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三日目の夜、崖の下での作業が全て終わった。
帰り道、星が前世でも今世でも見たことがないくらい、たくさん出ていた。
護衛のふたりは先に村に帰していた。道は知っているし、危険もない。
サチコとエルクは並んで歩いていた。
「星が多いですね」とサチコは言った。
「山は空気が澄んでいる」
「前世では、こんな星空を見たことがなかった。都会だったから」
「前世の都市は、夜でも明るかったのか」
「真夜中でも、星が見えないくらい」
「もったいないな」とエルクは言った。
「そうですね。今は見えるから、よかったと思っています」
ふたりで空を見ながら歩いた。
「リナ」
「はい」
「前世では、こういう旅をしたことがあったか」
「ありません。一人暮らしで、仕事が忙しくて——遠くに行く機会がなかった」
「今世では」
「今世では、旅ばかりしているような気がします」
「嫌か」
「いいえ」サチコは星を見上げたまま言った。
「エルクと一緒なら、どこへ行っても楽しいので」
エルクはしばらく黙った。
星明かりの中で、エルクの横顔が見えた。眼鏡の奥の目が、少し揺れていた。
「リナ」
「はい」
「僕は——」エルクは言葉を選んでいる。いつも選ぶが、今日はいつもより時間がかかっている。
「お前と、ずっとこうしていたい」
「こうして?」
「旅でも、研究室でも——隣に、いたい」
サチコは星を見上げた。
(ずっとこうしていたい。)
前世では一度も言われなかった言葉だった。言う相手もいなかったし、言われる相手もいなかった。
四十三年間、ひとりで生きて、ひとりで死んだ。
今世では——
「私も」とサチコは言った。
「同じか」
「同じです」
エルクが、サチコの方を向いた。
星明かりで、眼鏡の奥の目がまっすぐこちらを見ていた。
少し間を置いて、「そうか」と言った。声が、低かった。
それだけだった。
でも、それだけでよかった。
ふたりで並んで、また歩き始めた。さっきと同じ道を、さっきと同じ速度で。
でも何かが、確かに変わっていた。
星明かりの下で、サチコは前を向いて歩いた。
(前世では手に入らなかったものが、今世にはある。)
それがただ、嬉しかった。
南の山岳地帯から学院に戻るのに、三日かかった。
馬車の中でエルクはいつも通り羊皮紙に向かっていた。
でもたまに、ふと顔を上げてサチコを見ることがあった。
サチコが気づくと、エルクはまた羊皮紙に戻った。
(練習しているのだろう、きっと。隣にいる人を見ることの。)
サチコは窓の外を見ながら、そっとしておいた。
春の景色が流れていく。麦畑に緑が芽吹いている。川が光っている。空が青い。
(この景色を、前世のサチコに見せてあげられたら。)
そう思ったとき、ふと気づいた。
前世のサチコを哀れだとは思っていない。あの四十三年があったから、今がある。
雑用を丁寧にやってきた十八年が、調律魔法になった。
人の顔を読んできた四十三年が、今の人間関係になった。
ひとりで生きてきた四十三年が、誰かと一緒にいることの嬉しさを、この骨の髄まで知らせてくれた。
(田中サチコの人生は、無駄じゃなかった。)
今世で使い切るための、準備だったのかもしれない。
学院に着いたのは、夕方だった。
アンナが走ってきた。
「おかえり! 二ヶ月ぶり! 痩せてない? ちゃんと食べてた?」
「ちゃんと食べました」
「エルクくんも!」アンナはエルクにも駆け寄った。
「おかえり」
エルクが少し固まって、「……ただいま」と言った。
言い慣れていない言葉が、ぎこちなく、でも確かに出た。
アンナが嬉しそうに笑った。
夕食は食堂でみんなで食べた。旅の話を、アンナが根掘り葉掘り聞いた。
エルクは最初無口だったが、途中から海底魔力の話を始めて、止まらなくなった。
アンナが「わかんないけど、すごそう!」と言った。
サチコはシチューを食べながら、その場を見回した。
賑やかな食堂。笑い声。旅の疲れ。温かい食事。帰る場所。
(ああ。これが、前世でずっと欲しかったものだ。)
「リナ、どうしたの? ぼーっとして」とアンナが言った。
「何でもないです。シチューが美味しいなと思って」
旅が終わって、また始まる。王国にはまだ、整えるべき流れがたくさんある。
殿下の治療も続く。エルクの研究も続く。
でも今夜は——ただここにいて、あたたかいものを食べて、笑っていればいい。
田中サチコ改めリナは、今世でいちばん、満ちた夜を過ごした。




