No.02 抱擁
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顔面に垂れてきた水の感触で目が醒めた。
──これが、朝露。言葉でしか知らなかった事象を目の当たりにして、なんだか妙にわくわくする。自分はほんとうに世の中のことを何も知らない。
あれからユウハとハヨはそこそこの距離を稼いでから、適当な山の中で夜を過ごした。山といってもちゃんとした自然はもう田舎にしかない時代、まだまだそれなりの規模の集落が見えるような場所だから、ここはたぶん人工的に造られた公園の一種だろう。昨日の休憩地点のような子ども向けの遊具が主流のものではなく、野生動物の保護を目的とした施設。
もちろんこれは、頭の中の知識と照らし合わせて導いた推論でしかない。
ユウハは外界のことがわからない。幼いころに特定収容所に連れて行かれて、以来ずっと分厚いコンクリートの壁の中で生きてきたのだ。見聞きできたのは施設内で研究用に扱われている幾つかの動植物だとか、あとは収容所の職員の事務室などに侵入して得られる、新聞や雑誌やインターネットからの情報くらいなものだった。
そしてそこで見つけたあるひとつの事実が、こうしてユウハを脱走させた。
それはきっかけでもあるし目的でもある。そのためには野垂れ死ぬことも連れ戻されることもあってはならない。生き延びて、絶対に、成さねばならない。
ただ、たぶんきっとものすごく時間がかかることだろう。まずはこの世界での生活の基盤を整えなくてはならない。
だからこうしていろんなものを見て、感動する、そういう些細な時間も必要だ。
花が咲いているのも。鳥が空を飛ぶのも。人間が何か金属製の細い乗りものに跨っていることも。新聞という薄灰色の紙を、朝や夜に配っている人間がいることも。
何もかもが物珍しくて面白い。
ハヨはどうだろう。恐らく国立研究所でユウハと近い生活をしてきたであろう彼女も、見慣れない世界に面食らっていることだろうが。
と、思って隣を見ると。
「──っ!?」
なんと説明したらいいのか、そこには、まさしく初めて見る光景が広がっている。
ええと、端的に言えば人間だ。人の形をしている。黒髪で、肌はなんというか白くすべすべしていて、けれどもあらわな身体の上には、いくつも無残に変色している箇所があった。
そう、身体のあらゆる部位が丸見えになっている。素っ裸なのである。
誰だこれ。
真っ白になった頭で懸命に考える。隣にいたのはハヨのはずだがこれはどう見ても人間の、女の子だ。だいたいユウハと同じくらいの歳だろうか、気持ちよさそうにすうすう寝ている。
周辺に猫らしい姿は見当たらない。少女の髪や体毛の色は猫のそれと似ている気がしなくもない。
あと、裸。昨日歩きながら見た限りでは外界の人間たちにも裸で外を歩き回るような習慣はないらしい。そしてハヨが、服がないからヒト型にはなれない、と言っていた。
以上の情報を統合して考えるに、これはハヨなのではないか。
「で、でもなんで……?」
たしかに寝たときは猫の形をしていたはずだ。眠っている間に何があったんだ。
いやそんなことより女の子の裸をこんなにまじまじと観察していいものではないだろう。保護施設にいたときも、風呂やトイレは男女できっちり分けられていて、ふつうに生活していると絶対に見る機会はなかった。積極的に見てみたいと思ったりしたわけではないが、そういう考えを持った他の子が職員から諌められている現場なら見たことがある。
──異性の裸なんてみだりに見たり見せたりするものじゃないんですよ!
とか、どうとか。
もちろん無断でコンピュータを拝借して覗き見たインターネットの世界や、雑誌の隅には、そういう情報が少なからず掲載されている。だから画像という形でなら見たことがある。
でも生のほんものとなれば話は別だ。
肌の質感。なめらかな曲線。どきどきしながらそっと頬に触れると、当たり前だけれど温かかった。
ときどき現れる赤茶色や紫をした染みのようなものは、怪我の痕だろうか。腹のところが規則的に上下しているから、これが作りものじゃなく生きているのだ、と感じさせる。
そしてその上に、ユウハにはないふくらみがある。腕で隠れてよく見えないけれど、たぶん、ふたつ。
手足はすんなりと伸び、……ああいけない思わずじっくり眺めてしまった。もし今ハヨが起きたらこの状況をどう思うだろう。
ただの猫として扱えと言われてはいるけれど、あれはあくまで彼女が猫の形態でいることを想定したうえでの会話だったじゃないか。
妙な肌寒さで目が醒めた。
夕べはそんなに寒くなかったのに、と思いながら目を開けると、顔のすぐ傍に手が見えた。ユウハかと思ったがそれにしては色白だし、爪がいやに尖っている。それに細い。
──なんだか私の手みたい、
「っ!?」
不測の事態を脳が処理するよりも速くハヨは起き上がろうとしたが、ずり下がっていく布の感触にすんでのところで思いとどまった。見ればシャツを一枚羽織っている。というか、寝ている間にかけられた感じだ。
咄嗟に鼻を動かす。この、においは、ユウハだ。
ついでに視線を感じてのろのろと首を回すと、すごく申し訳なさそうに眼を逸らしつつもちらちらとこちらを見ている、上半身裸のユウハがいた。
「あの、ごめん、不可抗力で……」
とかなんとか言っている。
ハヨはユウハの半裸とシャツを交互に眺め、自分の裸体を見、それからようやく処理の終わった頭で考えた。寒いのは裸だったからで、シャツはユウハが着せようとしたものだろう。
「……え、や、やだ……!」
絶叫とともにずるりとハヨの身体を黒いものが覆っていった。体毛に包まれながら少しずつ大きさを変えていき、最後には小さな猫の姿になる。ほんの数秒ですっかり変身してしまった。
そうなるともはやシャツは不必要に大きいわけで、自然と脱ぎ捨てられた恰好になる。
しかし心情的にハヨはその中に潜り込んだ。そして顔だけをひょっこり出して、「……見たの!?」と詰問調で騒ぐ。いや、見たも何も、ついさっきまで裸だったのだが。
ユウハはユウハで力なく謝り続けるしかなかった。ごめん、でもどうしようもないだろ、と。
それもそうだ。ハヨが姿を変えるのは自分の意思でなのだから、ユウハを責めるのはお門違いにもほどがある。それでも、どうしても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
……それに。
「寝てる間に無意識に変えちゃったとか、そういうことってよくあるの?」
「……たまに。むしろあっちだと、基本的にα型……ヒトでいたから、寝るときも……」
「あ、じゃあヒト型で寝るほうが自然なんだ」
猫の姿、研究所ではβ型と呼んだが、そのままで寝ることは少なかった。だからだろうか、それとも慣れない野宿で寝ぼけていたのかもしれない。
しかしだからって、いきなりこんな失態を晒すはめになろうとは。
「……見た、よね、身体」
「ごめん、あの」
「すごく汚いでしょ」
「……」
さすがにこれにはユウハも、そんなことないよ、なんて甘い科白を口にしたりはしなかった。
ハヨがヒト型になりたくなかったのは、単に服を持ち歩くのが面倒だから、猫のほうが逃げやすいから、だけではない。傷跡だらけで醜い身体を見たくないからだ。猫や動物の形態なら毛に隠れて見えないけれど、ヒトになると体毛が薄くなって、どうしてもむき出しになってしまう。
人に見られるのは当然として、自分でそれを見るのも、苦痛だ。
服を着てもふとした瞬間に見えてしまうかもしれない。それに着替えるときに否が応でも眼にすることになる。
だから一生猫で生きようと思ったのに。
ユウハはどう思っただろう。彼も育った環境が特殊だから、もしかしたら似たような傷を負っているかもしれないけれど、それでもハヨほどひどくはないだろう。ハヨのこれはわざわざ惨く残るようにつけられているのだから。
──あの人が。そうやって、躾をした。
「……大丈夫、訊かないよ。僕らは似たもの同士なんだから」
ユウハはそう言った。それから、シャツはもう返してもらっていいかな、とも。
それが彼なりの優しさなのかもしれない。ハヨは返事の代わりにシャツから抜け出し、まだ寝起きで固まったのがほぐれていない身体を、背を反らしてよく伸ばした。精一杯、ほんものの猫のようなしぐさで。
私は猫だ。
そう、心の中で何度も復唱する。もう人間には戻らない。猫として生きていくんだ。
「今日はどうするの」
「もちろん追っ手には捕まらないように引き続き逃げる。それから、もう少し世の中のことを勉強しよう。僕らははたぶん、かなり世間知らずで、非常識だろうからね」
「勉強って、どうやって? それにそんなことしてる暇があるの?」
「暇は逃げながら作るしかないなあ。とにかく色んなものを見るんだ。どんなものがあって、どんな場所に人がいて、どんなふうに社会が機能しているのか。それを知るんだ。
そして最終的には、この国に順応して生きていくのさ」
あまりにも非現実的な言葉に、ハヨは黙って瞬きをする。
ハヨもユウハも世間からまともに認知されてすらいない存在だというのに。だからこそユウハの言うところの世間知らずで非常識なのだ。世界から隔絶されて、これまで教えられてきたことといえば、自分を支配している人間たちにとって都合のいいことだけ。
よくわからなくて頭が痛くなってくる。ユウハと一緒にきたのは間違いだったのかもしれない。
それこそハヨひとりだけなら、どこかの田舎の野山にでも逃げ込んで、そこで誰とも出会わず静かに暮らすという選択肢だってあったのに。
けれどそんなハヨの思考を許さないらしいユウハは、逃げられないようにハヨの身体を抱き上げて、やっぱり彼のまだ広くはない肩に乗せた。
この少年は何を考えているのだろう。何のために逃げ出して、これからどこへ向かうのだろう。
……どうしてその道連れに、ハヨを選んだのだろう……。
「そろそろ行こうか。あ、ハヨが寝てる間に食べられそうな木の実とか探してみたんだけど、猫って植物食べられるっけ?」
「まあ好んでは食べないけど、いただくわ」
歩きながら、ふたりはぽつぽつと会話を続ける。
昨日までのようには弾まないが、それでも途切れることはなく、とにかく眼についたものすべてを話題にした。たとえば住宅地で、複数の人間が大きな袋に入ったものを両手に抱えて、ある一点を目指している光景だとか。袋は一箇所に集められ、あとからやってきた車にどこかへと運ばれていく。
あれは一体なんだろう。人間たちは車を見ても何も言わないから、袋を持っていかれることは了解しているらしい。
少しだけ近づいてみてみたら、袋の表面にはなんとか区指定ごみ袋と印刷されていた。
なるほど、人間たちはごみを捨てただけなのか。でも車はごみなんか集めてどうするんだろう、と気になって追いかけてみたところ、なんとか市ごみ処理場という場所に向かった。そこには他にも似たような車が何台もあり、やはり大量のごみ袋を積んでいる。
「施設の廃棄物ってさ、ダストシュートから直接焼却炉に落ちる仕組みになってたよね」
「そうなの? うちは飼育担当者が定期的に持っていってたから、その先どうなってるのか私は知らなかった」
どうやら特定と国立研究所でも多少システムは違うようだ。
完全に闇の世界である特定はどうだか知らないが、研究所はその名のとおり国家が設立した施設である。職員は公務員であるし、それそのものは認知されている。ただ、国民の生活を向上させるための研究が行われている、ということになっている。
それも全く嘘だというわけではない。研究所はとにかく大きくて、あらゆる分野の研究室を内包しているからだ。中にはそういうまっとうな開発をしている部署もある。
ハヨのいた、生物学分野のいち研究室が特別に狂っているのだ。
あそこではいろんな生物のシンテシスを作っていた。中には生物ですらないものと掛け合わされた人種もあった。──シンテシスはすばらしい、ヒトによって作り出された、ヒトを超えた芸術品だ!
それが、あの人……ハヨを作った男の口癖だ。
褒めちぎるわりに、彼のシンテシスそのものへの扱いは非常に乱暴だった。歪んだ思想を思えばそれも不思議ではなかったが。
彼は、自らが失敗作だと断じた者に関しては、一切の関心を失うらしい。運がよければ次の実験のために細胞を提供する名目で生かされるが、そうでなければ放置された。他の研究員にも手出しを禁じていたため、多くは何を訴えることもできないまま、部屋の隅で衰弱して死んでいく。
逆に気に入られた者は、それはそれで悲惨だ。毎日あらゆるデータを採取され、身体の隅々まで観察され、肉体的にも精神的にも干渉しつくされて支配される。抵抗しようものなら気絶するまで暴力を振るわれる。逃亡できないよう拘束具を着けられた者もいるし、ハヨのように身体の大きさが一定でない場合には、わざと残るように傷をつけられる。
首輪や足枷でなかっただけ、逃亡がしやすかったのはありがたい。
でもこんな姿にされて傷つけられたのは身体だけではない。心ごと鞭打たれてきたのだ。
ハヨには、男とは別に飼育担当者がいた。ちなみにこれは半分動物だから教育ではなく飼育という言葉を用いるらしい。飼育担当者は女性で、ハヨにもそうだが、あらゆるシンテシスたちに対して無関心な人だった。
ただ毎日決まった時間に食事を与え、身体を洗い、溜まったごみを捨て、汚れた服と新しいものを取り替えるだけの人。ハヨたちの身体を見ても何も言わず、思えばろくに口をきいた覚えがない。
そういえばハヨは彼女の名前さえも知らないのだと、今さらのように気づく。
「……飼育担当者かあ」
ハヨの言葉を繰り返すユウハの声音は、どこか硬い。肩口に頬をうずめているハヨには彼の表情がよく見える。冷たい朝の空気に晒された頬はかさかさに乾いていて、剃刀の刃のように尖っている気がした。
「ああ見てよハヨ、あっち、若い人がたくさん集まってる。しかもみんな似たような恰好だ」
「似たっていうかほぼ同じ衣装じゃない」
「たぶんああいうのを『制服』って言うのかな。みんなで支給された揃いの服を着させられるのは施設外でも同じらしいね」
見たところ集まっているのはハヨやユウハとそう変わらない年頃の男女で、全員が同じ方向を目指して歩いている。中には自転車に乗っている人もいた。彼らが目指している先には、ひときわ大きな敷地があって、白っぽいコンクリート造りの建物を中心に大小さまざまな建築物が集まった、奇種児童収容所と似た雰囲気の施設がある。
あれが学校か。覗いてみたい気もするが、このまま近づくと誰かに気づかれる恐れがあった。
ふたりは現在かなりの高さからそれらを見下ろしている。地上から見上げても、太陽が眩しくてはっきりと確認できない程度の高度を保っている。
むろん飛行自動車の類が現れれば即座に見つかってしまうが、飛行装置のある乗りものは安全のためこういった住宅街の上空では使用が禁止されているので、まだ事件にならないで済んでいた。そういうこともユウハは考えているらしく、昨日から逃走経路はもっぱら住宅地だ。脱走の下準備の時点で彼はかなり外界のことを勉強していたのだろう。
法律やら社会常識やらについてハヨはまったく自信がない。半分獣である己の特性上、苦労して人間に混ざるより動物として生きる予定で飛び出してきたのだから、仕方がないとも言える。
「……たぶん僕らと同じくらいの年齢だよね、あの人たち。ってことは、どうにかしてあの服を手に入れられたら、だいぶん目立たなくなるんじゃないかな」
ユウハはそう言いながら自分の服を見下ろしていた。今朝がたハヨにかけられた、白地にグレーの線が入った何の変哲もないシャツと、同色のズボンだ。とりあえず派手な恰好ではないが、一般人がこれを見てどう思うかはふたりには難しい想像だった。
むしろ、いかにも……研究施設の実験体が着ていそう、なんじゃないか。そんな不安が滲む。
ハヨも国立研究所では似たような衣装であった。あちらはご丁寧に大きく研究所のマークが印刷されているから、着て出歩いたら目立つどころの話ではない。何をしなくても衆目を引いてしまうだろう。
「そうね。でもどうするの? あの衣装を手に入れる場所も方法もわからないでしょ」
「うん、まあ……なんにしろ合法的な手段っていうのはまず不可能だろうから、適当なところから盗むしかないね。たぶんそう高価なものじゃないだろうし、盗難してもそれほど騒ぎにはならないと思う」
「どうかしら。一般人が騒がなくたって、私たちを探してる連中からすれば充分な情報になるんじゃない」
そうしたら発信機つきの生命維持装置を壊した意味がなくなってしまう。
ハヨの言葉に、ユウハは黙って頷く。彼とてそんなことは百も承知なのだった。ただ今は一刻も早く世の中にとけ込み、その辺の一般人のふりをして生きていくために、必要な環境を整えなければならない。
そのために最初は幾らか危険を冒す必要が出てくるだろう。服装はそのひとつめといっていい課題だ。
「ま、盗むにしても場所はこの周辺でなくてもいいし、もうちょっと移動しておこう」
ふたりはまたゆっくりと歩き始める。遠くには混雑する空送高速路が、朝の太陽に炙られて金色の光を散らしているのが見えた。ちょうど通勤する社会人が殺到している時間帯らしい。
誰がどこへ行き、どんな仕事をしているのだろうか。
ふたりが知っている大人というのは分野こそ違えどみんな「研究員」だったから、そうじゃない生きかたをする人間のことは、よくわからない。実際には研究職の割合のほうが全体に比べて少ないのだが。
とりあえずわかっていることといえば、生きるためには誰もが何かしらの職を得なければならないということだ。毎年、今年の就職率はどうの失業者数がどうの、各産業で機械化が進みすぎて求人数がどうのとニュースや雑誌で騒ぎ立てられている。これまでそういうこととは無縁な世界に生きてきたけれど、外に出てきた以上はそうも言っていられないだろう。
必要なものを毎度どこかから盗んでいては手間がかかりすぎるし、警察だって馬鹿ではあるまい、いつかは捕まってしまうだろう。そのとき身分が知れれば施設に戻される。その先にどんな事態が待ち受けているかは想像したくもない。
一度脱走した身、もう二度と過去に戻るわけにはいかない。
とにかく。ハヨは猫のままでいいとして、ユウハはどうにかして働いて賃金を得ねばなるまい。その場合気になるのは、どこの誰とも知れないこの少年を雇うような、奇特な人間がいるかどうか。
ユウハはどう考えているのだろう。まさか何の算段もなく身ひとつで逃げてきたわけではないだろうが、ハヨがそっと彼の横顔を伺ってみても、何の答えも見えなかった。
ほんとうに、なんなのだろう、彼は。道連れにハヨを選んだ理由もその目的も、何もわからない。まだ知り合って間もないのだから当然といえばそうかもしれない、だが命を預けあっている関係なのだから、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
けれど、恐らく、彼に腹の内を明かさせるということは、ハヨもすべてを曝け出さなくてはならないということだ。
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暗がりの中に、『彼女』はいた。わざと照明を小さくしてあるのだ。光がなければ生きられない彼女の身体を、できる限り自由にさせないために。
苦しいのだろう、小さな呻き声が漏れていて、こちらの胸を軋ませる。
男は扉の傍にある操作盤に触れる。スイッチが切り替わり、照明が数段階いきなり強くなる。
照らし出された室内の壁は至るところが植物の蔦のようなもので覆われていた。その隙間から白銀の壁さえ覗いていなければ、まるで南国のジャングルのようだった。たが、部屋はそれにしても寒く、これも『彼女』の自由を縛るための工夫のひとつだ。
さらに操作を続けて室温を上げると、蔦植物はゆるゆると伸び縮みのような動きを見せた。それは次第に活発さを増してゆき、最終的には何本もの蔦が一斉に男へと襲い掛かる動きをしたが、男のほうではまったくそれに恐れの姿勢を見せなかった。
蔦は一本一本が大人の腕ほどに太く、棘があるものとないものがあった。団扇のような大きな葉が不規則につき、細い蔓がゆるやかなカールを描く部分があり、全体が鮮やかな緑色をしている。その一本が男の肌に触れた瞬間、蔦は先ほどまでの勢いを突然失ったようで、そのまま男に纏わりつくことも攻撃することもなく、他の蔦も同様にして、次々にだらりと地面に落ちていった。
「スーラン、俺だ」
男は蔦に向かって呟いた。いや、その視線は蔦植物の根本、もはや樹と呼んだほうが差し支えないほどのひときわ立派な茎あたりに注がれている。
そこに、女性の姿があった。背をぺったりと後ろの植物に預けている、ように見える。
服は着ていない。細い蔓が身体の上を覆うように纏わり尽くしているので、着る必要がないというのか、着用することがそもそも不可能というか、そういう感じだ。
スーランと呼ばれた女性は項垂れていて表情は見えない。ただ、よく眼を凝らしていたなら、彼女の頬を何かが伝っていったのが見えただろう。
「……会いたかった」
「ああ、俺もだ」
「でも……こんなふうに会うのは、嫌だったのに……」
「ああ、……俺もだ」
ふたりはそれきり喋らなかった。ただその沈黙を許さないというように、室内に無機質な通信音が響き渡った。それから低い、初老らしい男性の声が、男の首に嵌められた鋼鉄の輪から聞えてきた。
『ヴィルフェルム、フィリアフロラの登録番号をおまえの管理ボードに登録しろ。それからFFの固定装置を外す。
おかしなことは考えるんじゃないぞ、確認がとれるまでロックは外さんからな』
男は黙ったままスーランの前まで歩いていく。彼女の身体にも、埋め込むようにして金属の装置がいくつか設置されていた。その表面に記されている十桁ほどの番号を、己の首輪に付属している端末に入力していく。
これで彼女はこの男から一定以上離れられないことになるのだ。設定距離はおよそ十五メートル前後、離れた瞬間スーランの身体を激痛が走るように設計されている。
そして男自身はというと、距離の設定こそないものの、いつでもこの建物と通信された状態になっている。何か怪しい動きをすれば、この首輪が男を苦しめるような信号が送られてくる。男は主から逃げられないし、女は男から逃げられない、これはそういうシステムなのだ。
番号を登録して数秒後、再び老人の声でロックを外した旨の通信が入った。
男はスーランの肩の後方に腕を回す。彼女の背中に、その身体をこの部屋に縫い付けておくための固定装置があるのだが、植物と一体化している──もっと正確に言うならば彼女自身がこの植物そのもの。装置は茎のさらに後ろにあって、そうしなければ手が届かない。
彼の後ろ姿はまるで、スーランを抱きしめているように見えた。
「……いつかきっと、おまえを、自由にする」
スーランにその呟きが聞えなかったはずはない。だが、彼女からの返事はない。
ただ、その身体から伸びた幾本かの細い蔓が、まるで抱きしめ返すように男の背を包んでいた。
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