手を掛けて
これほどまでに重く圧し掛かる声を,未だかつて聞いたことがあるだろうか。
玻紅璃は首に手を掛けただけで,力は入れていなかった。だが,掠夜は凄く苦しい思いをしていた。表情には出さなかったが,縛り付けられているような思いをしていた。
「玻紅璃?」
「私の大事な友達だったのよ。なのに掠夜が……。」
玻紅璃は手を掛けたまま,掠夜の胸に額をコツンとあてた。
「掠夜の力とか,水珂の無用心さとか。そんなことは分かっている。だけど…!!」
涙が溢れる。
水珂の死を悼んだ涙。
彼女を助けられない痛みの涙。
掠夜は無表情で,ただ玻紅璃の背中をさすっていた。弁解も,説得も,謝罪することすらもする気は全くないようだ。
「赤ワインを見て悲しそうにしていたのは,友達の死を思うからか?」
コクンと小さくうなずく。
「じゃあさっきの赤ワインは?」
「水珂への手向けよ。」
「ふ〜ん。けど,本当に俺がその水珂って人を食べたと思うのか?」
そう言ったとたんに,玻紅璃の手に力が込められた。
「クッ」
息が詰まる。
「水珂は散歩中に攫われたとかお母さんたちは言っていたけれど,そんなわけないじゃない。そんな形跡もないのに。散歩道に怪しい所なんて,ここしかないわ。そして,貴方。それから,私の勘。」
ほかの誰でもない。掠夜が手を掛けたとしか思えない。玻紅璃はそう強く思っていた。
だが,それに反して徐々に手の力が弱まる。
「俺に黙って付いて来たのも,水珂に関係すると思ったからか?」
「そうよ。」
掠夜は軽く息を吐く。
「素晴らしい勘だね。で,俺をどうする?殺すなら今の内だけど。」
玻紅璃は何も言わずに首から手を放し,抱きついた。
「殺してやるって思っていたけれど,許せないって思っていたけれど,無理ね。水珂が残っているのならまだしも,もういないし。殺したところで水珂が戻ってくるわけでもないし。それに,同業者を消すのはやめているから。でも―――」
抱きついていた手をいったん放し,掠夜の右手を掴む。
「私が殺されるのは,許せないわ。」
一転して暗い,冷ややかな声で言う。それから掠夜の顔を見る。彼は表情を一瞬崩すが,すぐに口の端を吊り上げて軽く微笑んだ。
「玻紅璃の勘には勝てないな。もう手を掛けないよ,君にはね。」
「それが掠夜のためでもあるわ。」
「どういう意味だ?」
「私のピアノの音。掠夜には生かす方で弾いたけど,少し細工をさせて貰ったの。私に手を掛けたら,掠夜も死ぬから。」
目を細めて彼女を見る。
「本当よ。試してもいいけれど?」
数秒,玻紅璃を見つめる。玻紅璃は見つめ返し,このあとの展開に気を付ける。
だが,掠夜の表情からは何も読めなかった。読み取ろうとしても,遮蔽されているようで感じ取れなかった。‘食えない人’と思っていると,その表情が一転して笑いに変わった。闇の,陰のある笑みに。
「油断も隙もあったもんじゃない。なかなかだよ,玻紅璃は。」
「あの時,私にとどめを刺しておけば良かったんじゃない?」
皮肉めいた笑みを浮かべて言う。それには首を横に振られた。
「仲間にして良かったよ。今までで最高だね,玻紅璃は。」
そう言い,玻紅璃の顎に手を当てて唇を重ねた。