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追われる獣

アクセスありがとうございます。作者の実アラズと申します。


・この小説はフィクションであり、実在する個人・団体・その他何もかもと無関係です。

・ジャンルはSFと書いて「サイエンスっぽい・ファンタジー」と読みます。

・大昔に書いた作品を手直ししたものです。設定等はほぼ当時のままなので、多量の厨二病要素を含みます。


 注意書きは以上です。よろしければ本編へどうぞ。

:::


 銀杏の並木道に、破線状の水の染みがあった。

 その先は道路からはだいぶ外れた路地裏に続いていて、恐らくは水滴を垂らした犯人であろう、一匹の獣に辿りつく。昼寝中の猫である。

 なめらかな毛並みは明らかに彼女が──そう、この猫はメスなのである──どこかの飼い猫であることを示している。しかし首輪の類はしていない。色は黒に近い焦げ茶色で、ところどころにクリーム色の斑模様がある。

 彼女は一見してよく眠っているように見えるが、その耳は先ほどから神経質そうにぴくぴくと動いていた。

 これは何だろう? 彼女は五感を研ぎ澄ませて近づくものの気配を掴もうとする。

 鈴の音。

 そして人間の足音。感覚が狭いのは走っているからだろうか。

 猫はそこで諦めたように眼を開けた。双眸は美しい翡翠色をしていて、日陰のために瞳孔が大きく開いている。

 それから、……彼女は人間みたいに、小首を傾げる仕草をした。

 ざらざらと小石を削るような音も聞こえた。では、あの鈴の音は自転車のベルか。ああ、なんだ、自転車なら気に留める必要もなかったのに。

 瞳に安堵の色を浮かべると、猫は再び眼を閉じた。

 もう少しだけ休もう。夜になったらまた、移動しなくてはならない。


 しかし彼女の思いは次の瞬間、尾への強烈な圧迫感と痛みで文字通り踏みにじられることになった。ぎゃっと鋭い悲鳴があがる。

 無遠慮に踏んだのは誰?

 猫は頭上を見上げる。ただでさえ寝起きで眼が据わっているのに、怒りが混じって半開きになったその顔は、どうにも威嚇するチンピラのようだった。


「あ、ごめんね。痛かった?」


 見下ろす顔は逆光でよく見えなかったが、その声からしてまだ若い人間の男だということがわかった。謝ってくるなら殊勝だなと猫は思ったが、彼は何を思ったか、そのまま猫に覆いかぶさってきた。

 ぎょっとして身を固める彼女の両脇に手を入れて、人間は慣れた手つきで彼女を抱きあげる。

 目線の高さが同じになって、やっと彼の顔が見えた。といってもこれといって特徴はない。眼と鼻の穴がふたつあって口がひとつある、どこにでもいる何の変哲もない人間だ。

 ただ、歳はまだ十四か十五くらいだろうか。くるみ色の柔らかそうな髪と、少し青みがかった灰色の眼に関しては、少し日本人らしくないと言える。


「さて、僕ものんびりしてられないんで、もう行くけど」


 そのとき人間はなぜか、僕「も」と言った。


「きみも一緒に来る? このままここにいると、すぐ捕まっちゃうよ」


 そして、よくわからないことを言った。

 猫は無言だった。当たり前である、人語を解する猫などいない。

 けれども少年はそれを見て満足げに笑うと、そのまま彼女を肩に載せた。不安定な足場に猫がおっかなびっくり縋りつくのを、爪が痛いなどと軽く笑ってから、再び彼は歩き出す。……いや、違った。

 その脚は空を掻いて、そのまま進む。

 あまりの光景に猫は眼をまるめて地面を見下ろしたが、そこには見たこともないおかしな影が落ちているだけだった。それが指す事実はたったひとつだけ。

 ──この人間は、空中を歩いているのだ。

 ああ、と、小さな声がした。猫が鳴いたのだ。

 しかしそれは恐怖からでも驚愕からでもなかった。ただ納得したのだ。この人間が近づいてくる気配がまったくなかったこと、無抵抗に尾を踏まれてしまった原因に、彼女はやっと思い至った。


 奇種児童。


 日本各地で彼らが確認されたのは、今から四十年ほど前のことだったろうか。

 大元を辿れば、百年以上前の大災害に遡る。世界最高感度と謳われた災害予知システムのレーダーをすべてかいくぐり、日本およびアジア東部に壊滅的な被害を与えた『鋼雨』。

 化学物質の混ざった鋼色の雨が各地に降り注ぎ、農作物や自然を軒並み破壊したという、未曾有の大事件であった。

 その二次被害として報告されたのが、彼ら奇種児童である。

 鋼雨によって汚染された土壌から取れた作物、海産物、さらには大気中の残留成分など、その原因はいくつもある。ともかく母親の胎内で濃縮されたそれを受け取った子どもたちが、奇妙な能力を得て生まれてしまったのだ。

 些細なものから、下手をすれば人に危害を与えかねないものまで。

 彼らに対し国家のとった政策はこうであった。すべての新生児の保護者に対して検査を義務づけ、陽性が出た子は特設された施設で保護する。そして能力をコントロールできるように訓練を施す。

 各種能力の研究も進み、その種類が明らかになってくると、施設は次第に細分化されていった。訓練を終えた者は施設を出ることができたし、本人の希望や能力に適した職が与えられた。


 少年は恐らくそのひとりであろう。

 しかし、猫は少し考えて、やっぱり何かが妙だと気づいた。施設から出てくるにはこの少年は若すぎる。

 つい最近最年少で卒業(施設から出ることを世間ではこう呼んでいる)したと話題になった人がいたが、それでさえ二十四歳だと聞いた。

 それにさっきの彼の言葉。


 ──僕「も」のんびりしていられない。

 このままここにいると、捕まっちゃうよ──。


「……あんた、どこの施設から脱走したの?」


 そのとき急に誰かの声がした。

 もちろん猫の鳴き声ではないけれど、かといってこの少年のものでもない。なぜならそれは女の子の声だった。

 唐突な言葉と奇妙な事態に、しかし少年は少しも驚かずに答える。


「特定、って言えばわかる? ……きみこそ、どこ出身なんだい、獣人さん」


 猫は瞬きをした。


「国立、って言えばわかるでしょ?」

「わあ……すごいね、これは奇跡ってやつだね」


 ひらりと少年の足が軽やかに駆けていく。肩に乗っかった猫は、ひげを靡かせて風を楽しんだ。ああ、今日は空がなんて青いんだろう。

 もしかしたらいつもこんな色をしているのだろうか。

 真下では銀色の街並みが流れるように過ぎ去っていった。しだいに都会らしい背の高い建物が少なくなり、次第に景色は住宅街が占めるようになる。

 そろそろ休憩しようか、と少年が言った。

 もう? 不満そうな声をあげる猫に、少年は苦笑いを隠さない。あのね、寝てたきみと違って僕はずっと走りっぱなしなんだよ……。

 なるほど彼の顔には疲労の色が滲んでいる。

 ふたりは少し議論して、公園と思しき四角い建物の上に降り立った。

 何年か前からあらゆる公共施設がこういう形になっている。四方を壁で囲い屋根を取り付け、入口にはセキュリティ会社のロゴマークがついている。登録された地域の住民でなければ中に入れない仕組みで、不審者対策とかいうらしい。

 知識としてそれくらいは知っていたので、ふたりとも中に入るような不用心な真似はしなかった。

 だからほんとうに少しだけ、ちょっとの間腰を下ろすだけだ。息を整えたらすぐに出発しなければならない。それはもうお互い了解している事項だった。

 「特定」とは「特定奇種児童収容施設」の略語であり、それに対して「国立」が指すのは「国立総合研究所」である。

 どちらも国家の重要な組織であり、そう簡単に出られる場所ではない。そこで働いている研究員などなら話は別だが、かたや空を飛ぶ少年、かたや人語を解する猫、どう見てもまともな職員ではないのは明白だった。


「……ところで名前、まだ聞いてなかったよね。僕はユウハ。きみは?」

「なんで名乗らなきゃいけないの?」

「だってこれから一緒に逃げる仲じゃないか」

「冗談じゃない。自分の追手を撒くだけで充分だってのに、特定まで引き受ける気はないわよ」


 猫はつんとそっぽを向く。

 どちらも、どんな事情があったかは知らないが、それぞれのいた場所から逃げてきたらしい。そんなふたりが出逢った偶然を、少年は奇跡と言った。

 けれども彼女に言わせれば、こんなのは当然だ。


「逆だよ。僕がきみを護ってあげる」

「……正気?」

「はは、もし正気だったら特定に入ってないし逃げてもいないよねー。

 でも本気だよ。どう? 悪い条件じゃないでしょ?」


 鋼色の眼が彼女を見つめる。鏡のようなそれに、ぼんやりと猫の姿が映り込んでいた。

 彼女に首輪はない。けれども、そこに繋がれた鎖はあるかもしれない。眼には見えなくても、何かに縛られているような気が、している。

 そしてもしかしたら、この少年──ユウハなら、彼の奇妙な力でそれを断ち切ることもできるだろうか。


「……、ハヨって呼んで」

「うん。よろしく」


 ハヨが前足を出して、ユウハが握手がわりにそれを柔く握った。

 信用できる相手かどうか、信頼できるかどうかはさておいて、協力するのも悪くはない。いざとなったらまた逃げればいい。そう思った。


 (でも、どこへ?)



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