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雪が溶け、学院の中庭に花が咲き始めた頃、エルクが言った。
「リナ、僕の研究室に来い」
図書室での議論が半年続いたある昼下がりのことだった。
「研究室、あるんですか」
「許可をもらって使っている。本来は教師用だが」とエルクは当然のように言った。
「図書室では話しにくい。僕の理論をまとめるのに、君の意見が必要だ」
「意見が必要」
「そうだ。文句あるか」
サチコはしばらくエルクの顔を見た。銀縁眼鏡の奥の目が、微妙に視線を逸らしている。
図書室より静かで、ふたりきりで話せる場所に来てほしい、と言いたいのだな。
四十三年の人間観察が、一瞬で翻訳した。
「わかりました。いつ行けばいいですか」
「今日の放課後」
「了解です」
エルクは素っ気なくうなずき、さっさと歩き去った。
その背中を見送りながら、サチコは小さく笑った。
素直じゃないのは知っている。でもその不器用さが、妙に憎めない。
(困ったな。)
これが何の感情なのか、だんだん自覚しつつあった。
研究室は学院の北棟の隅にある小部屋だった。
本棚が三方の壁を埋め、中央に大きな作業机。羊皮紙と魔法陣の下書きが山積みになっている。
「散らかっていて悪かったな」とエルクは言った。
「気にしません」サチコは部屋を見回した。
「整理しましょうか、これ」
「触るな。自分の場所はわかっている」
「そうですか」
前世の職場にも、こういう人がいたな。机の上が書類の山でも、自分では把握している人。
あれは総務部の木村さんだったか。
椅子を引いて座る。エルクは羊皮紙を一枚広げた。
「これを見ろ。先日のお前の『水の流れを追う』理論をもとに、魔力伝導の経路図を書いた」
羊皮紙には緻密な図が描かれていた。魔力の流れを矢印で示し、経路の太さで強度を表している。
サチコは身を乗り出した。
「……これ、電気回路と同じ構造ですね」
「でんき?」
「ああ、また変な言葉を使いました。えっと——稲妻の理論。このXの部分が抵抗で、ここが分岐点。並列と直列の考え方がそのまま使える」
「並列? 直列?」
「つまり、魔力の流れには二種類のつなぎ方があって——」
それから二時間、ふたりは羊皮紙に向かって議論した。
サチコが前世の言葉を翻訳しながら説明し、エルクがそれを魔法理論に変換して書き留める。互いに相手の思考の速度に追いつこうと、言葉が次々と飛び交う。
気がつくと、窓の外が夕暮れになっていた。
「……時間が経つのが早い」とエルクが言った。珍しく、穏やかな声で。
「そうですね」
「お前と話していると、そうなる」
サチコは返事をしそびれた。エルクは羊皮紙を眺めたまま、続けた。
「今まで、自分の話についてこられる人間がいなかった。同い年には当然いない。教師でも、半分くらいで顔が曇る」
「エルクは話が速いですから」
「お前も速い。というか——」エルクは少し間を置いた。
「お前は、年齢が合っていない気がする。たまに」
サチコの心臓が一拍、跳ねた。
「どういう意味ですか」
「うまく言えないが。普通の十二歳は、僕のことを変人だと思って近づかない。でもお前は最初から、対等に話しかけてきた。変人を変人と思っていない目をしていた」
「変人とは思っていませんよ。頭のいい人だと思っています」
「それが普通じゃない、と言っている」
エルクはようやくサチコの方を見た。眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ている。
「お前は何者だ、リナ。本当に」
サチコはしばらく、その目を見返した。
「平民の農家の娘です」と、やがて言った。
「ただ——少し変わった生まれ方をしたかもしれません」
「変わった生まれ方」
「いつか話せるときが来たら、話します」
エルクはしばらく黙って、それから「そうか」と言った。それ以上は聞かなかった。
その潔さが、また少し、好きだと思った。




