35
六月。
王都に向かう馬車の中で、エルクが言った。
「殿下の変化は」
「前回、中級の火魔法を使えたと報告がありました。一年前は小さな炎しか出なかったのに」
「順調だな」
「はい。今日の状態を見てみないとわかりませんが——たぶん、あと少しだと思います」
エルクは羊皮紙から顔を上げた。
「あと少し、というのは、感覚か」
「感覚です」
「お前の感覚が外れたことがない」
「そうですね」
「なら、あと少しだ」
サチコは窓の外を見た。夏の景色が流れていく。
最初に殿下の手に触れたとき、体の中の滞りがどれほど深いか感じた。
長年かけて積み重なったものだから、すぐには変わらない。でも確実に、毎回、少しずつ変わっていた。
川が岩を少しずつ削るように。
王城の部屋に入ると、殿下が立っていた。
窓際に、まっすぐに。
以前は椅子に座っていることが多かった。長時間立っているのが辛かったから。
「来たな」と殿下は言った。声に張りがある。
「はい。顔色がいいですね」
「自分でも、今日は違う気がしている」
サチコは近づいて、手を借りた。
目を閉じる。
感じる。
前回と——全く違った。
流れが、太い。迂回路として作ってきた道が、今や本流になっていた。元からあった細い通路は残っているが、もはやそれが主役ではない。体全体に、均等に、魔力が回っている。
(ああ。終わった。)
サチコはゆっくりと手を離した。
「どうだ」と殿下が言った。声が低い。結果を知りたいが、怖くもある、という声だった。
「完治とは言い切れません」とサチコはまず言った。
「先天的な狭窄は、完全には消えていない。でも——迂回路が十分に育って、日常生活に支障が出る可能性は、ほとんどなくなったと思います」
殿下が黙った。
「今の状態で、魔法を使ってみてください」
殿下が右手を持ち上げた。
魔力が集まる気配がした。
炎が出た。
小さくない。しっかりとした、安定した炎だった。殿下がそれを見つめた。
消えなかった。揺れなかった。殿下が望む限り、そこに在り続けた。
「……消えない」と殿下は言った。
「はい」
「消えないな」
「はい」
殿下の手が、かすかに震えた。炎は揺れなかった。手が震えているのに、炎は揺れなかった。
イレーナが口元を覆った。侍女がうつむいた。
「リナ」と殿下は言った。
「はい」
「泣いていいか」
「どうぞ」
殿下が泣いた。十六歳の、これまでずっと泣くことを自分に許してこなかった少年が、初めて、人前で泣いた。
サチコは黙っていた。
エルクも黙っていた。
部屋の中で、炎だけが揺れずに燃え続けた。
しばらくして、殿下が顔を上げた。目が赤い。でも表情がいつもと違った。
ずっと張り続けていた何かが、ようやく下りた顔だった。
「みっともないところを見せた」
「見ていません」とサチコは言った。
「嘘をつくな」
「見ていましたが、みっともないとは思いませんでした」
殿下が少し笑った。
「リナ、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「以前、変わった生まれ方をしたと言っていた。今日、話してくれるか」
サチコはエルクを見た。エルクが小さくうなずいた。
「では」とサチコは言った。
「長い話になりますが」
「聞く」と殿下は言った。
「今日は時間がある。初めて、時間を気にせず使えそうな気がするから」
サチコは椅子を引いて、腰を下ろした。
「田中サチコ、という人間がいました————」
殿下は一言も遮らなかった。イレーナも、静かに聞いていた。
話し終えると、部屋の中が静かになった。
しばらくして、殿下が言った。
「つまりお前は——四十三年生きた魂が、今の体に入っている」
「そういうことになります」
「それが、あの落ち着きの理由か」
「だと思います」
「十三歳なのに、学院長と対等に話せる理由も」
「はい」
殿下はしばらく考えた。それから「面白いな」と言った。笑いながら。
「面白い、ですか」
「ずっと不思議だった。王太子だからと遠慮しなかったし、病人だからと腫れ物に触れるような目もしなかった。なぜかと思っていたが——四十三年分の目があるなら、納得だ」
「病気の王太子として見られることにも、王室の後継ぎとして見られることにも、疲れていた。ただの人間として話してくれる人が——お前が最初だった」
サチコは何も言わなかった。
「リナ」
「はい」
「友人として、これからもそうしてくれるか」
「もちろんです」
「良かった」と殿下は言った。心から、そう言った。




