男好きと婚約破棄された腐女子令嬢は、次の婚約者を護衛騎士と二人きりにしたい。――なぜか彼は私と二人きりになりたがります
「君のようなふしだらな女との婚約は破棄する!」
耐えきれないとばかりに張り上げられた青年の叫びが、夜会の広間に響き渡った。
伯爵令嬢イザベラは固まった。
その拍子に、手にしていた小皿から、さっき苦労して確保した最後の苺タルトが滑り落ちた。
「あっ、タ、タルトがっ!!」
「菓子を気にしている場合か!」
「い、いや、だって最後の一つでしたのに……!」
言ってから、あれ、待てよ、と先ほど目の前の青年が放った言葉を反芻する。
婚約。破棄。
いや、そんなまさか。聞き間違いだろう。
「あの、今なんと仰いましたか?」
つい先ほどまで確実にイザベラの婚約者であった男は、ふっと嘲るように笑い、目を細めた。
「君のような浮気性の女性を妻として迎えることは、絶対にできない。結婚が近付けば落ち着くかと期待したが、もう我慢の限界だ。」
「お待ちくださいませ。わたくし、浮気など一度も――」
「ならば今、君を囲んでいる男たちは何だ!」
その言葉に、イザベラを囲んでいた令息たちが一斉に身を強張らせた。
「い、いえ、皆様とは普通にお話を――」
「七人も侍らせておいて言い訳か!」
「違います、五人しかいません!」
正確に訂正したのに、なぜか広間が先ほどよりざわめいた。
後ろに立っていた男が「入れ替わりで二人来ただろ」とぼそりと呟いた。今は余計なことを言うな。お前とはもう二度と踊らない。
「そもそも数の問題ではない!そんな男好きの女を妻に迎えることはできないと言っているんだ。」
先に数を持ち出したのはそちらなのに。だが、そんなもっともな反論を差し挟む余地もどうやら残されていないらしい。
「私は君のハーレムに加わるつもりはない。失礼する。」
男は婚約破棄に関する書面を卓に叩きつけるように置くと、足早に去っていった。
残されたのはイザベラと、床に落ちたタルトと、ものすごく気まずそうな五人の男。
「い、今ならまだ間に合うかも!皆様からも説明してくださいませ!下心も後ろめたいことも何もない、ただの友人だったと!」
五人とも、驚くほど滑らかに視線を逸らした。綺麗な女とちょっと色めいた話をしてわいわい過ごすのは好きだが、面倒ごとには絶対に関わりたくない。そんな心の声が、全員から聞こえてくるようだった。
おい、お前たち。
つい先ほどまで、私の隣を取り合っていたお前たち。
その夜、イザベラは婚約者と、男を見る目への自信と、苺タルトを失った。
◇
「だから、男を侍らせるのはおやめなさいと言ったでしょうが。」
帰宅した娘を出迎えた母の第一声が、それだった。
「侍らせてなどいません!」
「では、なぜあなたの周りだけ、毎回男で渋滞するのよ。」
「皆様が勝手にお集まりになるからです!」
「そこでお前が牽制するでもなく、喜ぶからだろう。」
父がソファーに座ったまま嘆息した。手元には、元婚約者が夜会の卓に叩きつけていった婚約破棄の書面。兄はその隣で、静かにうなずきながら葡萄を食べている。
この家には、傷付いた娘に優しくするという文化がないのか。
いや、そもそも娘本人を含め、家族全員がふわふわと、なんとなくで世間を渡ってきた一家である。今さら優しさの作法を期待するほうが間違っているのかもしれない。
「浮気なんて絶対にしていません! 目の保養はしていましたけど、ダンスのとき以外は手を握ったこともありません。握ろうとした奴はハーレムから追放しました!」
「それは分かっているわよ。あんなに人目のあるところで騒いでいる子が、秘密の逢瀬の相手に選ばれるはずもないもの。」
そこで、母はそっと目を逸らした。
「……器用な子なら、もう少し上手に隠して遊べたのにね。」
「ひどいっ!私が馬鹿だって暗に言ってるのね!」
イザベラは寝込んだ。
たいへん不本意だった。確かに男の人は好きだ。美男ならなおよい。
彼らが自分の前で張り合ったり、肩を小突き合ったり、酒に酔って笑い合ったりするのを見るのは、非常に楽しかった。
だって、イケメンだ。そりゃ見たい。しかもたくさんのイケメンだ。集まれば集まるだけ良いに決まっている。
だが、眺めていただけである。
触っていない。食べてもいない。なのに今や、評判だけが満腹状態だ。
恋愛経験ゼロ、評判は百戦錬磨。ああ、何という損な人生。
世は無常。ああ、無情。
「くぅっ!せめて一人くらい、実際にいただいておけば……。」
「……そういうことを口に出すからよ。」
見舞いに来た母に、即座に叱られた。
違う。言ってみたかっただけだ。
そもそも「いただく」の具体的な手順もよく分からない。相手を部屋に呼んだあと、何を出せばいいのだ。お茶か。苺タルトか。
それでも、今年二十二になるイザベラは本気で困っていた。
ちゃんと結婚するつもりだったのだ。元婚約者はそこそこ男前で、普段は感じもよかった。将来の暮らしを想像したことだってある。
それが、あの一声で全部吹き飛んだ。
今から相手を探すにしても、この評判だ。もう二度と美男とは結婚できないかもしれない。
そこが、そこがいちばん痛かった。
ところが、その十日後のことである。
「おい、隣国の公爵家から縁談が来たぞ!」
父が書簡を握り締め、扉を突き破る勢いでイザベラの部屋へ飛び込んできた。
イザベラは思わず寝台から跳ね起きた。娘に苺を食べさせていた母もフォークを置いた。見舞いがてら来ていた兄も、食べかけの焼き菓子をそっと皿に戻した。
「顔は!?」
「まずそこか!?」
父は溜息を吐いて、書面を捲った。
「年は今年十九。隣国でも評判の良い、資産家の公爵家だ。なんと跡取り息子が以前夜会でお前を見かけたとかで、ぜひにと熱望しているらしい。」
母が不安げに眉を顰めた。
「不名誉な噂のある女性を?何か問題を抱えた方なのではなくて?病気か、容姿か、性格か。」
「分からない。ただ、できるだけ早く式を挙げたいとの希望が添えてある。準備のために、今月中にでもこちらへ来られないかと。」
家族全員が腕を組み、うーんと目を瞑った。なんとなく、まあいいか、で深く悩まずに生きてきた一家である。悩むという作業そのものに、あまり慣れていなかった。
「いや、でも、これを逃したら次こそ醜男からの求婚を断れなくなるかもな。」
しばしの沈黙の後、兄がぽつりと呟いた。
いや、しかし何かあるはずだ。イザベラは目を閉じたまま眉を寄せた。
確かにイザベラは美しかった。
腰まで届く艶やかな黒髪には緩やかなウェーブがかかり、瞳は甘く煮詰めた砂糖のような薄茶色。顔立ちは、本人の正直で考えなしな性格とは正反対に、妖艶と呼ぶにふさわしい美しさで、体つきも引っ込むところは引っ込み、出るところは素晴らしく出ている。どこからどう見ても、色っぽいとしか言いようのない女だった。
男が掃いても払っても寄ってくるのは、まあ、この見た目によるところが大きい。もっとも、いつも周りに侍っていた面々が結局気に入っていたのは、外見とは真逆の、歯に衣着せぬ物言いと妙に間の抜けた返しのほうだったのだが。
「そういえば以前、公爵夫妻とは挨拶を交わしたことがあったな。お二人とも、かなり端正なお顔立ちだったが――」
「行きましょう!ええ、わたくし、運命を感じました……!」
家族全員が目を細めてイザベラを見たが、誰も何も言わなかった。
母は静かに立ち上がると、衣装箪笥を開けて服を詰め始めた。兄は「隣国までの道を調べないとな」と呟いて、地図を取りに隣室へ向かった。父はもう返書を書いていた。
一致団結した家族の連携は素晴らしかった。
結果、イザベラは三日後、無事に馬車へ積まれた。
◇
公爵邸の応接間で待つあいだに、イザベラは覚悟を決めていた。
ものすごく横暴な男でも、顔が良ければ多少は我慢しよう。いや、多少にも限度はある。閉じ込められたら困る。食事を抜かれるのも困る。顔が良くても最低限の権利は確保せねばならない。
そこへ、扉が開いた。
イザベラは太鼓のように打ち鳴らされる胸をそっと押さえ、まずは薄目で扉のほうを見た。思っていたより顔面が残念だった場合に、うっかりショックを顔に出さないためである。
「お待たせして申し訳ありません。ジオラルドと申します。」
美。
え? 美!?
イザベラの頭から、それ以外の文字が消えた。
光を透かす柔らかな金髪。澄んだ青い瞳。白い頬。すっと通った鼻筋と、少しだけ緊張して結ばれた唇。背は高いのに威圧感がなく、笑った瞬間、精巧な人形が人の温度を帯びる。
待って。何だ、なんだこの輝かんばかりの美しさは。
ちょ、ちょっと、これは人間? 天使ではなく? え、なに、こんな天使がお迎えに来るなら昇天してもいい。
固まったイザベラを前に、青年は困惑したように目を瞬かせた。
どうやら本当に人間らしい。けしからん。こんなに美しい人間がいてもいいものか。どう見ても天使ではないか。
しかもその背後から、黒髪の騎士が姿を現した。こちらは精悍な顔立ちに、いかにも鍛えてありますという体格で、可憐な青年の隣に立つと妙に収まりがよい。
「ジオラルド様、襟が折れています。」
「どこだ?」
「こちらです。少し、顎を。」
騎士の手が青年の襟元へ伸びる。ジオラルドはイザベラの前で少しばかり気恥ずかしそうな表情を浮かべたものの、結局素直に顎を上げた。
「ありがとう、レオン。」
慣れた手つきで襟を直した騎士に、ジオラルドは小さく微笑んだ。
受け。ああ、受けだわ、この子。
その瞬間、イザベラの頭の中で記憶が爆発した。洪水のように押し寄せる、数々の記憶。
漫画、アニメ、同人誌、イベント、新刊、原稿、入稿、脱稿。
そう、前世としか言いようのないあの場所で、イザベラは確かに、そういう世界に深く足を突っ込んだ人間だった。
いや、深くどころか深淵に迷い込み、貴腐人と呼ばれる頃には二次元の男が全員受けに見えるという、ちょっと帰ってこられないところまで行った人間だった。
「も、萌え……。」
「イザベラ嬢?」
戸惑うように首を傾げた拍子に、柔らかそうな金髪がさらりと白い頬へ流れる。
リビドー! ああ、神よ!
彼こそは、神が我に与えたもうた理想の受け!
――敬虔なる我が信徒よ。汝の供給によって、数多の者たちが救済された。その善行の褒美として、脳内にしかなかった妄想をここに実体化しよう! しかもお前の好きな、ごつい攻め付きでな!
神の厳かな声が聞こえた気がした。
ええ、神よ、もちろんでございます。わたくしは理解いたしました。イザベラは扇をきつく握り締めた。骨が一本、嫌な音を立てた。
「イザベラ嬢、お顔が赤いようですが、お加減でも?」
「加減は、絶好調でございます。」
「そ、そうですか?」
「はい。むしろこの二十二年間で、一番頭がすっきりしております。」
それならよかった、と若干疑問符を浮かべながらもにこやかに笑うジオラルドを見つめながら、イザベラは静かに合点した。
今世で男性たちに囲まれながらも、ずっと感じていた違和感。そうか、私は単に男に囲まれたかったのではない。男が男とわちゃわちゃしているのを、見るのが楽しかったのだ。
そして今、その集大成がここにある。
金髪の可憐な令息と、無愛想な黒髪の騎士。きっと身分の差がある。忠誠があり、婚約者候補を前にした遠慮もあるだろう。でも、襟は直す。直すんだ。婚約者候補の女が目の前にいても、そこは許しちゃうんだ。いや、あの、過去編を見せてもらってもいいっすか。二人の出会いからお願いします。
「そ、それで、結婚式の日取りは――」
「ジオラルド様、まずは婚約のお話から。」
レオンに促され、そうだったな、と返すジオラルドの頬が仄かに色付く。
「その、ご両親からは既に前向きなお返事をいただいておりますが、イザベラ嬢ご本人のご意向もお伺いしておきたくて。もし――」
「お受けいたします。」
第三の目よ開け、二人の幼少期を見せたまえと熱心に祈りながら、イザベラは若干野太い声で答えた。
◇
ジオラルドには、誰にも言えない悩みがあった。
生まれつき頭が良く、剣の腕も立ち、何事もそつなくこなせる人間だった。礼儀正しく、品行方正で、奉仕活動にも熱心。公爵家の跡取りにふさわしいと、周囲からは一目置かれていた。それが当然だと思っていたし、疑問を抱く必要もなかった。整えられた環境で、騎士や事務官に囲まれ、与えられた課題や仕事を周囲の期待以上にこなす。それが、ジオラルドという人間のすべてだった。
しかし。
ここ二年、彼の脳内は、その評判が消し飛ぶほどの内容で埋め尽くされていた。
二年前。十七歳で出席した、隣国での外交夜会。いつものように薄い笑みを浮かべ、政治、経済、国際情勢、その合間に挟み込まれる見栄や損得勘定に少々うんざりしながら、そっと会場全体に目を走らせていたときだった。
大きな笑い声がした。見れば、何人もの男性に囲まれた、ひどく美しい女性がいた。
胸元が大きく開き、裾にも深く切れ込みの入った、似合う者でなければ下品にしか見えない煽情的なドレスを、彼女は完璧に着こなしていた。
男が軽口でも叩いたのか、彼女は片眉を上げ、次の瞬間ふっと妖艶な笑みを浮かべて何か言い返した。言われた男は、戸惑ったように頬を赤くしていた。
自分より体格も良く、年も上にしか見えない男を、まるで少年のようにからかい、手玉に取る、ひどく艶のある女性。目が離せなかった。
不意に、彼女の視線が横へ流れ、ジオラルドを捉えた。しまった、見すぎていたのに気付かれただろうか。
緊張で体が強張った瞬間、彼女はすっと目を細めて笑った。流し目。ジオラルドの欲望も願望も、すべて見通したような、からかう瞳。
全身が燃え上がったようだった。たまらず手にしていた酒杯を近くの給仕の盆に置き、その場を足早に辞した。
リビドー。あるいは、インプリンティング。
これまでジオラルドは、周囲の期待を裏切らないためにも、そういった方面は堕落を招くものだと己を戒め、深く考えないようにしてきた。それが、一瞬で瓦解した。
確かに清廉潔白という言葉がふさわしかった少年の頭は、その夜を境に、一気に桃色に染まった。
あの開いた胸元に手を差し入れてみたい。裾の切れ込みから覗く脚の、その先を見てみたい。下着は何色だろう。あれほど手練れに見える女性だ、寝衣もさぞ煽情的な……いや、もしかしたら何も着ず、香水だけを纏って眠っているのかもしれない。きっと寝所でも、戸惑う男をからかいながら、ときには甘く叱りながら、あれやこれやとするのだろう。
ジオラルドの夜は、たいへん忙しくなった。寝ても覚めても桃色の妄想が離れず、数か月が経つ頃には、妄想しながら別のことを考えるという、大変器用な思考法を確立していた。
ジオラルドは自分で自分が恐ろしかった。なぜ性欲とは、ここまで人間の脳を侵食するのだろう。性欲があるせいで、人類の生産性は数割落ちているのではないか。そう思いながらも、今が一番生きている気がした。
とにかく、ジオラルドは開眼した。そして生まれて初めて、強い欲望を持った。
彼女が好きだ。彼女と結婚したい。彼女とあれこれしたい。けれど、彼女には既に婚約者がいる。
相手は伯爵令息で、爵位こそこちらが上だ。しかし、年上の男。きっと彼女を満足させられるだけの経験を積んだ男に違いない。かたやジオラルドは年下で、しかもつい最近、性に目覚めたばかりの若造だ。
いっそしばらく隣国で暮らし、貢ぐでも縋るでも、プライドなどかなぐり捨てて迫るしかないか――などと本気で考え始めたときだった。
隣国の知人から、彼女が婚約破棄されたとの知らせが届いた。
これはもう運命だと思い、父の執務室へ駆け込んだ。
「彼女に求婚したいです。」
「待ちなさい。噂は聞いただろう。」
「存じております。」
「いろいろと、その、奔放な。」
「承知しております。」
「お前に扱い切れる相手とは――」
「扱っていただくつもりです。」
父が止まった。
ジオラルドも止まった。姿勢を正し、小さく咳払いする。
「……助け合っていくつもりです。」
母が窓のほうを向いた。肩が揺れていた。
そんな交渉を経て、ようやくやってきた憧れの女性は、実物を見ると二年前よりも美しく大人びていて、清楚な服の上からでも、たいへんけしからん体の線が見て取れた。
しかも彼女はこちらを見た途端に頬を染め、あっという間に婚約を承諾してくれた。
これは、いける。自分は無事、彼女のお眼鏡に適ったらしい。ジオラルドはそう確信した。
知人の話によれば、彼女は一夜に何人もの男を侍らせて奉仕させ、多いときには七人に相手をさせることもあるのだとか。噂というものは、町を一つ越えるごとに尾ひれが一枚ずつ増えていくものだが、ジオラルドはそこまで考えなかった。
過去に何人の男がいたところで構わない。結婚したあと、自分が一番になればよい。負けず嫌いなジオラルドは、そこだけは妙に楽観的だった。
旅の数日間、きっと彼女は悩ましい体を持て余していたに違いない。
ジオラルドは天使のような顔で微笑みながら、脳内で拳を握った。
その夜は、いつ呼ばれてもいいよう念入りに体を洗い、寝衣も三着並べて吟味した。軽く香りを纏い、緊張で顔が強張っていないか、鏡の前で何度も確認した。
扉が叩かれた。
来た。ジオラルドはどくりと跳ねた心臓をなんとか宥め、扉を開いた。
「夜食をお持ちしました。」
スープだった。ジオラルドはスープを飲んだ。
次に扉が叩かれたのは、朝、侍従が起こしに来たときだった。
きっと、旅で疲れていたのだろう。
ジオラルドは非常に前向きだった。
◇
翌日、イザベラは真剣な顔で、ジオラルドをお茶に誘った。
昨夜はなかなか寝付けなかった。慣れない寝台のせいでも、これからの暮らしが不安だったからでもない。
目を閉じれば、騎士の手に素直に顎を上げた青年の姿が浮かび、そこから実に様々な物語が始まってしまうのである。前世で培った妄想力は、二十二年も眠っていたとは思えないほど元気だった。
眠れぬまま厨房に夜食を頼み、ついでに、婚約者殿にも同じものをと気を利かせておいた。我ながら良い妻になれそうである。
とはいえ、本人の好みも知らずに話を進めるのはよくない。
あの護衛騎士との組み合わせは見た目も関係性も申し分なかったが、まだ見ぬ幼馴染や、表では敵対している好敵手がいる可能性だってある。まずは現状の把握だ。プロの貴腐人として、いきなり結論へ飛びつくような浅はかな真似をしてはいけない。
既にかなりの結論へ飛びついていることには気付かず、イザベラは茶器を置いた。
「ジオラルド様は、どのような方がお好きですの?」
茶器を持ち上げかけていた彼の手が止まった。予想外の質問だったのか、青い瞳が戸惑うようにこちらを見つめ、それからほんの少し横へ逸れる。
「どのような、というのは……。」
「お顔立ちや、ご性格ですわ。年上がお好きか、年下がお好きか。たとえば、お二人きりになったときには、どのように接していただきたいのか、とか。」
「ずいぶん、具体的にお聞きになるのですね。」
「ええ。とても大事なことですもの。」
断言され、ジオラルドは静かに姿勢を正した。
なるほど。昨夜お呼びがかからなかったのは、こうして先にこちらの好みを確かめるためだったのかもしれない。やはり経験のある女性は違う。不慣れな相手に合わせるための下調べまで、きちんと行ってくれるのだ。玄人はさすがだ、とジオラルドは内心でイザベラにそっと尊敬の念を送った。
遠慮していては伝わらない。十九歳のジオラルドはそう自分を励まし、目の前の女性へ視線を戻した。
「年上の方が、好きです。よく笑って、ご自分の考えをはっきりおっしゃるような……僕がためらっていても、あまり気にせず近付いてくださる方でしょうか。」
「まあ。少々強引なくらいに?」
「ご、強引……そうですね。こちらがどうしてよいか分からずにいるときも、リードしてくださると、うれしいと思います。」
耳まで赤くしながら、至って真面目に答えている。
ああ、これはいけない。何がいけないというわけでもないが、とにかく、いけない。この青年は自分の美しさを分かっているのか。その顔で恥ずかしそうに目を伏せながら、年上に手を引いてもらいたいなどと。
イザベラの脳内で、余裕のある年上男性が急速に形を成していった。微笑みながら手を取り、こちらへおいでと呼ぶのもよいし、何を遠慮していると少々呆れたように引き寄せるのもよい。うむ、どちらも捨て難い。ここは本人に、もう少し詳しく聞いてみなくては。
「たとえば、こうして近くでお名前を呼ばれたり、お顔を覗き込まれたりするのは、お嫌ではございません?」
気付けば、少し身を乗り出していた。
ジオラルドは目を瞬かせ、近付いた彼女の顔を見たまま、何か言おうとして口を閉じた。頬の赤みが一段と濃くなったので、イザベラは慌てて元の位置へ戻った。熱心に聞きすぎた。出会って二日目の女にこれでは、恥ずかしくもなるだろう。
一方ジオラルドは、ここから口付け、あるいは軽い触れ合いが始まる流れだと盛大に期待していたため、イザベラが座り直したことを少々残念に思っていた。いや、待て。これはもしや、焦らしというものではないか。さすが百戦錬磨は違う、と心の中で深くうなずいた。
「……嫌では、ありません。僕は、そういうことには不慣れですから。大人の包容力のある方に、教えていただけたらと。そ、その、いろいろと。」
なるほど。よく笑い、物怖じせず、気安く話しかけてくるような包容力のある年上の相手。そんな男なら、これまでの人生でいくらでも見てきた。自分の周りにいた男たちを思い浮かべ、その中から余裕と包容力のありそうな顔を選んで、目の前の青年の隣へ置いてみる。
たいへんよい。これは、たいへんよろしい。
そこでようやく、もう一つの疑問にも答えが出た。
イザベラは、普通の男性なら、とりわけ目の前の天使のように純粋な青年ならなおさら、絶対に敬遠するような、男遊びが激しいという評判まで立ち、婚約を破棄された身だ。対してジオラルドは、一点の曇りも弱点もなさそうな公爵家の美青年。なぜ、わざわざ自分が選ばれたのか。
公爵家の嫡男である以上、妻を迎えないわけにはいかない。しかし、彼が本当に求めているのは、包容力のある年上の男性。普通の令嬢を迎えれば、後々面倒なことになるだろう。その点、既に男遊びが激しいと評判の女なら、自分も好きにする代わりに夫の恋にも口を出すまい。しかも、縁談を断る余裕もなさそうである。
なるほど、なるほど。我ながら、あまりに辻褄が合いすぎて感心してしまった。
噂は事実ではない。ないが、美青年の秘めた恋を、最も近い特等席から、しかも衣食住の心配もなく見守れるというのなら、これはもう願ったり叶ったりである。
何だ。もっと早く、そう言ってくださればよかったのに。イザベラは内心でぽんと膝を打ち、深く深くうなずいた。
「よく分かりましたわ、ジオラルド様。わたくし、あなたのお気持ちを大切にいたします。」
イザベラは微笑み、卓の上に置かれた彼の手へ、そっと自分の手を重ねた。ジオラルドがぐっと息を止めたことには気付かず、心からの理解を示すため、目を合わせてしっかりとうなずく。
「世間には、言いにくいこともございましょう。でも、わたくしにはお気遣いなく。ご遠慮なさらず、お好きなようになさってくださいませ。」
「……ほ、本当に、よろしいのですか?」
「もちろんです! わたくし、できる限りお力になりたいと思っておりますもの。」
ジオラルドの口元が、そこで堪えきれずに緩んだ。
内心の欲望も妄想も、すべて見抜かれてしまったらしい。甘い飴色の瞳から、思わず目を逸らす。まさかこれほどまでに自分の好意が伝わり、受け入れてもらえるとは。お好きなように。少し低めの、艶のある声で囁かれた言葉が、脳内で何度もこだまする。
ここまで彼女が言ってくれたのだ。素人といえど、ここは行かねばならぬ場面に違いない。身を寄せて「お好きなように」の詳細を尋ねるべきだろう。もしかしたら実演も入るかもしれない。
そう考えたところで、彼女の手が離れた。
「ですから、一番親しいご友人を紹介していただけません? あなたのことを、もっとよく知りたいのです。」
ジオラルドは、浮きかけた腰を椅子へ戻した。しまった、考えすぎて機会を逸した。いや、後悔先に立たず。次こそは即座に行こう。
内心で落ち込みつつ、イザベラの言葉を反芻する。ご友人。今の流れからすると若干遠回りな気もしたが、相手はプロである。調査にも焦らしにも余念がないということなのだろう。それに、自分に関心を持ってくれていることは間違いない。ここは喜ぶべきだ。
「もちろんです。僕のことをよく知る幼馴染がおります。それから、普段もっとも側にいるレオンにも時間を取らせましょう。」
「ジオラルド様にとって、大切な方々ですのね。」
「大切?……そうですね。気を許せる仲、というものでしょうか。」
気を許せる。もしや身体も――と危険な方向へ走りかけた妄想を、イザベラは茶を飲んで何とか押し戻した。この容姿だ。周囲に一人や二人、密かに彼を狙っている男がいたとしても何の不思議もない。いや、先ほどの好みから考えれば、既に想い人がいる可能性さえ高い。
誰なのか、できるだけ早く見極めねば。
「これから、楽しみですわね。」
「はい。」
二人は同時に笑みを浮かべた。互いにあらぬ方向の下心しかない笑みだったが、どちらも、相互理解がずいぶん深まったと確かな手応えを感じていた。
◇
「つまり、お前のいいところを、彼女の前で話せばいいんだな。」
数日後、公爵邸に呼び出されたカイラスは、一通りの説明を聞き終えるなり、面白がるような笑みを浮かべた。
二十三歳になる子爵家の次男で、明るい茶髪と人好きのする顔立ちをした青年である。幼い頃から両家の付き合いが深く、ジオラルドにとっては兄のようでもあり、ときどき余計なことを言いに来る面倒な友人でもあった。
「わざとらしくならない程度に頼めるか。その、彼女にもいろいろと安心してもらいたいんだ。」
「そうだな。真面目で、何事もそつなくこなす天才で、可愛い見た目に反して実はかなり男らしいやつです。もしもの夜に備えて寝衣にもこだわり抜くなど、何事にも手を抜きません、とか。」
「おい、誰に聞いた。」
即座に問うと、扉のそばに控えていた侍従の青年がそっと顔を伏せた。なるほど。あとで少々話をする必要がありそうだ。公爵家の内情は、思っていたよりも簡単に外へ漏れるらしい。
「分かっていると思うが、その話は絶対にするなよ。頼りがいがあるとか、結構鍛えているとか、いろいろ付き合える体力はありそうだとか……。」
まずい。最後のは若干焦っているように聞こえるだろうか。余裕のない男だと思われるのはよくない。寝所での実力を疑われるかもしれない。
「分かってるって。そんな難しい顔をするな、上手くやるさ。今日はきちんと褒めてやる。」
カイラスは笑って肩を叩いた。その手を少しばかり疑わしげに見てから、ジオラルドは隣に控えていたレオンへも目を向ける。二十七歳の騎士は、特にからかうような様子もなく、静かにうなずいた。
「では、私からは普段の執務や生活のご様子を申し上げましょう。ジオラルド様はご立派な方ですから、ありのままをお伝えするだけで十分かと。」
「くれぐれも頼むぞ。」
頼もしくうなずく二人を見て、ジオラルドも静かに気合を入れた。
その日の昼、二人を紹介されたイザベラは、淑やかに頭を下げた。ジオラルドの隣に立つカイラスの、遠慮なく彼の肩へ触れる手も、返事を待たずに話を始める気安さも、もちろん見逃してはいない。
幼馴染。ああ、何とよい響きだろう。歳が少し離れているようだから、昔は兄のように接していたのかもしれない。それが今では同じ目の高さで言い合い、かつて手を引いていた側が、ふとした表情にどきりとさせられるようになる。そういう、長い年月をかけて少しずつ形を変えていく関係が、イザベラは好みだった。いや、好みという言葉では足りない。大好物である。
「ジオラルドは見た目こそ可愛らしいですが、その実、結構な負けず嫌いで男らしいやつなんです。子供の頃から、勝負事となると勝つまで離してくれなくて。」
可愛らしい。離してくれない。なるほど、大体分かった。イザベラは内心の関係図に書き込んだ。
「あと、着痩せするタイプで、脱いだら体も結構すごいんですよ。」
「お、おい、それは露骨すぎる。」
ジオラルドが少し顔を赤くし、イザベラの方へ視線を送った。イザベラの手が茶器の手前で止まる。
着痩せする。脱いだらすごい。
おお神よ。私を窒息させるおつもりですか。妄想の速度が供給へ追いついておりませんので、少々お待ちくださいませ。
「まあ。ジオラルド様のそのようなお姿を、ご覧になる機会が?」
「え?ええ、剣の稽古のあとは、夏だとそのまま軽く水浴びすることも多いですし。まあ、男同士の裸の付き合いってやつですよ。」
「変な言い方をするな。」
ジオラルドが眉を顰めた。その横でカイラスが声を上げて笑い、宥めるように彼の肩を小突く。
いえ、大丈夫です。むしろ大変助かります。その調子で、もっと詳しく。特に水浴びの際、どのような会話や接触があったのかをお伺いしてもよろしいでしょうか。
イザベラは心の中で深々と礼を述べながら、表では、よいご友人がいらして幸せですわね、と申し分のない微笑みを浮かべた。
続いて話を振られたレオンは、普段の生活や執務の様子について語ってくれた。ジオラルドは基本的に何事にも真面目で手を抜かず、現当主からも、この歳にして既に執務の半分近くを任されているのだという。
「真面目すぎるほどでして。執務が終わるまでは休もうとなさらず、何度か寝室まで強制的にお連れしたこともあります。」
「ま、まあ。寝室まで。強制的に。」
「もっとも、一刻ほどの睡眠でも、寝起きが少々悪くなる程度で済まれますので。大変体力のあるお方だと思います。」
落ち着いた声で言われ、イザベラはそっと息を吸った。
寝起きまで確認済み。朝のおはようからおやすみまで。年上の頼れる騎士。主従関係。いや、これはいつ下剋上が起きてもおかしくない。むしろ、この美青年相手に起きないほうがおかしい。
この間の襟みたいに、寝癖なんかも直しちゃうんだろうか。ついでに我慢できず、頬とか触っちゃうんだろうか。煩悩が溢れて止まらない。鼻血が出る前に、一度卓に額を打ち付けておくべきだろうか。イザベラは卓の上をじっと見つめた。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ。皆様、ジオラルド様のことを本当によくご存じなのだなと思いまして。」
嬉しそうに微笑むイザベラを見て、ジオラルドは心底ほっとした。少々余計な話もあった気はするが、頼んでおいた内容は無事に伝わり、彼女も満足そうにしている。これで、外からの評価という面でも、ある程度彼女の期待に添えることは伝わっただろう。
「二人とも、僕にとって頼れる兄のような存在です。」
「いやあ、しかしジオラルドがこんなに美しい方を迎えるとはなあ。寝衣にこだわるのも分か――」
「おい。」
ジオラルドの低い制止の声をよそに、イザベラは収穫の多さに大満足していた。これだけ親しく、しかも二人とも好意的なのだ。あとは少し雰囲気を整えてやれば、堪らず一歩踏み出すのではないか。
いや、一人に絞るのは勿体ない気さえしてきた。
前世では登場する男が全員受けに見える病を患っていたのに、今はジオラルド一人を前にすると、周囲の男がことごとく攻め候補へ見えてくる。
我ながら現金なものである。
まあよい。可能性は多い方がよい。総受けという道もある。
イザベラは何食わぬ顔で菓子を勧めながら、心の中でそっと拳を握った。
◇
翌週、ジオラルドは庭の奥に小さな茶席を用意させた。
花に囲まれたその場所は、屋敷の窓からも見えにくく、時折庭師が通るほかは人の出入りもほとんどない。卓の横には、二人掛けの長椅子を置かせた。並んで腰を下ろせば、肩が触れそうな距離になる。婚約者との仲を深めるには、実に具合のよい場所だった。
ジオラルドはもちろん、あらゆる接触に備えて身を整え、普段はあまり使わない香まで纏っていた。
「まあ。素敵な場所ですわね。」
イザベラは花を見回し、それから長椅子を見て、後ろに控えるレオンへ視線を移した。
なるほど。仲を深めるには、たいへん良さそうな場所だ。人目は避けたいが、男二人きりでこのような場所へ出てくるのも不自然だから、自分を誘ったわけか。もちろん心得ておりますとも。伊達に前世から、そういう事情を抱えた二人の物語を読み漁ってきたわけではない。
「さあ、レオン様もお座りになって。せっかくのお茶ですもの、ご一緒いたしましょう。」
「いえ、私は勤務中ですので。少し離れた場所で控えております。」
「立っていらっしゃると、わたくしが落ち着きませんの。少しお休みになっても構いませんわよね、ジオラルド様?」
そう微笑まれては、嫌ですとも言いにくい。本当はレオンには、しばらくしたらそっと庭を辞するよう言い含めてあったのだが、仕方がない。ジオラルドが僅かに迷ってからうなずくと、レオンは戸惑いながらも一礼し、長椅子の端へ腰を下ろした。
イザベラはといえば、近くにあった庭師用の丸椅子を引き寄せ、向かいにちょこんと腰かけた。
「……あの、こちらをあなたのお席として、用意したつもりだったのですが。」
「どうかお気遣いなく。こちらからの眺めが、とても気に入りましたので。」
何なら、こちらが正席である。金髪の美青年と黒髪の騎士が並んで茶を飲む。その背後には花が咲き、木漏れ日まで差しているのだから、文句の付けようがなかった。
ただ、惜しむらくは二人の距離が少し遠い。レオンが遠慮して、端へ寄りすぎている。
「そのような座り方では落ちてしまいますわよ。」
「問題ございません。」
「いえ、そうではなくて。そんなに張り詰めたお姿をされると、こちらも気になってしまいます。どうか、もう少しジオラルド様のほうへ。」
女性の親切を無下にするのもどうかと思ったのか、レオンは少しだけ座り直した。肩の距離が縮まるのを見て、イザベラは満足げに目を細めた。よい。あとほんの少しで触れそうだが、この触れそうで触れないところにも、なかなかの味わいがある。
「レオン様は、かなり鍛えていらっしゃいますわね。やはりジオラルド様をお守りするためでしょうか。」
――もしや、これは何か試されているのではないか。
ジオラルドはその可能性に、ようやく思い至った。
先日の外部評価は成功したはずだ。しかし、イザベラからは未だに寝所へ呼ばれない。そこへ、この発言。もしや、これまでのアピールのせいで、自分からぐいぐい行きたい肉食系の男だと認定されたのではないか。なのに待てど暮らせどこちらが迫ってこないものだから、他の男の体を褒めることで、暗に「どういうことよ」と苦言を呈されているのではないか。
これはまずい。ジオラルドは慌てて口を開いた。
「イザベラ様。できれば少し、二人きりでお話ししたいのですが。」
「ああ、申し訳ございません。すっかり長居してしまって。」
彼女はぱっと立ち上がった。ジオラルドが何か言う前に、少しお花を見てまいりますわね、と微笑み、生垣の向こうへ消えてしまう。
二人掛けの長椅子に、男二人が残された。
「……僕は、やらかしてしまったんだろうか。……いや、これは、まさか放置という焦らしの高度技法――」
「何でしょうか?」
「……何でもない。」
しばしの沈黙のあと、レオンが控えめに口を開いた。
「ジオラルド様。差し出がましいようですが、イザベラ様でしたら、あちらの生垣の陰からずっとこちらをご覧になっております。」
ジオラルドが勢いよく振り向くと、薔薇の茂みの向こうで、黒髪がさっと引っ込んだ。
「……見ている。つまり、僕がどう動くか、試験されているということか。」
「何をでしょうか。」
「何でもない。」
喜ぶべきか苦しむべきか、ジオラルドは長椅子の上で悶々と苦悩した。その隣で、職務に忠実な騎士は無表情のまま、主人の婚約者に指定された距離を律儀に守り続けていた。
◇
次の機会は、結婚式に向けた舞踏の練習だった。
この国でよく踊られる曲には、イザベラの国と少し違う足運びがある。式までに一度合わせておきたいと、彼女のほうから申し出てくれたのだ。ジオラルドはもちろん快く承諾し、予定を空け、楽師を呼び、普段は客を迎える広間の家具まで移動させた。
手を取り、腰に手を添え、間近で見つめ合う。うっかりあんなところが触れ合ったり、うっかりそんなところに手が触れたりしても、すべて偶然として許される絶好の機会である。これはもう、そういうお誘いに違いない。自分の妄想に思わず赤面して顔を覆いながら、ジオラルドは万全の準備を整えた。
「ゆっくり合わせていきましょう。その、難しければすべて僕に委ねて、寄りかかっていただいて構いませんので。」
今日のイザベラも、たいへん妖艶で美しかった。こちらに来てからはきっちりとした清楚な服を着ていることが多いが、そういった飾りの少ないドレスは、かえって彼女の豊満な体の線をよく引き立てている。体を寄せれば、きっと胸が当たってしまう。くびれた細い腰も、その下の曲線も、支えるという名目で容易く触れられそうだ。
「ありがとうございます。ただ、一度全体の動きを見せていただいたほうが、分かりやすいかもしれませんわ。レオン様も、お詳しいのでしょう?」
壁際に控えていた騎士が、名を呼ばれて顔を上げた。基本的なものであれば、と答える声を聞き、ジオラルドは内心首を傾げた。
「レオンに見本を頼むのですか? ですが、彼は女性の役には慣れていないと思いますよ。」
「いえ、ジオラルド様が女性役をなさったほうが、わたくしには分かりやすいですわ。背の高さも、お二人で比べるなら、あなたのほうがわたくしに近いですもの。」
なるほど、と考えかけて、何がなるほどなのか分からなくなった。
レオンはといえば、イザベラの言葉に合点がいった様子で、「曲さえ合っていれば務められます」と至って真面目に答えている。
これはまさか、また何かの試験なのだろうか。女性の気持ちを理解できるかを測ろうとしているのか。いや、むしろこちらが恥じらう姿を眺めるという、例の羞恥を伴う技法の――。
考えがまとまる前に、イザベラは既に期待に満ちた顔で壁際へ移動していた。ジオラルドはどういう反応をすべきか判断が付かないまま、差し出された騎士の手を取った。
「は、禿げ萌え……!」
音楽に紛れるほどの小さな声で、イザベラは呟いた。
目の前では、精悍な騎士の手が、美青年の腰へそっと添えられている。
危うく声を上げそうになり、慌てて扇で口元を隠した。ああ、そう、その手の位置。身分の差があるのに、踊るときは相手の動きに身を委ねなければならない。しかもジオラルドのほうが若干恥ずかしそうなのがよい。本人は大真面目に手本を見せているだけだと思うと、なおよかった。
曲が流れ始め、レオンが踏み出すと、ジオラルドも滑らかに後ろへ足を運んだ。向きを変えるたびに金の髪が揺れる。距離の近い二人が、次の動きを確かめるように目を合わせた。
何だこれは。今世では、こんなものまで実物で見てよいのか。せめて画家を呼びたい。いや、画家が描いているあいだにも次の動きへ進んでしまう。記憶に焼き付ける以外に手段がないとは、何という文明の不備。
「今のところまで、お分かりになりましたか?」
曲の切れ目で聞かれ、イザベラはしっかりうなずいた。
「ええ、大変よく。ただ、向こう側へ回るときの足元が、少し見えにくかったものですから。もう一度お願いしても?」
イザベラの輝くような瞳に、ジオラルドはもはやあまり考えずに承諾した。二度目が終わると、今度は反対側から見たいと頼まれ、三たび同じ曲が始まった。
もう何を試されているのかよく分からなかったが、この状態があまり良くないことだけは、ジオラルドにも分かった。
三度目が終わるや否や、イザベラが口を開く前に、彼女の前へ進み出る。
「……そろそろ、一緒に踊っていただけませんか。」
イザベラはジオラルドを見上げ、目をぱちりと瞬かせた。普段は妖艶な女性の、あどけないとも言える仕草に、ジオラルドの胸は大きく高鳴った。
彼女になら翻弄される側でも一向に構わないのだが、本来の自分はぐいぐい行きたい性格である。いや、しかし、経験豊富な彼女の意思と好みが最優先なことに変わりない。
ジオラルドは僅かに緊張しながら、手を差し出した。
「あなたに合わせて踊りますので。」
イザベラは慌てて、脳内で繰り広げられていた騎士と美青年の桃色の光景から、現実へ意識を引き戻した。
それは、そうだ。あまりに楽しくて忘れていたが、今日ここへ来たのは見学のためではなかった。
素直に手を重ねると、ジオラルドは微笑みながら広間の中央へ彼女を連れて行った。騎士の隣では細身に見えていたのに、こうして真正面から向かい合えば肩の位置は随分高い。腰へ回された手にも、思っていたような頼りなさはなかった。
「こちらの足からです。最初は、僕に合わせてください。」
耳元近くで囁かれ、イザベラは思わず口を閉じた。
近い。
美しいものというのは、眺めている分にはよい。しかし向こうからこちらを見詰め返し、しかも腰へ手まで回してくると、途端に話が変わるらしい。
曲に合わせて足を運ぶと、不思議なほど無理がない。ジオラルドが、こちらの歩幅へ細かく合わせてくれている。顔を上げると、安心させるように微笑まれた。
その瞬間、心臓がどくりと鳴った。
待って。何だ、今の。これは何か、少し、思っていたのとは違う方向に胸が騒がしい。
「お上手ですよ。もう少し速くしても大丈夫そうですね。」
「え、ええ。多分……。」
自分の内心に戸惑うイザベラの一方で、予定していた接触をすべて無事に達成したジオラルドは、たいへん満足していた。
◇
その数日後、公爵家主催の小さな晩餐会が開かれた。結婚を半年後に控え、イザベラをこの国の社交界へ紹介する意味合いもある席だった。
自国での婚約破棄がどこまで伝わっているか、イザベラにも分からない。ただ、悪評というものは国境を越える際に荷物検査を受けないらしく、どうやらこちらへ無事到着するまでに、随分と尾ひれまで付けられていたらしい。
「まあ。あなたが噂の……。」
年配の侯爵夫人が、手にした扇の向こうからイザベラを眺めた。
「以前の婚約者とは、随分華やかな理由で破談になったとか。」
笑顔ではあった。だからこそ、周囲の空気が少しだけ冷えた。
イザベラはこうした悪意には慣れている。ここは普段通り笑って流せばよい。そう考え、「ええ。どうやらわたくし、実際より随分と――」と口を開きかけたところへ、穏やかな声が重なった。
「イザベラについて、どのようなお話をお聞きになったのでしょう。」
隣を見ると、ジオラルドが微笑んでいた。いつもの柔らかな笑顔だが、青い瞳だけが少しも笑っていない。
「僕は彼女を妻に望み、そのうえでこの家へお迎えしました。過去について何かお聞きになりたいことがあるのでしたら、彼女へ遠回しに仰る必要はございません。僕へ直接お尋ねください。」
「あら、ジオラルド様。私、別に悪意があったわけでは――」
「存じております。ですので僕も、誤解がないよう申し上げただけです。」
声を荒らげたわけでもなければ、相手を責める言葉もない。それでも、これ以上何かを言わせる余地はなかった。侯爵夫人は僅かに表情を引き攣らせ、別の話題を口にしたあと、ほどなく離れていった。
「申し訳ありません。余計なことを。」
「い、いえ。」
「気にされなくて結構です。あなたはそのままで、素晴らしい方ですから。」
そこで少し照れたように目を逸らす。
イザベラは返事をしようとして、うまく声が出なかった。どうしてだろう。胸が熱い。
婚約者だから守ってくれた。それだけのことだ。それに彼自身も男性が好きなのだから、自分の過去の噂など本当に気にならないのかもしれない。きっと、そういうことだ。
そう理解したはずなのに、その夜、寝台へ入って目を閉じると、男同士が並ぶ妄想より先に、冷たい目で侯爵夫人を見たジオラルドの横顔が浮かんだ。
ひどく困った。
あれは普通に格好よかった。
◇
数日後、イザベラから訓練場を見学したいと言われ、ジオラルドは今度こそ自分の得意分野だと喜んだ。舞踏も不得手ではないが、剣ならさらに分かりやすく自分の性能を見せられる。
「張り切っていますね。あれは、いつもより随分張り切っている。」
隣へ座ったカイラスが面白そうに言って頷いた。丁度所用で公爵邸を訪れていたところをイザベラが見掛け、「よろしければ」と誘ったのである。
「お強いのですか?」
「かなり。あの顔なので最初はよく侮られるんですが、僕はここ二年、一度も勝てていません。」
美しくて、しかも強い。よいではないか。気丈な人間ほど、思わぬところで弱みを見せた際の落差が大きい。いつもは守りたくなるような容姿の青年が、勝気な顔で剣を握る。最高だ。
そう思っていたのに、試合が始まった瞬間、妄想はすっぽり抜け落ちた。
ジオラルドは速かった。相手の剣を正面から受けるのではなく、僅かに角度を変えて逸らし、そのまま懐へ踏み込む。相手が体勢を立て直そうと足を引いたときには、もう剣先が喉元寸前で止まっていた。
「参りました。」
相手の声を聞いて剣を引き、額へ落ちた髪を無造作に払う。そして真っ先にこちらを振り向いた。
目が合った瞬間、青い瞳が柔らかく細められる。
イザベラは扇を持った手を止めた。
何だろう。今の。
先ほどまで感じていた、「眼福」「ありがたい」「もっと見たい」という気持ちとはどこか違う。あんなふうに自分へ笑いかけられると、落ち着かない。しかも今まで可憐にしか見えていなかった青年が、急にはっきり一人の男として見えた。
普通に、とても格好いい。
……この青年、攻めでもいけるのでは?
そこへ思考が着地した瞬間、イザベラは内心で首を振った。違う。何を揺らいでいる。彼は神が作りし理想の受けだ。強いからといって、その可能性が消えるわけではない。むしろ、あれほど強い彼が特定の男には気を許すところがよいのではないか。
「いかがでしたか?」
戻ってきたジオラルドへ尋ねられ、イザベラは慌てて顔を上げた。息の上がった声は普段より低く、汗で髪が額へ張り付いている。どうにも調子が狂う。
「ええ、とても……お強いのですね。驚きました。」
もう少し気の利いたことを言いたかったが、うまく出てこなかった。ジオラルドが嬉しそうに笑った、その横からレオンが布を差し出す。
「ジオラルド様。頬に土が付いております。」
「え、どこだ?」
「反対です。少し、お顔を上げてください。」
大きな手が顎の近くへ添えられ、青年が素直に顔を上げる。つい先ほどまで迷いのない剣さばきで騎士を制していた男が、今は大人しく頬を拭われている。
ああ。これだ。
これですよ、神よ。
やはりわたくしの判断は間違っておりませんでした。
強くて凛々しいからこそ、この気安く世話を許している姿が際立つ。本人も世話をする方も、特別なことだとすら思っていないところが、またよい。
イザベラは扇で口元を隠し、何とか平静を保った。
「本当に素晴らしい剣捌きでしたわ。」
「ありがとうございます。あの、もし僕に何かお望みのことがございましたら、その、いつでも仰ってください。」
少し視線を彷徨わせるジオラルドを見て、イザベラは理解した。自分たちの親密なやり取りを妻となる女へ見せてしまうことへの罪悪感があるのだろう。
それなら安心してほしい。
「そうですね。機会があれば。」
大丈夫です。もうあなた方の絡みだけで相当満たされております。
そんな意味を込めて深く頷くと、ジオラルドの顔へぱっと喜色が浮かんだ。
「はい。いつでも……。」
ジオラルドは、少し前に買ったばかりの新しい寝衣を今日から使うことに決めた。
◇
公爵邸での暮らしは、その後もイザベラを少しも退屈させなかった。
朝、支度ができたと伝えに行けば、容姿の整った侍従がジオラルドの襟飾りを結んでいる。主人が顎を上げ、侍従がその顔のすぐ近くで慣れた手つきで結び目を整え、髪が少し乱れていれば指で払う。毎朝、当たり前のようにこの距離へ入ることを許されている男。強い。新規候補である。
執務室へ行けば、今度は銀混じりの髪をした年上の事務官が、机の脇へ身を寄せて書類を示している。
「ここはもう一度お考えください。」
敬語。年上。仕事では甘やかさない。
なるほど。イケオジ攻め枠。
イザベラは邪魔をしないよう静かに退室したあと、一人でしばらく胸を押さえた。
そんなふうに観察を続けながら、そろそろ本命へ当たりを付けなければと思っていたある日のことだった。廊下の先で、カイラスがジオラルドの肩へ腕を回して何かを囁いていた。ジオラルドは最初こそ呆れた顔をしたものの、やがて堪えきれず吹き出すように笑った。
いつものように、しっかり拝ませていただこう。
そう思って足を止めたのに、その顔を見た瞬間、胸の奥が妙につかえた。
あの笑い方を、自分は知らない。
自分へ向けられる丁寧で優しい微笑みとは違う。長く付き合ってきた相手へだけ見せる、気を抜いた顔だった。
それこそがよいのだ。そういう関係が好きだったから、今まで喜んで眺めていたのだ。なのに、なぜか胸が落ち着かない。もやもやする。
これは、まさか、自分は落ち込んでいるのだろうか。
いや、違う。カイラスが本命だった場合、ほかの組み合わせが見られなくなる可能性を惜しんでいるだけだ。あれほどの素材を持ちながら一人へ絞るのは勿体ないと思ってしまうのは、鑑賞する側の我儘なのだろう。
そうだ。きっと、そうだ。
もっともらしい理由を見つけ、イザベラはそっと踵を返した。
その日の午後、ジオラルドから二人で茶を飲まないかと誘われたときは、なぜかレオンもカイラスも呼ばず、そのまま彼の隣へ座った。
◇
寝台の上へ五枚の寝衣を並べたジオラルドは、腕を組んで虚空を見詰めていた。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
もうイザベラが公爵邸へ来てから三か月である。彼女はよく笑うし、こちらの顔を見るのも好きらしく、時々何かを忘れたようにじっと見詰めてくる。日中一緒に過ごす時間も増え、最近では二人きりの茶にも付き合ってくれる。
なのに、一向に寝所へ呼ばれない。
自分から伺おうとしたことは何度もあったが、少し前までは二人きりになろうとするたび、なぜかレオンやカイラスを呼ばれていた。そして何より、彼女が男たちを眺めているときの楽しそうな顔が気になった。
もしかすると彼女は、ジオラルドの顔は気に入っているが、それは美しい絵画を見るのと同じ意味で、男としてはまるで魅力を感じていないのではないか。
その可能性へ一度思い至ると、胸の辺りがひどく重くなった。
辛い。
それはたいへん辛い。
答えを知るのが怖くて、とうとう彼女の部屋の扉を叩けないまま三か月が過ぎた。ヘタレと言われれば、その通りだった。
「彼女の好みが知りたいんだ。僕に何か足りないなら、できることは全部試したい。」
相談されたカイラスは、珍しく揶揄うことなく考えた後、劇場へ誘ってみてはどうかと言った。王都で評判の劇団が、敵対する二国の王子を題材にした演目を上演しているらしい。若く美しい男性俳優が多く、女性客からも人気があるそうだ。確かに、そこで彼女がどのような男へ目を向けるか分かれば、参考になるかもしれない。
実際の男を紹介するのは絶対に嫌だが、舞台の上の人間なら何とか耐えられる。
「芝居を観に行きませんか。お互いの理解を深めるためにも。」
翌朝、どこか戸惑いを滲ませながらジオラルドにそう誘われ、イザベラはもちろん即座に了承した。
彼が日時を告げて去ったあとで、ふと、観覧の席にレオンやカイラスも招くのかを聞きそびれたことに気付いた。
「い、いえ。今回はお芝居を観るのが目的ですもの。萌えを気にしなくても大丈夫。」
だから二人きりでも、何もおかしくはない。誰に言い訳するでもなく小声で呟いて、イザベラは早速、当日の衣装を選ぶために、珍しく何度も鏡の前に立った。
侍女と悩み抜いた末に選んだのは、こちらに来てからは意味がないからと控えていた、比較的露出の多い、淡い薔薇色のドレスだった。決して、ジオラルドに何かを訴えたいとか、そんな気持ちは一切ない。自分の容姿を一番引き立てるのがこういう衣装だと、思い直しただけである。髪は、首筋や肩の線がよく見えるよう、高く結い上げた。
迎えに来たジオラルドは、目を見開いて固まった。
まずい。露出の多い、奔放な女だと思われただろうか。いや、彼はその噂を知ったうえで、それを利用するために婚約したのだから、何の問題もない。……問題はないはずなのに、強張った彼の表情を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「すみません、変、でしょうか?」
「……いつにもまして、とてもお綺麗でしたので。よく、お似合いです。」
ジオラルドはそわそわと目を彷徨わせていた。男性に心を寄せる青年にとって、もしかしたら、あまり目に入れたくない姿なのかもしれない。
結局、イザベラは少しだけうつむいて、差し出された腕に手を添えた。その途端、触れた腕の確かな厚みを意識してしまい、また自分の調子がおかしいことに気付いたが、理由を考えるのは後回しにした。
芝居は、大変素晴らしかった。
敵対する二国の王子が、共通の敵を追うために手を組む。最初は険悪だったくせに、命を救われ、相手の事情を知り、やがて人前では決して言わない本音を打ち明けるようになる。何だ、この脚本家。こちらが見たいところを、ずいぶんよく心得ていらっしゃる。
負傷した王子をもう一人が抱き起こしたところで、イザベラは肘掛けを握り締めた。ああ、そこはもう少しゆっくり。今の顔を、もっとよく見せてほしい。その傷は筋書きの都合上大事なのだろうが、こちらにとっては、支える手の位置も同じくらい大事なのである。
隣でジオラルドが小さく身じろぎしたので、ふと顔を向けた。彼はこちらを見て、楽しめていますか、と声を潜めて尋ねた。
大きくうなずくと、彼はほっとしたように笑った。
そこで、イザベラは改めて考えた。お互いの理解を深めるため。そして、この演目を選んだのは、彼だ。
つまり、そういうことなのだろう。男同士の、薔薇色の世界。それを見せて、妻となる女が受け入れられるかどうかを確かめたかったのだ。
そう思うと、先ほどまであれほど楽しかったはずの舞台が、少しだけ違って見えた。
もしあの王子がジオラルドなら、自分は決して手を取る側ではない。客席で、素晴らしいと手を叩いている側だ。それで満足だったはずなのに、今日はやけに心が沈む。こんな露出の多い服を着て、めかし込んで、まるで道化ではないか。
「少し冷えますね。肩掛けを、お使いになりますか。」
差し出された布を受け取りながら、イザベラは困ったように微笑んだ。こういう気遣いをされると、困る。もっと好きになってしまうから。
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
ああ、そうか。結局私は、この青年を好きになっていたのか。
分かった途端、何だか全身から力が抜けてしまった。彼の恋を応援すると張り切り、親しくなれそうな男まで探偵気取りで探しておきながら、今さら自分が恋をしてどうする。ミイラ取りがミイラになる。なるほど、昔から使われている言葉だけのことはある。
◇
「あまり、あなたのお好みの男性はいませんでしたか?」
帰りの馬車の中で、ジオラルドは思わず口に出していた。
芝居を楽しんでいたことは間違いない。それなのに途中から、彼女の笑顔には、何か考え込むような間ができていた。役者が好みに合わなかったのか。それとも、自分と二人きりなのが、やはり気に入らないのだろうか。
「好みの、男性ですか?」
イザベラは思わぬ問いに目を見張り、それから静かに胸の内で納得した。
ああ、そういうことか。彼は、こちらの愛人候補まで気に掛けてくれているのだ。自分が好きに恋をするのだから、妻にも相手がいたほうがよいと。噂どおりの女だと思われているのなら、確かにその配慮は筋が通っている。
自分の恋に気付いたその日に、相手から別の男を探す手伝いを申し出られるとは。なかなかに手厳しい。世はやはり無常である。
「……ジオラルド様が、一番素敵ですわ。」
イザベラは、できるだけ普段どおりに笑って言った。それくらいは正直に答えてもよいだろう。今さら気を遣って別の男の名を挙げ、ではご紹介しましょうなどと話が進んでも困る。
「わたくしは、あなたを見ていられれば満足ですので。ほかの男性は、必要ありません。」
ジオラルドは黙った。
先ほどまで闇に沈みかけていた頭の中が、一瞬で桃色に輝いた。
一番素敵。ほかの男性は、必要ない。言葉が頭の中で反響していく。
何という、分かりやすい意思表示だろう。ずっと何かが足りないのではと悩んでいたが、そんなことはなかったのだ。あれだけ顔の整った役者たちを見たうえで、彼女はジオラルドを選んだ。ジオラルドは生まれて初めて、自分の顔面に深く感謝した。
そして、一つの結論に至った。彼女は、ジオラルドが真面目であることを慮って、初夜まで待ってくれているのだ。もしかしたら、初心者にはそれくらいの準備期間が必要だと考えているのかもしれない。
本当は今夜でも、何なら三か月前でも、彼女を満足させられるだけの知識は、ありとあらゆる書物から既に仕入れてある。だが、向こうはプロである。なるほど、こちらと違って余裕がある。
ジオラルドは緩みそうな口元を片手でそっと隠し、窓の外を眺めるイザベラの横顔を盗み見た。
今日は久しぶりに、胸元も裾も開いた、何とも煽情的な装いである。あらぬところへ視線が吸い寄せられるのを抑えるので必死だった。細い首から胸元へ続く、白く滑らかな肌、そして柔らかそうな――。そこまで考えて、思わず目を伏せた。しかし伏せた先には、軽く組まれた脚と、柔らかそうな白いふくらはぎがあり、結局目を瞑った。
けしからん。たいへん、けしからんお姿である。
向かいの席で静かに失恋を受け入れようとしている女を前に、ジオラルドは再び、たいへん前向きな気持ちを取り戻していた。
◇
それからも、イザベラは相変わらず公爵邸での暮らしを楽しんでいた。
最初から報われない恋だと分かっている。少し前まで、むしろそれを有難がっていたのは自分のほうだ。それを抜きにしても、破格の縁談である。今さら報われない苦しさを理由に、結婚をやめたいと言うつもりはない。それに、レオンに外套を掛けられるジオラルドも、幼馴染に肩を抱かれて笑うジオラルドも、相変わらずたいへん好ましかった。
当たり前だ。失恋したからといって、それまでの趣味まで変わるわけではない。むしろ、落ち込んでいるときにも喜べるものがあるというのは、考えようによっては幸せなことではないか。ならば割り切って、楽しむほかない。
ただ、誰が本命なのかは、そろそろ知っておきたかった。
紙に名前を書き出し、見かけたやり取りを添えていたところ、侍女に、人事評価でしょうか、と聞かれた。違うと否定したものの、確かに書き出してみると、どの男も仕事の話しかしていない。
勤務が終われば帰るし、用件が済めば帰る。カイラスに至っては、現公爵への用事が終わるとジオラルドにも会わずに帰ってしまう。これほど美しい青年を囲んでおきながら、皆ずいぶんのんびりしたものだ。見ているこちらのほうが焦れてしまう。
イザベラが関係図を睨んで唸っている一方で、彼女は婚約中だから遠慮しているに違いないと確信していたジオラルドは、式の準備にいっそう熱心に取り組み始めていた。
「普通なら一年かかるところを、半年で整えようとしているのです。これ以上早めるのは、さすがに無理です。」
げっそりとした顔の、例の銀髪交じりの事務官に告げられ、そんなに顔に出ていたのだろうかと、ジオラルドは書類を手にしたまま少しだけ反省した。
◇
そうして迎えた結婚式は、ジオラルドの思い入れと公爵家の財力が惜しみなく注ぎ込まれたものになった。
白い礼装に身を包んだジオラルドを見た瞬間、イザベラは危うく声を上げそうになった。もともと美しい人を、その魅力が最も引き立つよう全力で飾り立てている。隣には黒い礼装のレオン、普段の軽さを控えたカイラス、少し離れて例の侍従と事務官までが並んでいるのだから、どこから眺めても見応えがあった。
「結婚したら、ハーレムはもうおやめなさいよ。」
「いえ、お母様。私、今はハーレムを眺める側のポジションですの。」
なにそれ、と呆れたように返す母をよそに、イザベラは目の前の光景を目に焼き付けた。す、素晴らしい。最推しを囲んで、全員が正装で並んでいる。これはもう、たまらない。
イザベラがそばへ寄ると、ジオラルドは何とも言えない顔で微笑んだ。綺麗です、と言われ、また胸の奥がそわそわする。こんなに美しい人が、こちらを見てそんな顔をするのだから、本当に困ったものだ。
とはいえ、公爵家にはいずれ後継ぎが必要になる。そのときは自分も妻として――と考えかけ、イザベラは慌てて思考を打ち切った。
いや、もう、好きなものは仕方がない。彼の邪魔にならないよう、陰から恋路を覗かせていただきながら、できるだけ楽しく暮らそう。イザベラは今後の方針を、しっかりと胸に刻んだ。
「娘は決して悪気はないのですが、昔から少々、男性の扱いに難がありまして。浅慮というか、うっかりというか、勘違いのまま突っ走ることも多い子でして。」
父が申し訳なさそうに頭を下げると、ジオラルドはきっぱりと首を振った。
「イザベラは素晴らしい方です。僕もいつも、学ばせていただいております。その……彼女にご満足いただける夫になれるよう、これからも精進して参ります。」
いや、そこまでの娘では、と言いかけたイザベラの両親は、静かに口を閉じた。青年が赤い顔で、そっとイザベラの手を握ったのを見たからである。
◇
その夜、イザベラは寝室の寝台の上で、苺タルトを食べていた。
祝宴では次々に挨拶を受け、食事どころではなかった。好物を知っている侍女が気を利かせて運んできてくれたので、ありがたくいただくことにしたのだ。空腹はなぜかあまり感じなかったが、疲れていたし、さすがに今夜ばかりは、普段は押し殺しているはずの寂しさやら虚しさやら痛みやらが胸に溢れて、甘いものでも食べずにはいられなかった。
半年前は、まさか自分が理想の受けを見つけて狂喜乱舞したあげく、その本人に恋をして、次の瞬間には失恋するなどとは、想像もしていなかった。
初夜に夫を待つこともなく、一人で苺タルトをやけ食いすることになるとも。
ジオラルドは今夜こそ、本当に一緒にいたい人のところへ行くのだろう。
相手は結局分からなかったが、だからといって、彼の寝室の前に陣取って確かめるわけにもいかない。今日はもう、食べ終わったら寝てしまおう。
最後の一切れにフォークを伸ばしかけたところで、控えめに扉が叩かれた。
「イザベラ。入っても、よろしいですか。」
フォークが止まった。返事をすると、ジオラルドが入ってきた。いつもの落ち着いた所作にどこかぎこちなさがあり、頬も仄かに赤い。そして、ずいぶんと仕立てのよい寝衣を着ていた。
「もう、お休みになるところでしたか?」
「いえ、まだ起きておりますけれど……何か、お忘れ物でも?」
彼は不思議そうな顔をした。何を言うべきか考えているらしく、少し唇を開いてから閉じ、やがて意を決したようにこちらへ向き直る。
「不束者ですが、どうか、ご指南ください。」
イザベラは、皿を持つ手に力を込めた。何の話かすぐには分からなかったが、少なくとも、タルトを落とす事態だけは避けたかった。
「ご指南、とは……その、わたくしが、ですか?」
「はい。僕は、こういうことには慣れておりませんので。」
それはそうだろう、と思った。出会ったときから、彼が経験豊富な男だなどと考えたことは一度もない。しかし、その彼が自分に手解きを求めているというところで、話がまったく繋がらなくなる。
「あの……今夜は、お好きな方と過ごされるのではありませんの?」
「え?いや、ですから、来ました。」
イザベラは、彼の背後を見た。誰もいない。扉の向こうにも人の気配はなく、誰かを取り次いでほしいという話でもなさそうだった。
「……ジオラルド様。一つ、確認してもよろしいでしょうか。あなたはこれから、どなたと、何をなさるおつもりで?」
目の前の青年の首から耳にかけてが、みるみる赤く染まっていく。
「な、なるほど。そ、そういう作法ですか。」
ジオラルドは赤い顔のまま、不自然に咳払いをした。
「あなたと、寝所を共にしたくて参りました。ご満足いただけるか分かりませんが、若輩者ながら懸命に務めさせていただきます。お好みの流儀がおありでしたらご指南いただければ、精一杯ご奉仕いたします。」
そこで言葉を切ると、彼はイザベラをまっすぐに見つめた。
「二年半前のあの夜会で、初めてあなたをお見掛けした日から、ずっとお慕いしておりました。大勢の男性に囲まれていたあなたが、僕のほうを見て笑ってくださった、あのときから。」
その間に、イザベラの中では、これまでの出来事が急速に繋がっていった。
年上で、よく笑い、リードしてくれるような。大人の包容力のある――。プロの貴腐人の頭が勝手に男性と置換していたが、どうやら違っていたらしい。
なるほど。両親の言っていたことは正しかった。さすが、娘のことをよく分かっている。自分は出会いの日から今日まで、勘違いのまま全力で突っ走ってきたわけだ。半年前、婚約を破棄されたあの夜会で失った男を見る目への自信が、今度こそ跡形もなく消え去った。
ついでに、彼の言う夜会にも思い当たった。二年半ほど前、隣国の使節を迎えて開かれた夜会。確かにあの夜、自分はふと横を見て笑った気がする。
ただ、あのとき見ていたのは――ちょうど彼が立っていたあたりの、さらにその後ろで、盆を取り合って小突き合っていた、二人の給仕の青年だったような。
イザベラは、その記憶をそっと胸の奥へ仕舞った。これは墓まで持っていこう。
代わりに、ふっと胸のつかえが解けていくのが分かった。
「……来てくださって、嬉しいです。わたくしも、あなたをお慕いしております。」
潤んだ目元を指で拭って少し笑うと、ジオラルドは感極まったように目を瞑り、赤い顔を両手で覆って俯いた。
それから、何かに気合を入れるように一つうなずいて顔を上げると、こちらへ近付いてくる。その姿を見て、イザベラはもう一つ、たいへんな問題を思い出した。
「あ、で、でも、お待ちくださいませ。先ほどの、ご指南というお話なのですけれど。」
言い掛けて俯いた拍子に皿を持った手が動き、傾いた皿の上を、最後の一切れが滑っていく。あ、と思ったときには、もうジオラルドの手が伸びていた。イザベラの手にあった皿を反対から支える。
「……危ないところでした。」
至って真面目な顔でそう言うと、ジオラルドは皿を寝台脇の小卓へそっと置いた。
ジオラルドの無駄の無い所作を見ながら、イザベラは覚悟を決めて口を開く。
「その……わたくし、男女のことは、まったく経験がないのです。あの噂は、何人かで集まってお話ししていたのが大きくなっただけで。そもそも婚約者がおりましたから、殿方と二人きりになることさえ避けておりましたし、その、褥のことも……むしろ、手解きしていただかなければならないくらいで。」
説明しているうちに、頬が熱くなってきた。前世でもBL漫画は山ほど読んだが、実際の恋愛経験はなかった。腐女子の夢と欲望と空想科学が詰まった知識ならそれこそ腐るほどあるが、おそらく使えるものは一つもないだろう。
「……がっかり、なさいましたか?」
頬を染め、不安そうに見上げてくるイザベラに、ジオラルドは咄嗟に鼻のあたりを押さえた。よかった。血は出ていない。
何ということだろう。噂を信じ込み、イザベラを百戦錬磨の手練れだと勝手に思っていたとは。どれだけ待っても寝所に呼ばれなかった理由が、ようやく判明した。
しかし、この艶やかな顔立ちと悩ましい体で、実は初心で、清い身で、しかもどうやらこちらに手解きを望んでいるらしい。
天使のような顔立ちの裏側で、ジオラルドの脳内を、決して口には出せない言葉たちが駆け巡った。
素晴らしい。何と素晴らしいことだろうか。
こちらをからかいながら導いてくれる彼女もよいが、自分が近付いただけで、どうしてよいか分からずに赤くなる彼女など、贔屓目に見ても最高ではないか。
そもそも、イザベラが好きで、その彼女が詳しそうだったから、自分は教わる立場になるのだろうと考えていただけだ。普段は公爵家の跡取りらしく、礼儀正しく真面目な青年を心掛けているが、本来のジオラルドは負けず嫌いで、好きなものには押して押して押しまくりたい性分である。
ならば、もう遠慮する必要はない。
ジオラルドはイザベラの隣に腰を下ろし、そっと彼女の手を取った。
「では、僕が手取り足取り、丁寧にお教えします。」
掠れた低い声に、今さらながら心臓が早鐘を打ち始め、イザベラは咄嗟にうつむいた。
青年はイザベラの手を持ち上げると、その甲にそっと口付けた。驚いて顔を上げると、青い瞳がすぐ近くからこちらを見つめていた。
ああ、これは。剣を握っていたときの顔だ。勝気で、綺麗なのに、男らしい表情。
あ。年下攻め。そう、年下攻めだわ。
心臓に稲妻。或いは、脳に雷撃。イザベラの頭に、再び神より天啓が下った。
神よ。そういうことですか。可憐な容姿のまま、こうして男らしく迫ってくるところがたまらないのですね。分かります。分かりみが深すぎます。年下攻め。ああ、下剋上。無事敬虔な信徒は開眼いたしました。
しかし、まさかその相手が私という点については、まだ少し、いや、だいぶ、心の準備が。
「イザベラ。こちらを、見てください。」
イザベラは美しい顔を真っ赤にして、目を潤ませている。とても可愛い。たいへんけしからん。何がどうけしからないのかはもう分からないが、とにかくジオラルドは、自分の中でまた一つ、新しい扉が開いたのを感じた。
「口付けても、よろしいですか?」
「お、お手柔らかに。」
二人は、そっと身を寄せた。
互いに、ジャンル変更早々、新しい妄想には事欠かないようであったが、ともかく二人の相互理解が、出会って半年にしてようやく正しい方向へ進み始めたことだけは、間違いなかった。
小卓の上では、無事救い出された最後の一切れが、静かに朝を待っている。
婚約を失った半年前の夜会とは違い、その夜苺タルトだけは無事だった。




