第15話 一年だけ買う
エレナたちが買おうとしているのは、麦でも金でもなかった。
失敗できる一年だった。
応接室の卓には、十二枚の月札が並んでいた。雪解け、播種、橋の完成、亜麻の収穫、麦の刈取り、返済。
「翌年の収穫後まで待てと?」
ルカが尋ねた。
「全額ではありません」
エレナは札を三列に分けた。
「今払う分。亜麻の出荷で払う分。次の麦の収穫後に払う分」
「次の収穫が今年より少なければ?」
「乾燥と保管の改善で、同じ収穫量でも食用へ残る割合を増やす。ここには最大ではなく、雨が多い場合の数字を置いています」
「それでも届かなければ?」
レオンが別紙を差し出した。
「期限前に協議する。いきなり種籾や冬配給へ手を出せる条項は置かない。代わりに、亜麻の追加分と倉庫確認の回数を増やす」
「取り立てる側に、ずいぶん手間をかけさせますな」
「領地を潰して空の倉を取るよりは安い」
ルカの指が、月札の上を歩いた。
*
クラリッサは担保の一覧を一つずつ読んだ。
「担保に追加できる亜麻は、現在の契約外にある分の四分の一まで。南畑、種籾、領民の備蓄、使用人賃金は対象外。倉入れ記録の閲覧は数量と受領証に限る」
「家の帳簿は?」
「見せません」
「返済余力を知るには必要です」
「必要な範囲は月ごとの支払表として提示します。娘の持参金や使用人個人の賃金を、商会の判断材料にはしません」
母の声は静かだった。
秘密を隠すのではない。渡す必要のない情報へ境界を引いていた。
「奥様は、私を信用していない」
「信用するから、何を見せるかを契約に書くのです」
ルカは一瞬黙り、頷いた。
「では、定期確認を」
「月に一度」
「二度」
「収穫前だけ二度。それ以外は一度」
レオンが間へ入った。
「確認日は三日前までに告げる。作業を止める検査は認めない」
「受領証が揃っていなければ?」
「その月の追加前貸しは止めてよい。すでに約束した薪と部品は止めない」
条件が一つ増えるたび、互いにできることと、してはならないことが狭く、明確になった。
*
橋の契約は、アルベルトが自分で読んだ。
一戸一人、二日まで。仕事は運搬と土台づくり。危険な石積みは石工が行う。食事と治療費は館。翌年の通行料は半額。共同荷車を持たない家は利用を優先する。
「トマ、これで村の約束と同じか」
「怪我で働けなかった日は、二日に数えないと加えてください」
「もっと働かせるため?」
「違います。怪我を隠して出てくる者が出ます」
アルベルトはすぐに行を書き足させた。
「ほかには」
「作業日が播種と重なれば、村側が日を変えられること」
「認める」
父は印を押した。
凶作年に徴収を待った善意が、今度は領民を縛る恩義ではなく、負担と権利を釣り合わせた契約になった。
トマも村の印を押した。
「借りを返します」
「これで終わりにしよう」
アルベルトが言う。
「来年からは、橋を使う者同士の約束だ」
トマは初めて少し笑った。
*
「利息は免除しません」
ルカは最終契約書を閉じなかった。
「返済の一部を次の収穫後へ延ばします。その代わり、受領証を同じ形へ揃える。倉庫確認を受ける。数量の差が続けば、前貸しの上限を下げる」
「利息の上乗せは?」
「当初の率を維持します。期限前に記録を示して協議した場合に限る」
「期限を過ぎてから泣きついても駄目ということね」
「涙は担保になりません」
「私も数字のほうが好き」
エレナは少し笑った。
ルカは契約書をレオンへ回す。レオンは履行不能時の文を読む。クラリッサは担保の範囲を確認する。アルベルトは橋と賃金の支払い日を確かめる。
四人が別々の箇所で止まり、質問した。
ルカは標準受領証の見本を出した。
品名、袋数、受領日、発注者、受取人、検査結果。欄は六つだけだった。
「細かすぎませんか」
アルベルトが言う。
「細かいから、私の番頭が毎月ここへ来ずに済みます」
「書けない人は?」
エレナが尋ねた。
「印と立会人でよい。全員へ文字を要求して取引を止めるつもりはありません」
「では、ソフィが記入を教え、ユゴーが最初の三回を確認する」
記録を条件にしても、記録できない者を排除しない方法が加わった。
エレナ一人の数字では、契約にならなかった。
数字を守る限界線、人の反発を読む言葉、最終責任を負う印がそろって、初めて一年になった。
「合意します」
アルベルトが言った。
ルカと父が署名し、ソフィが二通の写しへ同じ番号を付けた。
家は救われたのではない。
破綻する日が、一年先へ動いただけだった。
*
冬の終わり、橋には人が集まった。
村の男たちが土を運び、石工が沈んだ石を外す。館からは温かい粥が届いた。トマは作業日を読み上げ、ソフィが参加日を記す。
水車では標準の受領証が試されていた。誰が渡し、誰が受け、何袋だったか。
一年の猶予は、紙の上だけでは動かなかった。
毎日の小さな履行で、少しずつ本物になっていった。
その夜、家族の食卓には前より少し厚いパンが置かれた。
クラリッサが四つに切る。
「五つでは?」
エレナが尋ねた。
「ソフィの分は厨房にあります」
母は最初から数えていた。
レオンが自分の一切れを半分にし、妹の皿へ載せる。
「食べなさい。今日は数字を噛まなくていい」
「パンも数えるわ」
「知っている」
アルベルトは家族を見回し、黙ってパンを口へ運んだ。
小さな勝利だった。
来年の収穫で証明しなければ消える勝利でもあった。
*
帰り際、ルカは契約書を鞄へ入れた。
「次は袋を揃えてください」
「袋?」
「同じ一袋が、村ごとに違うのでは買えません。受領証だけ同じでも、中身の単位が違えば数字は崩れます」
エレナは倉に積まれた大小の袋を思い出した。
一年を買った代金は、来年の収穫で払う。
ならば次は、一袋という言葉から直さなければならない。




