Witch
夏休みに入った。友達は海外へ勉強しに行ったり,バカンスしているというのに,俺は相変わらず朝っぱからか教授の猛特訓の毎日であった。
冷房が入っているとはいえ,密閉している防音の練習室に1日缶詰にされるとたまらない。でも,甘えられない。
時計の短針が4に振れたとき,ようやく教授から解放され,カフェテリアに足を向けた。
綺麗に整えられている庭園を眺めながら,アボガドとサーモンのサンドイッチを頬張る。考えてみれば今日初めての食事だった。上手い。ここのコーヒーもおかわり自由のわりに味がいい。金のない大学生にとっては良心的だな。
なんて思っていたら,声を掛けられた。
「ここ,いいかしら?」
声を掛けてきたのは,40歳に近いくらいの女性。ショートカットで,キャリアウーマン的な雰囲気を持っている人だ。
ただ,上手く言えないが嫌な雰囲気が身体を走った。
空いている席はありそうだが,なんで俺の隣なんか来たんだか。ま,関係ねーや。
「どーぞ。」
残りを食べ,コーヒーを飲み干す。うん,充電満タン。
トレーを持って立ち上がったとき,また声を掛けられた。
「あなたはトランペットを吹いているのよね?」
質問だが,確信を得たような口調。なんなんだ?
「はぁ。専攻はトランペットですけど,何か?」
「いいえ。ずいぶんと上手になったんだと思って。頑張ってね。」
上手になった?俺,この人知らないぞ。なんで俺のこと知っているんだよ?
薄気味悪い思いをしながらも,軽く頭を下げてその場をあとにする。ずっと視線で追われている事に気付かずに。
練習室に戻り,再び猛特訓。こんなにしごかれているのは俺くらいだ。まぁ,それだけ下手だってことなんだけど。実際,落第させられそうになったし。力持っててどれだけホッとしたことか。それを玻紅璃さんに見られたのはまずかったけどさ。
「うん。よし!」
今までにない位力の入った褒め言葉。少ないけど,俺にとってはかなり嬉しい。
「ビリからトップのレベルだ。頑張ったな。」
えぇ!?まじで!?
「ありがとうございます!」
「なに,お前の頑張りが良かったんだ。これで気を抜くなよ。これからも精進だ。」
「はい!」
信じられないほど嬉しい。自分じゃ分かんなかったけど,かなり上達していたんだ。ラッキィ。
その日の夜。気分が良くて,葵さんに教えて貰ったバーに足を運んだ。20歳になったお祝いに教えてくれた店で,時々一緒に来る。20歳代があまりいないバーなのでちょっと浮いてしまうが,味のよさを考えればここを離れたくない。そんな店だ。
ゴッドチャイルドを少しずつ飲み,時間を過ごす。
30分ほどたった頃だろうか。奇遇にも,葵が入ってきた。重そうな様子はなく,チェロを持って俺の隣に座る。
「侑も来ていたんですね。」
「ええ。飲みたくなったんで。」
葵は目を開く。
「嫌な事でもあったんですか?」
俺は,思わず鼻で笑った。自棄酒するよーな俺じゃねーよ。
「トランペットの腕が上がて,嬉しかっただけ。初めて教授に褒められたもんだから。ガキっすよね,俺。」
自分で言っておきながら,自分の幼さを感じてちょっと恥ずかしかった。だが,葵は優しく微笑んだ。
「上達して良かったですね。侑は頑張っていたから。」
「葵さんは十分上手いじゃないか。そういう葵さんは何で来たんだ?」
軽くため息をつき,キールに口を付ける。
「知らない女性にチェロについて色々聞かれてうんざりしたんです。いわゆる自棄酒ですよ。」
ん?俺の記憶に何か引っかかった。
女性だ。
昼に会った女性。なんとなく寒かった。
「自棄酒っすか。よければ付き合いますよ?」
なんて冗談を言ってみる。前の俺だったらこんなこと絶対言わなかったね。褒められるって,人を変えるもんだな。
「珍しいですね。じゃあ付き合ってもらいましょうか。」
そう言って,葵はグラスを掲げた。
楽器を持った男性2人がカクテルを飲む姿を,じっと見ていた女性がいた。マンハッタンを口に付け,微笑む。
赤いカクテルに妖しく写っていた。