36
帰り際、イレーナに呼び止められた。
エルクには先に宿に戻っているよう伝えて、イレーナと向き合った。
「転生の話、本当だと思います」とイレーナは静かに言った。
「そうですか」
「証明はできません。でも——長く宮廷にいると、人の目を見る眼が磨かれます。あなたの目は、最初から子どもの目ではなかった」
サチコは黙って聞いていた。
「ひとつだけ確認させてください。調律魔法は、あなたの転生と関係があると思いますか」
サチコは少し考えた。
「おそらく、あります。前世の知識と、今世の魔力が合わさって、今の形になったと思っています。前世だけでも、今世だけでも、できなかったことだと」
「そうですか」イレーナはしばらく沈黙した。
「実は、王室の古い記録に、似た記述があります」
「似た記述?」
「百年以上前、『流れを整える者』が現れて王国を救った、という記録です。詳細は少ないが——その者も、平民の出で、生活魔法の使い手だったと書かれている」
サチコは背筋に、かすかなものが走った。
「つまり——」
「あなたが初めてではない可能性があります。あるいは——」イレーナは静かに言った。
「そういう役割を持つ魂が、時代ごとに現れるのかもしれない」
サチコは窓の外を見た。夕暮れの王都が、橙に染まっている。
「私はそんな大げさなものではないと思っています」
「そうかもしれません」イレーナは微笑んだ。
「でも、大げさなことをした人間ほど、本人は大げさだと思わないものです。記録に残った人間も、きっと——ただ目の前の流れを整えていただけだったのでしょう」
サチコはしばらく、その言葉を抱えた。
「リナ」とイレーナは言った。
「あなたに、王室顧問の補佐という立場を正式にお願いしたい。肩書だけではなく、実質的に——王国の魔力問題に関わる立場として」
「断ることはできますか」
「できます。強制はしません」
サチコは考えた。
(王室の顧問補佐。)
前世なら、想像もできない話だ。でも今の自分には——やるべき理由がある。
王国にはまだ整えるべき流れがある。
「エルクと話してから、答えを出してもいいですか」
「もちろんです」イレーナはにこりとした。
「エルクにも、同様のお話があります。調律魔法の理論家として」
「二人まとめて、ということですか」
「あなたたちはセットでなければ機能しないでしょう?」
サチコは少し意表を突かれた。それから笑った。
「そうかもしれません」
宿に戻ると、エルクが机に向かっていた。
「遅かったな。何の話だった」
サチコは向かいの椅子に座って、話した。王室顧問補佐の件。エルクへの打診も含めて。
エルクは黙って聞いていた。
「お前はどう思う」と聞いた。
「やりたいと思っています。でもエルクの気持ちも聞きたかった」
「僕が嫌なら断るつもりだったか」
「一緒にできないなら、意味がないので」
エルクは羊皮紙を見た。しばらく何かを考えていた。
「ハルト家の話がある」とエルクは言った。
「お父様が何か?」
「認知が正式に終わった。今の僕はハルト家の一員として、王都での活動が認められる立場にある。父はそれを、家の利益に使いたいと思っているだろう」
「でも——」エルクは少し間を置いた。
「僕は自分の研究のために動く。家のためではなく。それは変わらない。王室の顧問という立場は、その点において——父の思惑と一致する部分もあるが、本質は別だ」
「エルクの研究のため、という軸が変わらないなら、受けていいと思います」
「お前はいつも、そういう言い方をする」
「どういう言い方ですか」
「背中を押すが、決めるのはお前だと言う」
「大事なことは、自分で決めた方がいいから」
エルクは少し笑った。珍しく、ためらいなく。
「わかった。受ける。お前と一緒なら」
「私もそうします」
「では決まりだ」エルクは羊皮紙を閉じた。
「リナ」
「はい」
「今日、殿下の治療が終わった」
「はい」
「お前が始めたことが、終わった」
「はい」
「どんな気持ちだ」
サチコは少し考えた。
「終わったというより——ひとつが完成した、という感じです。川がちゃんと流れるようになった。それを見届けた。嬉しいです」
「それだけか」
「それだけではないですが——言葉にするのが難しい」
「言わなくていい」とエルクは言った。
「なんとなく、わかるから」
サチコはエルクを見た。
眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ていた。
「わかりますか」
「ずっと、隣にいたから」
サチコは笑った。
「エルク」
「何だ」
「ありがとう。ずっと隣にいてくれて」
エルクは少し間を置いた。
「こちらこそ」と言った。
短かった。でも短い分、重かった。
宿の窓の外で、王都の夜が始まっていた。




