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王都から学院へ手紙を出した。
アンナ宛と、カーロ先生宛と、学院長宛に。
アンナへの手紙には、殿下の治療が完了したこと、王室顧問補佐の話を受けることにしたこと、
そしてエルクのことも少しだけ書いた。
カーロ先生への手紙には、調査報告の概要と、今後の活動拠点が王都と学院の両方になることを書いた。
学院長への手紙には、報告と感謝を書いた。
最後に、一行だけ付け加えた。
「無理をしていません。今のところ」
学院長が読んで、「今のところ、という留保が気になる」と言うだろうと思った。
でも読んで笑うだろうとも思った。
返事は一週間後に来た。
アンナからはきた長い手紙の最後に「お兄ちゃんのこと、よろしくね」と書いてあった。
カーロ先生からは短い手紙が来た。
「わかった。報告ありがとう。たまには帰ってこい」とだけ書いてあった。目が浮かんだ。
学院長からは一枚の手紙が来た。
「よくやった。『今のところ』がなくなる日を待っている」
それだけだった。
サチコはその手紙を三回読んで、丁寧に折り畳んだ。
七月の初め。
王都に部屋を借りた。学院とは別に、活動拠点として。
エルクも同じ通りに部屋を借りた。サチコより少し広い部屋で、本棚がすでに埋まりつつあった。
初日の朝、ふたりで近くの市場に行った。
日用品を買う必要があったからだが、気づけば二時間いた。
エルクが珍しそうに市場の品物を見て回った。
市場に来る機会がほとんどなかったらしい。
干し果物と、新鮮な野菜と、宿では食べたことのない地元のパンを買った。
帰り道、エルクが干し果物を一つ食べた。
「甘い」
「美味しいですか」
「悪くない」
それがエルクにとっての最上級の評価だと、サチコはもう知っていた。
「エルク」
「何だ」
「こういう朝が、好きです」
「市場が?」
「市場もそうですが——こうして、あなたと一緒に、普通のことをしている朝が」
エルクは少し間を置いた。
「普通のこと」
「はい。旅でも研究でも、大事なことがたくさんあって、全部好きですが——普通に市場に来て、干し果物を買って、歩いて帰る朝が、今のところ一番好きかもしれません」
エルクはしばらく黙った。
「今のところ、か」
「これから更新されるかもしれないので」
「そうか」エルクは前を向いたまま言った。
「では更新するようにする」
「どうやって?」
「わからない。でも——お前が一番好きだと思える朝を、これからも作っていく」
サチコは少し目が熱くなった。
「エルク、それは」
「何だ」
「とても嬉しいことを言ってくれています」
「事実を言っている」
「それでも」
エルクはまたそっぽを向いた。でも足が、少し速くなった。
照れると歩くのが速くなる癖も、サチコはもう知っていた。
夏の朝の王都を、ふたりで歩いた。
干し果物の袋を、サチコが持っていた。荷物を持とうとしたエルクが、サチコの手ごと持ってしまって、そのまま帰り道の間ずっと手を繋いで歩いた。
エルクは何も言わなかった。
サチコも何も言わなかった。
ただ、王都の朝の中を、ふたりで歩いた。
その日の午後、新しい研究室に机を並べた。
エルクが資料を広げ、サチコが記録を整理した。窓から夏の光が入っていた。
「次の調査はどこだ」とエルクが言った。
「北部の湖沿いの地域が、秋頃に行けると学院長が言っていました」
「北部か。冬が来る前に終わらせる必要がある」
「エルクが計画を立ててくれれば、動けます」
「では立てる。三日でまとめる」
「助かります」
しばらく、ふたりで作業をした。
外から市場の声が聞こえた。馬の蹄の音がした。どこかで子どもが笑っていた。
「リナ」
「はい」
「お前が転生してきたのは——何かの理由があると思うか」
サチコは手を止めた。
これは珍しい問いだった。エルクは理論の人で、目に見えないものを理由に置くことを好まない。
「理由はわからないです」とサチコは言った。
「神様の都合かもしれないし、偶然かもしれないし、前世の私が何かを持ち越してきたのかもしれない」
「でも——こうして今ここにいることは、悪くないと思っています。前世の四十三年も、今世の十四年も、全部繋がっている気がしていて。流れとして、整っている感じがする」
「調律されている、ということか」
「そういうことかもしれません」
エルクはしばらく羊皮紙を見た。
「そうだな」とやがて言った。
「お前がここにいることは、整っている気がする。僕にとっても」
サチコは窓の外を見た。
夏の空が青かった。雲が流れていた。どこかで鳥が鳴いていた。
田中サチコ、享年四十三歳。誰にも見送られず、ひとりで死んだ女が——転生して、名前のついた魔法を持って、友人ができて、帰る場所ができて、隣に人がいる。
こんな話があるか、と前世の自分に言ったら笑うだろう。
でも——
「エルク」
「何だ」
「今世は、長く生きるつもりです」
「知っている」
「たくさんやりたいことがあるので」
「全部付き合う」
「全部ですか」
「全部だ」とエルクは即座に言った。
「問題があるか」
サチコは笑った。
「ありません」
窓の外で、王都の夏が輝いていた。
調律魔法使いは、今日も静かに、でも確かに——この世界の流れの中に、いた。
誰かとともに。
帰る場所とともに。
これからも続く今世の中で、ひとつずつ、丁寧に。




