
それでも私はヴァイオリンを肩に当て,調律をする。悪くないわね。
私はゆっくりと弓を引いた。
暑さを忘れるような,浮遊感漂う音色。大音量ではないのに,当たり一面に響き渡る。
それがまた,妖しくも,美しい。
しばらくして,10代の女性が来た。最近はオヤジばかりだったので,珍しいと思いつつ彼女の顔を見る。頭の軽そうな感じ。
「あなたはどういった御用件で?」
「信じらんねーよ。」
言葉遣いもなってないのね。うざったいわ。
「だから?」
嫌な気持ちが大っぴらに出ている声に,彼女は少しだけすくむ。面倒臭いわね,まったく。
私は緩やかな曲調を弾く。だが,彼女には通じなかった。
怒鳴られて育って来た子のようだ。そこで,激情な曲をきつく弾いた。それはもう,脅すような雰囲気で。すると,最初はビクッと身を縮めた彼女が焦って話し始めた。
「だって,イキナリ別れるとか言うんだよ。しかも,新しい彼女と寝ながら!!信じらんないよ!なんであんな年増に寝取られなきゃならないわけ!?死んで祟ってやる!」
あーあ,なんか嫌な感じ。寝取られて悔しいからって死ぬの?くだらないわ。
さっさと落とそうかしら。
「年増の女性に彼を取られたのが嫌だから死ぬの?」
呆れ返った口調に,彼女はカッとした。
「悪い!?なんで私が別れなきゃならないのよ?あんな年増のどこがいいわけ!?」
だから死ぬの?あーもう,馬鹿な生き方ね。
さっさとケリを付けてあげるか。ヴァイオリンを弾く手を止め,弓でマンションの端を指す。
「さっさと落ちなさいよ。死んで祟るんでしょ?何迷っているの?」
冷たく,あっさりと言われ,彼女は堅く口をつぐんだ。
これだけ喚いているのに,肝心なところでは踏み込めないのね。だらしない。さっきの意気込みはどうしたのよ?
世話が焼けるわね。
再び弦に弓をあて,息を深く吸う。そして,滑らせるように手を引く。
その瞬間,何かが引っかかった。
背筋がざわざわとする。ひんやりしたものが這って行ったように。
嫌な予感。
強い何かを感じ,手を下ろす。
私は急いでヴァイオリンをしまい,屋上の入り口階段を目指す。
「ねぇ!なんで行っちゃうのよ!?」
忌々しい。なんであんたなんかに付き合わなきゃならないの。
「この先は自分で決めることでしてよ。他人なんかを当てにして甘えるんじゃないわ。さっさと落ちればいいじゃない。」
漂って来るどす黒いい雰囲気が強くなるにつれ,自分の口調も切り刻むような冷たさがあった。それを身に沁みた彼女は絶句する。
口も身体も動かせぬ彼女を尻目に,私はその場を去った。
先程までいたマンションの前の公園に来て,深呼吸をする。ここなら大丈夫。
さっきのはなんだったのかしら?ふと気になって屋上を見上げる。うざったい彼女が屋上の端に危なそうに立っているのが見えた。いざって時は,震えるみたいね。私があのまま弾いていれば,夢見心地で落ちれたのに。かわいそうにね。
あと2歩ほどで落ちる所まで来た彼女。どれだけ時間を掛ければいいのかしら?
そう思った瞬間。人影が見えた。
彼女以外の人影が。
そして,彼女はまっ逆さまに落ちて行った。
何,今の!?
自分の手で下したのならこんな思いはしない。むしろ清々としているわ。でも,今のは明らかにおかしいじゃない。
翌日,新聞に自殺の記事が載った。もちろん,あの彼女だ。失恋の末に,なんていう題が付けられていた。
それが間違えということは,私しか知らない。